この施設に来てから数日、初日に出会った女性と話してばかりで、忙しいわけでもなく特に目立ったことはなかった。一つ言えることとしたら、毎回会うたびに女性の顔や姿かたちが変わるので毎回新鮮な気持ちで会えるところが楽しいと言ったところだろうか。
あと、ちょっとだけ似顔絵を描いてあげたらすごく喜んでくれた。その時は、小さな少女の姿だったので、可愛らしく描いてあげたら「この姿であなたとずっと過ごしたい」といって離れてくれなかった。
「どうして?」と聞いたら、「また離れたらあなたが私の姿を忘れてしまうから」と言われた。「どんな姿でも構わないよ」と言ったら顔を赤くしていたけど。
離れる時に嫌がっていたので、俺の膝の上に乗せて抱き寄せてあげたら「ぐぁぁぁ……」と潰れた蛙のような声を出していた。大丈夫だろうか。「も、もう充分です……」と言っていたからすぐに離してあげたけど、そのあと顔を赤くしてブツブツ何か言っていた。
「私が壊れちゃいます……」
ちょっと調子に乗って抱きしめる力が強くしてしまったかもしれない。
そのあと、町田さんに呼ばれて別の部屋に来た。明日の日程を共有するとのことである。
「明日の日程は、これまでとは変わります」
町田さんの顔はやや緊張していた。
「明日の日程は、別の対象を相手にします。これまでとは違い、異常は発生する時もあれば無い場合もあります」
随分と曖昧な言い方だと思った。今の時点でわかることであれば知っておいた方がいい。
「相手はどんな方ですか」
「こちらからは申し上げることはできません」
「開始は……早朝ですか。時間と関係あるタイプの人ですかね」
「それも申し上げられません。指定の時刻と場所に来ていただきます」
「分かりました。物とかは持ち込めますか?」
「持ち込みはできません。指定の服装で来てください」
「分かりました」
ミーティングはあっけないほどすぐに終わった。
今日はそのあと与えられた部屋に戻って時間を潰した。結構、広々としたスペースでベッドも大きい。それに漫画とか映画とか置かれているので退屈しない。食事も内線で頼めば持ってきてくれる。至れり尽くせりとはこのことであろう。しかし、スマートフォンは初日で取り上げられてしまったことは残念である。あと、部屋の隅で監視カメラと思しきものがあるのが気になる。特に見せても困るものは無いけど、プライバシーはここでは無いのだろうか。
その日は映画を見ながらチキンのソテーを食べて過ごした。なんてことはないありふれた地球滅亡系パニック物の洋画だった。平凡な展開だったがおおむね満足して寝ることにした。
夢を見ていた。
俺は波を揺蕩っていた。遠くを見ても地平線はなく、霧に紛れて霞んでいる。
海で遭難しているのだと思った。空は暗く、雲に包まれていた。
助けを呼んだ。声は出ているはずなのに、聞こえない。
かすれた声さえも出てこない。
このまま自分は助からないのだろうか。
心の奥底で不安が顔をもたげた。
波に飲まれそうになりながら水面を見た。
どこか、足の着けるところは無いだろうか。
水深の浅い場所があれば、体力を温存できる。
水の奥底で何かがきらりと光った。丸い玉のような、白く光る真珠のような光だった。空高くに光る小さな星と似たようなかすかな光が水の奥底から発せられていた。
よく見てみると、その光は他の水底からも発せられていた。
数多の光が水面の下で煌めいている。それは幻想的なようであり恐怖を感じさせた。
この光は俺を招いている。
体が徐々に重くなっていくのを感じた。自分の体は透き通り、微かに光り始めていた。
焦って水を掴もうとする手が空を切る。
口の中に否応なしに水が入ってくる。
泳いでいた足の動きはすでにペースを失っていた。
だんだんと考えがまとまらなくなっていく。徐々に体の形が失われていく。
もうすでに水面に手がとどかず、その手ですら幼い子供の手のように小さく縮んでいた。
冷たい。ここはつめたい。
体と心の境界が曖昧になる。
だれか、たすけて――
その時、水面に光が幾筋も散らばった。
青白い銀色の光が水中にまで届き、自分の体を包んだ。
目を開けていられないほどの光とともに水面から白い手が伸び――
――目覚めは最悪だった。
全身に汗が張り付き、気持ちが悪い。
体は強張り、冷えていた。
なにか恐ろしい夢を見たような気がした。
時計を見る。時刻は午前4時。
アラームが鳴る30分前だった。
