土砂降りの雨が、森の土を泥へと変えていく。
冷たい雨粒が激しく体を打ち叩く中、幼いリオルは泥まみれになって打ち捨てられていた。
全身を包むのは、激しいバトルの痛痛しい傷跡と、それ以上に痛む胸の奥の亀裂。
『使えないゴミが。連戦連敗で俺の顔に泥を塗りやがって……二度とツラを見せるな!』
捨て際、かつての「主人」が言い放った冷酷な言葉と、顔面に叩きつけられた硬いブーツの感触が、脳裏から離れない。
強くなるために、勝つために、身を削って戦ってきた。だが、勝てなくなった途端に道具のようにゴミ捨て場へと投げ捨てられた。 絶望と激しい人間不信。濡れた前足の小さな拳を握りしめ、リオルは激しい雨の中で一人、怨嗟の声を漏らしながら歯を喰いしばっていた。
(……絶対に許さない。二度と、人間の言葉なんて信じるものか……!)
傷口から体力が奪われ、意識が急速に遠のいていく。 冷たい闇に呑み込まれかけたその時——頭上を打つ雨の音が、ふっと遠のいた。
「み……みぃ……」
荒い息を吐きながら薄目を開けたリオルの視界に飛び込んできたのは、一匹の幼い野生のミミロルだった。 ミミロル自身も、激しい雨に打たれて大きな耳を小さく震わせ、全身をガタガタと泣き出しそうに揺らしている。それでもミミロルは、大きな葉っぱを一枚破り取り、懸命に腕を伸ばしてリオルを雨から遮ろうとしていた。
「が……ッ!?」
他者への激しい警戒心から、リオルは体を強ばらせて身構えた。だが、ミミロルには敵意など欠片もなかった。 ミミロルは震える小さな両手で、大切そうに抱え込んでいた一粒の『オレンの実』を差し出してきたのだ。自分が食べるはずだった、たった一粒の貴重な木の実を。
「……みぃ。みみろ……(食べて……元気になるの……)」
ミミロルの波導から伝わってきたのは、打算も、見返りを求める欲も何もない、ただ目の前で倒れそうな者を慈しむ「無償の温もり」だった。
冷え切った体と、ズタズタに引き裂かれた心に、その一粒の木の実の味がじんわりと染み渡っていく。人間から受けた暴力と裏切りで氷漬けになっていたリオルの胸の奥で、何かが静かに熱を帯びて弾けた。
(この子は……私を裏切らない。道具として見たりしない……!)
木の実を分け合い、雨が止むのを大木の洞で待つ夜。 安堵したようにリオルの体へ身を寄せ、すやすやと小さな寝息を立て始めるミミロル。その温かい体温を感じながら、リオルは静かに誓いを立てた。自分の胸の奥に残る、一番強い『波導』を込めて。
(誓う。私が強くなる。どんな傷を負っても、この理不尽な世界から、私が命にかえてもこの子を守り抜く——)
それ以来、リオルにとってミミロルは唯一無二の「護るべき存在」であり、世界で唯一信用できる「家族」となったのだ。
◇
旅の途中、とある森で昼食をかねた休息をとっていたマチエールとノウゼン。
木漏れ日が柔らかく差し込む森の平原で、ノウゼンが手際よく大鍋を火にかけ、マチエールが楽しそうに食器を並べる。香ばしいスープの匂いが風に乗って漂う中、少し離れた草むらでは、『もこお』が静かに散歩をしていた。
「ふにゃあ……」
そこでもこおが出会ったのは、木陰で休んでいたリオルとミミロルの二匹だった。持ち前の明るさと警戒心のなさで、もこおは自分と同等くらいの小さな二匹に興味を持ち、トコトコと近づいて耳をパタパタと揺らしながら挨拶を交わす。
最初はミミロルを守ろうと警戒していたリオルだったが、もこおから溢れ出る「遊ぼうよ!」という無邪気で純粋な波導には、害意は一切なかった。 ミミロルが嬉しそうにもこおの周りを跳ね回り、もこおが拾った綺麗な木の実を差し出すと、リオルも少しずつ緊張を解き、不器用ながらも小さな頷きを返した。短い時間の中で、確かに三匹の間には温かい友情の芽が芽生え始めていたのだ。
——だが、その平穏は唐突に破られた。
「もこおー! ごはんできたよー!」
茂みを分けて、笑顔のマチエールが姿を現した瞬間だった。
「ッ!?」
マチエールの姿——「人間」の存在を目にした途端、リオルの全身の毛が逆立ち、目の色が激怒と激しい拒絶へと跳ね上がった。
(人間……ッ!!)
