カロス地方の豊かな自然が広がる山道の只中。日暮れが近づくにつれ、冷たい風がそよそよと木々を揺らし始めていた。
「よし……今夜のキャンプ地はここにしよう」
そう言って立ち止まったのは、ノウゼンだった。
今回の野宿において、ノウゼンには密かな意気込みがあった。
(マチエールを連れての初めてのキャンプだ。安全管理はもちろん、居住性、食事……すべてにおいて完璧な手本を見せないと)
マチエールのために「完璧なキャンプ」を成功させるべく、ノウゼンは手際よく指示を出し始めた。
「マチエール、俺がテントを張り、夕食の準備をする。お前はもこおと一緒に、敷地内の危険がないか見回りをしていてくれ。遠くへは行くなよ」
「はぁ〜い! おまかせあれっ!」
マチエールは元気よく返事をすると、相棒のもこおを連れて「探検だー!」と駆け出していった。
ノウゼンは端正な顔立ちに満足げな笑みを浮かべ、モンスターボールからゲッコウガとゾロアークを召喚した。
「よし、ゲッコウガは薪の確保だ。ゾロアーク、マチエールたちの様子をさりげなく見ておいてくれ」
『ゲコッ!』
『ゾロ……ッ』
ゾロアークはニヤリと不敵に笑うと、気配を消してマチエールたちの後を追っていった。
ノウゼンは手慣れた手つきで風除けを設置し、テントを綺麗に張り終えると、折りたたみ式の調理器具を取り出した。
持参した新鮮な野菜と肉を等分に切り分け、コトコトと煮込む鍋。 風下に煙が逃げるよう計算された火床。 完璧すぎるキャンプサイトの完成に、ノウゼンは腕を組んで静かに頷いた。
(……フッ、よし。あとはマチエールが戻れば、温かい料理で迎えられる)
そう思った、まさにその時——。
ガサガサガサッ!
「あははははっ! 待てぇ〜っ、もこお! ゾロアーク〜っ!」
草むらを激しく押し分けて現れたのは、泥まみれになったマチエールだった。
「……!?」
ノウゼンの涼やかな目が、驚きで大きく見開かれる。
マチエールの服は、どこで転がったのかと思うほど泥と黒土でドロドロ。膝や袖口からは草の汁が染み出し、顔の半分まで灰色に汚れている。
それだけではない。
「にゃ〜っ♪」
もこおも全身の毛が泥で固まり、毛玉のようになって跳ね回っている。
そして、マチエールたちの様子を見に行かせたはずのゾロアークまで……全身泥だらけになりながら、無邪気にマチエールと追いかけっこを楽しんでいたのだ。
パシャッ! と勢いよくノウゼンの前で立ち止まるマチエール。
「ノウゼン、見て見て〜! あっちの沢の近くで、すっごく滑る泥の坂道を見つけたんだよ! もこおが『サイコキネシス』で滑り台を作ってくれてね、ゾロアークも一緒に……って、あれ? ノウゼン……?」
ノウゼンは……硬直していた。
完璧に整えられたテント。美しく配置された薪。完璧な段取り。 その中央にたたずむ、泥だらけの少女とポケモンたち。
「…………」
静寂が支配する。
ノウゼンは静かに目をつむり、天を仰ぐと……ハァ…… と、今日一番の深いため息をついた。
「……マチエール」
「ひっ……!? な、なにかな……?」
ノウゼンの端正な顔が、どこか恐ろしいほどの静けさを湛えて近づいてくる。
「俺は……『遠くへ行くな』と言ったが……『泥の中に飛び込め』とは一言も言っていないんだが?」
「うぐっ……! だ、だって、ゾロアークが『お前も滑ってみろ』って顔するから……!」
『ゾ……!?』とゾロアークが焦ったように目を泳がせ、首を横に振る。
「言い訳はいい。……はぁ」
ノウゼンは呆れ顔で頭を抱えたが、その瞳には決して怒りの色はなかった。
ノウゼンは溜息をつきながら立ち上がると、温めておいた湯を桶にくみ、タオルを浸して絞った。
「来い、マチエール。顔を拭く」
「あ……うん、ごめんなさい……」
しょんぼりとするマチエールを引き寄せ、ノウゼンは膝をついて目線を合わせた。長身をかがめ、自分の綺麗な袖が汚れるのも構わず、マチエールの頬や額の泥をそっと 優しく拭ってやる。
「服は着替えろ。もこおとゾロアークも……後で温かい湯で綺麗にしてやるからな」
