自宅ドアのポストに無造作に突き刺さった求人広告をみて、これだと思った。1ヶ月の泊まり込みのバイト。大学生の夏休み中はバイトでひと稼ぎしたいものだと考えていたところ、自分に合った仕事なんてそうそうないものだろうと思っていた。しかし、こうして巡り合うこともあるものだ。いい機会だと思い、その場で電話をとって記載されていた電話番号に電話をかけることにした。あとから思えば、広告には会社名も詳しい仕事内容も書かれていなかった。注意事項には『就寝中も勤務時間に含む』とだけ記されていた。泊まり込みならそういうものなのだろうと、そのときは深く考えなかった。
ある日の昼下がり、私は駅前の銅像の前である人を待っていた。
しばらく待っていると遠くから20代前半ほどの女性が歩いてきた。
その人は自分の姿を見ると、笑顔を向けてきた。
「ああ、どうもおはようございます。杉田さんでよろしかったですか」
にっこりとほほ笑んだ姿は何度もそれを繰り返してきたことがうかがえる。この手の人付き合いは手慣れているらしい。
「ええ、そうです」
俺はこれまで男として20年近く生きているが、これほどまでの美人はテレビの中でしか見たことがなかった。目の前に綺麗な人がいると、少し緊張して言葉が少なくなるのを自覚する。女の人は笑顔を浮かべて名刺を取り出し、「町田といいます」といって渡してきた。俺はそれを受け取った。株式会社■■と印字されている。どこでもありそうな安直な企業名だと少し思った。
「それじゃあ、会場に行きましょうか」
それから、その人の後をついていった。路地裏の壁の煤けた雑居ビル。経年劣化でコンクリートに罅が入っているのが見えた。ここが会場らしい。
雑居ビルの入り口近くに複数の会社名が掲示されていた。カタカナだけで構成される株式会社が並んでいるがどのような会社かはそこからは分からない。
狭い廊下の先に薄暗い蛍光灯が奥で瞬き、エレベーターをぼんやりと照らしていた。ジジジとどこからか機械音が発せられているのが聞こえてくる。
町田さんはエレベーターのパネルを操作するとエレベーターが下りてくるまで無言でこちらから背を向けていた。俺は手持無沙汰になってあたりを少し見渡す。エレベーター入口の脇の天井からは監視カメラ作動中の表示が吊り下げられていた。半球形のカメラのランプが赤く点滅している。
「どうぞ」
5階に到着した。株式会社■■と書かれたモダンな洒落た壁に「御用の方は内線番号○○○○におかけください」という張り紙が掲示されていた。その隣には金属製の重厚な扉が埋め込まれていた。「セキュリティで電話を掛けないと開けられないんです」といって町田さんは電話を掛けた。ここでも天井脇に半球形の防犯カメラが赤く点滅していた。
「面接希望の方がお見えになっています」町田さんがそういうと、ガチャリと扉から音が鳴った。「それでは、行きましょうか」町田さんはこちらに笑顔を向けると扉を開けて通してくれた。
紺色の絨毯。白と曇りガラスで仕切られたパーティション。どこにでもあるようなオフィス。そんな印象を感じられた。半球形のカメラが死角を潰すように天井に設置されていた。カメラ同士まで互いを映しているように見えた。故障した一台を、別の一台が監視するためなのだろうか。
「この扉を開いた時点から面接が始まります」
「バイトの面接なんですよね?」
「ええ、そうです。アルバイトの面接です」
もっと気軽な面接になると思ったがどうやらしっかりと面接をすることになりそうだ。
町田さんは微笑んで「どうぞ」と扉に手で促した。
「失礼します」
中に入ると、一人の品のいいスーツを着た中年の男がテーブルの前に座っていた。ネクタイピンがスーツの襟からのぞいている。部屋の隅にはこれまでの通路と同じように監視カメラが設置されていた。
「どうぞ腰かけてください」
