カロス地方・ヒヨクシティ。 温暖な海風が心地よく吹き抜けるこの街は、年に一度の特別な活気に包まれていた。
街のシンボルである巨大な『誓いの樹』。その下で開かれる祭りは、日頃お世話になっている大切なパートナーや仲間に、言葉と品物で感謝を伝えるという美しい風習がある。 色とりどりの屋台が立ち並び、提灯の柔らかな光が夕暮れ前の街並みを優しく照らし出していた。
「わぁぁ……! ノウゼン、見て見て! ポフレの屋台がいーっぱい! ヒヨクシティ限定のフクジさん家の特製ベリーポフレもあるよ!」
「落ち着けマチエール。走ると転ぶぞ。……それに、ポフレなら後でいくらでも買ってやる」
人混みの中、目をキラキラさせて跳ね回るマチエール。そのすぐ後ろを、ノウゼンが落ちついた歩調で静かについて歩いていた。
ノウゼンがカロスリーグの最高峰『四天王』に就任してから通常の探偵業と合わせて多忙を極める彼のもとに、ヒヨクジムの老ジムリーダー・フクジから「就任祝いと、日頃のねぎらいを兼ねて祭りに来ないか」という招待が届いたのだ。
『ほう、探偵事務所の若い所長さんも一緒か。ヒヨクの誓いの樹は、感謝の心を伝えるには最高の場所じゃよ。若者らしく、存分に楽しんでくるとええ』
フクジの粋な計らいもあり、ノウゼンはマチエールと、彼女の相棒であるニャスパーの『もこお』を連れて、こうしてヒヨクシティを訪れていた。
「はい、ノウゼン! はい、もこお! あたしからの日頃の感謝だよ!」
突然、マチエールが振り返り、ノウゼンともこおの前に小さな紙袋を突き出した。 中には、香ばしい焼き立ての木の実パイが二つ。
「えへへ、ノウゼンにはいっつも事務所のご飯作ってもらったり、捜査を手伝ってもらってるから……ほんの気持ち! もこおも、いつも私のこと助けてくれてありがとうね!」
「ニャ〜〜〜パっ♪」
もこおは嬉しそうに耳をパタパタさせ、マチエールからパイを受け取ると美味そうに頬張り始めた。 ノウゼンは手渡された紙袋を見つめ、どこか呆れたような、けれど愛おしさを隠しきれない眼差しで口元を綻ばせる。
「……。俺が四天王の就任祝いで招待されたはずなんだが、何でお前が俺に品を配ってるんだ?」
「いいのっ! だって今日は『感謝を伝えるお祭り』でしょ? 日頃の感謝は、ちゃんと言葉とカタチにしなきゃダメだって前にハンサムおじさんも言ってたもん!」
そう言って、胸を張ってニシシと笑うマチエール。 泥やホコリにまみれていた頃の面影を残しつつも、彼女はすっかり流れるような髪と大きなアメジストの瞳が眩しい、魅力的な女性へと成長していた。
(本当に……良い笑顔をするな、お前は)
ノウゼンは心の中でそっと呟く。 かつて、自分の過去や過酷な宿命に押しつぶされそうになり、暗闇の中にいた自分を光のもとへ引っ張り上げてくれたのは、いつでもこの真っ直ぐで温かい笑顔だった。
「ノウゼン? どうしたの、じーっと見て? パイ、冷めちゃうから早く食べよう!」
「……いや、何でもない。……そうだな、冷めないうちにいただくよ」
ノウゼンはパイを一口かじると、「美味いな」と小さく呟いた。マチエールは「でしょ〜!」と満足そうに笑い、二人は夕陽が傾き始めた誓いの樹へと向かって歩みを進めた。
◇
ヒヨクシティの中央に聳え立つ『誓いの樹』。 樹齢数百年を誇るその巨大な大木は、夕陽のオレンジ色と黄金色の光を浴びて、神々しいまでの佇まいを見せていた。 樹の周囲には無数の花々が咲き誇り、祭りのクライマックスを前に、多くの人々やポケモンたちが感謝のプレゼントを交わし合っている。
「すごいなぁ……! こんなに大きな木、ミアレシティにはないよ……!」
樹の根元に辿り着いたマチエールは、首が折れそうなほど見上げて感嘆の声を漏らした。 風が吹くたび、樹の葉がサラサラと心地よい音を立て、二人の髪を優しく揺らす。
「もこお、見てごらん! 木漏れ日がすっごく綺麗——」
嬉しそうに振り返ったマチエールだったが、その言葉は途中で途切れた。
