職業:ミアレ最高の探偵(助手)   作:特性 Suisui

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2.エスプリ

 ハンサムハウスの薄暗い二階で、マチエールは小さな机に向かっていた。

 

「‥‥‥えっと、ここを繰り上げて‥‥‥」

 

 ノウゼンが買ってきたノートに、鉛筆で必死に数字を書き込んでいく。だが、その手は時折ピタリと止まり、小さく震えた。

 リビングではハンサムが事件の報告書をまとめていて、キッチンではノウゼンは昨日の残り物のカレーをコトコトと煮込みながら、時折マチエールのノートの進捗を気に掛けてくれている。

 

(ハンサムおじさんは、あたしに温かいベッドをくれる。ノウゼンは自分の時間を削って、根気強く勉強を教えてくれる。それにおいしいご飯まで‥‥‥)

 

 ペンを握る指に力が入り、紙に小さな穴が開きそうになる。

 

(でも‥‥‥あたしは何もできてない。ハンサムおじさんは探偵の仕事が少なくて家計が苦しいのに、あたしのおやつ代まで出してくれる。ノウゼンだって、本当はもっと本を読んだりしたいはずなのに‥‥‥あたしは二人の『お荷物』だ)

 

 助けられていることへの感謝。そして、それ以上に膨れ上がる「何も返せていない」という強烈な罪悪感。それが、幼いマチエールの心を内側から蝕んでいた。

 数日後。マチエールは二人が外出している隙を突いて、ミアレシティのとあるカフェに貼られた求人チラシを手に、ノースサイドの路地裏へと向かった。

 怪しげなビルの地下。重厚な鉄の扉の奥で彼女を出迎えたのは、赤い制服を着た巨大な男

——クセロシキだった。

 

「ふむ‥‥‥君がアルバイトの応募者かね。名は‥‥‥マチエールと言ったか」

「うん! あたし、 頑張る! ‥‥‥お金が欲しいの!」

 

 クセロシキは奇妙なゴーグルの奥で、冷徹に少女を観察した。幼く、つぎはぎの服。だが、その瞳には切実なまでの「渇望」が宿っている。

 

(ほう‥‥‥ただの浮浪児かと思ったが、この眼差しは面白いゾ。自己犠牲の精神に裏打ちされた、強い生存本能……)

 

 クセロシキの口元が歪む。フレア団が瓦解し、己の研究成果を世界に見せつける機会を失った彼にとって、この少女は格好の「素体」に見えた。

 

「よかろうゾ。君には我が最高傑作『イクスパンションスーツ』のテストプレイヤーとなってもらうゾ。報酬は破格だ。ただし‥‥‥苦痛を伴う実験もある。後悔しないかね?」

「後悔なんてしない! あたし、自分の力でお金を稼いで‥‥‥ハンサムハウスのみんなの役に立ちたいんだ!」

「ハンサムハウス、だと‥‥‥?」

 

 クセロシキの眉が微かに動く。あの国際警察の厄介な男の名。クセロシキは一瞬だけ躊躇いのようなものを見せたが、すぐにそれを打ち消すように低く笑った。

 

「くっくっく‥‥‥素晴らしい。では契約成立だゾ、マチエール君」

 

 マチエールは知らなかった。そのスーツが、人間の意識を塗り替え、意のままに操る悪魔の兵器であることを。「二人の役に立てる」という純粋な思いだけが、彼女を暗闇へと足を踏み入れさせたのだった。

 

 

 

「‥‥‥ハンサムさん、これで三件目ですよ」

 

ハンサムハウスのデスクに、ノウゼンが何枚もの現場写真を並べた。

 

「美術館からの古文書強奪、ポケモンの連続拉致、そして昨日の銀行金庫破り‥‥‥残されたのは不可解な機械の爪痕だけ。被害者は口を揃えて『仮面の怪人』を見たと言っています」

「うむ‥‥‥」

 

ハンサムはトレンチコートの襟を正し、渋い顔で写真を覗き込んだ。

 

「国際警察のデータベースにも該当しない謎の装備だ。驚異的な身体能力と、感情を削ぎ落としたような動き‥‥‥単なる強盗の仕業ではない。背後には高度な技術を持つ組織、あるいは科学者が潜んでいる」

「‥‥‥問題は、マチエールの『行動』です」

 

ノウゼンが冷ややかな声で言った。その目には、いつになく深い懸念が宿っている。

 

「あいつ、最近『昼間にノースサイドの路地裏に行って、昔のストリートギャングの仲間に会ってくる』と言って毎日出かけていますよね」

「ああ。私があの事であったのもあの路地裏だし、昔馴染みの子供たちが心配なのだろうと思って放っておいたが‥‥‥」

「最初は俺もそう思ってました。だけど、いくら仲間に会うだけと言ってもおかしいんです。帰ってくるのは決まって夕方遅くですけど、毎回どこか疲れ切った様子で戻ってくる。加えてあいつが出かけた日に限って、事件が起こった。……あいつは妙に責任感が強くて、一人で溜め込むタチです。何か良からぬ企みやトラブルに巻き込まれているとしたら‥‥‥?」

「‥‥‥街へ出るぞ、ノウゼン! あの子を‥‥‥マチエールを捜すのだ!」

二人はミアレシティの街へと飛び出した。

 

 二人はミアレシティへと飛び出した。

 ハンサムは国際警察のアジトから得た広域周波数測定器を手に、ミアレの路地裏を泥臭く聞き込みして回った。一方、ノウゼンは持ち前の観察眼と鋭い感性を活かし、怪人が逃走する屋根づたいのルートを分析した。

 

「ノウゼン! ノースサイドの路地裏周辺で、高密度の特殊電磁波を検知した!」

「‥‥‥! 行きましょう、ハンサムさん!」

 

————ノースサイドの路地裏。陽光が照らす石畳の上で、異様な姿の怪人が立ちすくんでいた。 暗紫色の密着型スーツ、不気味に発光するバイザー。怪人「エスプリ」は、その驚異的な身体能力で複雑に入り組んだ路地裏を縦横無尽にかけていた。

 

「そこまでだ!!」

 

 ハンサムがトレンチコートを翻し、正面から立ちはだかる。

 

「‥‥‥ターゲット検知。障害物ト判断‥‥‥排除を開始シマス」

 

エスプリの口から漏れたのは、ノイズの混ざった機械音声。だが、その声の輪郭に二人が息を飲んだその時——ノウゼンのトレンチコートの影から、一匹のポケモンが飛び出した。 ハンサムハウスでマチエールが片時も離さず可愛がっていたニャスパー、もこおだった。

 

「ふにゃぁっ! にゃぱーっ!」

 

 もこおは不気味な怪人の姿を少しも恐れることなく、嬉しそうに駆け寄ると、エスプリの脚にすりすりと頭を擦り付けた。

 

