Dクラス「ドッ!ワハハ」 綾小路「wwww」 オリ主「あ、綾小路くんも笑ってるよw」 綾小路「」   作:ホモガキ

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第2話 オタクくん何読んでんの?

 

 

 

 

 入学して数日が経った。

 

 教室には早くも、それぞれの人間関係らしきものが形成され始めている。

 

 平田洋介の周囲には自然と男女が集まり、池寛治や山内春樹は似た気質の男子と騒いでいる。櫛田桔梗もまた、持ち前の愛想の良さで女子生徒の輪の中心にいた。

 

 一方で、そうした流れとはほとんど無縁の生徒もいる。

 

 堀北鈴音。

 

 そして、綾小路清隆。

 

 黒瀬莉愛は、そのどちらにも遠慮なく話しかけていた。

 

 もっとも、それは彼らが孤立しているからではない。

 

 誰かを輪に入れてやろうという善意でもなかった。

 

 単に、そこにいるから。

 

 そして自分が話しかけたいと思ったから。

 

 莉愛にとって人間関係とは、おおむねその程度のものだった。

 

「心ちゃーん」

 

 休み時間。

 

 莉愛は前の席に座る井の頭心の肩越しに顔を覗かせた。

 

「なに?」

 

「暇」

 

「そうなんだ」

 

「なんか面白い話ない?」

 

「急に言われてもないよ」

 

「じゃあ堀北ちゃん行ってくる」

 

「なんで私が駄目だと堀北さんになるの?」

 

「近いから」

 

「理由それだけ?」

 

「うん」

 

 莉愛は立ち上がった。

 

 教室の一角では、堀北が本を開いていた。

 

 騒がしい教室の中にいながら、その周囲だけわずかに空間が切り離されているように見える。

 

 姿勢は崩れず、長い黒髪も制服も整っている。

 

 本人が意識しているかは別として、気安く他人を近づけない雰囲気があった。

 

 莉愛からすれば。

 

 話しかけんなオーラ、今日もすげえな。

 

 それだけである。

 

「堀北ちゃーん」

 

「…………」

 

「聞こえてる?」

 

「聞こえているから無視しているの」

 

「ひどw」

 

 堀北は本から目を上げようともしなかった。

 

「用件は?」

 

「暇」

 

「そう。私は暇じゃないわ」

 

「何読んでんの?」

 

「あなたに関係ある?」

 

「俺が気になる」

 

「それはあなたの事情でしょう」

 

「冷てえなあ」

 

「黒瀬さん」

 

「ん?」

 

「あなたは、一人で静かに過ごすという選択肢を覚えた方がいいと思うわ」

 

「えー」

 

「常に誰かと話していないと死ぬの?」

 

「三日くらいなら耐えられると思う」

 

「なら試してみたら?」

 

「四日目死ぬじゃん」

 

「その頃には教室も静かになっているでしょうね」

 

「俺の死をメリット扱いすんなw」

 

 なかなか言う。

 

 莉愛は楽しそうに笑うと、あっさりと堀北の机を離れた。

 

 断られたことそのものには、ほとんど頓着していない。

 

 嫌なら嫌でいい。

 

 また後で話しかければいいだけだった。

 

 教室を見回す。

 

 平田は数人の男子と話している。

 

 櫛田も女子に囲まれていた。

 

 須藤は机に突っ伏している。

 

 池と山内は何やら盛り上がっている。

 

 そして窓際には、一人で本を読んでいる男子がいた。

 

 綾小路清隆。

 

「…………」

 

 莉愛の目が止まる。

 

 暇そう。

 

 実際に暇なのかは知らない。

 

 本を読んでいる以上、むしろ暇ではない可能性の方が高い。

 

 だが莉愛にとって、その程度は誤差だった。

 

 ちょうどいい。

 

     ◇

 

「オタクくん何読んでんの?」

 

 頭上から声が降ってきた。

 

 俺は本から顔を上げた。

 

 黒瀬が机の横に立っている。

 

「オタクくんって俺のことか?」

 

「他に誰いんの?」

 

「堀北も本を読んでるぞ」

 

「堀北ちゃんは文学少女」

 

「俺は?」

 

「オタクくん」

 

「違いが分からないな」

 

「雰囲気」

 

 ずいぶん曖昧な基準だった。

 

 黒瀬は近くにあった空席から椅子を引き寄せ、俺の机の横に座る。

 

 本人に悪気はないのだろうが、他人の領域へ入ることに対する抵抗が極端に薄い。

 

「で、何それ?」

 