ノウゼンが、静かに足を止めて自分を見つめていたからだ。
普段の冷徹な四天王としての顔でもなく、探偵事務所の頼れるバディとしての顔でもない。 夕陽の光を浴びたノウゼンの彫刻のように整った中性的な美貌は、どこか息を呑むほど妖しく、そして深く柔らかな情愛を湛えていた。
「……ノ、ノウゼン……? どうしたの……?」
急に静かになったノウゼンの雰囲気に、マチエールは思わずドキリと胸を跳ね上げた。
ノウゼンは長い脚を静かに動かすと、マチエールの前まで歩み寄り、その大きな身体で夕陽を背にするように立ち止まった。彼の影が、マチエールを優しく包み込む。
「マチエール。……少し、静かな場所へ行こう」
「え……あ、うん……!」
ノウゼンはマチエールの手をそっと取った。 いつもならガシガシと頭を撫でてくる無骨な手。だが今のノウゼンの手は、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、ほんの少しだけ震えているようにも思えた。
「ニャ〜パ……」
もこおは察したように空気を読み、少し離れた木の根元で、他のポケモンたちとポフレを食べながら二人を温かく見守る体勢に入った。
二人が向かったのは、誓いの樹の裏手に回った、街の喧騒が遠くに聞こえる小さな高台だった。 眼下には夕暮れのヒヨクの海が広がり、水平線に沈みゆく太陽が、海面を真っ赤なドレスのように染め上げている。
「うわぁ……絶景……っ!」
マチエールが思わず声を漏らすと、ノウゼンは彼女の手を離さないまま、海の向こうを見つめながら静かに口を開いた。
「……マチエール。俺がここまで頑張ってこれたのは、俺ひとりの力じゃない」
「ゾロアークたちも頑張ってたもんね!!」
「ああ。‥‥でもそれだけじゃない‥‥。」
ノウゼンは首を横に振った。
「俺はかつて、自分の過去に押しつぶされそうになっていた。自分の存在価値すら見失い、ただ冷たい暗闇の中で戦うことしか知らなかった……。そんな俺の手を引いてくれたのはお前だ」
「……ノウゼン……」
「お前が俺と一緒に旅に出てくれたこと。俺が挫けそうになった時、いつでも隣で笑って支えてくれたこと。……そして何より、俺に出会ってくれたこと。……俺は、お前にどれだけ感謝しても足りない」
ノウゼンは静かにマチエールに向き直った。 その銀の瞳は、まっすぐに、一切の誤魔化しなくマチエールのアメジスト色の瞳を映し出している。
「俺の人生に光をくれたのは、マチエール……お前だ」
ノウゼンはポケットから、小さなベルベット地の黒い箱を取り出した。 手のひらの上でカチリと音を立てて開かれたその箱の中には——夕陽の光を受けて、可憐で眩い輝きを放つブローチが収められていた。
「っ……!? これ……っ!」
マチエールは息を呑んだ。 それは、グラシデアの花を繊細に象ったブローチだった。 中央には、希少な最高級のピンクダイヤモンドが鎮座し、周りには透明感あふれる極上の宝石が散りばめられている。職人の精巧な技と、ノウゼンの本気度が伺える、息をのむほど美しい逸品だった。
「グラシデアの花言葉は……『感謝』だそうだ」
ノウゼンは箱からブローチを手に取ると、マチエールのトレンチコートの胸元に、静かに留めて見せた。
「いつか、お前に似合う本物の宝石を贈りたかった。……お前に比べれば、こんな石ころなど大した価値もないが」
「そんなことない……! こんなに綺麗な宝石……あたし、見たことないよ……っ!」
マチエールは胸元のピンクダイヤを指先でそっと触れた。愛おしさと感動で、胸がギュッと締め付けられる。
「……マチエール」
ノウゼンの低い声が、静かに耳に届く。
「俺は……お前が好きだ。一人の男として、マチエールを愛している。……これからもずっと、俺の隣にいてほしい」
「……っ!!」
世界から音が消えたかのように、静寂が二人を包み込んだ。
(ノウゼンが……あたしのことが……好き……っ!?)