脳裏に蘇る、雨の中での暴力と裏切り。リオルは咆哮とともに前足を突き出し、強烈な『しんくうは』を解き放った。
ズバァンッ!!
「ひゃあ!? 痛たた……っ!?」
鋭い衝撃波がマチエールの足元を削り取り、驚いたマチエールは尻餅をついた。間一髪で直撃は免れたものの、目の前の突然の襲撃に呆然と目を丸くする。
「ニャ……ッ!?(な、何するの!?)」
あまりの事態に、もこおはまん丸い目をさらに見開いて叫んだ。さっきまで楽しく木の実を分け合っていた友達が、なぜ急に大好きなマチエールを襲うのか理解できなかった。
「ふにゃ!?……ふにゃあ!(どうしていきなりこんなことするの!? マチエールは優しいよ!)」
もこおは必死にマチエールを庇い、リオルへ言葉を投げかけた。だが、リオルがもこおに向けたのは、氷のように冷たく、悲痛なまでに怒りに満ちた眼差しだった。
「クァッ!クァン!!」(黙れ……! 人間に懐き、しっぽを振る奴など……私の敵だ!!)
波導を通じて届いた刺さるような拒絶の意思。リオルは側でびっくりした顔をして呆然とするミミロルの腕を強く引っ張ると、もこおへ一度も振り返ることなく、森の奥深くへと走り去ってしまった。
「ニャ……ッ……」
残されたもこおは、耳を力なく垂らし、大きな目を悲しげに揺らした。 さっきまで通じ合っていたはずの温かい波導が、冷たく切り捨てられた痛みが、もこおの胸を強く締め付けた。
「っ……あたた……。も、もこお……大丈夫?」
身を起こしたマチエールが、心配そうに駆け寄ってくる。もこおは「ふにゃ……」と寂しげに鳴き、マチエールの足元にすり寄った。
◇
キャンプ地へ戻ったものの、もこおの落ち込みようは重かった。 ノウゼンが作った特製のスープが温かい湯気を立てているというのに、いつもならマチエールの隣で美味しそうに食べるもこおが、地面に座り込んだまま一向に手に取ろうとしない。
「……もこお、どうした。体調でも悪いのか?」
先に食べ終わり、食器を洗っていたノウゼンが声をかける。マチエールは申し訳なさそうに視線を落とし、先ほど茂みの奥で起こった出来事を語り始めた。
「……実はね、ごはんができたからもこおを呼びに行ったんだけど……その時、もこおはリオルとミミロルと一緒にいてね。すごく仲良く遊んでたみたいなんだけど……」
マチエールは自分の服についた泥をそっと払いながら、言葉を続けた。
「あたしが顔を出した瞬間、リオルが急に目つきを変えて……あたしに向かって技を撃ってきたの。もこおが庇ってくれたんだけど、リオルはもこおに怒った顔をして、ミミロルを連れて走っていっちゃって……」
マチエールの話を聞き終えたノウゼンは、静かに腕を組み、深く息を吐き出した。
「……なるほどな」
ノウゼンは伏せているもこおの頭を優しく撫でながら、静かな声で言った。
「もこおが友達になったそのリオルは、きっと人間のことを嫌ってるんだろう。そして……、その『人間』と仲良くし、庇おうとしたもこおのことまで、同じ敵だと見なして怒ったんだ」
「そんな……」
マチエールは胸を痛め、落ち込むもこおの姿を見つめた。 せっかくできた友達に、自分の存在のせいで拒絶されてしまった。その罪悪感と悲しみが、マチエールの胸をぎゅっと締め付ける。だが、マチエールはそこで下を向くのをやめ、膝を叩いて立ち上がった。
「もこお、元気出して!」
「ニャ……?」
マチエールはもこおの前にかがみ込むと、まっすぐな瞳でもこおの小さな手を優しく包み込んだ。