 俺は表紙が見えるように本を傾けた。

 

「『車輪の下』」

 

「…………」

 

 黒瀬が表紙を見つめる。

 

「暗そ」

 

「タイトルだけで決めたな」

 

「だって車輪の下だぞ?」

 

「ああ」

 

「轢かれてんじゃん」

 

「そういう話じゃない」

 

「じゃ何?」

 

「読めば分かる」

 

「長いからやだ」

 

「なら聞くな」

 

「三行で教えて」

 

「なぜ俺が説明しないといけないんだ」

 

「オタクくんの布教タイム」

 

「布教した覚えはない」

 

「いいじゃん。暇だろ?」

 

「本を読んでいた」

 

「じゃ読書中止な」

 

「理不尽だな」

 

 俺が本を閉じたのを見て、黒瀬は満足そうに頷いた。

 

 どうやら説明するまで帰るつもりはないらしい。

 

「簡単に言えば、周囲から才能を期待された少年が、その期待に応えようとする話だ」

 

「へえ」

 

「勉強を続け、神学校に進んで――」

 

「じゃ途中でバックレりゃよくね?」

 

「…………」

 

「何?」

 

「最後まで説明を聞く気はないのか?」

 

「大体分かったじゃん」

 

「まだほとんど話してないが」

 

「親とか先生に勉強しろって言われて、頑張りすぎてしんどくなる話だろ?」

 

「随分雑だが、完全に間違っているとも言えない」

 

「じゃ逃げりゃいいじゃん」

 

 黒瀬は当然のことのように言った。

 

「それが簡単に出来ない人間もいる」

 

「なんで?」

 

「周囲の期待に応えることを自分の価値だと思っているかもしれない。あるいは、それ以外の生き方を知らない場合もある」

 

「ふーん」

 

 興味があるのかないのか、よく分からない返事だった。

 

 黒瀬は机に頬杖をつく。

 

「でも、そいつの人生なんだろ?」

 

「ああ」

 

「じゃ、そいつが決めりゃいいじゃん」

 

「理屈の上ではな」

 

「他人が勝手に決めた道なんて、嫌なら行かなきゃよくね?」

 

「世の中はそこまで単純じゃない」

 

「難しく考えすぎなんじゃね?」

 

 黒瀬は笑った。

 

「人生一回しかねえんだから、嫌になったら全部バックレりゃいいじゃんw」

 

「…………」

 

 あまりにも簡単な結論だった。

 

 現実には、立場がある。

 

 責任がある。

 

 自分一人の意思では動かせない事情もある。

 

 逃げた結果、それ以上の損失を抱えることもあるだろう。

 

 だが。

 

「それが出来るなら、そうした方がいいのかもしれないな」

 

「だろ?w」

 

 黒瀬は勝ち誇ったように笑った。

 

 恐らく、そこまで深い意味はない。

 

「で、面白い?」

 

「今まで何の話をしてたんだ」

 

「内容と面白いかは別じゃん」

 

「人による」

 

「便利な逃げ方すんな」

 

「お前に言われたくないな」

 

「なんでだよw」

 

 予鈴が鳴った。

 

 黒瀬が椅子から立ち上がる。

 

「じゃーな、オタクくん」

 

「その呼び方はやめろ」

 

「清隆の方がいい?」

 

「どちらも選択肢に入ってない」

 

「じゃ清隆で」

 

「人の話を聞け」

 

「聞いてる聞いてる」

 

 聞いている人間の行動には見えなかった。

 

 黒瀬は軽く手を振り、自分の席へ戻っていく。

 

 俺は閉じていた本を開いた。

 

 数行進んだところで。

 

 嫌なら全部バックレればいい。

 

 さっきの言葉が、なぜか頭に残っていることに気づいた。

 

     ◇

 

 数学の授業が始まった。

 

 黒瀬莉愛にとって、高校生活における数少ない明確な敵である。

 

 黒板には数式が並んでいる。

 

 教師の説明も耳には届いている。

 

 ただ、それぞれの数字や記号が何を意味しているのかを理解しようとすると、途中から急速に意識が遠のいた。

 

 何言ってんだこれ。

 

 本人なりに授業を聞こうとはしている。

 

 少なくとも開始から数分間は。

 

 しかし、理解できない話を聞き続けることには相応の忍耐力が必要だった。

 

 そして莉愛には、その忍耐力があまりない。

 

 窓の外を見る。

 

 晴れている。

 

 いい天気だ。

 

「黒瀬」

 

「ん?」

 