「もこお!? ダメだ、戻れ!!」

「‥‥‥邪魔ダ、キエロ」

 

 エスプリは無機質に言い捨てると、容赦なく機械足を振り上げ、しがみつくもこおを蹴り飛ばそうとした。

 

「させるかぁっ!!」

 

 間一髪、ハンサムが身を投げ出し、石畳に滑り込みながら背中でその蹴りを庇い受けた。ガツンと重い衝撃がハンサムを襲う。

 

「ぐっ‥‥‥! ‥‥‥無事か、もこお‥‥‥」

「ふにゃぁ‥‥‥」

「‥‥‥やっぱり君なんだね、マチエール!」

 

 ハンサムはもこおを抱きしめたまま立ち上がり、強い眼差しで叫んだ。

 もこおは本来、極度の人間嫌いなポケモン。街を放浪していた頃から人間を警戒して決して近づこうとせず、ハンサムにすら最初はおびえて心を許さなかった。そんなもこおが自分から嬉しそうに駆け寄り、全幅の信頼を寄せて懐く相手など、この世界にマチエール以外にいるはずがなかったのだ。

 

「‥‥‥マチエール デハナイ‥‥‥ワガナハ エスプリ‥‥‥」

「エスプリだと? 無駄だぞ! 人の目は欺けても、お前ともこおの『絆』まで偽ることはできん!!」

 

 ハンサムの腕から抜け出したもこおは、傷つきながらも再びエスプリの足元へと歩み寄った。耳を伏せ、瞳を潤ませながら、切切と訴えかけるように鳴く。

 

「ふにゃあ~~~‥‥‥ふにゃーっ‥‥‥」

 

 その、泣きじゃくるような小さな叫びが届いた瞬間——エスプリの全身が激しく跳ねた。

 

「ガっ‥‥‥!? ぐあッ‥‥‥あ‥‥‥あぁぁっ‥‥‥!!」

 

 バイザーのランプが狂ったように点滅を始める。エスプリは頭を抱え、苦痛に身をよじらせた。

 密着型スーツの隙間からパチパチと青白い静電気が弾け、機械的な音声に混じって、かすかに少女の苦悶の声が漏れ出す。

 

「‥‥‥ッ!!」

 

 エスプリの背部スラスターが凄まじい爆音とともに白煙を噴射した。衝撃波が石畳を揺らし、ハンサムとノウゼンの視界を真っ白に染め上げる。

 

「なっ‥‥‥逃げる気か!?」

「待て、マチエール!!」

 

 ノウゼンとハンサムが咄嗟に手を伸ばすが、猛スピードで退くエスプリには届かない。エスプリは太陽を背に夜空高く跳躍すると、暗闇の中へと弾丸のようなスピードで雲隠れしてしまった。

 

「ふにゃあぁぁん……!」

 

 もこおが小さく悲鳴を上げ、去っていった夜空を見上げて寂しげに耳を伏せる。

 

「くそっ‥‥‥!!逃げられたか……!」

 

 ノウゼンは激しい悔しさをぶつけるようにこぶしを握り締める。その手は、怒りと情けなさで震えていた。

 

「ノウゼン、追うのは危険だ。……様子を見るに、あの子のスーツには、想像以上の負荷がかかっている。下手に追い詰めれば、マチエールの精神そのものが崩壊しかねん」

 

 ハンサムが肩を落とし、重々しい声で制した。その顔には、先ほどまでの勢いはなく、深い苦痛と疲労が刻まれていた。

 二人は重苦しい沈黙を抱えたまま、ハンサムハウスへと戻ってきた。 事務所のドアを開けると、薄暗い部屋の中にポツンと置かれたマチエールの小さな机が目に入る。開かれたままのノートと、消しゴムのカス。つい数時間前まで、彼女がここで必死に勉強していた痕跡だった。

 

「……ハハ、参ったな。探偵気取りで街の平和を守るなんて息巻いておきながら、目と鼻の先にいた大切な子一人、救ってやれなかったなんて……」

 

 ノウゼンは自嘲気味に呟くと、デスクの縁に手をつき、がっくりと頭を垂れた。

 

「俺が……俺がもっと早く気づいていれば‥‥‥。『最近悩みごとでもあるのか』って、一言突っ込んで聞いておけば‥‥‥。あいつが一人で抱え込む前に……!」

「自分を責めるな、ノウゼン。悪いのは……あの子の純粋な優しさを利用した、影に潜む悪党だ」

 

 ハンサムはトレンチコートを脱ぎ、ゆっくりと椅子に腰掛けた。そして、デスクの上に置かれたマチエールの手書きのノートを、愛おしそうに撫でる。

 

「ノウゼン。君に……頼みたいことがある」

「頼み……? なんですか、ハンサムさん」

 

 ノウゼンが顔を上げると、ハンサムの目はかつて見たことがないほど鋭く、そしてどこか哀愁を帯びた「国際警察官」の光を宿していた。

 

「私はこれから、ハンサムハウスを一時的に留守にする。……国際警察としての個人的なコネクションを使い、あの『怪人エスプリ』の装備を開発した組織……そして黒幕の居場所を割り出す」

「一人で動く気ですか!? 俺も行きますよ! 一緒に——」

「ダメだ、ノウゼン!」

 

 ハンサムは一歩前に踏み出し、ノウゼンの両肩をガシッと力強く掴んだ。その手には並々ならぬ熱量が込められていた。

 

「君には……君にしかできない、もっと重要な役目があるのだ」

「俺にしかできない役目……?」

「そうだ。マチエールを守ることだ」

 

 ハンサムの言葉に、ノウゼンは言葉を詰まらせた。

 

「あの子は近いうち、何事もなかったかのように疲れ果てた姿でここへ戻ってくるだろう。……ノウゼン、君に三つの約束をしてほしい」

 

ハンサムは指を一本立てた。

 

「一つ。マチエールが戻ってきたら、エスプリのこと……あの夜の事件については、絶対に何も聞いてはならない。『どこに行っていたんだ』とも、『何をしていたんだ』とも詰問しないでやってくれ」

「……! なぜですか!? 問い詰めれば、黒幕の正体だって吐かせられるかもしれないのに!」

「あの子は……マチエールは、私たちのためにやっておるのだ!」

 

 ハンサムの声がかすかに震えた。

 

「『二人の役に立ちたい』……その健気で不器用な思いゆえに、一人で苦しんでいる。私たちが『知っている』と悟られれば、あの子は罪悪感で破裂し、二度とここへ戻ってこられなくなるかもしれん……。だから、知らぬふりをして温かく迎えてやってほしいのだ」

「……っ……」

 

 ノウゼンは悔しさに歯を食いしばった。ハンサムの言う通りだった。マチエールという少女の性格を考えれば、追求することは彼女をさらに追い詰めることに他ならない。

 

「二つ目だ」

 

 ハンサムは二本目の指を立てた。

 