「ノウゼン……怒ってないの……?」
「……怒っていない。呆れているだけだ」
ノウゼンはふっと口元を緩めると、マチエールの頭を雑に、けれど愛おしそうに撫でた。
「怪我がなかったのなら……まあ、それでいい」
ノウゼンはマチエールに着替えを済ませさせ、もこおたちの体を綺麗に拭き終えると、出来上がった鍋の蓋を開けた。
ふわぁぁぁ……
あたたかな湯気と共に、ルーとスパイスの甘く豊かな香りが夜空に広がる。
「わぁぁ……! すごい、カレーだ……!」
「冷えただろう。しっかり食べろ」
ノウゼンは木製のお椀にたっぷりとご飯とカレーを盛り、マチエールに手渡した。
マチエールは両手でお椀を抱え込み、ふーふーと息を吹きかけてから、大きな口で一口味わった。
「……お、おいしいっ……! すっごく美味しいよ、ノウゼン……!」
「……そうか。なら良かった」
マチエールは溢れんばかりの笑顔を咲かせ、お椀を抱えながら夢中でカレーを頬張っていく。その横では、綺麗になったもこおとゾロアークも、ノウゼンから貰った専用のスープを嬉しそうに味わっていた。
星空の下、パチパチと爆ぜる焚火の音。
ノウゼンは自分の分のお椀を持ち、静かに一口運ぶと、夜空を見上げた。
完璧な手本を見せるつもりが、結局は泥だらけの少女とポケモンの後始末。 だが……隣で嬉しそうにカレーを食べるマチエールの笑顔を見ていると、不思議と悪くない心地がしていた。
「ノウゼン! おかわりある!?」
「……落ち着いて食べろ。鍋にはまだたくさんある」
ノウゼンは苦笑しながら、再びおたまを手に取った。
賑やかで、少しだけ計画通りにいかない夜。 けれど……二人とポケモンたちの胸には、何よりも温かな思い出が刻まれていくのだった。
◇
初めてのキャンプからまだ幾日も経っていない頃。
澄み渡る秋空の下、赤や黄に色づく木々に囲まれた穏やかな森林で、ノウゼンとマチエールは再びキャンプを張っていた。
パチパチ…… と心地よい音を立てて爆ぜる焚火。その上では、肉と野菜がたっぷりと煮込まれたシチューの鍋から、温かな湯気と甘い香りが漂っている。
「はぁ〜! ノウゼンの作るシチュー、本当においしそう!」
「……火から下ろしたばかりだ。火傷するなよ」
ノウゼンは木製のおたまを手際よく動かしながら、少し呆れたように苦笑した。
マチエールは弾む足取りでポックルの入った袋を手に取ると、少し離れた大きな木の木陰へと駆け寄った。
「ほらっ、カラマネロ! クロバット! みんなでご飯にしよ!」
だが……その木陰に身を潜めていた二匹は、嬉しそうにマチエールに近づく。
「カラ……」
「バット……」
マチエールに対しては、二匹も心を開いている。マチエールが差し出したポックルを受け取ろうと、カラマネロがゆらりと触手を伸ばした。
——その時。
ザッ……
ノウゼンが皿を持ってこちらへ歩いてくる足音が響いた。
その瞬間、二匹の全身に衝撃が走る。カラマネロの大きな瞳が恐怖に収縮し、クロバットは短い悲鳴を上げて、すっぽりとマチエールの背中へ隠れてしまったのだ。
「あ……っ、ちょっと待ってよ二人とも〜!」
伸ばしかけた触手は空を切り、ポックルが転がって落ちる。
「……また逃げられたか」
ノウゼンは皿を持ったまま足を止め、ハァ…… と静かに溜息をついた。
「ノウゼン! 『あの子たちとも仲良くしてよ!』ってお願いしたでしょ!? もっと優しく近づいてあげてよ!」
「……俺だって意地悪をしているわけじゃない。だが……完全に避けられているんだ」
ノウゼンは困惑したように眉を寄せたが、二匹が自分や手持ちたちを恐れる理由は、痛いほど分かっていた。
(……まあ気持ちは少しわかるけど)
二匹はかつて、クセロシキの指示のもとでマチエールをイクスパンションスーツで操り、カロスを脅かす悪事に利用していた。
そして……フラダリラボでノウゼンのゲッコウガやゾロアークと対峙した際、その圧倒的な実力の差で見事に叩きのめされた過去がある。