「せっかくできたお友達と、こんな悲しいままでお別れなんてダメだよ! あたしね、そのリオルとミミロルに『人間は怖いヤツばかりじゃない』って伝えたい。あたしも二匹と仲良くなれるように一生懸命頑張るから……もこおも、リオルたちと仲直りしに行こう?」
マチエールのあたたかい笑顔と力強い言葉に、もこおの垂れていた耳がぴんと跳ね上がった。 大好きなマチエールが、自分のために一緒に頑張ろうとしてくれている。その想いが胸に届き、もこおの大きな瞳にパッと明るい光が戻った。
「ふにゃあっ! ニャンッ!!」
力強く頷き、マチエールの胸元へ飛びつくもこお。 その二人のやり取りを、ノウゼンはどこか温かい目を細めて静かに見守るのだった。
◇
「……みぃ……みふぃあ……(なんで……なんであんなことしたの……?)」
もこおたちの前から走り去り、大木の陰まで辿り着いたところで、ミミロルはリオルの腕を振り払い、泣き出しそうな顔で問いかけた。 ミミロルにとって、もこおはリオル以外で初めてできた「外の世界の友達」だった。一緒に木の実を分け合い、あんなに楽しく笑い合えたのに……なぜ、あんな悲しい別れ方をしなければならなかったのか。ミミロルにはそれが悲しくて、胸が張り裂けそうだった。
「クァ……ッ……!」
ミミロルの悲しげな瞳から溢れる涙を見て、リオルは一瞬胸を痛めた。だが、すぐにその瞳に激しい拒絶の炎を宿し、ミミロルの両肩を掴んで強く訴えかけた。
「クァ!クオ、クァン!」(あいつらは『人間』と一緒にいるの! 騙されちゃダメ……! 私がかつてどうされたか、忘れたの!?)
リオルは自らの胸を叩き、激しい波導とともに自分の過去をミミロルに伝えた。 勝ち上がるための道具として扱われ、傷つき、勝てなくなった途端に雨の中で泥のように捨てられたこと。顔面に叩きつけられた硬いブーツの冷たさ。
「クア、クォン!クアァン!」(人間は……最初は優しい顔をして近づき、利用価値がなくなれば平気でゴミのように捨て去る! 奴らは悪魔だ……! 絶対に信用してはいけない!!)
必死に語りかけるリオル。だが、ミミロルはただ悲しそうに眉を下げ、ゆっくりとうなだれることしかできなかった。 リオルの傷ついた過去も、自分を守ろうとしてくれている必死な気持ちも痛いほど分かる。けれど……あのマチエールやもこおから伝わってきた温かな優しさが、どうしても嘘には思えなかったからだ。二匹の間に、静かで切ないすれ違いが生まれていた。
◇
それから数日間、マチエールたちの森での滞在が始まった。 マチエールともこおは何度も森の中を探し回り、やがて大木の洞でひっそりと暮らすリオルとミミロルの居場所を見つけ出した。
居場所が分かってから、二人は毎日のように二匹の元へ通い詰めた。 ある時は「一緒に遊ぼう!」とボールを転がして声をかけ、またある時はノウゼンが美味しく作ってくれたご飯やポフレをバスケットに詰めて持っていった。
「リオル、ミミロル! 今日はあまいミツのポフィンだよ! 美味しいから食べてね!」
「ふにゃあ~っ!」
マチエールがシートを広げ、もこおが嬉しそうに耳を揺らしながらポフィンを差し出す。 ミミロルは、毎日太陽のような笑顔で食べ物を運んでくるマチエールと、自分たちに寄り添おうとしてくれるもこおの温かい雰囲気に気を許していた。そっと手を伸ばし、ポフィンを受け取ろうとした——その時だった。
「ガアァァッ!!」
怒号とともにリオルが飛び出し、差し出されたポフィンを激しく足で踏みにじった。 甘い香りのするポフィンが、無残に泥の中に潰れていく。
「リオル、ダメだよ!」とミミロルが悲鳴を上げて引き止めるが、リオルは聞く耳を持たない。それどころか、マチエールたちに向かって威嚇の『しんくうは』を繰り出した。
ズバァンッ!