「マチエールには……私が『探偵の大きな仕事の最中に、ちょっとしたヘマをして怪我を負い、しばらく病院に入院している』と伝えてほしい」

「なんで、そんな嘘を……」

「ハンサムおじさんが呑気に病院でベッドに転がっていると思えば、あの子も余計な心配をせずに済むだろう? 『ハンサムさんはドジだから仕方ないね』と、笑わせてやってくれ」

 

 ハンサムは悲しげに、だがどこか愛おしそうに眉を下げて笑った。ノウゼンはその笑顔の裏に隠された、身を削るような決意を感じ取り、胸が締め付けられる思いだった。

 

「そして……三つ目だ、ノウゼン」

 

 ハンサムはノウゼンの目、その奥底を真っ直ぐに見つめ、最後の指を立てた。

 

「あの子が戻ってきたら……どうか、いつも通り『おかえり』と言って、温かいご飯を食べさせてやってくれ。君の作るカレーを、もこおと一緒に笑いながら食べさせてやってほしいのだ。あの子が帰ってくる場所……『温かい家』を、君がここで守り続けてくれ」

「ハンサムさん……」

 

 ノウゼンは深々と息を吐き出し、天井を見上げた。目元に浮かびそうになる熱いものを、必死に奥へと押し戻す。

 

「……ズルいな、ハンサムさん。そんな役目、俺に断れるわけない」

 

 ノウゼンはポンと自分の胸を叩き、力強く頷いた。

 

「わかりました。ハンサムハウスは俺が守ります。マチエールがいつ帰ってきてもいいように、温かい飯を作って、知らん顔して『おかえり』って言ってやりますよ。……だから」

 

 ノウゼンはハンサムの目を睨みつけるように見据えた。

 

「だからハンサムさん、絶対に無事で帰ってきてくださいよ。黒幕の尻尾を掴んで、マチエールを縛りつけてる悪党の顔面、ぶん殴る準備だけはしときますからね」

「ふ……ああ、約束しよう、ノウゼン!」

 

 ハンサムは深く頷くと、トレンチコートの襟をバサリと立て、ハンサムハウスの扉へと向かった。 扉を開ける直前、ハンサムは振り返り、優しく微笑む。

 

「マチエールと……もこおを頼んだぞ、相棒」

「はい、任せてください‥‥‥!」

 

 カチャリと静かに扉が閉じ、ハンサムの足音が夜のミアレシティへと消えていく。 残されたハンサムハウスの二階で、ノウゼンは一人、冷めきった鍋のカレーを再び火にかけた。

 

「……さてと。とびきり美味いカレーでも温め直して、待つとするか」

 

 ノウゼンは足元で不安そうに見上げるもこおの頭を優しく撫でながら、静かに、だが確固たる意志を抱いてマチエールの帰りを待つのだった。

 

 

 

「ごめんね、ノウゼン! あたし、今日も路地裏の皆のところに行ってくるね!」

 

 リュックを背負ったマチエールが、疲れの色の隠せない顔に無理やりの笑顔を張り付けて言った。足元ではもこおが心配そうに「ふにゃぁ……」と鳴き、彼女の裾を引っ張っている。

 

「……ああ。気をつけてな、マチエール。あまり遅くなるなよ」

 

 ノウゼンは、胸を締め付けるような忸怩たる思いを必死に抑え込み、努めていつものように優しく微笑んで送り出した。

 ハンサムとの約束。「何も聞かず、知らぬふりをして温かく迎える」。 昼間に「友達のところへ行く」と嘘をつき、実際には怪人「エスプリ」の実験体として利用されに向かっていると知っていながら見送ることの苦しさは、ノウゼンの心を苛烈に苛んでいた。

バタンと静かに扉が閉まる。

 

「……っ!!」

 

 ノウゼンは激しい焦燥感と己の無力さに耐えかね、おもわずデスクを拳で叩きつけそうになる。

 

「何も聞いてやるな、か……。」

 

 足元によってきたもこおを抱き上げ、ノウゼンが深くため息をついたその時だった。

 

コン、コン、コン——。

 

 静まり返ったハンサムハウスに、やけに規則正しく、洗練されたノックの音が響いた。

 

「……マチエールか?……」

 

 ノウゼンがドアノブに手をかけ、引き戸を引く。

 そこに立っていたのは、マチエールでも、留守にしているハンサムでもなかった。

 ピシッとシワひとつなく伸ばされた上質なタキシードを纏い、豊かな白髭をたくわえた老人。その姿勢は隙なく伸び、立ち振る舞いだけで只者ではないとわかる、一人の老執事だった。

 

「‥‥‥どちら様でしょう?‥‥‥。」

 

 ノウゼンが探るような視線を向けると、老人は深々と、完璧な角度で一礼をした。

 

「初めまして。突然の訪問、平にご容赦いただきたい。……私は主の命を受け、こちらに参った使いの者、アカマロと申します」

「……? 申し訳ありません。頼み事なら、今は受けていませんが」

「いいえ。依頼ではございません。……お聞き及びでしょう、ノウゼン様。昨今、このミアレシティを騒がせている『仮面の怪人』……そして、貴方様方が追っておられる事件の真相についてでございます」

 

 ノウゼンの目の色がガラリと変わった。放つ空気が一瞬で鋭利な刃物のように研ぎ澄まされる。

 

「……!? どうして俺の名前を……それに、あの事件のことを知って——」

「我が主が、貴方様とハンサム様の動向をすべて把握しておられますゆえ。……現在、街を騒がせている事件の『真相』を知る人物が、グランドホテル・シュールリッシュの最上階……ロイヤルスイートルームにて、貴方様との謁見を望んでおられます」

「シュールリッシュの最上階……!?」

 

 ミアレシティでも最高の格を誇る超高級ホテルの名に、ノウゼンは思わず眉をひそめた。

 

「我が主は、今回の事件を裏で引き起こしている男……そして、あのマチエール様を縛り付けている黒幕に関する決定的な情報提供を約束されております」

「……っ! マチエールのことまで‥‥‥!」

「ええ。ですが、詳しいお話はあの場所で。……マチエール様を救いたいとお望みならば……今すぐお越しいただくことをお勧めいたします」

 

 アカマロはそう言うと、胸ポケットから一枚のゴールドカードキーを取り出し、ノウゼンに手渡した。

 

「わたくしの役目はここまででございます。……それでは、良いご決断を」

 

 まるで最初からそこにいなかったかのように、アカマロは事務所から去っていった。

 残されたノウゼンは、手の中のずっしりと重いカードキーを握りしめ、歯を食いしばる。

 

「‥‥‥罠か‥‥?だが‥‥‥マチエールを救う手掛かりがそこにあるなら、乗らない手はない‥‥‥!」

 

 ノウゼンは上着を羽織ると、ホテルシュール・リッシュへと向かった

 

 

 