告白の言葉が、ゆっくりとマチエールの頭の中に浸透していく。 顔が一瞬で真っ赤に茹であがり、頭から湯気が出そうなほど沸騰した。心臓が、破裂しそうなほどドックン、ドックンと暴れ狂っている。
これまでも、ノウゼンが自分を大切にしてくれていることは痛いほど分かっていた。けれど、大人として、家族として、どこか一線を引きながら自分を見守ってくれていた彼が
——今、目の前で、一人の男として自分に愛を告げているのだ。
「……嫌なら、断ってくれていい。俺の我が儘だ」
マチエールが呆然と立ち尽くしているのを見て、ノウゼンは寂しそうに口元を緩め、そっと手を引こうとした。
その瞬間——
「嫌じゃないっ!! 嫌なわけない!!」
マチエールはノウゼンの手を両手で強く握りしめ、叫ぶように答えた。 アメジストの大きな瞳から、ポロポロと大きな涙が溢れ落ちる。
「マチエール……?」
「あたしも……あたしもノウゼンが大好き!! 世界で一番大好きなのっ!!」
マチエールはノウゼンの目をまっすぐに見て思いを紡ぐ。
「旅をしてた時も、ハンサムハウスで一緒に過ごしてる時も……ずっとノウゼンのことが大好きだった! ノウゼンがカッコよくて、優しくて……私なんかじゃ釣り合わないかもって、ずっとドキドキしてたんだからっ!」
「……マチエール……」
ノウゼンは驚きに目を丸くしたあと、愛おしさに耐えかねたように目を細めた。 彼は長い腕をマチエールの背中に回すと、折れてしまいそうなほど強く、けれど優しく彼女の体を抱きしめた。
ノウゼンの胸から伝わってくる、力強く速い脈拍。
(ノウゼンも……こんなに心臓バクバク言わせてる……! あたしと同じなんだ……!)
「ありがとう……マチエール。……俺を、選んでくれて」
ノウゼンは抱きしめたまま、マチエールの頭に顔をうずめた。漆黒の髪がマチエールの頬に触れ、甘い男の香りと体温がマチエールの全身を包み込む。
「うぅ……ノウゼン……あたし、世界一幸せだよ……っ」
「俺もだ。……お前以上に愛しいものなんて、俺の人生には存在しない」
ノウゼンは抱擁を少し緩めると、マチエールの顔を覗き込んだ。 涙で濡れた頬を、大きな親指で優しく拭う。
至近距離で見つめ合う二人。 ノウゼンの彫刻のような顔が静かに近づき、マチエールは静かに目を閉じた。
夕暮れの海の風が吹く高台で、二人の唇がそっと重なり合う。 柔らかくて、温かくて、甘い木の実の味がする、二人にとって初めての口づけ。
離れた後、マチエールは自分の唇を手で覆いながら、顔を真っ赤にしてノウゼンを見上げた。
「〜〜〜〜っ!! ノウゼン……っ!」
「……ふっ、可愛いな」
ノウゼンは心底幸せそうに目を細めると、マチエールの額に優しく自分の額をコツンと当てた。
「……あ、あのね! ノウゼン!」
甘い雰囲気に照れ死にしそうになったマチエールは、ハッと何かを思い出したようにノウゼンのシャツの胸元をギュッと掴んだ。
「どうした?」
「あのね……すごく、すごく嬉しいんだけど……あたし、ノウゼンにお願いがあるの!」
「お願い? 何だ? お前が望むものなら、何でも叶えてやる」
ノウゼンが優しく微笑むと、マチエールは胸元のピンクダイヤのブローチをギュッと握りしめ、真剣な瞳で彼を見つめ返した。
「あたしたちが……『付き合ってること』、みんなには秘密にしてほしいの!」
「……秘密?」
ノウゼンは少し意外そうに首をかしげた。中性的な眉が、ほんの少しだけ寄せられる。
「俺と付き合っていると周りに知られるのが、嫌なのか……?」
「違う! 全然違うのっ!」
マチエールは慌てて手をブンブンと振り回した。
「あたしね、ノウゼンの『彼女』として甘やかされるんじゃなくて……ちゃんとした『ハンサムハウスの二代目所長』として、ミアレの人たちに認められたいの!」
マチエールの言葉に、ノウゼンは静かに耳を傾けた。