鋭い風がシートを切り裂く。
「クア!クアァン!(騙されちゃダメ! 人間は最初は優しく見せかけて、利用できなくなったら捨て去るんだ! お前を守れるのは私だけなんだ!!)」
足元で無残に潰れたポフィンと、激しい敵意を剥き出しにするリオル。 その光景に、マチエールともこおは悲しそうに眉を下げたが、そこに怒りの色は一切なかった。
「……そっか。今日もダメだったか……」
マチエールは泥のついたポフィンの破片を優しく拾い上げ、寂しそうに笑った。 もこおもまた、耳を力なく垂らしながら、固く拳を握りしめるリオルの姿を静かに見つめていた。
(……あの時のボクと、おなじだ……)
かつて、ミアレシティの路地裏で一人ぼっちだった頃。 もこおもまた、人間という存在の全てを恐れ、激しく拒絶し、近づく者を威嚇していた過去があった。マチエールという温かい存在やその後、ハンサムやノウゼンに出会えたおかげで、「人間にも、心から信頼できる『家族』になれる人がいる」ということを知ったのだ。
かたくなに人間を拒絶し、傷つくまいと全身の毛を逆立てているリオルの姿は、あの頃の、悲しくて孤独だった自分自身の影と完全に重なっていた。
だからこそ、もこおは嫌われても、拒絶されても、リオルのことを嫌いにはなれなかった。
(大丈夫だよ……マチエールは、絶対に裏切ったりしないから……)
もこおは心のなかでそう強く唱えながら、去っていくリオルたちの背中を、温かい瞳で見つめ続けるのだった。
◇
(……これでいい。あんな人間、すぐにあきらめて去っていく)
大木の洞へ戻り、荒い息を吐くリオル。しかし、その胸の奥はすっきりと晴れるどころか、冷たく重い痛みが渦巻いていた。 隣を見れば、ミミロルが悲しそうに耳を折りたたみ、うつむいたまま一言も喋ろうとしない。
(ミミロル……私は、お前を守りたいだけなんだ。なのに……)
傷つけたくないはずなのに、自分の頑なさが傷つけている。その矛盾に苛立ち、リオルが己の拳を強く握りしめた、その時だった。
ガガガガガッ……!
地鳴りのような重低音が森を揺らし、木々がなぎ倒された。
「ミッ!?」
「クァッ!?」
驚いて飛び出した二匹の頭上から、突如として不気味な黒い網が覆いかぶさってきた。網の網目からは、バチバチと凄まじい高圧電流が放たれている。
「ミァァァァッ!!」
「ク……ァ……ッ!!」
激しい電撃が二匹の身体を焼き焦がす。リオルは咄嗟に身を翻すと、ミミロルの上に覆いかぶさり、その小さな身体を自分の一身で庇い込んだ。
「ヒハハ! 掛かったぞ! 希少なリオルだ! 闇市場に持っていけば大儲けだぞ!」
「連れのミミロルもセットで売り飛ばしてやるか!」
下品な笑い声を上げる数人の男たち
——『ポケモンハンター』
(まただ……また、人間が……!)
身体を突き抜ける激痛の中、リオルの脳裏にあの日の雨がフラッシュバックする。 勝手な都合で利用され、奪われ、捨てられる。人間の醜い欲望が、再び自分と、大切なミミロルの全てを踏みにじもうとしている。
(私が弱かったから……! ミミロルまで……!)
悔しさと人間への激しい憎悪で、リオルの胸の奥の波導がどす黒く濁り始める。理性が黒い闇に呑み込まれかけた、その瞬間——。
「あたしの目の前で……ポケモンを傷つけるなぁぁぁっ!!」
森の奥から、突き破るような叫び声が響いた。 茂みを割って飛び出してきたのは、マチエールと、そして——ニャスパーの『もこお』だった。
「フニャーーーッ!!(離せぇぇぇっ!!)」
もこおの大きな瞳が怒りで青く輝く。頭の耳を持ち上げ、解放された凄まじい『サイコキネシス』の衝撃波がハンターたちを吹き飛ばした。
「な、なんだあのニャスパーは!?」
「チッ、エレザード! 『10まんボルト』だ! まとめて焼いてやれ!」
ハンターのボールから現れるエレザード。指示を受けて放たれた極太の電撃が、もこおたちへ襲いかかる。 もこおは間一髪で『まもる』を展開して相殺するが、ハンター側はさらにグラエナを繰り出してきた。
「だったらこれはどうだ!グラエナ、『あくのはどう』!」
巨大な黒い衝撃波が音を立てて飛来する。だが、グラエナが狙いを定めたのは……捕獲網の中で身動きが取れず、倒れ伏しているリオルとミミロルだった。
「ニャッ!?(危ないっ!?)」
もこおの叫び声。網の中で必死にミミロルを抱きしめるリオルは、迫り来る悪の波動の影を見上げ、絶望に目を細めた。
(……もうダメ——)
リオルが諦めて目を閉じた、次の瞬間。
ドガアァァァンッッ!!!