「失礼します」
しばらくの間、男は履歴書を眺めてから、こちらに顔を向けた。
「これから質問をいくつかしますのでそれに答えてください。それから――」
男は言葉を区切ると手元にある箱を示し、その箱の中から小さな立方体のブロックをいくつか取り出した。
「これらを使って検査をしたいと思います」
「では、まず一つ目の質問」
男は机の上で指を組むとこちらをのぞき込むようにして問いかけた。
「あなたは消防士です。あなたの大切な人が建物の中に倒れています。この際、恋人でも家族でも構いません。あなたにとって大切な人が倒れています。ですが、あなたには他の人も助ける義務があります」
どこからかジジジと機械の音がする。空調なのかそれとも別のなにかなのかは分からない。
少なくとも男の背後で回っている換気扇からの音ではなさそうだ。
「さて、安全な場所にいるあなたの目の前には救助すべき他人がいます。そして、あなたの大切な人は迫りくる火の近くで倒れていて今すぐ救助しなければ命が危ういことは明らかです」
「あなたはどうしますか?」
少し考える。これはある種、トロッコ問題のようなものだろう。誰かを助ければ、誰かを喪う。命には価値があって人によってそれぞれの重みは違う。命の重みが自分にとってどのように価値づけているのかを聞いているはずだ。
もう少し考える。大切な人を助けるのは当たり前のことだ。だが、自らの職務を考えたとき、自分はどうするだろうか。職務に則って、どうでもいい他人を先に助けることにするだろうか。
考えてみた。面接では、どちらかを選んだ方がいいに決まっている。だが、正直私には分からなかった。決断力のない人間として面接官の目には映るだろう。しかしだからといって、バイトの面接だから嘘をつく必要はないだろうと思った。正直、落ちたら落ちたで仕方がない。
「分からないです。その時になってから、考える事になると思います」
「というと?それはどういうことですか?」
「今の与えられた条件では、あらゆる条件が抜けていて総合的な視点から判断が難しいと思いました」
男は一度だけ紙から顔を上げた。
「では、その大切な人があなたのことを覚えていない場合、答えは変わりますか」
質問の意味を考えようとしたが、男は俺が答える前に「今のは結構です」といって紙に視線を戻した。
「なるほど」
男は机に置いてある紙に何かを書きつけると、「次に」前置きして話をつづけた。
「今現在、あなたは眠っているとします。眠っているときにあなたはどのようにして自分が眠っていると判断しますか。そしてそれを考えた理由を教えてください」
ん?どういうことだろう?今の話は、まるで、寝ているときに自分が夢を見ていることに自分で気づいていることを前提とした質問のように思える。いわゆる明晰夢というものだろうか。
「ええと、そういったことは今まで経験したことがありません」
「寝ているときに現実か夢か分からなくなったことはないですか?」
「ああ、それはあります。ただ、だんだんと意識がはっきりしてきて、『ああ、夢だったんだな』っていうことにはなります」
「なるほど」
男は紙になにかを書きつけると、途中で顔を上げた。
「知らない人間が登場するような夢については、見たことがありますか」
「……あります。まあ、たまに見るぐらいの頻度ですが」
「ちなみに顔の形とか声とか覚えていますか」
「いえ、目が覚める頃には忘れています」
「忘れたという事実は残るのですね」
俺は少し迷ってから、たぶん、と答えた。男はその項目にだけ丸をつけた。
変な質問だ。夢の話をして今後の仕事に何の関係があるのだろう。
「最後の質問です。今日、町田と会ってから何かおかしなことは起きていましたか」
これもまた変な質問だ。町田さんから失礼なことをされたのかという意図なのだろうか?