「もし、四天王のノウゼンと付き合ってるって周囲にバレちゃったら……街の人たちから『ノウゼンに養われてる女の子』って思われちゃうかもしれないでしょ? それに……ノウゼンの足も引っぱりたくないの。四天王のノウゼンに『彼女がいる』ってバレたら、変な噂が立ったり、敵から狙われたりするかもしれないし……!」
マチエールは拳を握りしめ、一生懸命に自分の想いを言葉にしていく。
「あたしは、ハンサムおじさんが残してくれた事務所を自分の力で守りたい! 一人前の立派な探偵としてノウゼンの隣に立ちたいの! ……だから、事務所では今まで通り『所長と助手』として接してほしいんだ……ダメ……かな?」
まっすぐで、健気で、どこまでも誇り高い彼女の決意。
ノウゼンは驚きに目を見開いたあと、フッと低く愛おしそうに笑った。
「……なるほどな」
ノウゼンはマチエールの前に屈み込むと、彼女の頭をいつものようにガシガシと乱暴に、でもとびきり愛おしそうに撫で回した。
「お前は……本当に強いな、マチエール。自分よりも俺や事務所の心配をするなんて」
「ふええ、髪の毛ボサボサになっちゃう〜!」
「いいか、マチエール。お前はもう、立派な二代目所長だ。誰もお前の努力を笑ったりはしない」
ノウゼンは撫でる手を止めると、マチエールの手を優しく取り、自分の胸元へと引き寄せた。
「だが……お前のその誇りと夢を、俺は全力で尊重する。……いいよ。『極秘交際』だ」
「ほんと!? 約束してくれる!?」
「ああ、約束だ。対外的には『頼れる助手』を演じ切ってみせる。お前が満足するその時まで‥‥‥」
「うんっ! ありがとう、ノウゼン!」
心底ほっとしたように笑うマチエール。だが、ノウゼンはどこか可笑しそうに口元をゆるめると、彼女の目線を覗き込むようにして静かに言った。
「ただし——仕事を終えて、二人きりになった時まで『所長』の顔をしていたら、容赦なく俺のやり方で解きほぐすからな」
「え……? それってどういう……」
「お前がどれだけ一人前になろうと、俺の前でまで無理をする必要はないということだ。……逃がすつもりもないがな」
「〜〜〜〜〜っっっ!?」
ノウゼンの静かだが退路を断つような言葉に、マチエールはハッと意図を理解して一気に顔を真っ赤にした。
「フッ……。……ほら、そろそろ戻るぞ。もこおたちが待ってる」
「あ! ノウゼンの意地悪! 待ってよ〜!」
ノウゼンは満足そうに笑うと、歩き出した。マチエールは赤くなった顔を両手で冷ましながら、急いで彼の後を追う。
「あ、そうだ! ノウゼン、ブローチ! 服につけたままだとバレちゃうから、普段は大事にしまっておくね!」
「……外からは見えない場所に、身につけておけ。お前が俺のものだという証拠だ」
「もうっ! そうやってすぐそういうこと言う〜っ!」
二人が誓いの樹の表側に戻ると、すっかり陽は落ち、街の提灯と樹のイルミネーションが幻想的な光を放っていた。
「ニャ〜〜〜パっ♪」
二人を迎えたもこおは、マチエールの胸元の微かな変化(二人の雰囲気が劇的に甘くなっていること)を即座に察知し、「やれやれ、やっとくっついたか」と言わんばかりに呆れた顔で耳をパタパタさせた。
「あ! もこお、待たせてごめんね! お腹空いたでしょ、フクジさん家の特製ポフレ買っていこう!」
「ニャ〜パ!」
元気に駆け出していくマチエール。 その胸元、トレンチコートの内ポケットには、ノウゼンから贈られたグラシデアのピンクダイヤモンドが、二人の熱を吸い込んで温かく輝いていた。
「おいマチエール、走ると転ぶぞ」
ノウゼンは苦笑しながら、彼女の隣へと並ぶ。 街の人々やすれ違う観光客たちから見れば、彼らはどこからどう見ても「探偵とそのバディ」にしか見えないだろう。
けれど——。
歩幅を合わせて歩く二人の手が、誰にも見えない暗がりの中で、そっと指と指を深く絡め合う。
誰にも言えない、二人だけの特別な秘密。 プロとしてのプライドと、お互いを想う深い愛が生んだ甘い約束。
