バトルシャトーを後にし、次の街へ向かっていたノウゼンとマチエール。大雨などの天候に振り回されながらも二人は着実に歩を進めていた。
しかし、付近の町までもう少しというところで、ノウゼンとマチエールの前には絶望的な光景が広がっていた。
次の街へ続く唯一の交通要衝である渓谷の橋が、先日の大雨で増水した濁流に呑まれ、中央から無惨に崩れ落ちていたのだ。断崖の底からは、激しい水煙とともにゴーッと恐ろしい水音が響いてくる。
「そんな……橋が落っこちちゃってる!? ノウゼン、どうしよう……引き返す?」
「……いや、引き返すとなれば三日は足止めされる。だが、この断崖を自力で登り降りするのは危険すぎるな。残された道は……あそこだけか」
ノウゼンが視線を向けたのは、岩肌を強引にくり抜いて作られた古く暗い洞窟のような旧道だった。地元では「龍の巣窟」と忌み嫌われ、一帯の主として恐れられる荒ぶる『ボーマンダ』が住み着いているため、誰も近づかない危険地帯。
「あそこって……噂に聞いてた『龍の巣窟』じゃない? 一帯の主の凶暴なボーマンダが住み着いてるって……」
「ああ。普段なら絶対に通りたくないルートだ。‥‥‥だが、今の俺たちにはあそこを突っ切る以外の選択肢はない、か」
ノウゼンはマチエールの肩にそっと手を置き、その目を見つめた。
「‥‥‥いいか、マチエール。刺激しないよう息を殺し、気配を消して一気に駆け抜けるぞ。……もこおも、絶対に声を出すなよ?」
「ニャ……(こっくり)」
「うん、分かった! ノウゼンから離れないようにする!」
覚悟を決め、ふたりは暗く湿った洞窟内へと足を踏み入れた。ひんやりとした冷気が肌を刺し、足元には剥き出しの岩肌と落石が転がっている。
静寂の中、ノウゼンは慎重に足音を殺し、マチエールも息を潜めて暗がりを進む。 しかし、洞窟の出口まであとわずかという土壇場で、運命は牙を剥いた。
洞窟の高所を歩いていた幼いタツベイが、足を滑らせて滑落。マチエールの目の前に落ちてきたのだ。 驚いたマチエールが咄嗟にその身体を受け止めた瞬間——洞窟の最深部から、空間そのものを震わせる怒号のような咆哮が響き渡った。
『グロォォォォォアアアアッッ!!!!』
我が子を害されたと誤認した主のボーマンダが、血走った眼光を鋭く光らせ、爆風のような羽ばたきと共に飛来したのだ。
「しまった……! マチエール、走れッ!!」
「ひゃあぁぁぁぁっ!?」
ノウゼンの叫びと同時に、ボーマンダの口から解き放たれた極太の『かえんほうしゃ』が洞窟の壁を赤熱させながら爆発する。 二人は手を取り合い、脱出に向けてなりふり構わず走り出した。
「ハァッ……ハァッ……! つ、追ってくるよノウゼンーッ!」
「振り返るな! 狭い岩隙を縫って走るんだ!」
ボーマンダの巨躯ゆえの弱点を突き、二人は岩肌が複雑に入り組んだ狭隘なルートへと飛び込む。ノウゼンとマチエールは、それぞれこれまでの過酷な旅や路地裏で培ってきた並外れた身体能力を極限まで発揮した。
周囲の洞窟から延びる鋭い岩の突起をギリギリの紙一重でかわし、壁を蹴って高低差のある岩棚を飛び移る。 追撃の手を緩めないボーマンダが繰り出す『ドラゴンクロ―』の刃が、二人のすぐ背後の岩盤を丸ごと削り取る。その激しい風圧と飛び散る鋭利な岩片が二人を襲った。
ズガガガガッ!
