エイセツシティへと続く険しい山道は、人が滅多に足を踏み入れない雄大な大雪原へと繋がっていた。
見渡す限りを白銀で覆い尽くされた世界。空の青と雪の白の境界すら曖昧になるほど突き抜けた大自然の真っ只中で、マチエールは防寒具のフードから瞳を覗かせ、感嘆の息を漏らした。
「すごいよ、ノウゼン……! 見渡すかぎり、ぜんぶ真っ白……!」
空中で太陽光を反射し、キラキラと輝く氷の結晶——ダイヤモンドダスト。踏みしめるたびに「キュッ、キュッ」と澄んだ音を立てる新雪の触感に、マチエールは胸を躍らせていた。後を追うもこおも、雪に顔を突っ込んでは「ニャフッ」と鼻を鳴らして楽しんでいる。
「息を吸うと胸がすーってして、すごく気持ちいい!」
「あまりはしゃいで冷気を急に吸い込むな。喉を痛めるぞ」
厚手の高級コートを綺麗に着こなしたノウゼンが、静かな歩調で彼女の隣に並んだ。そう言いながらも、ノウゼンは保温ボトルから湯気の立つ温かい紅茶を注ぎ、マチエールの手元へそっと差し出す。
「ほら、手袋を外さずに持て。鼻の頭が真っ赤だ」
「へへ、ありがとノウゼン! あったかい……」
マチエールの無邪気な笑顔に、ノウゼンは一瞬口元を緩めた。
その時、足元の雪の深みから「クゥ……ヒメ……」と弱々しい鳴き声が聞こえた。
「あ……見て、ノウゼン! ヒメグマだ!」
岩の隙間に、一匹の幼いヒメグマがはまり込んでいた。足元が凍りついて抜け出せなくなっているのか、身体を細かく震わせている。
「待っててね、いま助けるから……ッ!」
マチエールは急いで膝をつくと、かじかむ手でヒメグマの周りの硬い氷を少しずつ掻き出し始めた。ノウゼンも隣にしゃがみ込むと、保温ボトルから立ち上る 温かい湯気を結晶の繋ぎ目へと優しく当て、手際よく氷を溶かしていく。
「無理に引っ張るな、足を痛める。……よし、離れたぞ」
「よかったぁ……! 寒かったよね、もう大丈夫だよ」
無事に救出されたヒメグマは、嬉しそうにマチエールの手元へ擦り寄り、「ヒメッ!」と鳴いてお礼を告げた。マチエールは破顔し、その冷たい身体を優しく撫でる。
しかし——その微笑ましい時間は長くは続かなかった。
助けたヒメグマが不意に耳をピクと震わせると、怯えたように一瞬で岩の奥深くへと逃げ込んでしまった。足元を跳ね回っていた他の野生ポケモンたちも、蜘蛛の子を散らすように一斉に姿を消していく。
ノウゼンの銀色の瞳はすぐさま、厳酷な自然の牙を隠した雪山の稜線へと向けられた。
(……静かすぎる)
風の音が、ピタリと止んでいた。 数分前まで足元を散らすように跳ね回っていた野性のポケモンたちが、いつの間にか一斉に岩陰の深くへ姿を消している。上空を見上げれば、山脊の向こう側から、急速にどす黒い灰色の雲が生き物のように押し寄せてきていた。
「ノウゼン……? どうしたの?」
「……マチエール、紅茶をしまえ。すぐに出発する」
ノウゼンの声から、いつもの余裕が消えていた。彼はマチエールの手首を優しく、だが確固たる力強さで掴むと、雪山を鋭く見据えた。
「山の機嫌が変わる。それも……最悪の部類だ」
◇
言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
「ゴオォォォォン……ッ!」
大地を揺るがす地鳴りのような咆哮とともに、斜面の上方から猛烈な爆風が吹き下ろしてきた。
一瞬にして視界を埋め尽くす刺すような氷粒。叩きつける突風は、人間の上下左右の感覚を容易く奪い去った。完全なる「白い闇」。一メートル先すら白に塗り潰され、吹き荒れる風音は互いの叫び声すら容赦なくかき消した。
「ノウゼン……ッ! ノウゼン……!?」
呼吸すらままならない極寒の狂風の中で、マチエールは恐怖に足をとめかけた。
(怖い……目も開けられない……ノウゼンはどこ……!?)