ミアレの街へ戻れば、またドタバタとした探偵事務所の日常が待っている。 けれど、もう何も怖くない。
胸に秘めた輝きとともに、二人はしっかりと歩みを進めていくのだった。
◇
ヒヨクシティから戻り、数日。 ミアレシティの北サイドストリートに位置する『ハンサムハウス』には、今日もいつもと変わらない穏やかな午後の陽光が差し込んでいた。
「よしっ! 本日の依頼、すべて完了〜っ!」
マチエールが小さく伸びをし、二代目所長のデスクで書類の山をトン、と整えた。 迷子のトリミアンの捜索に、裏路地での落とし物の聞き込み。地域に密着した依頼を完璧にこなし、彼女の表情には心地よい達成感が満ちている。
「お疲れ様、所長。手際のいい処理だった」
助手であり、カロス四天王でもあるノウゼンが、出来上がったばかりのエスプレッソをマチエールのデスクへ静かに置いた。 昼間の二人は、まさに完璧な「所長と助手」。依頼人が来ればノウゼンは一歩引き、マチエールを主役として立てる。街の人々も「さすがハンサムさんの跡を継いだ優秀な所長さんと、頼もしいバディさんだ」と口々に褒めて去っていくのだった。
「えへへ、ありがとうノウゼン! ノウゼンがすばやく裏の裏付け調査をしてくれたおかげだよ!」
マチエールは一口エスプレッソを口に含み、その香ばしさに目元を緩める。 足元では、相棒のもこおが「ニャ~パ♪」と満足そうに耳をパタパタさせ、自分のクッションへ丸まり込んでいた。今日も一仕事終えて、すっかり夢心地のようだ。
カチャリ、とノウゼンが事務所の入口に歩み寄り、ドアのプレートを『営業中』から『準備中』へと裏返す。そして——重厚な真鍮の鍵を、静かに回した。
ガチリ
金属音が静かな室内に小さく響く。 その音を聞いた瞬間、マチエールの肩が跳ねた。
(あ、鍵……閉めた……っ)
心臓がにわかにドキンと大きな脈を打ち始める。 ヒヨクシティの誓いの樹の下で交わした、あの甘く恐ろしい「約束」が頭を駆け巡った。
『仕事が終わって、二人きりになった時まで「所長」の顔をしていたら、容赦なく俺のやり方で解きほぐす』
(や、やばい……っ! あたし、まだ思いっきり『所長』の顔してるかも……!?)
あわててデスクの書類をもう一度整えるフリをして誤魔化そうとするが、手元が狂って紙がパラパラと散らばる。
「……何を焦っているんだ、所長」
背後から、低い静かな声が降ってきた。 振り向く間もなく、マチエールの視界が影に覆われる。ノウゼンが長い脚を滑らせてデスクの真横まで接近し、逃げ場をふさぐようにマチエールのチェアの肘掛けに片手をついた。
「ひゃいっ!?」
「ひゃい、とは何だ。……まだ緊張しているのか?」
上から覗き込んでくる銀の瞳。 昼間の冷静で控えめな「助手」の顔はどこにもない。そこにあるのは、彫刻のように美しく冷ややかな素顔と、その奥に渦巻く、一人の男としての濃密な情愛だ。
「な、なんのことかな〜!? あたしは別に、緊張なんて……っ」
「嘘だな。顔が赤くなっている。……それに、まだ『所長』の顔をしている」
ノウゼンの空いている手がそっと伸び、マチエールの頬を包み込んだ。 大きな親指が、熱を帯びた彼女の頬を優しく撫でる。その指先の熱と、ノウゼンが纏うかすかな大人っぽい香水の匂いに、マチエールの頭は一瞬でフリーズした。
「あ……う……っ」
「ヒヨクで言ったろ。仕事を終えたら、俺の前でまで無理をする必要はないと」
ノウゼンはゆっくりと腰を落とし、マチエールと目線を同じ高さに合わせた。至近距離で見つめ合うアメジスト色の瞳と銀色の瞳。
「それとも……俺の手で、強引に切り替えさせてほしいのか?」
「〜〜〜〜〜っっ!?」
ノウゼンが意地悪く口元を緩め、顔を近づけてくる。息が触れ合いそうな距離に、マチエールはたまらずギブアップの声を上げた。
「わ、わかった! わかったからっ! 降参! あたしの負け〜〜っ!」