「キャッ!?」
「くっ……!」
鋭く尖った岩の角に服が激しく引っかかり、バリッと鈍い音を立てて二人の衣類が切り裂かれる。マチエールの服の裾はほつれ、ノウゼンの上着も破れて土埃に塗れた。だが、立ち止まれば即座に竜の餌食となる。痛みを無視し、二人はただひたすらに前へ、光の射す出口へと足を前へ踏み出し続けた。
「そこだ、跳べッ!」
「やぁぁぁぁぁっ!!」
頭上から振り下ろされる巨腕を寸前で滑り込みながら回避し、二人は崩れ落ちる岩の隙間をすり抜けるようにして、洞窟の外へ——眩い日光が差し込む安全圏へと転がり出たのだった。
「ハァ……ハァ……っ! なんとか、脱出できた……かな!?」
洞窟を抜け出し、木々の隙間から夕陽が差し込む安全な開けた場所へと飛び出したマチエールは、その場にがくりと膝をついた。服の裾や袖口は岩肌に引っかかってボロボロにほつれ、髪には土埃がついている。
「……ああ。追ってきてはいないようだ。よく走ったな、マチエール」
ノウゼンもまた、肩を揺らしながら息を整えている。衣服の一部はほつれているものの、その佇まいはすでにいつもの冷静さを取り戻しつつあった。
「ふぅ……焦った〜! でも、無事でよかったね!」
「ああ、今日はもう疲れたな‥‥‥。少し早いが、今日はもうキャンプにしよう」
「うん!!」
いつもより二時間ほど早い時間。無理をしてはいけないと、ノウゼンはマチエールに早めの休息を提案し、マチエールも異を唱えることなく賛同する。
「ノウゼンが夕食の準備をしてくれてる間に、あたしが手早くテントを張っちゃうね!」
「……あまり無理はするなよ」
「平気平気! おまかせあれ!」
ノウゼンが手際よく焚き火に火をくべ、大鍋をセットして夕食の仕込みを進める傍らで、マチエールはバックパックから手慣れた手つきでキャンプ用具を取り出した。彼女はテキパキと杭を打ち、テントを立ち上げていく。
煮込み料理の香ばしい匂いが漂い始める頃、無事に設営を終えたマチエールは「できたっ!」と満足そうに額の汗を拭った。ノウゼンが鍋の様子を見ながら「手際が良くなったな」と短く褒めると、マチエールは誇らしげに胸を張る。
「えへへ、これくらいお安い御用だよ!……っと、服についた埃も払っておかないとね」
一息つき、ポンポンと自分の服を払ったその瞬間——胸元に触れた彼女の動きが、ぴたりと凍りついた。
(……え?嘘……ない……!?)
いつも大事にポケットへとしまい込んでいた、あの銀色の光沢。先日のバトルシャトーで勝ち取り、もこおと一緒に大喜びした『男爵の証』たる紋章バッジが、影も形もなくなっていた。
血の気が引いていく。あのバッジは、ただの飾りじゃない。マチエールがノウゼンやポケモンたちと共に旅をして、自分の力で掴み取った、大切な思い出の結晶だった。
「……マチエール? どうした」
顔色を変えて立ち尽くすマチエールに気づき、ノウゼンがすっと目を細めて心配そうに声をかけてくる。
「っ! な、なんでもないよ! ちょっと服が破れちゃったのがショックだっただけ!」
マチエールはとっさに満面の笑顔を作り、手をぶんぶんと振った。 頼りたい、助けてほしいという思いが一瞬頭をよぎる。しかし——ノウゼンの顔を見つめた瞬間、マチエールは唇をギュッと噛み締めた。
(ノウゼンはいつもあたしを守ってくれてる……。あたしの不注意で落としたものなのに、またノウゼンに迷惑なんてかけられない! あたしはハンサムハウスの『所長』なんだから……自分の力でなんとかしなきゃ!)
決意を固めたマチエールは、バックを地面に置くと、極めて自然な素振りを装ってノウゼンに向き直った。
「ねえノウゼン!ごはんまでもう少しかかるでしょ? あたし、ちょっとキャンプ地の周りの安全確認も兼ねて、探検に行ってくるね!」
「……探検?だけど、もうすぐ日が暮れるぞ」
「大丈夫! あたしはハンサムハウスの所長なんだから、これくらい一人でしっかり調査してこなきゃ! すぐ戻るし、もこおたちも一緒だから大丈夫!」
ノウゼンは少し怪しむように眉をひそめたが、マチエールの熱意と押しに押され、小さく息を吐いた。
「……分かった。だが、日没までには必ず戻ってこい。一人で遠出は絶対にするなよ」
「うん! 約束する!」
マチエールは元気に手を振ると、もこおを連れてキャンプ地を飛び出した。
◇
(やっぱり……逃げてる最中に服が破れたときだ!)