「いえ、何もなかったと思います」そう答えた直後、何かを言い忘れている気がした。けれど、何だったのかは思い出せなかった。
男は紙にチェックをつけると、そのあとも何かコメントを数行書いてペンを置いた。
「それでは検査に移ります。ブロックに描かれている記号を組み合わせて、模様を作ってください。模様は此方で示すので、完成したブロックの組み合わせを机の上に置いてください」
そういわれて、一辺2cm程度の立方体のブロックを数個手渡された。各面には、ΠやΣや△などそれぞれすべて別の記号が描かれている。
男は、模様が描かれたカードを出すと同時にストップウォッチを押した。どうやら正解を出すまでの時間を測るらしい。
それぞれの記号と立体的な配置を再現するのが結構難しい。正解を出すまでに時間がかかってしまった。
男は完成した組み合わせを一度崩し、そしてまた同じ組み合わせを作り上げ、二つのブロックの位置を入れ替えた。
「これは、先ほどと同じ模様ですか」
入れ替えた記号の並びは違っているはずだ。それでも、なぜか同じものだと思った。
「同じだと思います」
男は答えを訂正させることもなく、それも紙に書きつけた。
「はい、結構です。これで面接は以上になります。ありがとうございました。」
「ありがとうございました。失礼します」
面接が終わり、部屋から出ると町田さんが待っていた。「いかがでしたか」と聞いてきたので「難しかったです」とだけ返しておいた。
採用通知は3日後にメールで来るとのこと。もし、合格ならばそのメールで新しい待ち合わせ場所が教えられるらしい。
電車に乗り、吊り革につかまりながら流れていく街並みを眺めていた。今日受けた面接は、変な面接だった。履歴書について聞かれなかったし、質問も仕事とどうつながるのか分からない。まあ、そんなこともあるだろうと思いつつも窓に薄く映る自分の顔をぼうっと眺めていた。
3日後、合格通知が来た。「貴殿を株式会社■■において勤務することを認める」という固い文章付きで。そして、新しい待ち合わせの場所はこの前面接のときに待ち合わせた場所とは違う場所とのこと。前は駅前だったけど、今度は公園にするようだ。何のために変えるのかは分からないけど、相手に何らかの事情があるのだろう。
指定された時刻に待ち合わせの場所に来ると町田さんが公園の入り口で待っていた。
「お待ちしておりました。杉田さん」
そういって深々と腰を折って挨拶をすると近くに止めてあった軽自動車の後部座席のドアを開けた。
「お乗りください」
俺は言われるままに車に乗ると、町田さんは運転席に乗り運転を始めた。しばらくして、俺は運転中の沈黙に耐えきれなくて、気になっていたことを聞くことにした。
「あの、この車ってどこに向かっているのですか」
「私たちが働いているところです」
「現地集合じゃないんですね」
「はい、これが一番確実なので」
確実とはどういうことだろうか。敷地が広いから迷ってしまうということなのだろうか。
「ちなみに、どんな仕事になりそうなのかは町田さんは聞いていますか」
「いえ、存じておりません。現地で伝えられる手はずになっています」
「……そうですか」
会話が止まってしまった。これ以上話しても迷惑になるかと思って窓の外を眺めることにした。電柱が通り過ぎるたびに電線が波を打つように上下する。それを何となく見ながら、どこに連れられていくのか想像していた。闇バイトの線は無いだろう。明確に株式会社を名乗り事業所の住所も明確にある。闇バイトであればリーダー役が場所を転々としながら住所を持たずに部下たちに指示を送ると聞いたことがある。
それにしても、どうして俺はこのバイトを受けようと思ったのだろうか。今までこんな仕事内容も不明確な怪しいバイトなど見向きもしなかったはずだがいつの間にか求人広告を見た瞬間に電話をとっていた。そして気づけば、今こうして車に乗せられて、どこに行くかもわからない状況にいる。
異常な状況だ。だが、そんな状況に対して不快感を持っていない自分も自覚している。そこまで考えなくてもいいとも思っている。自分の見ているものが意図していない形で移り変わっていく夢を見ているような錯覚を覚えながら、窓の外を眺めていた。
車は山間部に入り、霧があたりを立ち込めていた。そして、道路脇から砂利道に入り、山奥まで進んでいた。