マチエールはノウゼンの胸元にぽんと顔を埋めた。服越しに伝わる筋肉の、固くも心地よい生地の感触と、その奥から伝わってくる力強い心臓の鼓動。
「……ふぅ。ノウゼン、ずるいよ……。そんな顔で迫られたら、誰だって『所長』でいられないじゃん……」
小さく呟きながら、マチエールはノウゼンの服の裾をキュッと握りしめた。 その可愛らしい甘え方に、ノウゼンは満足そうに目を細めると、彼女の背中に腕を回し、折れてしまいそうなほど愛おしそうに強く引き寄せた。
「……よし。これでいつもの『マチエール』だな」
「もうっ……! ノウゼンだって、急に甘くなってずるいんだから……。昼間はあんなにすまし顔で『了解、所長』とか言ってるくせに……」
「あれは対外的な演技だと言っただろう。お前の誇りを守るためのな」
ノウゼンはマチエールの頭に顔をうずめ、柔らかい髪の香りを深く吸い込んだ。
「だが、二人きりの時くらい……俺だって限界はある。お前を『所長』としてではなく、『恋人』として抱きしめたい」
「っ……!〜〜〜〜っ!」
ストレートすぎる愛の言葉に、マチエールは胸が破裂しそうになる。 ノウゼンの腕の中で顔を真っ赤にしながらも、彼女はそっと自分の手をノウゼンの背中に回し、小さな力で抱き返した。
「……あたしも。ノウゼンにそう言ってもらえるの、すごく……すごく嬉しいよ……」
恥ずかしさに耐えかねて蚊の鳴くような声で囁くと、ノウゼンはフッと低く愛おしそうに笑った。 体の力を抜き、ノウゼンの胸に完全に体重を預けるマチエール。
二人はしばらくの間、夕暮れの光が差し込む誰もいない事務所で、静かに体温を分け合った。
「……そういえば、マチエール」
「ん……?」
「あれは、ちゃんと身につけているか?」
ノウゼンの指先が、マチエールのトレンチコートの襟元に触れる。 マチエールはハッとして、コートの内ポケットにそっと手を伸ばした。そこには、ノウゼンから贈られたグラシデアの花を模したピンクダイヤモンドのブローチが、大切に収められていた。
「もちろん! 服の上からは見えないように、内ポケットの裏地に安全ピンでしっかり留めてあるよ。……ほら」
マチエールがコートを少し開いて見せると、夕陽の光を受けて、ピンクダイヤモンドが可憐にキラリと輝いた。
「あたしの宝物だもん。肌身離さず持ってるよ。……これ触ってるとね、昼間の調査中も、ノウゼンが隣にいてくれる安心感がすごいの」
「……そうか」
ノウゼンは愛おしさを堪えきれない様子で、マチエールの額にそっと唇を落とした。
「お前が俺のものである証だ。誰にも見せない、お前と俺だけの秘密だ」
「うん……! ふふ、なんか『秘密の特務』みたいで、ちょっとワクワクしちゃうね」
「相変わらず探偵脳だな、お前は」
ノウゼンは苦笑しながらも、マチエールの頬を両手で優しく挟み込んだ。
「だが……特務なら、任務完了の報酬が必要だな」
「え……? 報酬……?」
首をかしげるマチエールに答える代わりに、ノウゼンは静かに目を閉じ、彼女の唇に重ねた。
「っ……!」
昼間のカフェで食べたポフレのような、甘くて温かいプレッシャー。 先ほどまでの冷徹な四天王の面影はどこにもなく、ただ一人の男としての熱量が、重なった唇から溢れ込んでくる。 離れそうになっては、追いかけるように深く重なる口づけに、マチエールは頭が真っ白になり、ノウゼンのシャツを力いっぱい握りしめることしかできなかった。
息が続きなくなり、ゆっくりと唇が離れた時、マチエールは上気した顔で荒い息をついていた。
「〜〜〜〜っっ! ノ、ノウゼン……っ! いきなり長すぎるよ〜っ!」
「……報酬だ。……それに、まだ足りない」
「もうっ! どこでそんな甘いこと覚えたの〜!?」
顔を真っ赤にして叫ぶマチエールを見て、ノウゼンは心底幸せそうに、声を上げて笑った。普段の彼からは想像もつかない、無防備で少年のような笑顔。