自分という存在すら雪嵐の中に溶けて消えてしまいそうな、底知れない孤独と死への恐怖。
——その時。
ガシッと、力強い温もりが彼女の右手全体を掠め、強く包み込んだ。
「……っ!」
厚手の手袋越しでも伝わる、圧倒的な手格の大きさと肉体の熱。ノウゼンだった。
(……ノウゼン……ノウゼンだ……!)
ノウゼンは言葉を発さなかった。否、発しても届かないことを理解していた。彼はマチエールの前に割り込むように立ち、己の体躯を盾にして彼女に突き刺さる吹雪を遮った。
『大丈夫だ。絶対に離さない』
声は聞こえずとも、握られた手から伝わる確かな鼓動と強い握力が、何よりも雄弁にそれを語っていた。
マチエールはかじかむ指気に全神経を集中させ、彼の大きな手をぎゅっと強く握り返した。
(離さない……! ノウゼンの手、すごく温かい……ノウゼンが一緒にいてくれるなら、あたし、怖くない……!)
手袋越しに伝わるノウゼンの温もり。それが、恐怖で凍りつきそうだったマチエールの胸に、熱い勇気と絶対の信頼を灯した。
一方、マチエールを庇うノウゼンの胸中には、冷徹な計算と激しい焦燥が渦巻いていた。
(まずいな……思った以上の暴風雪だ。このまま立ち尽くせば体温を奪われて体力が尽きる。かといって視界ゼロで進めば崩落に巻き込まれる可能性が……!)
かつてミラー家の苛烈な教育で叩き込まれた、極限状態での冷静な生存本能。だが、今の彼を突き動かしているのは冷徹な計算ではなく、胸の奥から湧き上がる「マチエールを絶対に傷つけさせない」という、確かな決意だった。
(俺の判断が遅れたばかりに、マチエールをこんな危険に……っ!どこかに避難場所は……!)
その時、引き抜かれそうな風の中で、マチエールが力を込めて自分の手を握り返してきたのを感じた。
(……っ!)
ハッと息をのむノウゼン。 吹雪の隙間、前髪に隠された彼女の真剣な瞳と、小さな手が伝える「信頼」の重み。
(……そうだ、焦っている場合じゃないな、所長)
胸の奥の冷たい焦燥が、熱い決意へと変わる。ノウゼンは右手に握ったボールを一閃させた。
「ギルガルド! 悪いが俺たちを守ってくれ!」
現れたギルガルドが巨躯を盾にして風上に陣取る。直後、暴風で巻き上げられた巨大な雪塊が二人へ襲いかかったが、ギルガルドは間一髪で『アイアンヘッド』を叩き込み、雪塊を一瞬で砕き散らした。
その瞬間だった。粉砕された氷晶の向こう側、狂乱する白い闇の奥底で、一瞬だけ「赤黒い光」が歪に明滅した。猛吹雪の白を汚すような、禍々しく重苦しい残光。
(……ッ!? 今のは……!?)