「こちらになります」
車から降りると、そこには施設が建っていた。
コンクリートで作られた施設は木々や蔦で覆われ、黒くくすんだコンクリート表面からは長い時間風雨にさらされていることがうかがえる。
町田さんの後ろについていくと、施設の前面には鋼鉄製の両開きドアがあった。ドアの取手には太いチェーンが巻き付けられており、そこからは複数の南京錠がぶら下がっている。そして、ドアの上から出っ張る形で飛び出た雨除けの庇には半球形の監視カメラが赤くランプを点滅させていた。
町田さんがカギを使ってドアを開くと中には、あらゆるものが置かれた倉庫になっていた。錆びて半開きになっているロッカー、割れた窓、穴の開いたじょうろ、中身がばらけた古い本、欠けた茶碗、腕のとれた人形、弦の切れたバイオリンと折れた弓――……
どれも長い間使われていないらしく、厚く埃をかぶっていた。倉庫というより、処分の時期を待つ物をひとまず集めた場所に見えた。
町田さんはそれらの物のそばを通り過ぎ、奥にある落とし戸で立ち止まる。
「この下です」
梯子で下に降りると、円筒状の広い空間に出た。壁伝いにらせん状に階段が地下深くまで続いていて、暗闇が深く底が見えない。
町田さんとともにペンライトで照らし奥に進んでいく。30分ほどするとセキュリティドアがあった。
番号を何桁か押し、カードキーと虹彩認証を経た後、内側に通された。
扉の向こうは、思っていたよりも明るかった。
天井に白い照明が等間隔で並び、継ぎ目のない灰色の床を照らしている。古びた建物の地下とは思えないほど、壁も床も綺麗だった。ただ、窓は一つもなかった。
廊下の両側には同じ形の扉が並んでいた。扉には番号だけが書かれている。一つの扉を廊下の両側から挟むように、二台ずつ監視カメラが設置されていた。
「青い線の内側を歩いてください」
町田さんは床に引かれた線を示した。青い線と平行に、少し離れて赤い線が続いている。
「赤い線を越えるときは、必ず担当者の許可を取ってください。それから、何かを見た場合は、見えた通りに答えてください」
「見えた通り?」
「記録や、ほかの人の意見に合わせる必要はありません。見間違えたと思った場合も、そのことを含めて報告してください」
何を見ることになるのかと聞いたが、町田さんは「人や物です」とだけ答えた。
歩き出しかけたところで、背後の扉が閉まり始めた。俺は反射的に手を伸ばし、一人分の間を空けたまま扉を押さえた。
「どうしましたか」
振り返っても、そこには誰もいなかった。
「いえ。後ろに誰かいる気がしただけです」
扉から手を離すと、重い音を立てて閉まった。町田さんは何もいわず、手元の紙に短く何かを書いた。
廊下の突き当たり近くで、町田さんは『第一観察室』と書かれた扉を開けた。
中には細長い机と椅子が三つ並んでいた。正面の壁には大きなガラスがはめ込まれている。ガラスの向こうにも白い部屋があり、その中央に置かれた椅子へ女の人が座っていた。
年齢は俺と同じくらいに見えた。肩にかかるくらいの黒い髪で、灰色の服を着ている。病院の患者が着るものに少し似ていたが、手足を拘束されているわけではなかった。
女の人は膝の上で手を組み、こちらを見ていた。目が合った気がして、俺は軽く頭を下げた。女の人も同じように頭を下げた。
「向こうから、こちらは見えません」
部屋の奥から声がした。面接のときに会った男が立っていた。いつからいたのか気づかなかった。
「では、今のは偶然ですか」
「その判断も含めて確認します」
男は机に書類を置いた。
「改めて、採用おめでとうございます。仕事内容を説明する前に、配置を決めるための確認をさせてください。試験ではありませんので、考えすぎずに答えてください」
男が壁際の機械を操作すると、机の上に並んでいた四台のモニターに、ガラスの向こうの部屋が映った。どれも画面の隅に現在の時刻が表示されている。
左端の映像にも、椅子に座った女の人が映っていた。だが、ガラス越しに見える姿とは少し違っていた。映像の中では髪が背中まで伸び、灰色ではなく白い服を着ている。
隣のモニターでは髪が耳の下まで短く、黒い服を着ていた。三台目では最初に見た姿とほとんど同じだったが、顔つきが少し幼く見える。四台目の女の人には、左の目元に小さなほくろがあった。
レンズの歪みや照明だけでは説明できない違いだった。