 重厚な絨毯が足音を呑み込む、グランドホテル・シュールリッシュの最上階。 アカマロに促され、重厚なロイヤルスイートルームの扉を開けたノウゼンは、息を呑んで足を止めた。もこおもまた、ノウゼンの足元で警戒するように「ふにゃ……」と低く身をすくめる。

 室内の豪華なソファに浅く腰掛け、ワイングラスを傾けていたのは、見紛うはずもない有名人だった。

 

「……四天王、パキラ……!?」

 

 カロスリーグの四天王であり、ニュースキャスターとしてテレビ画面の向こうで華やかな笑顔を振りまく存在。ノウゼンの驚愕に満ちた視線を受け、パキラはグラスをテーブルに置くと、冷ややかな眼光を向けた。

 

「……遅かったわね。取引とはいえ この私がわざわざ時間を割いているのに……! まあ いいわ‥‥‥。」

「四天王パキラ……貴女が事件の真相を知る人物? 一体、何の冗談ですか」

「冗談? フフ……そう見えるかしら」

 

 パキラは立ち上がり、優雅な動作で赤いフレームのサングラスを指先で弄ぶ。その瞳には、テレビで見せる知的で情熱的なキャスターの光はなく、底知れない冷酷さと鋭利なプライドが宿っていた。

 

「表の顔しか知らない一般人には想像もつかないでしょうね。ポケモンリーグ四天王……そしてカロスアナウンサー、パキラ。それが私の表の顔。そしてもう一つ……世界を美しく塗り替えるために集った組織『フレア団』の幹部。それが私の真の顔よ」

「フレア団……幹部だと……!?」

 

 ノウゼンの肌が粟立つ。生家であるミラー家が加担し、カロスを揺るがしたあの巨悪の残党が、まさかこんな場所で自分を待っていたとは。ノウゼンは瞬時に腰のモンスターボールへ手を伸ばしたが、パキラは嘲笑うように小さく首を振った。

 

「落ち着きなさい、威勢のいい少年。ここで私と争うことが、貴方の目的ではないはずでしょう?」

「‥‥‥何が目的だ。俺たちを誘い出して、一体何の用だ」

「直球ね、嫌いじゃないわ。単刀直入に言いましょう‥‥‥貴方に『依頼』があるの。どんな手段を用いてでも‥‥‥元フレア団幹部、ドクター・クセロシキを『処分』しなさい」

「処分……!?」

 

 聞き捨てならない物物しい言葉に、ノウゼンは眉をひそめた。パキラは冷ややかな声のまま、今回の事件の全貌を滑らかに暴いていく。

 

「今、この街を脅かしている仮面の怪人『エスプリ』……あの正体は、着る者の身体能力を異常なまでに引き上げる特殊兵器『イクスパンションスーツ』を着込んだ、マチエールという哀れな浮浪児よ」

「……っ!!」

「そして、その少女の意識を機械で強引に塗り替え、裏から手足のように操っている黒幕こそ……フラダリの側近であった科学者……ドクター・クセロシキ」

 

 パキラの言葉の一つ一つが、ノウゼンの胸を鋭く穿つ。足元のもこおが「ふにゃぁぁっ!」と激しい怒りを露わにして毛を逆立てた。

 

「あの男はね、組織が敗れ、フラダリが潰えた今もなお、自身の個人的な野望のためにスーツの完成を目指しているの。……あの男の手で街が荒らされ、少女が玩具のように弄ばれているのよ」

 

 ノウゼンは溢れ出る怒りを必死に抑え込み、冷徹な視線をパキラに叩きつけた。

 

「……解せないな。元幹部のあんたが、なぜ仲間だったはずの科学者を潰そうとする?」

「仲間? ふざけないで」

 

 パキラの雰囲気が一変した。纏う空気が一瞬にして灼熱の炎のように激しく燃え上がる。

 

「私たちはね、志半ばで敗れはしたけれど……フレア団にはフレア団の誇り、美学、そして正義があったのよ! 世界を美しくしようとした真摯な理念があった! それを……あの醜悪で浅ましい科学の亡者が、個人的な欲のためにフレア団の名を騙り、汚しているのよ! 許せるわけがないでしょう……!」

 

 冷徹な仮面の下から覗く、フレア団幹部としての苛烈な執念。パキラはフッと息を吐き、再び不敵な笑みを浮かべた。

 

「それに……マチエールとかいうあの哀れな少女が、あのまま精神を焼き切られて犯罪者として破滅していく姿……貴方だって見たくないでしょう? これは貴方と私、お互いの利益が一致する取引よ」

「‥‥‥。」

 

 ノウゼンは拳を握りしめた。目の前にいる女は間違いなく危険人物であり、信用など到底できる相手ではない。だが——今、マチエールを狂気の実験から救い出すための最短にして唯一の道筋が、この取引にあることも事実だった。

 

「……わかった。その話、乗ってやる」

 

 ノウゼンはまっすぐにパキラを見据えた。

 

「ただし、俺はあんたのプライドだのフレア団の美学だのには一切興味はない。俺がやるのは……マチエールを連れ戻し、あいつを苦しめる悪党を殴り飛ばすことだけだ」

「フフ、それで十分よ。交渉成立ね」

 

 パキラは満足げに微笑むと、上着の内ポケットから特殊なIDカードを取り出した。

 

「ついていらっしゃい。奴の潜む隠れ家……フラダリラボの裏フロアへ案内してあげる。ごく一部の幹部しか知らない、最深部の極秘エリアへね」

 

 二人と一匹はグランドホテルを後にし、夜の静寂に包まれたミアレシティの地下、かつての悪夢の爆心地であるフラダリラボへと足を踏み入れていくのだった。

 

 

 

 フラダリラボの暗く静まり返った地下深く。パキラは迷いのない足取りで壁面の隠しパネルを操作し、幹部専用の認証コードを入力した。重厚な油圧音とともに隠しエレベーターの扉がゆっくりと開き、裏フロアへと繋がる漆黒の空洞が顔を覗かせる。

 パキラは足を止めると、振り返りもせずに冷ややかな声をノウゼンへ投げかけた。

 

「……ここから先は貴方たちの仕事よ。それから、少年。貴方のあの『相棒』に伝えておきなさい。『私は約束を果たした。例の約束を貴方が破れば……どうなるか解っているでしょうね?』とね」

「相棒……? ハンサムさんのことか? 例の約束って一体……」

「余計な勘ぐりは不要よ。貴方が知る必要のないことだわ」

 

 ノウゼンが眉をひそめて問い詰めるより早く、パキラは冷たく言い放つと、高ヒールの音を響かせて暗闇の奥へと去っていった。背後に漂う謎と胸を騒がせる胸騒ぎ。だが、ノウゼンは頭を振って思考を振り払うと、握りこぶしに力を込めた。

 

「何が裏で動いてようが……今の俺のやるべきことは一つだ。行くぞ、もこお」

「ふにゃぁッ!」

 