しかし、視界を奪われ、一秒の猶予も無い状況。ノウゼンは疑問を振り払い、研ぎ澄まされた感覚で岩壁の脈動を探り、前へ前へと足を進めた。
◇
ホワイトアウトの狂乱と戦いながら、どれほどの時間を歩いただろうか。 ギルガルドの盾の陰で、ノウゼンの銀色の瞳が岩壁の僅かな歪みを捉えた。
「……ッ! マチエール、あそこだ……っ!!」
普段の冷静沈着なノウゼンからは想像もつかない、安堵と喜色を孕んだ声が風を割った。
ノウゼンはマチエールの身体を抱え込むようにして、岩壁の亀裂——奥行きのある小さな洞穴の中へと滑り込んだ。
直後、ピタリと風の音が遠のいた。
「ハァ……ッ、ハァ……っ!」
壁に背をあずけ、肩で息をする二人。 激しい暴風が岩肌に遮られ、洞窟の中には静寂が戻っていた。
「マチエール! 怪我はないか!? 指先の感覚はあるか!?」
ノウゼンはすぐさま膝をつき、マチエールの肩を掴んで全身を検分した。その瞳には、かつて見せたことのないほどの必死さと動揺が浮かんでいる。
「う、うん……! ダイジョウブ……どこも痛くないよ、ノウゼン……!」
「……そうか。よかった……本当に、無事で……っ」
ノウゼンは大きく息を吐き出すと、ガクリと肩の力を抜き、思わずマチエールの身体を強く抱きしめた。彼の心臓が、早鐘のように激しく打っているのがマチエールにも伝わってくる。ノウゼンがどれほど自分を心配し、必死だったのかが痛いほど分かった。
二人は手持ちポケモンの力を借りて洞窟の奥に小さな焚き火を興した。橙色の温かな炎がゆらゆらと揺れ、凍てつく空間を和らげていく。
「ふぅ……寒かったね、もこお」
端の方で小さく丸まり、寒さに歯を鳴らしていたもこおへ、ノウゼンが歩み寄った。ノウゼンは大きな手で不器用ながらも優しくもこおを抱え上げると、自らの予備の毛布で包み込み、膝の上にのせてやった。
「……ッ!?」
もこおは驚いて目を丸くしたが、ノウゼンの胸元から伝わる熱にうっとりと目を細め、「ニャフゥ……」と安らぐように身を寄せた。
「わあ、ノウゼンすごい! もこお、すっかりノウゼンにべったり!」
「……ただの応急処置だ。体温低下を防ぐのが先決だからな」
照れくさそうに視線を逸らすノウゼンの姿に、マチエールはくすくすと微笑んだ。ノウゼンは咳払いをひとつ挟むと、真剣な眼差しをマチエールに向けた。
「マチエール、お前も火の側に寄れ。」
やがて、外を吹き荒れていた嵐の音が、嘘のように完全に途絶えた。
「……やんだ……?」
マチエールが恐る恐る洞窟の外へ一歩踏み出し、空を見上げた瞬間——息を呑んだ。
「わあ……っ! ノウゼン、見て……っ!!」
そこには、言葉を失うほど澄み渡った、満天の星空が広がっていた。
雲ひとつない漆黒の夜空に、溢れんばかりの星屑と、青白く煌めく大天の川。視線を下げれば、雄大な雪原が星々の光を綺麗に反射し、世界全体が青銀色の静寂に包まれていた。さっきまでの猛悪な嵐が嘘のような、神聖なまでの美しさ。
「……綺麗な星空だな」
ノウゼンがゆっくりと歩み寄り、マチエールの隣に並んだ。二人の吐く白い息が重なり合い、星明かりに溶けていく。
「‥‥‥ノウゼン、……手を、引いてくれてありがとう」
マチエールは自分の右手を大切そうに両手で包み込みながら、照れくさそうに、けれど深く澄んだ瞳で言った。
「あたし、すごく怖かった……。でもね、ノウゼンの手がすっごく温かくて……『絶対大丈夫だ』って思えたの」
ノウゼンは夜空を見上げたまま、静かに口元を緩めた。
「感謝するのは俺の方だ、マチエール」
「え……?」
「お前が……あの猛吹雪の中、力を込めて俺の手を握り返してくれただろう」
ノウゼンは視線を落とし、マチエールの瞳を優しく見つめ返した。
「あの温もりが無ければ、俺は前へ進む足を止めていたかもしれない。」
「ノウゼン……」
不意打ちで放たれた、ノウゼンの本気の言葉。 星空の冷気とは正反対の熱気が胸の奥から溢れ出し、マチエールの頬が真っ赤に染まっていく。