 不意に名前を呼ばれた。

 

 嫌な予感と共に前を向く。

 

 教壇から茶柱がこちらを見ていた。

 

「今説明した問題だ。答えてみろ」

 

「…………」

 

 莉愛は黒板を見る。

 

 数式がある。

 

 さっきからあった。

 

 それ以上は何も分からない。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「ヒントとかない?」

 

「ない」

 

「一文字だけでも」

 

「数字に一文字も何もないだろう」

 

「ですよね」

 

「早く答えろ」

 

 莉愛は再び黒板を凝視した。

 

 分からない。

 

 しかし、このまま黙っていても助かりそうにない。

 

 どうする。

 

 そこで、斜め前の席に視線を向けた。

 

 綾小路清隆。

 

 先ほど難しそうな外国文学を読んでいた男。

 

 なんとなく頭が良さそうである。

 

 根拠は特にない。

 

 ただ、こういう時に頼るならこいつだろう。

 

 莉愛は机の中へ手を入れた。

 

 スマートフォンを取り出す。

 

 画面を操作する。

 

 数秒後。

 

 教室の中で、短い振動音が鳴った。

 

「…………」

 

 綾小路が机の中に視線を落とす。

 

 莉愛のスマートフォンには、

 

 ――発信中 綾小路清隆

 

 と表示されている。

 

 やがて綾小路が、ゆっくりとこちらを振り返った。

 

 目が合う。

 

 莉愛はスマートフォンを耳に当てたまま、小さく手を振った。

 

「…………」

 

 綾小路の表情は変わらない。

 

 だが、明らかに意味が分からないという顔だった。

 

「黒瀬」

 

 茶柱の声が低くなる。

 

「ちょ、先生待って。今聞いてるから」

 

「誰にだ」

 

「清隆」

 

 教室中の視線が、一斉に綾小路へ向いた。

 

「…………」

 

 当人だけが何もしていない。

 

「お前ら同じ教室にいるだろ!」

 

 池が耐えきれず声を上げた。

 

「だって授業中に喋ったら怒られるじゃん」

 

「電話も同じだろ!」

 

「直接喋ってないじゃん?」

 

「そういう問題じゃねえよ!」

 

 教室のあちこちから笑いが漏れる。

 

 茶柱だけは笑わなかった。

 

「黒瀬」

 

「はい」

 

「なぜ電話なら許されると思った?」

 

「……喋ってないから?」

 

「通話は喋る行為だ」

 

「確かに」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

「今気づいたのかよ!」

 

 池が再び突っ込む。

 

「うるせえ池くん」

 

「俺が悪いの!?」

 

「黒瀬」

 

「はい」

 

「スマートフォンをしまえ」

 

「はい」

 

 莉愛は通話を切る。

 

 結局、一度も繋がらなかった。

 

 そこで茶柱の視線が綾小路へ向いた。

 

「綾小路」

 

「はい」

 

「お前も答えを教えるな」

 

「俺は何もしてません」

 

 もっともな抗議だった。

 

「清隆ぁ!」

 

「なぜ俺を責める」

 

「出てくれればよかったじゃん!」

 

「出たら俺まで怒られるだろ」

 

「友達見捨てんのかよ!」

 

「今初めて友達を免罪符に使ったな」

 

「友情ってそういうもんだろ?」

 

「違うと思う」

 

 再び笑い声が広がる。

 

 茶柱が教卓を軽く叩いた。

 

「黒瀬」

 

「はい」

 

「答えろ」

 

「…………」

 

 結局そこに戻るらしい。

 

「マイナス三?」

 

「違う」

 

「なんでだよ!」

 

「なぜ当てずっぽうで正解すると思った?」

 

「ワンチャンあるかなって」

 

「ない」

 

「世知辛ぇ……」

 

「放課後、職員室に来い」

 

「…………」

 

 莉愛は静かに着席した。

 

 数秒後。

 

 斜め前から綾小路がこちらを見た。

 

 莉愛も睨み返す。

 

 助けろよ。

 

 綾小路は何事もなかったように前を向いた。

 

 薄情な男だった。

 

     ◇

 

 昼休み。

 

「清隆」

 

「なんだ」

 

「飯」

 

「単語だけで会話を成立させようとするな」

 

「飯行こ」

 

「今日は一人で食べようと思ってる」

 

「なんで?」

 

「特に理由はない」

 

「じゃ一緒でよくね?」

 

「その理屈はおかしくないか?」

 

「一人じゃなきゃダメな理由もないんだろ?」

 