洞窟まで戻ってきたマチエールは、薄暗い岩肌の足元を必死に探した。そして——岩の亀裂の隙間に、小さく輝く銀色の金属を見つけた。
「あった……! よかったぁぁ、あったよもこお!」
「ニャパ!」
バッジを胸に抱きしめ、安堵の涙を浮かべたその瞬間だった。
『グルルルルルァァァアアッ……!!』
洞窟の奥から、空気を激しく振動させる絶望の咆哮が響き渡った。 猛烈な風圧と共に現れたのは、昼間の激怒をそのままにくすぶらせていた主の『ボーマンダ』。その血走った赤い瞳が、テリトリーに再び侵入したマチエールの姿を捉える。
「っ!? みんな、お願い、助けて!」
マチエールは咄嗟にクロバット、カラマネロ、メリープをボールから解き放ち、怒れる暴竜へと立ち向かうのであった。
◇
刻一刻と陽が落ち、辺りの木々が長い影を引いていく。夕食の用意を終えたノウゼンは、ふと西の空を見上げた。山端に夕陽が沈みかけ、朱色だった空が急速に濃紺へと染まっていく。
「……遅い」
約束の日没は、すでに過ぎていた。 ただの見回りなら、とっくに戻ってきているはずの時間だ。胸の奥で、嫌な予感が静かに、だが確実に芽生え始める。
ノウゼンはすぐさま腰のモンスターボールを取り出し、一気に頭上へ投擲した。
「クロバット! サザンドラ!」
暗闇の空へ躍り出た二匹の相棒たちに向かって、ノウゼンは鋭い声で命じる。
「上空から周囲をくまなく捜索しろ! マチエールともこおの姿を探すんだ! ……急げ!」
羽音を響かせて夜空へ飛び立っていくクロバットとサザンドラ。ノウゼン自身もキャンプ地を後にし、手元を明かりで照らしながら周囲の林へと足を進めた。
「マチエール! マチエール、どこだ!」
声を張り上げるが、返ってくるのは風に揺れる葉擦れの音だけ。 心拍数が跳ね上がる。普段ならどれほど過酷な状況でも乱れることのないノウゼンの胸中に、焦燥が走る。
その時だった。
ボールから自発的に出てきた『アブソル』が、低く唸り声を上げながら、角をピンと立て、特定の方向へ視線を向ける。
——その方角は、昼間、命からがら逃げ出してきたあの不吉な洞窟のある方向だった。 アブソルが全身から察知するのは、明確な「災い」の兆候。
「……まさか、あの洞窟へ……!?」
血の気が引く感覚とともに、ノウゼンは弾かれたように駆け出した。
◇
ボーマンダに見つかり、絶望的な戦いに挑むことになったマチエール。
ノウゼンの厳しい鍛錬を共に乗り越えてきた自慢の相棒たち。しかし、目の前に立ちふさがるのは、縄張りを侵されて逆上した巨躯の竜。その圧倒的な威圧感に、洞窟の空気すら重く凍りつく。
「もこお!カラマネロ!『サイコキネシス』!ボーマンダを抑えて!」
もこおの目が青く光り、カラマネロが触手を光らせ、強烈な念動力をボーマンダの巨体に浴びせる。一瞬、竜の動きが止まったかに思えた。
だが——
『グロォォォォアアアッ!!』
咆哮轟々。狂暴な主は強引に念動力を力ずくで振り払い、巨大な尻尾を叩きつけた。『ドラゴンテール』の凄まじい衝撃波が直撃し、もこおとカラマネロは悲痛な声を上げて岩壁へと叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「もこお!? カラマネロっ!? く、クロバット『エアスラッシュ』! 視界を奪って!」
クロバットが素早い飛翔で頭上を取り、鋭い風の刃を何重にも繰り出す。だが、ボーマンダは風刃を『ドラゴンクロ―』で弾き飛ばすと、『りゅうのはどう』を放ち、クロバットへ直撃させる。莫大な竜のエネルギーを叩きつけられたクロバットは、激しく悶絶しながら墜落した。
「そんな……クロバットまで……! メリープ、『でんきショック』で痺れさせて!!」
最後に残されたメリープが、マチエールの目の前で身体を小さく丸め、必死に毛並みを逆立てて放電を繰り出す。バチバチと青白い火花が竜の顔面を焼くが、怒り狂ったボーマンダには痛手とすらならなかった。