 二人は意を決し、怪しい紫色の光に照らされた裏フロアの通路へと踏み込んだ。

 冷気に満ちた研究室の通路には、液晶モニターや無数の資料が散乱していた。ノウゼンは壁際に設置されたメインコンソールに目を留め、データ端末の表示を片端からスクロールしていく。そこに記載されていたのは、あまりにも恐ろしい『イクスパンションスーツ』の性能データと、一人の少女を実験台にした記録の数々だった。

 

 

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【イクスパンションスーツ・仕様及び実験記録】

•強化骨格機能: 着用者の筋力・敏捷性を極限まで引き上げ、物理的衝撃を無効化する。

 

•モンスターボール・ジャック機能: プログラムされた特殊ウイルスを送信し、他人のモンスターボールを強制的に上書き・制御下に置く。

 

•光学式変身能力: カクレオンやメタモンの組織構造・光線屈折原理を応用し、姿形を完全に偽装する。

 

•リモートコントロール機能: 着用者の反抗および暴走を防止するための遠隔操作システム。起動時は仮想人格AIが身体の主導権を握り、着用者本人の意識は強制的に『昏睡状態』へと遷移する。

 

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「……モンスターボールの強制ジャックに、光学迷彩……挙句の果てに、意識を奪って人形みたいに動かすリモートコントロール……!? なんてものを……!」

 

 ノウゼンが血が滲むほど拳を握りしめる中、画面にはさらに詳細な『被験者:マチエール』に関する観察日誌が映し出された。

 

 

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【実験手記:ドクター・クセロシキ】

被験者マチエールは、フラダリカフェの求人張り紙を見て応募してきた。事前の説明を行なったが、本人は理解していない様子だったが『わかった!』とだけ回答。 スーツを彼女用に調整後、実戦テストのため私の手持ちポケモン(カラマネロとクロバット)を預けたが、ポケモン達はマチエールに懐くだけで一向に戦闘を行わない。やむを得ず、戦闘はリモートコントロールの仮想人格AIに委ねる方針へ変更。

 

【テスト1:スニーキング及び窃盗】

ミアレ美術館への侵入テスト。リモート操作と身体強化機能は極めて良好。目標物の奪取に成功。マチエールの心身に影響なし。着用中の記憶は一切なく、単に『ぐっすり眠っていた』と証言。テスト成功を祝し、約束通り給与を弾んでやった。

 

【テスト2:ボールジャック実戦テスト】

テスト自体は成功したが、被験者の血縁と思しき者共(ハンサム及び同行者)の妨害に遭う。通信波に強烈なノイズが混入し、リモートコントロールに異常が発生。被験者への不可逆な影響を考慮し、一時撤退。 アジト帰還後、被験者の心身を検査。異常なし、記憶もなし。ただし被験者は『凄く怖い夢を見た』と証言……。

 

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「‥‥‥!」

 

 ノウゼンは画面の文字を見つめたまま、言葉を失った。

 マチエールは、自分が何をやっているのかも知らず、ただ大切な居場所を守るため、大好きな人たちに恩を返すためだけに、この実験に耐えていたのだ。 あの優しく無垢な少女が。

 

「っく……! マチエール……お前って奴は………!」

 

 ノウゼンはマチエールの純粋さに愛おしさと切なさで目元を熱くし、歪んだ笑みを零した。だが——次の瞬間、彼の瞳から温もりが消え去り、冷徹で苛烈な「殺気」へと変貌を遂げる。

 

「それを……!あいつのその純粋な想いを……玩具にしてたんだな…………!!」

「フハハハ! 玩具とは失礼な言い草だゾ、少年!」

 

 パン、パン、と静寂のラボに狂気の高笑いと手拍子が響き渡った。

 薄暗い実験室の最奥から歩み出てきたのは、鮮やかな赤いジャケットに身を包み、奇妙なゴーグルを光らせた巨漢——ドクター・クセロシキだった。そしてその背後には、不気味なバイザーを明滅させた『エスプリ』が人形のように佇んでいる。

 

「ノウゼン……と言ったか。勝手に人の研究資料を盗み見るとは無作法な客だゾ。だが、解るだろう? 私の最高傑作……この『イクスパンションスーツ』の完璧で美しい機能美が!!」

「……黙れ」

 

ノウゼンは低く、地抱くような声で吐き捨てた。足元のもこおが「ふにゃあ……!」と牙を剥き出しにしてクセロシキを威嚇する。

 

「黙れだと? ハハハ! あの娘は自らの意志で契約し、対価を得ている! 互いにウィンの関係なのだ! 科学の発展に犠牲はつきもの……いや、犠牲どころかあの貧乏少女に救いの手を差し伸べてやった私に感謝してほしいくらいだゾ!」

「……マチエールがどんな思いでお前のところに通ってたか、お前は一ミリも分かっていない。あいつの踏みにじられた心……全部お前へのツケとして、今ここで支払わせてやる!!」

 

ノウゼンが腰のボールを弾くと同時に、クセロシキは嘲笑いながら腕のコントロール端末を操作した。

 

「吠えるだけの青二才め! 行け、エスプリ! 我が科学の威光を邪魔する障害物を……跡形もなく粉砕するのだ!!」

「……ターゲット……排除……開始……」

 

 バイザーのランプが血のように赤く発光し、エスプリが超人的な踏み込みで石畳を砕きながら肉薄してくる。

 

「ゾロアーク! ゲッコウガ! マチエールを傷つけずにあのスーツの動きを止めるぞ!!」

 

 絶望の地下アジトで、マチエールの魂を賭けた最後の激闘の火蓋が切って落とされた

 

「カラマネロ! クロバット! 排除シロ!!」

 

 コントロール端末を握るクセロシキの操作で、エスプリが腰のボールを弾いた。飛び出した『カラマネロ』と『クロバット』が獰猛な咆哮をあげて襲いかかる。

 

「ゾロアーク、クロバットに向かって『あくのはどう』! カラマネロはゲッコウガで叩く!」

「グルァッ!」

 

 衝撃波が散るその一瞬の隙を逃さず、青い影——ゲッコウガが床の上を滑るような超高速移動で、カラマネロの懐へ肉薄した。

 

「カラマネロ、『ひっくり返す』!!」

 

 無機質な機械音声に応じ、カラマネロの体が怪しく発光する。触手を激しく打ち振り、空間そのものを歪めるようなサイコキネシスの波動をゲッコウガへ解き放った。

 

「かわせ、ゲッコウガ! 『みずしゅりけん』で視界を奪え!」

 

 ゲッコウガは迫る触手の攻撃を、空中でのしなやかな360度反転で間一髪回避。そのまま水圧で研ぎ澄まされた高速の刃を連続で投擲する。「バババッ!」とカラマネロの発光する顔面に叩き込まれた水の刃は、激しい水しぶきと爆風を生み出し、その巨体の視界を完全に遮った。