 そう言われると、それも事実だった。

 

「堀北ちゃんも誘おうぜ」

 

「なぜ増やす」

 

「いっぱいの方が楽しいじゃん」

 

 黒瀬は既に堀北の席へ向かっている。

 

「堀北ちゃーん」

 

「嫌よ」

 

「まだ最後まで言ってねえw」

 

「十分分かるわ」

 

「清隆も行くぞ」

 

「俺もまだ決めてない」

 

「来るだろ?」

 

「なぜ決定事項なんだ」

 

「友達じゃん」

 

「いつ成立した?」

 

「入学初日」

 

「俺は承諾した覚えがない」

 

「友達って契約書いるの?」

 

「そういう話じゃない」

 

「細けえなあ」

 

 黒瀬にとって、人との距離とは恐らくそういうものなのだろう。

 

 近づきたければ近づく。

 

 断られれば、その時はその時。

 

 そこに必要以上の意味を持たせていない。

 

「じゃあ私も一緒に行っていい?」

 

 櫛田が近づいてきた。

 

「うぇーい、桔梗ちゃん!」

 

「え?」

 

「ん?」

 

「急に下の名前だったから」

 

「嫌だった?」

 

「ううん。大丈夫」

 

「じゃ桔梗」

 

「今度はちゃんが消えたね」

 

「俺も莉愛でいいよ」

 

「じゃあ莉愛ちゃん」

 

「うぇーい」

 

 ハイタッチ。

 

 数秒で距離を詰めていた。

 

 その様子を堀北が冷ややかに見ている。

 

「堀北ちゃんも莉愛でいいぞ」

 

「結構よ」

 

「清隆は?」

 

「なぜ俺に聞く」

 

「鈴音って呼んでみ」

 

「断る」

 

「賢明ね」

 

 堀北が即座に同意した。

 

「お前らノリ悪すぎだろ」

 

 結局、堀北は席を立たなかった。

 

 黒瀬、櫛田、俺の三人で教室を出る。

 

「莉愛ちゃんって、綾小路くんと仲良いよね」

 

 廊下を歩きながら櫛田が言った。

 

「そう?」

 

「よく話してるから」

 

 黒瀬が俺を見る。

 

「仲良い?」

 

「俺に聞くな」

 

「じゃ仲良いってことで」

 

「俺の意見は?」

 

「嫌?」

 

「……別に」

 

「じゃ問題なしw」

 

 黒瀬の中では、それで話が終わったらしい。

 

「綾小路くんも、莉愛ちゃん相手だと結構喋るんだね」

 

「こいつが一方的に話しかけてくるからな」

 

「照れんなって」

 

「照れてない」

 

「清隆、友達少なそうだもんな」

 

「否定はしない」

 

「じゃ俺がいっぱい作ってやるよ」

 

「余計なお世話だ」

 

「多い方が楽しくね?」

 

「必ずしもそうとは限らない」

 

「じゃ俺一人でいい?」

 

「なぜそうなる」

 

「一人なら多くないじゃん」

 

「極端だな」

 

「じゃ親友な」

 

「友達を飛び越えたぞ」

 

「昇格おめでとう」

 

「俺の知らないところで昇格させるな」

 

 櫛田が横で笑っている。

 

 黒瀬も笑う。

 

 俺はため息をついた。

 

 どうやら、こいつと会話をしていると、訂正するだけで時間が過ぎていくらしい。

 

     ◇

 

 放課後。

 

 莉愛は鞄を持ったまま、自分の席でしばらく動かなかった。

 

 職員室へ行かなければならない。

 

 数学の件である。

 

 できれば行きたくない。

 

 だが、バックレれば恐らくさらに面倒になる。

 

 嫌なら逃げればいい。

 

 午前中、自分でそう言ったばかりだった。

 

 世の中には逃げた方が悪化するケースもあるらしい。

 

「…………」

 

 奥が深い。

 

 多分。

 

 ふと窓際を見る。

 

 綾小路はまだ教室に残っていた。

 

 例の本を読んでいる。

 

 莉愛は席を立つ。

 

「また来たのか」

 

 近づいただけで綾小路が言った。

 

「まだ何も言ってないんだけど」

 

「午前中と同じ顔をしている」

 

「どんな顔?」

 

「暇だから絡みに来た顔」

 

「俺そんな分かりやすい?」

 

「かなり」

 

「マジかよ」

 

 少しショックだった。

 

 莉愛は机の上の本を見る。

 

「まだ車輪?」

 

「ああ」

 

「まだ轢かれてんの?」

 