「録画ですか」
「すべて今の映像です。時刻表示も、それぞれの機器が発生させています」
複数の映像を間違えて表示しているのかもしれない。そう思ってガラスの向こうを見ると、女の人は先ほどと同じ姿で座っていた。
男が質問した。
「向こうの部屋には、何人いますか」
「一人です」
「モニターには?」
俺は四台を順番に見た。髪も服も顔も違う。別の場所で撮られた別人だと考える方が自然だった。
それでも、四人いるとは思えなかった。
「一人です」
「それぞれ違う人には見えませんか」
「見た目は違います。でも、同じ人だと思います」
「理由は?」
もう一度見比べた。どの女の人もカメラの位置とは少しずれた方向を見ている。それなのに、視線だけはすべて俺に向いているように感じた。
「理由といわれても。同じ人だから、としか」
男は書類に何かを書き込んだ。町田さんは俺ではなく、四台のモニターを見ていた。
「対象は、便宜上、美緒と呼ばれています。本名であるという記録もありますが、そうではないという記録もあります」
男は数枚の記録用紙を机に並べた。どれにも女の顔写真が貼られていた。
長い髪の女の記録では、現在は二十歳を越えていることになる。短い髪の女は十九歳と書かれていた。別の一枚は、俺が生まれるより前に死亡したことになっている。名前も身長も血液型も違っていた。同じ日に、遠く離れた場所で保護されたという記録まであった。
「この中に、向こうの女性の記録があると思いますか」
「全部、そうじゃないですか」
口にしてから、変な答えだと思った。顔も名前も一致していないのに、関係のない人間の記録が混ざっているようには見えなかった。
男は一枚ずつ俺の前に滑らせた。最後の一枚に使われていた写真は、今ガラス越しに見えている女と一番よく似ていた。
「これは違います」
写真を見た瞬間、そう口にしていた。
「外見は最も近いですが」
男は確認するような目線をこちらに向けた。
「そうですね。でも、美緒さんではないと思います」
自信を持って答えられることではない。それでも、間違っている気がしなかった。
男が短く合図すると、壁のスピーカーから小さな雑音が聞こえた。
『こんにちは』
女の声だった。モニターごとに口の動きがわずかに違うのに、聞こえる声は一つだった。
「こんにちは。杉田です」
『私の顔を覚えましたか』
「たぶん」
『どの顔ですか』
答えに困った。最初に見た顔を思い出そうとしたが、細かい形がはっきりしない。今見えている顔なら説明できる。しかし、それを美緒さんの顔だと決めてよいのか分からなかった。
「顔は、よく覚えていません」
『それなのに、どうして私だと分かったんですか』
「分かりません。ただ、美緒さんだと思ったので」
しばらく返事はなかった。美緒さんはガラスへ片手を当てた。四台のモニターでも、姿の違う女たちが同時に手を上げている。手の大きさも指の長さも違っていた。
それでも、同じ動きには見えなかった。同じ人が、同じつもりでしている動きに見えた。
『あなたは、形より先に人を決めるんですね』
「そういうつもりはありません」
『では、少し話をしましょう』
美緒さんは椅子へ座り直した。
『夢の中で、誰かと歩くことはありますか』
面接でも夢のことを聞かれた。あの質問と関係があるのだろうか。
「たまに、あると思います」
『その人は、どちら側を歩いていますか』
「左です」
考える前に答えていた。
『顔は見えますか』
「見えません」
『それなのに、なぜ左だと分かるんです?』
「俺が車道側を歩くので」
美緒さんは少し首を傾げた。四つの画面では、別々の角度へ首が傾いた。
『その夢に、車道はありましたか』
思い返してみた。道を歩いている感じだけはある。けれど、道路も建物も思い出せない。そもそも、そんな夢をいつ見たのかも分からなかった。
「なかったかもしれません」
『知らない人に、ずっと待っていたといわれたら、どうしますか』
「まず、謝ると思います」
『信じるのですか』
「顔を忘れた側が、約束までなかったことにしていいとは思えません」
男が機械へ手を伸ばした。
「質問はそこまでです。規定された項目から外れています」
『まだ確認が終わっていません』
美緒さんは椅子から立ち上がると、部屋の端にある仕切りの陰へ入った。数秒後、反対側から別の女の人が出てきた。