今さらもう一度寝ても仕方が無いだろう。そう考え、指定の服に着替えた。
地味な作業着だが、動きやすくていい。
それからは軽食を食べて、町田さんが言っていた場所まで向かった。
エレベーターの前には町田さんが待っていた。
「おはようございます。よく寝られましたか?」
町田さんはいつも通り挨拶をしてくれた。
「ちょっと夢を見てしまって。寝不足ですね」
「夢、というと?どんな夢ですか」
町田さんは少し怪訝そうな顔をした。
「ああ、いや、大した夢ではないのですけど、恐ろしい夢だったと思います」
「その夢の内容は覚えていますか」
町田さんの目は真剣味を帯びていた。
「いえ、忘れてしまいます。怖い夢だというのは覚えているのですけど」
「忘れていることは覚えているけど、恐怖は残っている……」
町田さんは宙を眺め思案している。
「たまにあることなので」
人であれば悪夢ぐらい見る。恐ろしくてもその内容は分からないことはよくあることだ。
「過去にもそういったことはありますか?」
「ええ、あります。最近では特に」
「……これは……」
町田さんは切羽詰まったような真剣な顔で考えていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、こちらの話です。行きましょう」
エレベーターには階数が書かれていなかった。一つのボタンと緊急ボタンがあるだけだった。
ずいぶん長く乗っていたように思える。
チャイムとともに扉が開き、エレベーターから降りた。
二重扉を抜け、バルブが取り付けられた扉があった。
町田さんがそのバルブを回すと、重々しい音を立てながら扉が開いた。
扉の先には両側に通路が広がっていた。まるで高速道路のトンネルが上と下に円となるようにつながったような広さで、巨大な正円の穴が続いていた。
壁の材質はコンクリート打ちっぱなしで壁側面には大量の太い配線が張られていた。
ナトリウムランプが天井を照らしていた。
まるで巨大な工事現場のようだった。
そのトンネルがほぼ直線の緩やかなカーブを内側に描きながら両側に続いていた。
どちらも終着点は見えない。トンネル内の側面に工事現場で使うような歩道が敷かれていた。
「杉田さんが地点601に到着しました。これより地点602を経由し、地点603に向かいます」
町田さんがインカムに向かって話しかけた。そのとき、ノイズとともに男性の声のアナウンスがトンネル内をこだました。
「輸送シーケンス11完了。これより輸送シーケンス12に移行する。各人員はそのまま待機せよ」
ノイズとともに音声が切られた。声が反響し、静まるまでかなりの時間がかかっていた。
「それでは、杉田さん。行きましょうか。」
町田さんが行く方向を指さして言った。俺は頷いた。
トンネル内には底に水たまりが溜まっていた。
そのうえ、肌寒いほど涼しいが少しじめじめとした空気を感じる。
子供の時に親に鍾乳洞に連れて行ってもらった時を思い出す。
それから、トンネルを歩き続けて30分ぐらいだろうか。
「もうそろそろです」
町田さんがそう言うと、インカムに話しかけた。
「杉田さんが地点603に接近しています。こちらは問題なし。対象の様子はどうですか」
何回かやりとりがされた後、町田さんがこちらに向き直った。
「そろそろ試験場につきます。その前に、これから試験の内容を説明します」
町田さんの顔は緊張していた。今のこのタイミングになってどうして説明をするのだという疑問は町田さんの顔を見て引っ込んだ。
「はい、お願いします」
「今回の対象は、人ではありません」
「人ではない?」
「そうです。人ではありません。対象は物体的な特性を持っています」
「それは、実際に対象に触ることができるということですか?」
「その理解で問題ございません。しかし、その姿を直接見た者は、それを道具として使おうとすることが確認されています」
「道具……ですか?」
「はい。道具がどのようなものなのかはこちらからは規定によりお教えすることはできません」
道具……どのような道具だろうか。
少し考えてみたが、何も見当がつかなかった。
「この先に丸い大きな鋼鉄製の扉があります。その扉の上に監視カメラがありますので、何か合図をして開けてもらってください」
「合図?」
「合図は何でもいいです。視線を向けて手を上げるなどでも構いません。開けてもらうための合図なので」
「町田さんは一緒に来るのですか?」