「痛ぁぁっ……!」
凄まじい衝撃音と、小さな悲鳴。 予想していた激痛が来ないことに驚き、リオルがゆっくりと目を開けると——そこには、自分とミミロルを丸ごと抱きしめるように覆いかぶさった、マチエールの背中があった。
背中に直撃した波動で服は破れ、血が滲んでいる。それでもマチエールは、二人を庇う腕を解こうとはしなかった。
「クォ!?(が……な……なんで……!?)」
リオルの波導が、激しく困惑に揺れた。理解できなかった。自分は何度もこの人間を拒絶し、技を放ち、差し出された食べ物を踏みにじったのだ。それなのに……なぜ、命を懸けて自分たちを守るのか。
「ニャンッ! フニャ……ッ!(信じて!マチエールは絶対に裏切らないんだから!)」
網のすぐ外で、必死に網を切ろうと爪を立てるもこおが、涙目でリオルに訴えかけた。その波導には、かつて同じように人間を恐れていたからこその、痛切なまでの願いが込められていた。
「あたしもね……!」
マチエールが、泥と血に汚れながらも、涙の浮かぶまっすぐな瞳でリオルの顔を覗き込んだ。
「昔、たった一人で……誰も信じられなくて、ずっと冷たい路地裏で震えてたんだ!!」
その言葉が、リオルの胸を強く突いた。
「だから分かるよ……裏切られて、傷ついて、怖くてたまらない気持ち! でもね……世界は嫌なヤツばかりじゃない! あたしは絶対、君たちを見捨てたりしない!!」
マチエールの胸の奥から溢れ出す、偽りのない透明な意思。 その温かさに包まれた瞬間、リオルの脳裏に鮮明に蘇ったのは——あの土砂降りの雨の日、冷たい泥の中で死にかけていた自分に、震える手で『オレンの実』を差し出してくれたミミロルの姿だった。
(あの日……ミミロルが私を救ってくれた時の温もりと……同じ……)
この人間もまた、見返りなんて求めず、ただ傷つく者を救おうとしている。 ずっと「敵」だと決めつけていた人間の腕の中は、あの日ミミロルと分け合った木の実と同じ、あたたかな愛に満ちていた。
「ミミッ……っ!(リオル……っ!)」
涙を流しながら自分にしがみつくミミロル。そして、自分たちを信じて命がけで庇ってくれるマチエールともこお。
(私は……守られてばかりじゃない……! 今度は私が、この人たちを守るんだ!!)
リオルの胸の奥で、カチリと何かが崩れ去った。黒く濁っていた波導が瞬時に浄化され、青色の眩い光となって全身から爆発的に噴き出す。
『ガルゥゥゥゥアアアッッ!!!!』
リオルの咆哮とともに解き放たれた波導の衝撃波が、二匹を縛り付けていた高圧電撃網を内側から木っ端微塵に砕き割った。
「な、なんだあのエネルギーは!? ただのリオルじゃねえぞ!」
「リオル……!?」
自由になったリオルは、傷ついたマチエールともこおの前に躍り出ると、背後を一瞬だけ振り返った。その瞳には、かつての冷たい拒絶はなく、凛とした誇りと深い信頼が満ちていた。
「ニャ……ッ!(リオル!)」
「ミッ!(頑張って!)」
もこおとミミロルの歓声が重なる。マチエールが力強く叫んだ。
「いっけぇぇぇ、リオル! 『はどうだん』ッ!!」
「ガァッ!!」
マチエールの叫びと、リオルの波導が完全にひとつに重なり合う。 リオルの両手に収束した青白い巨大な光の球体——極限まで高められた『はどうだん』が一直線に放たれ、グラエナを泥の中に撃ち沈めた。
ドッカアアアアンッッ!!!