先ほどより背が高く、髪は肩より短い。紺色の服を着ていて、顔も違っている。服を着替える時間はなかった。仕切りの奥に別人が待っていたと考える方が自然だった。
「今、出てきたのは誰ですか」
男が聞いた。
「美緒さんです」
「先ほどの女性は、どこへ行きましたか」
「どこへというか、同じ人でしょう」
口にした途端、部屋の中で電子音が鳴った。男の手元にある計器の数字が一斉に点滅した。
美緒さんはガラスのすぐ前まで来た。
『あなたも同じです』
「俺が?」
『ここへ一人で来たあなたと、誰かの隣をずっと歩いているあなた。記録なら別々にするところです。でも、あなたは両方を自分だと思っている』
「何の話ですか」
『忘れたからといって、別の人にはなれません』
その言葉を聞いた瞬間、知らないはずの光景が浮かんだ。
夜の道を、誰かと歩いている。雨上がりの地面に街灯が映っていた。隣にいる人の顔は見えない。声も思い出せない。ただ、どこまで行くかは分からなくても、途中で一人にしないと話したことだけは分かった。
言ったのは俺だけではなかった。隣の人も同じことを返した。二人で決めたのだと、なぜかそれだけは確信できた。
『亜衣さんと、最後まで隣を歩くと決めたあなたです』
「亜衣?」
その名前を声にすると、胸の奥が痛んだ。知らない名前のはずなのに、忘れていた名前をようやく呼んだような感覚がした。
男がスイッチを押した。スピーカーからの音が途切れた。
ガラスの向こうで、美緒さんの口だけが動いていた。四台のモニターでは、それぞれ違う言葉を話しているように見えた。
「今、最後に何と聞こえましたか」
男は先ほどまでとは違い、ペンを握ったまま俺を見ていた。
「亜衣さんと、最後まで隣を歩くと決めた、と」
「その前は?」
「ここにいる俺と、誰かの隣を歩いている俺は、同じだといっていました」
男は答えを書き留めた。町田さんは机の端を握っていた。
「この四つの映像は、別々の観測系として管理されています。一つの映像だけを追えば、姿も経歴も途中では変わりません。しかし、互いの記録を比べたときにだけ、同じ時刻に両立しない差が現れます」
「機械の故障ではないんですか」
「機械を交換しても、見る人間を替えても、各系統の中では同じ結果になります」
そういって、男は町田さんにもディスプレイを見せた。
「すなわち、町田からも私たちと同じものが見えているはずです」
男はこちらに視線を戻した。
「ただし、複数の系統を一人の人物の記録として扱うことはできません。照合した職員は、どれか一つを本物と考え、残りを別人だと判断します」
男は、俺が違うと答えた一枚を指で叩いた。
「この写真の女性だけは、実在する別人です。外見以外に共通点はありません。あなたはそれを除き、相互に矛盾する記録をすべて美緒のものだと判断した」
「たまたま当たっただけかもしれません」
「当施設で、同じ回答をした人はいません」
ガラスの向こうを見ると、美緒さんは元の椅子に座っていた。どの姿が元だったのかは、もう思い出せなかった。それでも、美緒さんであることだけは分かった。
男は机の端にある録音機を操作した。
『知らない人に、ずっと待っていたといわれたら、どうしますか』
美緒さんの声が流れた。続いて、俺の声がした。
『まず、謝ると思います』
そこまでは覚えている。だが、録音の中の俺は、その後にも小さな声で何かいっていた。
『亜衣なら、待ってくれると思うので』
聞き覚えのない自分の声だった。
「俺は、そんなことをいいましたか」
「音声上は、観測対象の美緒がその名前を口にするより二分十一秒前です」
男は録音を止めた。
「杉田さんには一か月、第一観察室で記録の照合をしていただきます。どの姿が正しいかを決める必要はありません。ただ、あなたが同じ人だと思った範囲を、そのまま報告してください」
「亜衣という人については?」
男は一度、町田さんを見た。
「こちらから情報を与えることはできません。情報を与えたという事実が、あなたの判断を変える可能性があります」
観察室を出るとき、俺はまた無意識に扉を押さえていた。今度は町田さんも理由を聞かなかった。
廊下には、俺たち二人の足音が響いていた。
その少し左側から、もう一つ、同じ歩幅の音が遅れてついてきていた。
読む人が多かったら続くかも(続かない)