 一方の戦いも苛烈を極めていた。紫の残影を残して高速飛行するクロバットが、鋭い翼を刃と化して天井付近から急降下して襲いかかる。

 

「ゾロアーク、幻影で惑わし『あくのはどう』で撃ち落とせ!!」

 

 ゾロアークはニヤリと凶暴な笑みを浮かべると、一瞬にして複数の残像へと分裂。クロバットの『つばめがえし』が幻影を空切りした瞬間、実体となったゾロアークが背後へ回り込み、両手から漆黒の衝撃波を全力で解き放つ。ドシィン!と重い一撃を受けたクロバットは悲鳴を上げてラボの床へと叩きつけられた。

 だが、手持ちが崩れた瞬間、エスプリ自身が爆発的な踏み込みを見せる。砕け散る床の破片とともに、残像を残すほどの超スピードでノウゼン本体へと直接襲いかかってくる。

 

「ガアアッ!」

「くっ‥‥‥速い‥‥‥!」

 

 エスプリの拳がノウゼンの頬をかすめ、鮮血が舞う。痛みに眉をひそめながらも、ノウゼンは一歩も引かない。交錯する極限の攻防の中、間近で捉えたエスプリのバイザーの奥をまっすぐに見つめた。

 

(こいつ‥‥‥手持ちとの連携も動きも完璧だ。だけど‥‥‥技の繋ぎ目がほんのわずかに狂ってる! 操られている身体の激痛に、中の意識が必死で抗ってるのか!?)

 

 バイザーの奥。暗闇の中で、マチエールの魂が悲鳴を上げていた。

 

「グワアアアアアアアアアア!!!」

 

 スーツのシステムがマチエールの脳に強烈な電流を流し、強制的に攻撃命令を上書きする。だが、彼女の耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

 

「目を覚ませ、マチエール!!」

 

 ゾロアークが鋭い爪でクロバットを力でねじ伏せ地面へ押さえつけ、ゲッコウガは視界を奪われたカラマネロの背後から『つじぎり』でその体を切り伏せる。

 ノウゼンは手持ちたちが作り出した一瞬の隙を見逃さず、ゲッコウガと完璧に呼吸を合わせてエスプリの懐へと踏み込んだ。

 

「お前が欲しいのは金か!? 大切なものを傷つけてまで手に入れる価値のあるものなんて、この世界にはないんだよ!!」

 

 その時、荒い息を吐きながら重厚な扉を破って、ハンサムが実験室の中へと飛び込んできた。

 

「ハンサムさん!?」

「マチエール! 私たちが君に望んでいたのは、恩返しでもお金でもない! 君が安全な場所で、温かいご飯を食べて、笑って過ごしてくれること‥‥‥ただそれだけだったのだ!!」

「ふにゃあぁぁぁぁん!!」

 

 ノウゼンとハンサムの叫び、そして足元で泣きじゃくるもこおの切なる悲鳴が、マチエールの心に宿る「温もり」と強く共鳴する。スーツの強制制御システムと、少女の意志が激しく衝突し、スーツ各所からパチパチと青白い電気が走る。

 

「ガアアッ‥‥‥あ‥‥‥ぐあぁぁっ‥‥‥!!」

 

 頭を抱え、苦痛に体を折り曲げてのたうち回るエスプリ。

 制御端末のモニターを注視していたクセロシキの手が、激しく震えていた。画面に表示された数値が狂乱を起こしている。

 

『精神同期率低下——40%‥‥‥20%‥‥‥』

『警告:強力な感情干渉。システムエラー発生』

『警告:これ以上の強制介入は被験者の脳組織に不可逆の損傷を与えます』

 

(馬鹿な‥‥‥我が最高傑作の精神支配を、マチエールの意志が‥‥‥あの男たちやポケモンとの絆が押し返しているというのか‥‥‥!?)

 

 赤く明滅する危険アラームの光が、クセロシキの顔を痛々しく照らす。出力を上げれば、二人を倒せるかもしれない。しかし、その代償はマチエールの脳が焼き切れることだ。

 

(……このまま続ければ、あの子の精神が……心が破壊されてしまうゾ……!)

 

 その瞬間、クセロシキの脳裏に、ラボでバイト代を受け取ったときのマチエールの無邪気な笑顔が鮮明によみがえった。

 

『クセロシキおじさん、ありがとう! これでハンサムおじさんたちに、美味しいパンを買って帰れるよ!』

 

 ただの被験体、ただの便利な道具として利用していたはずだった。だが、彼女の純粋な優しさと笑顔に、自分自身が救われていたことに今さら気づかされる。

 

(……そうだ。あの子は、大切な人を笑顔にするために……私の実験につき合っていたのだゾ……。それを、私が殺そうとしているというのか……!?)

 

 最高傑作のスーツを完成させ、己の科学を世界に証明すること。それがクセロシキの全てだった。だが——今、目の前で悲鳴を上げる少女の命と秤にかけた時、科学者としてのプライドなど、あまりにも滑稽で無価値なものに思えた。

 

(‥‥‥キズナ‥‥‥か‥‥‥)

 

 冷酷な科学者の仮面が剥げ落ち、その胸を激しい後悔と一人の少女を想う痛切な情愛が突き抜けた。

 

「‥‥‥‥‥‥。」

 

 クセロシキは沈黙すると、コントロール端末の解除スイッチを自らの手で押した。

 

プツ——!!

 

 遠隔操作が完全に途絶え、スーツが機能を停止する。

ゆっくりと目を覚ますマチエール。

 

「う~ん‥‥‥むにゃむにゃ‥‥‥ふああ‥‥‥んん、‥‥‥クセロシキおじさん‥‥‥もう今日のテストはおしまい?」

「ああ、おしまいだゾ。ご苦労だった、マチエール。これでテストは全ておしまい。お前のアルバイトもおしまいだゾ」

「ふーん、そっか~。また新しいお仕事探さないといけないな‥‥‥ってあれ?なんで皆いるの?ここでアルバイトしてるの、皆には伝えてなかったのに」

 

 呑気そうな声で話すマチエールに、ノウゼンとハンサムが唖然とした声で大丈夫かと聞く。

 

「マチエール、お前、大丈夫なのか‥‥‥!?」

「ん?大丈夫ってなんで?あたしずっと寝てただけだよ?ここのお仕事はこのスーツを着て寝るだけのお仕事なの‥‥‥あれ?ハンサムおじさん、何でここにいるの?怪我して入院しているんじゃなかったの?」

「っ!?」

 

 突然の鋭い問いかけに一瞬言葉を詰まらせるハンサムの隣で、ノウゼンが呆れたような溜め息をつきながらすかさず助け船を出した。

 