「ひいぃぃっ! 覚えてろー!」
悲鳴を上げて一目散に逃げ出していくハンターたち。静寂が森に戻ってきた。
◇
リオルの放った『はどうだん』に打ちのめされ、泥に塗れて這い進むハンターたち。命からがら森の奥へと逃げ延びようとするその行く手に、立ちふさがる影がひとつあった。
静寂の中、怒りの覇気を全身から揺らめかせている男——ノウゼンだった。
ノウゼンはマチエールに「あたしともこおの戦いだから!」と懇願され、静観を貫いてきた。だが、グラエナのあくのはどうが、マチエールを傷つけた瞬間、その胸中に燃え上がった怒りは瞬時に頂点へと達していた。
「な、なんだお前は……っ!? どけえええっ!!」
突如現れたノウゼンに驚愕しながらも、追い詰められたハンターは叫び、残ったエレザードへ攻撃を命じる。
「エレザード、やっちまえ!」
ポケモンをただの道具として虐げ、大切な少女を傷つけ、懲りも反省もせずに逃げ出した挙句、己にまで牙を剥く。その度重なる積悪の所業に、ノウゼンの銀の瞳へ、氷のように冷たく苛烈な怒りの炎が宿る。
「出ろ、サザンドラ」
グォォォォォォォォン……ッ!!!!
静寂を文字通り粉砕するような、三つの首を持つ凶悪な巨竜の咆哮が森中に轟いた。 ノウゼンの手持ちの中でも群を抜く圧倒的な破壊力を誇る怪物——サザンドラが、漆黒の翼を広げて空中に降臨する。
「ひっ……!? な、なんだその化け物は……っ!?」
空間そのものが歪むような、サザンドラが放つ桁違いのプレッシャー。 襲いかかろうとしていたエレザードは、あまりの威圧感に全身の毛を逆立て、その場で金縛りに遭ったかのように身動きを失った。ハンターたちに至っては、膝の震えを止めることすらできず、戦意を完全に喪失して次々と地面へ膝をつき、ひれ伏していく。
ノウゼンは怯える男たちに一切の容赦をせず、冷徹な声で命じた。
「————『りゅうせいぐん』」
サザンドラの三つの首が一斉に天を仰ぐ。次の瞬間、上空の雲が歪み、破滅の光芒が降り注いだ。
ズガァァァァァァン……ッ!!!!
ドカァァァァァァン……ッ!!!!
漆黒と紫の炎を纏う巨岩のごとき隕石群が、地表を削り取りながら次々に着弾する。 エレザードが恐怖のあまり苦し紛れに放った電撃など、降り注ぐ破壊の前に紙屑のごとく粉砕され、跡形もなく消し飛んだ。溢れ出る圧倒的なエネルギーと爆風が、ハンターたちを容赦なく呑み込んでいく。
ドォォォォン……ッ!
やがて爆風と煙が静かに去った。 そこに残されていたのは、全員が黒こげになって白目を剥き、恐怖のあまりガクガクと身体を震わせるだけのハンターたちとエレザードの無残な姿だった。
ノウゼンは冷ややかな目で転がる男たちを見下ろすと、ポケットから静かにホロキャスターを取り出し、警察への連絡を入れた。
◇
「ふぅ……やった……んだよね……」
戦闘の緊張が解け、マチエールがその場にペタンと座り込んだ。背中に走る激痛と、それ以上の激しい安堵感で、一気に身体から力が抜けていく。
「ふにゃ〜っ……!(マチエール、大丈夫!?)」
もこおが泣き出しそうな顔で駆け寄り、マチエールに抱きついた。そこへ、捕獲網から解き放たれたリオルとミミロルが、静かに歩み寄ってくる。
ミミロルは嬉しそうにもこおの前へ駆け寄ると、照れくさそうに耳をすり寄せた。
「ミィ‥‥‥ミミロ!(ごめんね……助けてくれて、ありがとう)」
「ふにゃあ……!(うん、よかったぁ……っ!)」
もこおも涙を拭いながら嬉しそうに目を細め、二匹はしっかりと手と手を取り合った。かつて差し伸べられ、すれ違いの中で一度は離れてしまった友情の手が、今度こそ温かく結ばれた瞬間だった。
そして、リオルは——。
足元に泥のついたマチエールを見つめ、不器用に視線を泳がせていた。かつて自分を裏切った人間たちと違い、この少女は傷つき、血を流しながらも、自分たちを守るために最後まで腕を解かなかった。
(私を……道具としてじゃなく、大切な存在として庇ってくれた……)