ボーマンダの巨足がドスンと踏み下ろされる。
「ッ!?」
メリープは悲鳴をあげる暇もなく踏み荒らされ、吹き飛ばされてマチエールの足元へ転がった。
「メリープ……! うそ、みんな……みんな、あたしのせいで……っ!」
一匹、また一匹と、自分を守るために傷つき、倒れていく相棒たち。ついにマチエールと咆哮を上げるボーマンダの間を遮るものは、何一つなくなった。
あまりの無力感と罪悪感、そして目の前に迫る死の気配。
ボーマンダの巨大な口腔に、目も眩むような赤紫色の極大エネルギーが収束していく
——『はかいこうせん』。
「そんな……! 嫌……嫌ぁぁぁっっ!!」
絶望的な光を前に、マチエールは尻餅をつきながら後ろへ後退する。腰が抜けて立ち上がることすらできない。死の恐怖が全身を支配し、彼女の口から無意識に、一番頼りたい存在の名が叫びとなって漏れ出た。
「ノウゼン……っ! ノウゼンーーーッ!!!」
ドガァァァァンッ!!
ついに解き放たれた破壊光線。死を覚悟し、目を固く閉じたマチエールの視界を、白の孤影が引き裂いた。
『ルアァァッ!!』
眩い光を放ちながら跳躍した『アブソル』が、黒角に翠緑色のエネルギーを纏わせて巨大化させた『メガホーン』を一閃。極太の破壊光線の軌道を、すんでのところで宙へと逸らす。
ズババババァンッ! と天井の岩盤が吹き飛ぶ爆音の中、マチエールの背後から荒い息遣いが聞こえた。
「ハァ……ハァ……っ!」
そこに立っていたのは、前髪を乱し、肩を激しく上下させながら息を吹き荒らすノウゼンだった。いつもの冷徹で気品ある佇まいはどこにもない。その瞳には、血走るほどの感情と、凄まじいまでの怒りが宿っていた。
「ゾロアーク、ゲッコウガ……出ろッ!!」
叩きつけるように投げ出されたボールから、二匹の相棒が躍り出る。
「ゾロアークは幻影で気を引け! ゲッコウガは『れいとうビーム』だ!!」
それは、普段のノウゼンからは想像もつかない、荒々しく、なりふり構わない力押しの指示だった。いつもなら流麗に敵の攻撃を完封する彼が、ただひたすらに、目の前の脅威をマチエールから遠ざけるためだけに技を叩き込んでいく。
怒号のような指示と激しい連続攻撃、そしてノウゼン自身から放たれる「彼女を傷つけたら、殺す!!」と言わんばかりの怒りの覇気。それに圧されたボーマンダは、不満げに激しい咆哮を上げると、そのまま洞窟の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った洞窟内。 ノウゼンは倒れたマチエールのポケモンたちを無言でボールへ戻すと、尻餅をついたまま震えるマチエールへ無言で手を差し出した。
その手を強引に引っ張り上げ、ノウゼンは一言も喋らないまま、マチエールの手首を掴んでキャンプ地へと歩き出す。掴まれた手首から伝わってくるのは、痛いほどの力と、そして恐ろしいほどの……手元の震えだった。
◇
キャンプ地へ到着しても、空気は重く冷え切っていた。 気まずさに押し潰されそうになりながら、マチエールは俯いたまま絞り出すように声を出す。
「あ、あの……ノウゼン。助けてくれて、ありがとう……」
だが、ノウゼンから返ってきたのは、感謝を受け止める言葉ではなかった。
「……なぜ、約束を守らなかった」
その声は、氷の針のように鋭く、いつもの彼からは想像もつかないほど冷たかった。
「答えてみろ、マチエール。俺は『日没までに戻れ』と言ったはずだ。しかもなぜ、あんな危険な場所へ一人で戻った‥‥‥」
ノウゼンの中で渦巻いていたのは、単なる怒りではない。ほんのわずかに遅れていたらマチエールを失っていたという、生きた心地のしない絶望的な恐怖だった。それが、抑えきれない激昂となって溢れ出る。
「アブソルがお前たちを見つけていなかったら……俺たちが間に合わなかったら! 今頃お前たちがどうなっていたと思っている!? 一つ間違えれば命はなかったんだぞ!?」