「マチエール。ハンサムさんはな、今日退院許可が出た瞬間に『マチエールが心配だ!』って病院を飛び出してきたんだよ。俺が『大人しく寝てろ』って止めるのも聞かずに、名探偵の勘だかなんだかで怪しい噂を辿って、ここまで駆けつけて来たんだ。急に飛び出すもんだから、こっちが驚いたくらいだぞ」

「ええっ!? 病院を飛び出してきたの!?」

 

 ノウゼンのフォローに乗り、ハンサムも大きく頷いて胸を張ってみせる。

 

「め、名探偵たるこのハンサムの目を誤魔化せると思ったか? マチエールの顔が見たくて、街中で聞き込みをしてバイト先を突き止めたのだよ!」

「ふーん、そっか~。勝手にお仕事始めちゃったから、怒られると思って内緒にしてたのに、やっぱりハンサムおじさんてすごい探偵さんなんだね!」

「い、いかにもだ!えっ、ええと、ではマチエール!これからノウゼンと食事の買い出しを頼む!これから私の退院祝いとマチエールのお仕事完遂を祝ってノウゼンがパーティをしよう提案してくれたのだ!」

「「え!?」」

 

 ノウゼンとマチエールが同時に驚く。

 

「私はこれからクセロシキさんとややアダルトな話があるから先に行っててくれ!」

「は~い!わかったー!それじゃ先に帰ってるね!」

「……はぁぁぁぁぁ。ハンサムさん、いきなり変な嘘つくのはやめてください」

 

 ノウゼンは盛大なため息をつきつつも、急場を凌ぐためのハンサムの苦しいアドリブに話を合わせるしかなかった。隣でマチエールは「やったー! ノウゼン特製のごちそうだー!」と、無邪気に飛び跳ねている。

 

「そういうことなら、とびきり美味いもん作ってやるよ。ほらマチエール、もこお、帰るぞ」

「ふにゃ〜ん!」

「うん! ノウゼン、待ってー!」

 

 壊れたイクスパンションスーツのパーツを着替え、すっかり元通りの身軽さになったマチエールが、もこおと並んで無邪気に駆けていく。ノウゼンは去り際、出口の扉の前で一度だけ足を止め、背後を振り返った。

 そこには、冷たいコンクリートの床に腰を下ろしたまま動かないクセロシキと、静かに彼を見下ろすハンサムの姿があった。ノウゼンはクセロシキの震える手に一度だけ視線を落とすと、低い声で言葉を吐き捨てた。

 

「……ハンサムさん。『アダルトな話』ってのが何なのかは聞きません。ですが……マチエールを傷つけようとしたツケは、きっちり払わせてくださいよ」

 

 ノウゼンはそれだけ告げると、マチエールたちの後を追ってラボの闇の向こうへと消えていった。

 残された広い実験室に、重苦しい静寂が戻ってくる。

 

「……さて。邪魔者は去ったゾ」

 

 クセロシキは深く溜め息をつき、隠すことなく全てを語り始めた。科学者としてのプライドも、フレア団の残党としての執念も、今の彼には微塵も残っていなかった。

 

「……街を騒がせていた怪人エスプリ。あれを裏で操っていた黒幕は、他でもない私だゾ。あのイクスパンションスーツの完成こそが、ワタシの悲願だったのだ」

 

 クセロシキは必死に頭を振った。

 

「だが、誤解しないでほしいゾ! マチエールは何も悪くない! あの子はただ、スーツを着て眠っていただけなのだ! 自分が街で何をさせられていたのか、犯罪に手を染めていたことも何も覚えていない! 全ては私の一方的な遠隔操作……! 罰を受けるべきは、ワタシ一人だゾ!」

 

 自分が犯した罪の全てを背負い、少女の無実を必死に訴えるクセロシキ。その瞳には、かつての冷酷な悪の科学者の面影はなく、ただ一人の少女を守ろうとする切実な想いだけが宿っていた。

 

「……ドクター・クセロシキ、あなたという人は……」

「……ハンサムとやら。手錠をかけるなら、今すぐかけてくれて構わんゾ。私を連行するがいい」

 

 自嘲気味に呟き、大人しく両手を差し出すクセロシキ。しかし、ハンサムはその手に手錠をかけるのではなく、そっと自身の温かい手を重ねた。

 

「ドクター・クセロシキ。……あなたに、ひとつ頼みがあります」

「なんだと……?」

「マチエールたちが買い出しから戻ったら……最後に、みんなで一緒に晩御飯を食べてはくれないだろうか」

 

 クセロシキはゴーグルの奥で、思わず目を丸くした。

 

「な……何を言っているんだゾ!? ワタシはあの子を騙し、利用した犯罪者だゾ!? 食卓を囲むなど——」

「あの子はね、どういうわけかあなたのことをとても慕っています」

 

 ハンサムはクセロシキの言葉を静かに遮り、深く、どこまでも温かい眼差しで元科学者を見つめた。

 

「理由は私にもわからない。だが、マチエールにとってあなたは、間違いなく『自分を認めてくれた優しいおじさん』なのです。……あなたがどんな罪を犯したとしても、あの子があなたに向けた純粋な憧れや感謝に、嘘はない」

「……っ」

「連行される前の、ほんのわずかな時間でいい。あの子のために……マチエールとの最後の時間を使ってやってはくれないだろうか。それが、あなたにとっても、あの子にとっても……きっと生涯忘れられない、大切な思い出になるはずです」

 

 クセロシキは言葉を失った。

 冷徹な科学者として、効率と成果だけを求めて生きてきたはずだった。それなのに、胸の奥が熱く締め付けられ、視界がじんわりと滲む。

 

「……お前は愚かだゾ……だが、感謝するゾ」

 

 クセロシキは照れ隠しのように顔を背け、小さく息を吐き出した。だが、その口元には、どこか憑き物が落ちたような、柔らかい笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 事件後、有罪判決を受けたクセロシキが遠方の拘置所へと移送される直前のことだった。

 警察施設の取調室で、クセロシキは手枷をはめられた状態で待っていた。重い鉄の扉が開き、ハンサムとノウゼンに付き添われたマチエールが入ってくる。

 

「‥‥‥マチエール」

 

 クセロシキは立ち上がりかけたが、恥じ入るように再び椅子に深く腰掛けた。ゴーグルの奥の目が、気まずそうに泳いでいる。

 

「クセロシキおじさん‥‥‥」

 

 マチエールはまっすぐにクセロシキの元へ歩み寄ると、その前に立った。ノウゼンとハンサムは静かに壁際で見守っている。

 

「‥‥‥すまなかったゾ、マチエール」

 

 クセロシキは重い口を開いた。科学者としてのプライドを投げ打ち、一人の人間として少女と向き合う。

 

「私の‥‥‥自分勝手な研究にまきこんでしまって。‥‥‥弁解の余地もないゾ」

「おじさん‥‥‥」

「だがね‥‥‥」

 

 クセロシキの声が微かに震えた。

 