「私はこの先から一緒に行くことができません。杉田さんの足で行ってもらうことになります」
「分かりました」
町田さんはインカムで合図を送ると、こちらに目線をよこして頷いた。
なるほど、ここからは一人ということか。
この先に何があるのだろう。物があるらしいが、何も分からない。
歩きながら考えていると、見上げるほど大きい鋼鉄製のドアがあった。ドアの中央には巨大なバルブがついていた。ドアの上部には監視カメラが赤く点滅している。
目線を向けて手を上げると機械の音とともにバルブが回り始め円形のドアが開いた。
円形のドアを潜り抜けた。潜り抜けると後ろの扉は閉められた。外で機械の音ととともにバルブの回る音がする。完全に退路がふさがれたようだ。
その扉の奥には同じような重厚な扉がトンネルの奥からのぞいていた。どうやらここは扇状の部屋になっているらしい。ほとんど直線の緩やかなカーブのため、見た目は長方形のようなものだが。
扇形の部屋の中には、純白の小さな壺のようなものが中央に据えられていた。
西洋と東洋を混合させたような様式を感じさせるような、石造りの陶器のように見えた。
蛇の彫刻が陶器の周りを囲むように彫られてあった。
近づいていくと、腰ほどの高さの丈の陶器から作られており、浅く水を入れておくものだとわかった。
どうやら、これは水盆のようだ。
すでに水が入れられていて、暗く反射する自分のシルエットが映し出されていた。
気付けば、その顔を眺めていた。
視線を外そうとした。
外せない。
手をついて顔を引きはがそうとする。
意思に反して俺は水面に顔を近づけていた。その顔をよく見ようとするようにして。
顔の奥で自分を見つめる瞳が何重にも重なっているような気がした。
暗く見つめてくる瞳に引き寄せられるようにして……その時、世界が暗転した。
ここは……どこだろうか。
辺りを見渡した。風が吹き、黒い暗闇の中で木々が揺れ、葉がこすれ合う音がこだましていた。足元には背の低い草が生え、その向こうには棘のある低木がまばらに続いている。幹は細く、枝は鋭く尖っていた。どうやら森の中にいるらしい。なぜここにいるのかは思い出せなかった。
早く森を出なくては。
そう思った。理由はなかった。ただ、ここに長くいてはいけないという感覚だけが、胸の奥を押していた。
目が慣れてくるころには、自分が獣道のような細い道の中にいる事が分かった。道は両側に続いている。道の先には暗いうえに目の前に霧が立ちこみ、どこまで続いているのかが分からない。
生暖かい風が吹いていた。湿った土の匂いに、肉の腐ったような臭気がかすかに混じっている。
木々から伸びる枝からは風を切るような音が鳴っていた。
ふと上を見ると霧の切れ間から星が顔をのぞかせていた。
どちらの道が森を出る道なのかは分からない。けれど、立ち尽くしていても何も変わらない。歩みを進めるしかなかった。
深い理由も何もなかったが、どちらにせよどの道が正しいか分からなかったため、星が出ている方向にその星を見失わないようにしながら歩みを進める事にした。
どれぐらい時間がたっただろうか。十分かもしれない。五時間かもしれない。もしかしたらもっとかかっているのかもしれない。この森の中では時間はあてにならなかった。何度か同じ枝をくぐったような気がしたが、確かめるために振り返るのが怖かった。
上を見上げても霧で阻まれ、空は見えない。暗闇のまま歩き続けていた。
喉が渇き、空腹がじわじわと強くなる。疲れが足に溜まり、視界の端がぼやけていた。
思考に靄がかかるのを感じていた。
苦しい記憶、悲しい記憶、不安にさいなまれる記憶……そして、疑念。
声なき声が、頭の奥で囁いた。
なぜ、俺はこんな目に遭っているのだろう。俺は何も間違っていないはずだ。
どうしてこんなところに俺はいるのか。
声なき声が脳内にささやく。
誰が俺をこんな場所へ連れてきた。
誰が、俺を苦しめている。
――誰だ。
声が叫んだ。最後の言葉だけが、声になって響いた。自分の声のはずなのに、別の誰かのもののように聞こえた。
視界がゆがむ。
森の暗闇が、俺のいるべき場所のように思えてきた。冷たく、何も見えず、何も問われない場所。そこに身を任せてしまえば、もう歩かなくていい。
最早、目に映る光景こそが元々自分がいるべき世界であるように感じ始める。
生ぬるい風がいつの間にか冷たくなっていた。