主であったクセロシキを失った孤独。 自分たちがマチエールを傷つけたという消えない罪悪感。 そして……自分たちを簡単にねじ伏せたノウゼンとそのポケモンたちという強者への潜在的な恐怖。
二匹にとって、ノウゼンと同じ空気を吸うことすら、過去の罪を突きつけられる拷問のようなものだったのだ。
◇
その夜——。
見上げれば、満天の星空が夜空を彩っていた。 マチエールともこおがテントの中で健やかな寝息を立て始めた頃。
離れた木陰で寄り添うカラマネロとクロバットの心は、冷たい闇に沈んでいた。
(ボクたちは……ここにいていいのかな……)
カラマネロは深く目を閉じ、過去の記憶に苛まれていた。
クセロシキは、世間からは悪党と呼ばれていた。だが……自分たちにとっては違った。
不器用な手つきで頭を撫でてくれたこと。 深夜まで及ぶ研究の合間、特製のポックルを「喰え」と照れくさそうに投げてくれたこと。 バトルの特訓で技が決まった時、「フハハ! 良くやったゾ、我が最高傑作たちよ!」と誇らしげに笑ってくれたこと。
二匹にとってクセロシキは、絶対的な愛すべき主人だった。 それなのに……自分たちは博士の役に立てず、マチエールを恐怖に陥れ、挙句の果てにノウゼンに惨敗して博士と引き離されてしまった。
(マチエールに申し訳ない……。ノウゼンたちが怖い……。……博士に会いたいよ……)
クロバットが寂しそうに『バト……』と小さな鳴き声を漏らし、カラマネロの体にそっと顔を寄せた。二匹の目からは、静かに涙が溢れていた。
その時——。
ザッ……ザッ……
足音がひとつ、夜の静寂を破って近づいてきた。
ビクゥッ! と二匹の身体が跳ね上がる。現れたのは……ノウゼンだった。
二匹は咄嗟に逃げ出そうと羽や触手を動かしたが、ノウゼンは強要するでも威圧するでもなく、ただゆっくりと膝をついて目線を低くした。
「……逃げなくていい。話があるだけだ」
「カ……カラ……ッ」
ノウゼンは長身をかがめ、静かに、しかしどこか秘めた熱を持つ瞳で二人を見つめた。
「お前たちが俺を嫌っているのはわかる。無理に俺になついてほしいとも思わない。……だが、お前たちは本当にこのままでいいのか?」
「「……!?」」
ノウゼンの言葉に、二匹の身体がぴくりと強張る。命令でも押し付けでもない。自分たちのトレーナーとしての矜持と、一匹のポケモンとしての意思を問う、真っ直ぐな問いかけだった。
「お前たち……せっかくクセロシキに強くしてもらったのに、このまま何もせず、その実力をくすぶらせておくつもりか?」
ノウゼンの手には一冊の厚い革張りの手帳があった。表紙には、見覚えのあるクセロシキの癖のある筆跡。
「……これは、ハンサムさんを経由して受け取った、クセロシキの研究メモだ。……お前たちのデータが、詳細に記されている」
ノウゼンがページをめくると、月光の下でびっしりと書かれた文字が浮かび上がった。
そこには、単なる数値や戦術データだけではない……。
『カラマネロ:甘い木の実を好む。左の触手を撫でられると喜ぶが、調子に乗ると反動技の精度が落ちるため注意』
『クロバット:毛並みのブラッシングを欠かすな。スピードに頼りすぎる癖がある。追い風に乗る感覚を仕込もう』
———そこには、二匹の性格や長所、短所、好きなものや苦手なもの、得意なことや苦手なもの、これまでどんな特訓を重ねてきたのか等、詳細なデータが紙の隙間もないほどに、びっしりと書かれていた。
『二匹とも……根は素直な奴らだ。どうか……』
最後のページには、乱れた文字で二匹の将来を案じるクセロシキの本心が滲んでいた。
「……っ! カ……カララッ……!」
「バッ……バット……ッ!」
二匹の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。自分たちは見捨てられてマチエールに託されたのではなかった。博士は最後まで、自分たちのことを愛してくれていたのだ。
「……お前たちは、確かに悪いことをした」
ノウゼンは力強い声で語りかけた。
「だが……お前たちがクセロシキと共に絆を育み、強くなったという事実は、誰にも消せない。……お前たちが俺やマチエールに『申し訳ない』と思っているのなら……逃げるな」