「っ……あたし、逃げてる途中に……バッジを、落としちゃって……っ。どうしても、探したくて……」
か細い声で言い訳を口にするマチエール。だが、大切な人を失いかけた恐怖に苛まれるノウゼンに、その言葉は届かない。
「バッジだと……!? そんなものの為に命を懸けたっていうのか!? 自分勝手な判断で安易に危険に飛び込んで、そんなザマで探偵の所長気取りも大概にしろ!!」
——所長気取り。
その言葉が響いた瞬間、マチエールの中で何かが弾ける音を立てた。
ノウゼンの足手まといになりたくなくて、少しでも背伸びをして、頼りになる大人になりたくて必死だった。ハンサムハウスの所長として、誇りを持って隣に立ちたかった。その血の滲むような想いと尊厳が、一番認めてほしかったノウゼンの手によって、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「……なによ!!!!」
マチエールは顔を跳ね上げた。涙と土埃でぐしゃぐしゃになった顔で、全身の限界の力で叫ぶ。
「あたしだって……あたしだって必死だったよ!! もこおやノウゼンとの思い出のバッジを、無くしたくなかったの!! ノウゼンの足手まといになりたくなくて……一生懸命だったのに!!」
溢れ出る涙が止まらない。マチエールはノウゼン胸元を思い切り突き飛ばすように叫んだ。
「ノウゼンなんて……ノウゼンなんて大嫌い!!」
「……っ!」
驚愕に目を見開くノウゼンを置き去りにし、マチエールは涙と土埃でぐしゃぐしゃになった顔を拭いもせず、勢いよくテントへと駆け込んだ。
ジジジジジジジジジッ!!
乱暴にファスナーを閉める音が、静まり返ったキャンプ地に重く響く。
「ふにゃあ…」
取り残されたもこおが、オロオロとテントとノウゼンを見比べる。ノウゼンは、マチエールが消えたテントの入口を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
◇
「……っ」
暗闇の中、焚き火の前に一人取り残されたノウゼンは、硬く拳を握りしめた。マチエールが引きこもったテントを見つめ、激しい後悔が波のように押し寄せてくる。せっかく作った夕食は二人とも手を付けず、全てポケモンたちが食べてしまった。
(……やってしまった。……なぜ俺は、あんな言い方しかできない……! 無事でいてくれたことに、ただ安堵すればいいものを……なんであいつを追い詰めるような真似を……!)
自分の未熟さと不甲斐なさに激しい苛立ちが募り、ノウゼンは傍らにあった切り株へと、強く拳を叩きつけそうになった。だが、その手を直前で止め、そのまま拳を解いた手を額へと押し当てる。 アブソルやゲッコウガたちが、そんな主人の背中を痛ましげな目で見つめていた。
結局、気まずさと己への怒り、そして何より、テントの中から聞こえる微かな泣き声が気になり、ノウゼンはいつものようにテントに入ることはできなかった。
テントの中では、マチエールがポケモンたちへの応急処置を済ませ、寝袋に顔をうずめて泣きじゃくっていた。 ノウゼンを突き放してしまった罪悪感と、一番認めてほしかった言葉を否定された悲しみ。そして、ボーマンダに襲われた死の恐怖の余韻が、冷え切った身体を震わせる。
(……ノウゼン、ごめんなさい……。でも、でも……ッ)
涙は止まらず、彼女はいつの間にか、泣き疲れて浅い眠りへと落ちていった。冷え切った夜気と、涙で濡れた衣服が、彼女の身体を蝕んでいることにも気づかずに。
ノウゼンは一晩中、消えかかった焚き火の前に座り込み、冷たい夜風に打たれながら不眠のまま朝を迎えた。
空が白み始めた頃——突然、テントの中からファスナーが激しく開かれる音がした。
「ふにゃああ!! ふにゃあッ!!」
飛び出してきたもこおをはじめとしたマチエールのポケモンたちが、ノウゼンに縋り付き、腕を激しく引っ張る。ただならぬ気配に、ノウゼンは跳ね起きるようにしてテントへ駆け込んだ。