「こんなにいい夜空を、お前と見られた。‥‥‥ありがとう」
ノウゼンは自分の厚手のコートをマチエールの肩に深く掛け直し、彼女の華身を引き寄せるように隣へ座り込んだ。
「あ……あったかい……」
「朝までここで休もう。寒ければ、遠慮なく言ってくれ」
洞窟の温もりの中、緊張が解けたマチエールを激しい睡魔が襲う。ノウゼンの大きなコートにすっぽりと包まれながら、彼女は船をこぎ始めた。
「ねえ……ノウゼン……」
「ん……?」
「手……離さないでね……」
語尾が夢の中へと溶けていく。マチエールは小さく息を吐きながら、ノウゼンのコートの袖口を、小さな手でキュッと掴んだまま眠りに落ちた。
ノウゼンは、己の袖口を握るその頼りなくも愛おしい姿を静かに見つめた。胸の奥を突き上げるのは、何としてもこの子を守り抜いてみせるという激しい過保護と執着。ノウゼンは穏やかな笑みを浮かべ、彼女の頭をそっと撫でながら、静かにその寝顔を見守り続けた。
◇
夜が明け、地平線から差し込む朝日に白銀の大地が黄金色へと染まっていく。
ノウゼンはポータブルバーナーに火を点け、小さなお鍋で温かいコンソメスープを煮立てていた。
「ん……ぁ……ノウゼン……?」
「起きたか、マチエール。スープができたぞ」
目をこするマチエールに、ノウゼンは木製のククサカップへ注いだ熱いスープを手渡した。
「わあ……! すごくいい匂い! いただきます!」
フーフーと息を吹きかけながら美味しそうにスープを味わうマチエールの横顔を確認し、ノウゼンは静かに立ち上がった。
「少し周辺の様子を見てくる。もこお、マチエールを頼むぞ」
「ニャフ」
ノウゼンは洞窟を出てすぐの雪原——昨夜、一瞬の赤黒い閃光を目撃した方角へと静かに足を向けた。
(……あの光、何だったんだ‥‥‥?)
ホワイトアウトの狂乱の中、一瞬だけ視界を掠めた赤黒い閃光。 極寒の自然現象であるダイヤモンドダストや雷光とは明らかに異なる、人工的で冷徹な光の奔流——。 あの時はマチエールを庇い、生存経路を確保することに全神経を注いでいたが、冷えた頭で思い返せば不自然極まりない異変だった。
そして、夜が明けた。
昨夜の猛風が嘘のように晴れ渡り、地平線から差し込む朝日に白銀の大地が黄金色へと染まっていく。
「わあ……! ノウゼン、見て! すごく綺麗……!」
「あぁ、そうだな」
マチエールが無邪気に声を弾ませる横で、足元にいたもこおが急に足を止めた。 ニャスパーの耳がぴんと直立し、ある一角を向いて「……フシューッ」と低く警戒するように鼻を鳴らしている。
「ん? もこお、どうしたの?」
ノウゼンはもこおの視線の先——昨夜、一瞬の閃光を目撃した方角へと静かに視線を落とした。
新雪の上に深く刻まれた、異様な痕跡。 猛吹雪によって足跡の多くは掻き消されていたが、岩陰の風下になった僅かなスペースに、それははっきりと残されていた。
人間の靴底でも、山の野生ポケモンの爪痕でもない。何かその場所だけ暴風が起きたかのような不自然な跡。 そしてその傍らには、過熱した金属が急激に冷却された時にできる、歪な氷の結晶が落ちていた。
(……間違いない。あの猛吹雪の中、ここで『何か』が起動し、移動していた)
「ノウゼン? どうしたの、そんなところじっと見て」
足元を覗き込もうとするマチエールへ、ノウゼンはさりげなく背を向け、それを己の体躯で隠した。
「いや、綺麗な雪の結晶が落ちていただけだ。……行こう、マチエール。エイセツシティはもう近い」
「うんっ! もこお、置いていっちゃうぞー!」
「ニャパー!」
雪を蹴って元気に駆け出していく少女とポケモンの後ろ姿。
(……何かが、移動していた‥‥‥?)
一瞬だけ瞳に冷酷な光を宿したノウゼンは、隣で無邪気に笑うマチエールの頭を静かに撫でると、胸中の警戒を覆い隠して歩みを進めた。
二人が目指すエイセツシティ。その白銀の街の目と鼻の先で、まだ誰も知らない恐ろしい陰謀の芽が、静かに、けれど確実に息を潜めていた——。