胸の奥に残っていた冷たい氷は、もうどこにも無かった。そこにあるのは、あの雨の日にミミロルから『オレンの実』を受け取った時と同じ、胸を突くほどの温かさだけだ。
リオルは決意を固めたように一歩を踏み出し、ミミロルともこおと一緒に笑い合うマチエールに声をかける。
「クァ……(助けてくれて、ありがとう……)」
マチエールは背中に走る傷の痛みに耐えながら、何でもないようにリオルに笑いかけた。
「大丈夫だった? 怪我はない?」
そのマチエールのあまりの優しさに、リオルは今まで自分が彼女やもこおにしてきた拒絶の振る舞いを思い出し、気まずそうに顔を背けてしまった。
そこへ、ミミロルがリオルの手をそっと引き、少し困ったように笑いかける。
「ミミィ……! ミミロォ!(ちゃんと謝ろう……! 仲直りしようよ!)」
ミミロルのまっすぐな瞳と言葉に促され、リオルはマチエールともこおに向き直ると、ゆっくりと深く頭を下げた。自分の過ちと感謝を込めた誠心誠意の謝罪の言葉に、マチエールともこおは柔らかく微笑み、温かく受け止めるのだった。
◇
「全く……こんな無茶を‥‥‥!」
警察へのハンターたちの引き渡しを終えて戻ってきたノウゼンが、呆れたように息を吐きながらマチエールの背中の傷を治療する。
「えへへ……ごめんなさい」
苦笑いするマチエールの視線の先には、先ほどまでの刺々しさが嘘のように、仲良く一緒に遊び、バスケットに残ったポフレを美味しそうに分け合うもこお、リオル、ミミロルの姿があった。
その日の夕方、ノウゼンが腕を振るった特製の夕食が振る舞われた 香ばしい匂いに包まれながら料理を口にする二匹に、マチエールがそっと明かす。
「あ、ちなみにね! お昼に持っていったポフレや、この美味しいご飯を作ったのはノウゼンなんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、リオルとミミロルはピクッと身体を強張らせた。顔を見合わせた二匹はすぐに立ち上がると、ノウゼンの前にピシッと立って深く頭を下げた。
今まで何度も、ノウゼンが作った大切なご飯を台無しにして踏みにじってきたことへの謝罪だった。
ノウゼンはスープを鍋から取り分けながら、少し冷たい視線を向けて二匹を見る。
「……食べ物は粗末にするなよ」
少し厳しめの注意。だが、その言葉の裏にある温かさを察した二匹は「クァ……」「ミィ」と深く頷いた。ノウゼンもそれ以上は追及せず、「さあ、冷めないうちに食え」と温かいお椀を二人差し出すのだった。
◇
翌朝、爽やかな朝陽が森を照らす中、ノウゼンとマチエールが出立する時がやってきた。
荷物をまとめ、歩き出そうとしたその時——茂みが揺れ、ミミロルがリオルの手を強く引いて二人の前に現れる。
ミミロルはマチエールともこおの前に進み出ると、大きな耳をパタパタと揺らして一生懸命に想いを伝えた。
(私たちも……一緒についていきたい!)
「ふにゃ!? ニャンッ!ふにゃあ!(ホント!?やった!マチエール、お願い!)」
もこおが大喜びでピョンピョンと跳ね回り、マチエールの服の裾を引っぱる。 後ろに立つリオルは、照れくさそうに頭の後ろを掻きながら、フイッと横を向いて呟いた。
「クァ……、クオン。(……勘違いしないで。ミミロルをあいつら(ハンター)みたいな奴から守るためだから……)」
素直になれないいつもの様子に、マチエールの瞳から喜びの涙が溢れ出した。
「うん……! うんっ!!」
マチエールは涙を拭うと、バッグから二つのモンスターボールを取り出し、二匹の前に優しく差し出した。
ミミロルとリオルは顔を見合わせると、同時にそのボタンを『ポン』と叩いた。
カチッ……カチッ……ポン。
心地よい承認音が静かな森に二つ響き渡る。
「よろしくね、リオル! ミミロル!」
愛おしそうに二つのボールを胸に抱きしめるマチエール。もこおが嬉しそうに寄り添い、ノウゼンもまた、その様子を見て静かに微笑む。
傷ついた絆を結び直し、新たなる家族を迎えたマチエールとノウゼンの旅は、青空の下でこれからも続いていく。