「マチエール!?」
視界に入ったのは、寝袋の中で顔を真っ赤にし、荒い息を吐くマチエールの姿だった。慌てて駆け寄り、その身体を抱き起こす。触れた衣服越しに伝わってくる体温は、火のように熱かった。
「……あ……ノウ……ぜん……」
うわ言のように自分の名前を呼び、苦しげに眉をよせるマチエール。 連日の長旅による疲労、ボーマンダに襲われた極度の緊張と恐怖、冷え切ったテントで涙に濡れたまま眠ってしまったこと、そして何より、大好きなノウゼンと酷い喧嘩をした精神的ストレス。それら全てが重なり、彼女の小さな身体を苛烈な高熱と倦怠感が苛んでいた。
「マチエール……!」
ノウゼンはすぐさま常備していた解熱剤や風邪薬を準備し、ポケモンたちの手も借りながら必死の看病を始めた。 それから丸一日、ノウゼンはマチエールの枕元から一歩も離れなかった。 汗を丁寧に拭い、氷水で濡らしたタオルを何度も替え、うなされる彼女の震える手を、自分の大きな両手で優しく包み込み続けた。
夜になり、薬が効いてきたのか、マチエールの荒かった息遣いがようやく落ち着きを取り戻した。すやすやと穏やかな寝息を立て始めた彼女の顔を見て、ノウゼンは小さく胸を撫で下ろす。
テントの外からは、心配そうに様子を窺っていたもこおやゾロアークたち、そしてマチエールの手持ちであるカラマネロやクロバットたちが静かに顔を覗かせていた。
疲弊しきった顔でマチエールの頭をそっとなでながら、ノウゼンの心は重い後悔の感情で埋め尽くされていた。ノウゼンは膝に手を置き、もこおたちへ向かってぽつり、ぽつりと語りだす。
「マチエールの体調不良の原因は……俺だ。……俺がもっと早く、あいつの疲労や限界に気づいていれば……。あんな危険な道を通ろうと言わなければ‥‥‥。ちゃんと事情を聞いて、一緒にバッジを探しに戻ってれば‥‥‥。あいつが背伸びをして、必死だったことくらい、一番近くにいた俺がよく分かっていたはずなのに……」
ノウゼンは伏せられた自分の手を見つめ、悔しさに唇を噛み締めた。
「俺は……恐怖から感情を爆発させ、マチエールを追い詰めた。……口では偉そうに支えるなんて言いながら、結局はまともにできていない。……お前の相棒を、こんな目に遭わせて……すまない」
もこおに深く頭を下げるノウゼン。 だが、もこおはノウゼンのせいだとは少しも思っていなかった。むしろ、自分たちが不甲斐なく、マチエールを守りきれなかったことをずっと悔やんでいたのだ。
「ニャ……フニャッ!」
もこおはノウゼンの膝に両手を置き、首を強く横に振った。 それはもこおだけではない。カラマネロも、クロバットも、メリープも——全員が狭いテントに押し入ってノウゼンに寄り添いながら、必死に意思を伝えてくる。 『ノウゼンのせいじゃない。ノウゼンはいつも、マチエールとボクたちを守ってくれている』と。
ポケモンたちの温かい瞳と、伝わってくる真摯な想いに、ノウゼンは一瞬目を見開いた。そして、自嘲気味に弱く苦笑する。
「……そうか。間違えたのは……俺たち全員、か」
ポケモンたちに支えられ、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。 一晩中の不眠と一日がかりの看病による極度の疲労が一気に押し寄せ、ノウゼンはその場にゆっくりと倒れ込んだ。マチエールの寝袋の傍らで、彼はそのまま静かに深い寝息を立て始めるのだった。
◇
テントの隙間から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
「ん……」
重かったまぶたをゆっくりと開けたマチエールは、頭の重みが綺麗に消えていることに気づいた。うっすらと目を開け、ふと横に顔を向けた瞬間——そこにあった光景に、マチエールの動きが固まった。