「……っ!」
「お前たちが培ったその実力を……これからはマチエールのために使え。過去に囚われて己の能力を枯らすような真似は……あのクセロシキも、絶対に望んじゃいないはずだ」
「…………!!」
カラマネロの触手が、クロバットの翼が……プルプル と激しく震える。
ノウゼンは背後に視線を向けた。いつの間にか、闇の中からノウゼンの相棒であるゲッコウガとゾロアークが静かに姿を現していた。
かつて自分たちを叩きのめした、圧倒的な強者たち。だが……その瞳に宿っているのは、敵意でも蔑みでもなかった。
『コウガ……』
『ゾロ……』
ゲッコウガは腕を組み、ゾロアークは口元を歪めてニヤリと笑う。それは「かかってこい」という、仲間としての無言の稽古の誘いだった。
「……特訓をするかどうかは、お前たちが決めろ。俺に懐かなくったっていい。だが、マチエールを守る強さを取り戻したいなら……いつでも相手になってやる」
ノウゼンはそう言い残すと、押し付けることもなく静かに踵を返そうとした。
その背中に向かって——。
「カラァァァッ!」
「バットォォッ!」
覚悟を決めた二匹の力強い叫びが、夜の静寂を破った。
涙を拭い、己の脚と羽でしっかりと立ち上がる二匹。ノウゼンは振り向き、ふっと口元を緩めた。
「……いい目だ。なまった身体を叩き直すぞ」
◇
翌朝——
「ふあぁ〜あ……よく寝たぁ……」
テントのファスナーをジジジッ と開け、マチエールが目を擦りながら外へ出てきた。足元ではもこおがにゃ〜 と小さく欠伸をしている。
「ノウゼン、おはよう〜! ……あれ? ノウゼン……?」
焚火の周りにノウゼンの姿はない。シチューの鍋も綺麗に片付けられている。 不思議に思ったマチエールが広場へ歩みを進めると……草むらの向こうから、激しい羽音とポケモンたちの歓声が聞こえてきた。
バサバサバサッ! シュシュシュッ!
「わっ……!? なになに!?」
驚いて駆け寄ったマチエールが目にしたのは……信じられない光景だった。
朝日が差し込む広場で……ノウゼンが、カラマネロとクロバットにもみくちゃにされていたのだ。
「くっ……おい、クロバット! 首筋にまとわりつくな、くすぐったい……! カラマネロ、脚を引っ張るな、倒れる……ッ! ぐわっ!?」
ドスン……ッ!
日頃は冷静で気品漂うノウゼンが、大歓喜したカラマネロの巨体に抱きつかれ、クロバットには頭をすりすり と撫で回され、豪快に草むらへ倒れ込んでいる。
「カララ〜ッ♪」
「バットバット〜ッ!」
昨夜のノウゼンの覚悟と温かさに触れ、完全に心を開いた二匹は、まるで大好きな兄に甘える幼子のように、ノウゼンの上で全身を使って戯れていた。
ノウゼンの整えられた黒髪はボサボサになり、服も泥と草だらけだ。
「……ノ、ノウゼン……!? 大丈夫!?」
マチエールが呆然として駆け寄ると、ノウゼンはボサボサの髪をハァ…… と手ぐしで整えながら、倒れたまま苦笑いを浮かべた。
「……やられたよ。昨夜、少し特訓につきあってやったら……今朝からこの有り様だ」
ノウゼンの口元には、呆れつつも……どこか温かな笑みが浮かんでいた。
その傍らでは、ゲッコウガとゾロアークが「やれやれ」といった様子で鼻で笑いながら、嬉しそうにカラマネロたちの頭を撫でてやっている。
マチエールは一瞬驚きに目を見張ったが……二匹の晴れやかな表情を見て、胸の奥からこみ上げてくる温かい気持ちに包まれた。
「……ふふっ!」
「……マチエール?」
「あはははっ! な〜んだ! ちゃんと仲良くなれたんだね、ノウゼン!」
マチエールは太陽のような弾ける笑顔を咲かせ、ノウゼンに向かって大きく手を振った。
「うん! これで本当の……あたしたちの『家族』だね!」
ノウゼンはマチエールの眩しい笑顔を見上げると、触手に巻かれたまま、ふっと静かに目を細めた。
「……ああ。そうだな」
朝日が照らす静かな森林に、二人とポケモンたちの明るい笑い声が、いつまでも響き渡っていたのだった。