「君が『大切な人たちのために力を尽くしたい』と‥‥‥ひたむきに笑ってみせた姿に、私は‥‥‥私の冷え切っていた心が、激しく動かされたのだゾ。あれこそがキズナ。みることも存在することもできないありえない概念。だが、確かにある、不思議で尊いモノ」

 

 クセロシキは手枷のついた大きな手で、マチエールの小さな頭を壊れ物を扱うようにそっと撫でた。

 

「自分以外の誰かのために全力を尽くす‥‥‥科学者の端くれとして、私は君から本当に大切なモノを教わった。‥‥‥有罪を受け、服役した後はね、ワタシも君のように‥‥‥人のためになるような、誰かを幸せにするための研究をしてみたいゾ」

 

 不器用で、身勝手で、悪に染まっていた科学者。だが今、彼の目には、ハンサムと同じような――我が子を慈しむ父親のような、温かく深い情愛が宿っていた。

 マチエールはクセロシキの手の温もりを感じると、ぱっと顔をほころばせた。

 

「ううん! あたし、全然気にしてないよ!」

「え……?」

「クセロシキおじさん、あたしにたくさん優しくしてくれたもん。検査の後、お肉もお腹いっぱい食べさせてくれたし、ノウゼンたちから聞いたよ?最後もあたしを守ってくれたんでしょ? あたし……クセロシキおじさん大好きだよ!」

「マチエール……っ」

 

 予想もしなかった言葉に、クセロシキの大きな体が小さく震えた。ゴーグルの端から、一筋の涙が静かに伝い落ちる。

 

「‥‥‥君は、本当に‥‥‥良い子だゾ」

 

 クセロシキは照れ隠しに笑い、立ち上がった。警備兵が彼の肩を叩く。

 

「カラマネロとクロバット、そしてスーツを君に頼みたいゾ。きっと君の力になってくれるはずだゾ‥‥‥!」

「うん! 任せて、クセロシキおじさん! ずっと待ってるからね!」

 

 手枷を鳴らしながら連れられていくクセロシキは、背中で小さく手を振った。その姿を、マチエールはどこまでもまっすぐに見送っていた。

 

 

 

 数日後。事件は公にはされず、ミアレシティは平穏を取り戻していた。

 しかし、ハンサムハウスでは静かな「別れ」の準備が進められていた。

 

「‥‥‥本当に、行ってしまうんですね、ハンサムさん」

 

 ノウゼンが壁にもたれ、スーツケースを傍らに置いたハンサムを見つめた。呼びかける声には、敬語の丁寧さの奥に、隠しきれない寂しさが滲んでいる。

 

「ああ、ノウゼン君。私は元々カロスでの任期が満了していたし、イッシュ地方での国際警察の案件も急を要していてね‥‥‥本部からの指示には逆らえんよ」

 

 ハンサムは歩み寄り、ノウゼンの肩を強く叩いた。

 

「ノウゼン。君には本当にお世話になった。君という優秀で、誰よりも温かい心を持った若者がいてくれたからこそ、私は安心してこの街を去ることができる」

「‥‥‥買いかぶりですよ。俺はただ、平穏に生きられればそれでいい人間です」

「ふふ、相変わらず素直ではないな」

「ハンサムさん‥‥‥っ!!」

 

 奥の部屋から、マチエールが飛び出してきた。その目からは、ボロボロと大きな涙が溢れ落ちている。

 

「行かないで‥‥‥! お願いだから、行かないでよハンサムさん! あたし、もう絶対勝手なことしないから! 勉強も毎日頑張るから‥‥‥っ!」

「マチエール……」

 

 ハンサムはひざまずき、泣きじゃくる少女の身体をしっかりと抱きしめた。

 

「泣かないでおくれ、マチエール。君を捨てていくのではないのだよ。君に……大切な使命を託していきたいのだ」

 

 ハンサムは、木製の手作り看板を差し出した。そこには『ハンサムハウス』と刻まれている。

 

「今日から、君がこのハンサムハウスの『二代目所長』だ。私がいなくなった後も、ミアレシティの困っている人々やポケモンのために、その温かい心で手を差し伸べてあげてほしい」

「え‥‥‥あ、あたしが‥‥‥所長‥‥‥?」

「そうだ。そして‥‥‥」

 

 ハンサムはノウゼンを振り返った。

 

「ノウゼン。君には二代目所長の『助手』をお願いしたい。彼女を教え、導き、時には厳しく支えてやってくれ」

 

 ノウゼンは一瞬目を見開いたが、やがて呆れたように笑い、肩をすくめた。

 

「‥‥‥。国際警察の手伝いに続いて、今度は年下の少女の助手ですか。‥‥‥まあ、ハンサムさんの頼みなら断れませんね。引き受けますよ」

「ノウゼン‥‥‥!」

「良かったな、マチエール。今日からお前がボスだ。だが、算数のテストで赤点取ったら即クビだからな」

「もう! ノウゼンったらまたそういうこと言う!」

 

 二人のやり取りを見届け、ハンサムは満足そうに深く頷いた。

 

「‥‥‥それでは、私は行くよ。二人とも、どうか元気で!」

 

 ハンサムは一度も振り返ることなく、夕陽が差し込むミアレシティの街並みへと歩み去っていった。そのトレンチコートの背中は、どこまでも高く、温かかった。

 

 

 

 ハンサムが去った後のハンサムハウス。

 夕暮れ色の光が差し込む部屋で、ノウゼンは机の上に置かれた『二代目所長』の名札を手に取り、マチエールの胸元にそっと留めてやった。

 

「‥‥‥さあ、今日からお前が『ハンサムハウス所長』だ。どうする? さっそく街のパトロールにでも行くか?」

 

 マチエールは胸のプレートを愛おしそうになぞり、深く息を吸い込んだ。

 かつては、ただ生きるために冷たい目をしていた孤児。 助けられてばかりの自分を責め、暗闇へと足を踏み入れた少女。

 だが、今の彼女の胸には、ハンサムがくれた無償の愛と、ノウゼンが教えてくれた強さ、クセロシキから託された力、そして守るべき「みんなの居場所」があった。

 マチエールはクルリと振り返り、ノウゼンに向かって真っ直ぐな瞳を向けた。

 

「うん! あたし、頑張るよ! ハンサムさんが作ってくれたこの場所で、ノウゼンと一緒に、ミアレシティの困ってるみんなを助けるんだ!」

 

 その瞬間、彼女の顔に広がったのは——

 窓から差し込む夕陽を浴びてキラキラと輝く、全てを包み込むような、天使のような満面の笑顔だった。

 ノウゼンはその笑顔を眩しそうに見つめ、フッと柔らかく目を細めた。

 

「‥‥‥頼りにしてるよ、所長」

 

 ミアレシティの街角に、新しい希望の物語を告げる風が、優しく吹き抜けていった。

 

 

 

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