すぐ目鼻の先にあったのは、すやすやと穏やかな息を立てて眠るノウゼンの寝顔だった。 いつも隙なく前髪を整え、冷徹なまでに凛とした彼が、前髪を乱し、疲弊しきった顔で自分の寝袋のすぐ傍らに倒れ込むように眠っている。そしてその大きな手は、マチエールの震えを止めるかのように、そっと彼女の手元に添えられたままだった。
「ひゃあ!?」
思わぬ接近に飛び起きたマチエールは、病み上がりであることも忘れてすっ頓狂な声を上げた。その声と動きに反応し、浅い眠りに落ちていたノウゼンが瞬時に目を覚ます。ノウゼンはまだ焦点の定まりきらない瞳で周囲を見回したあと、目の前に座るマチエールの姿を捉えた。
「マチエール……!」
ノウゼンは弾かれたように身を起こすと、迷わずマチエールの両肩に手を置いた。
「体調は……! 気分はどうだ!?」
「あ……うん。もう、熱は下がったみたい。ううん……すごく体が軽いよ」
ノウゼンはマチエールの額にそっと自分の手を当て、熱が完全に引いていることを確かめると、深く、長く息を吐き出した。全身の緊張が一気に抜け、いつもの冷静な彼からは考えられないほど、弱々しく安堵の笑みを浮かべる。
「そうか……。よかった……」
安堵の空気が落ちついた途端、この前の酷い喧嘩を思い出し、二人の間に気まずい沈黙が流れた。マチエールは申し訳なさそうに視線を落とし、膝の上で自分の服の裾をギュッと握りしめる。
ノウゼンは一呼吸置くと、意を決したようにマチエールの目を見つめ、静かに口を開いた。
「マチエール。……謝らせてくれ」
「え……?」
「俺は酷いことを言った。お前の手首を強く掴んで連れ戻し、バッジを取りに行ったことを怒鳴り……お前の想いを踏みにじるような言葉で追い詰めた。……本当に、悪かった」
誠意の込められたノウゼンの言葉に、マチエールは息を飲んだ。ノウゼンは自分のポケットから、あの時マチエールが肌身離さず抱え込んでいた銀色の『男爵の証』を取り出し、彼女の手の中に優しく包み込ませた。
「シャトーで手に入れたバッジが、お前やもこおにとってどれほど大切か……もっと理解すべきだった」
ノウゼンはマチエールの手を両手で包み込み、まっすぐに彼女の本心へと語りかける。
「‥‥‥だが、バッジなら事情を話せばまた替えがもらえるかもしれない。……それでも」
ノウゼンはマチエールの目を見据え、心からの言葉を口にした。
「マチエールの代わりはいない‥‥‥!」
言葉の一つひとつが、ノウゼンの手から伝わる温もりとともに、マチエールの胸の奥深くに一番あたたかな熱となって広がっていく。
「ノウゼン……っ」
「あんな言い方をして……お前を追いつめて……本当にすまなかった、マチエール」
ノウゼンが、自分に対して素直に頭を下げて謝ってくれた。そして、自分を心から大切としてくれているという本音を伝えてくれた。
次の瞬間、マチエールの瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「うわああぁぁぁんっ! ノウゼンぇぇっ!」
マチエールは寝袋を蹴り飛ばすと、ノウゼンの胸元へと勢いよく飛び込んだ。
「約束破ってごめんなさい……っ! 心配かけてごめんなさいっ! あたし、あたし……ノウゼンのこと大嫌いなんて言ってごめんなさいーーーーっ!!」
ノウゼンは驚きに一瞬目を見開いたが、すぐに柔らかく目を細めると、しがみついてくる小さな身体を、折れてしまいそうなほど強く、しっかりと抱き返した。
「ああ……分かっている。俺も……悪かった」
ノウゼンはマチエールの小さな頭に顔をうずめ、彼女の生きている温もりを全身で噛み締めた。 テントの隙間から顔を覗かせていたもこおやポケモンたちも、嬉しそうに声を上げながら二人の周りに身を寄せ合ってくる。
朝日が優しく差し込むテントの中で、二人はしっかりと抱きしめ合い、お互いの存在を確かめる。
完璧じゃないけれど、不器用だからこそ尊い。二人は、こうして何度もぶつかり合い、許し合いながら、誰も引き裂くことのできない「家族」以上の絆を紡いでいくのだった