「だから轢かれてない」

 

「結局どうなるの?」

 

「知りたいなら読め」

 

「ネタバレ平気派なんだけど」

 

「そういう問題じゃない」

 

 莉愛は少し考えた。

 

「じゃ貸して」

 

「読むのか?」

 

「暇だったら」

 

「読まない奴の言い方だな」

 

「読むかもしれないじゃん」

 

「最後まで?」

 

「そこは自信ない」

 

「正直だな」

 

 綾小路は本を閉じると、そのまま差し出した。

 

 莉愛は少し意外そうに受け取る。

 

「マジで貸すんだ」

 

「貸せと言ったのはお前だろ」

 

「汚したら?」

 

「弁償」

 

「なくしたら?」

 

「弁償」

 

「読まなかったら?」

 

「返せ」

 

「優しいw」

 

「普通だ」

 

 莉愛は本を鞄に入れる。

 

「明日には俺も文学少女になってるかも」

 

「その前に数学の教科書を読んだ方がいい」

 

「…………」

 

「今から職員室だろ?」

 

「お前さ」

 

「なんだ」

 

「急に現実に引き戻すのやめてくんない?」

 

「事実だから仕方ない」

 

「茶柱先生という名の車輪に轢かれてくるわ」

 

「意味が違う」

 

「遺言は?」

 

「行ってこい」

 

「冷たっ」

 

 莉愛は教室を出ていく。

 

 足取りは決して軽くない。

 

 それでも逃げる気はないらしい。

 

 午前中に語っていた持論と矛盾しているようにも見えるが、本人は気にしていないのだろう。

 

 嫌なら逃げればいい。

 

 ただし、逃げる方が面倒なら行く。

 

 恐らくその程度の判断だ。

 

 黒瀬莉愛という人間は、複雑なのか単純なのか。

 

 まだ分からない。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

「清隆」

 

 席について間もなく、黒瀬がやってきた。

 

 俺の机の上に本を置く。

 

「返す」

 

「早いな」

 

「うん」

 

「全部読んだのか?」

 

「…………」

 

 黒瀬が目を逸らした。

 

「何ページだ」

 

「二十」

 

「ほとんど読んでないな」

 

「文字多いんだよ」

 

「本だからな」

 

「あと外国人の名前覚えられん」

 

「二十ページで諦める理由にはならないと思うが」

 

「向き不向きってあるじゃん」

 

「便利な言葉だな」

 

 黒瀬は俺の机に片手をついた。

 

「でも、あれだな」

 

「なんだ」

 

「やっぱ嫌なら逃げればよくね?」

 

「…………」

 

「じゃーな、オタクくん」

 

 それだけ言って、自分の席へ戻っていった。

 

 恐らく本人は昨日と同じことを言っただけだ。

 

 深く考えているわけではない。

 

 現実は、そんなに単純ではない。

 

 逃げることで失うものもある。

 

 逃げること自体を許されない状況もある。

 

 そもそも。

 

 逃げる場所がなければ、選択肢として成立しない。

 

 それでも。

 

 嫌なら逃げればいい。

 

 その短い言葉が、妙に残る。

 

「清隆ー」

 

 黒瀬が前方から呼んだ。

 

「今日購買行こうぜ」

 

「昨日は食堂だっただろ」

 

「だから今日は購買」

 

「一人で行けばいい」

 

「親友冷たくね?」

 

「いつ親友になった」

 

「昨日」

 

「俺は認めてない」

 

「じゃ今日認めればいいじゃん」

 

「嫌だ」

 

「なんでだよw」

 

 黒瀬が笑う。

 

 近くにいた池も、それを聞いて笑っていた。

 

 俺は返された本を鞄にしまう。

 

 ほんの数日前まで、休み時間を一人で過ごすことに何の不都合もなかった。

 

 今も別に困ってはいない。

 

 ただ。

 

 以前より少しだけ、静かに過ごせる時間が減った。

 

 原因は明らかだった。

 

「清隆ぁー、早く!」

 

「まだ行くとは言ってない」

 

「でも来るだろ?」

 

「……」

 

 断る理由を探した。

 

 特に思いつかない。

 

「分かった」

 

「うぇーいw」

 

 仕方なく席を立つ。

 

 黒瀬は当然のように先を歩き始めた。

 

 俺が来ることを最初から疑っていなかったらしい。

 

 その根拠がどこにあるのかは知らない。

 

 聞いたところで、おそらく。

 

『なんとなく』

 

 とでも返ってくるのだろう。

 

 

 

 

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