「さあな。……だが、お前限定だ」
ノウゼンはマチエールの手を優しく取り、その指先一つ一つに愛おしそうにキスを落としていく。
「さあ、仕事は終わりだ、マチエール。今日の夕食は何が食べたい? お前の好きなものを作ってやる」
「えっ、ほんと!? じゃあね、フクジさん家から送られてきた木の実を使った特製グラタンがいい!」
「わかった‥‥‥材料の買い出しに行くか。もちろん、外では『所長と助手』としてな」
「ふふ、頼んだよ!ノウゼン助手君!」
マチエールはニシシと笑うと、鍵を開けるために歩き出したノウゼンの後ろ姿を追いかけた。
足元では、すっかり目を覚ましたもこおが「やれやれ……」と呆れ顔で耳をパタパタさせつつ、二人の後をトコトコとついて歩く。
昼間は、探偵事務所の『二代目所長』と『そのバディ』。 夜は、誰にも言えない秘密を抱えた『世界で一番甘い恋人同士』。
ドアを開けると、ミアレの街に心地よい夕風が吹き抜けた。 ふたりはすれ違う街の人々に「こんにちは!」と爽やかに挨拶を交わしながら、誰にも見えない位置で、そっと指と指を絡め合わせて歩き出すのだった。
第一部「カロス旅編」完結です。お読み頂き誠にありがとうございました。
お気に入り登録並びに評価していただいた方、誠にありがとうございます。
第二部「ミアレシティ再開発編」は現在製作中でございます。引き続き何卒宜しくお願い致します。
本作のオリ主、ノウゼンのプロフィールです。
・プロフィール
氏名 ノウゼン・ミラー
年齢 19歳(物語開始時)
出身 カロス地方
身長 180cm
好きなもの 読書・観劇 紅茶
名前の由来 ノウゼンカズラ
花言葉 栄光 豊富な愛情
・手持ち
ゾロアーク
ゲッコウガ(色違い)
ギルガルド
クロバット
アブソル
サザンドラ(オヤブン)
???
ダクマ
・概要
ミアレシティの探偵事務所『ハンサムハウス』の助手を務める青年。またパキラの後任として新たに就任した四天王の一人でもある。世間からは悪タイプの使い手とされている。
元々はカロス地方の名家『ミラー家』の出身で跡取りとして育てられ、外国語、歴史学、経済学、帝王学、護身術、ポケモンバトル戦術論、育成論等の様々な教育を受けていた。
・人物像
黒髪銀眼の端麗な容姿を持つ。
基本的には冷静で表情はあまり動かない為、他者からは無愛想に見られることも多いが、性根は真っ直ぐでドがつくほど真面目。仲間やポケモンへの愛情は深く、パートナー達からの信頼も厚い。
速攻即決を軸に行動する一方で、常に失敗を想定して行動する慎重な一面もある。その気質はバトルスタイルにも表れており、相手の動きを封じる、または行動させる前に速攻で勝負をかける戦法を好むが、その一方で悪タイプに有効なフェアリーや格闘を含む全タイプにも対応できるよう対策も行っている。
名家の跡取りとして育てられ、本人も真面目に教育を受けただけあって能力は高い。
格闘術を高レベルで修めていたり、外国語を話せたり、バイオリンやピアノを弾ける等、文武両道で教養は高い。また、ミラー家の方針で強制された教養磨きの旅の間に、家事も行うようになった。中でも料理の腕前が特に高く、手持ちのポケモンたちやマチエールからの評判も非常に良い。
その他、機械技術にも精通しており、マチエールの愛用するイクスパンションスーツの整備・調整も彼が行っている。
弱点は女性特有の香水の匂い。電車の中等で匂いがするとすぐに酔ってしまう。なので、多くの令嬢が香水をつけて参加するパーティー等のイベントは大の苦手で、実家の意向で参加した際は、挨拶周りを終わらせるとすぐに壁の華を決め込んでしまっていた。
だがマチエールが付けた香水の匂いに限っては、なぜか気分が悪くならない。ノウゼン自身、旅の途中でおしゃれに目覚めつつあったマチエールの邪魔になりたくないという思いで克服しようと頑張ったが、未だに苦手なので本人は不思議に思っている。