手足が徐々に冷たくなり、指先の感覚が薄れていく。
口から吐かれる息が白く凍る。
手足が震えた。けれど、震えの理由もよくわからない。
腐臭が濃くなっていく。初めは吐き気を催した匂いが、空腹を満たすような芳しいものに感じられてきた。
森の木々たちは枝に風を靡かせて喜びの声を上げていた。
森が俺を迎えている。
体が森の暗闇に包まれる。手触りの良い産着を着せられたかのような居心地の良さを感じた。恐ろしいはずなのに、ひどく心地よかった。
ああ、そうか。
ここが俺の居場所なのかもしれない。
この寒くて、暗い場所が自分の故郷であるようだ。
森全体の木々の音が大きくなっていき頭の中を満たしていく。だんだんとそれらの音に脳が占められていき――そのとき、霧の向こうから風が吹き抜けた。
その時、霧の切れ間から光が差した。雲が割れ、星々と青白い月の輪郭が枝の隙間から姿を現す。
月光が地面へ落ちた。
途端、目の前の霧が退き、頭の中に巣喰っていた声達が一瞬にして遠ざかっていった。
体の芯まで凍てつかせるような冷たさも月の光に触れて少しずつほどけていった。
恐れるように木々のざわめきが遠くに消えていった。
俺は浅い息を吐き出した。先ほどまで呼吸ができていなかったらしい。肺は奥が冷え切り、喉奥は血の味がした。
荒い呼吸で胸を押さえながら整えようとしていると、周囲を観察していると木々のざわめきが再び大きくなってきた。
その時、背後で狼の遠吠えが聞こえた。
それと同時に同じ方向から、喉を潰したようなかすれた声が聞こえた。
体がまた強張る。俺の体は再び金縛りにあったかのように縮こまり、脚は凍ったように動かなくなった。体は急速に冷え始め、吐く息が白く曇り始める。息を吸うたび、冷気が胸の奥へ刺さった。
逃げなくては。
足を踏み出そうとした瞬間、体が前へ傾いた。地面が目の前に迫る。頬に草が触れた。俺はそこで初めて自分が倒れていることに気が付いた。体は震え、呼吸が上手くできない。
暗闇の中で木々が囃し立てるようにざわめく。あれは俺を見ている。新しい生贄を森の主人へ差し出そうとしている。
ざわめきが大きくなる。木々は新たな生贄が来たことに喜びに打ち震えるようにその幹を揺らす。
足音が近づいてきた。何かの呼吸音と狼の唸り声がすぐそばまで迫っている。
俺の目は空を向いていた。果てしない暗闇の中で夜空に金剛石が導くように輝いていた。月明かりが幾筋にも分かれ、倒れた俺の周囲を照らした。
その光の中へ、霧が集まり始めた。
そして、地面に降り注ぐ光の中心には霧が月の光に照らされて小鹿の形をとり、銀色に光り輝いていた。
小鹿は甲高く鳴いた。鳴き声が森を揺らすと、光の届かない場所から異形の気配が退いていった。
手足に、少しずつ感覚が戻ってくる。胸の冷たさも薄らいだ。
小鹿は俺を見た。二、三歩進んでから振り返り、また進む。
ついてこいと言っているようだった。
俺は地面に手をつき、どうにか立ち上がった。背後から異形たちが追ってくる気配はなかった。小鹿の後を追い、霧の薄い方へ歩き出した。
遠くから水の流れる音がした。
森の木々は次第にまばらになり、棘のある低木が腰ほどの高さで地面を覆っていた。涼しい風が開けた場所を通り抜け、霧を少しずつ薄めていく。
初めは海かと思った。けれど、潮の匂いはしない。
湖だろうか。
水は上流からゆっくりと流れていた。霧の向こうまで続き、対岸は見えない。水面は遠くで空と溶け合い、どこが岸なのかもわからなかった。
川が流れていた。
大河と呼ぶにふさわしい川が、目の前に横たわっていた。
川岸には一人の女が座っていた。
その女は白い服をまとい、足を川につけ、対岸のさらに遠くを見つめている。
長い銀色の髪が風になびいていた。毛先は水へ落ちる前にほどけ、光の粒となって川面へ散っていく。
小鹿は女のもとへ駆け寄り、頭を擦り寄せた。
女はその頭を撫で、膝に抱き寄せてから、こちらを向いた。
その姿は何も知らない無垢な少女のようでいてこの世の多くを知る成熟した大人のような不思議な雰囲気を纏っていた。
瞳を見た瞬間、懐かしさが胸に広がった。
知っているはずがない。会ったこともない。それなのに、長い旅の果てに、帰る場所を見つけたような気がした。
心を束ねていた糸が、一本ずつほどけていく。俺と世界を隔てていた境目が薄れ、意識がゆるやかに緩やかに世界に溶けていく。
――また、あなたはここへ還ってきた。
名を失い、記憶を失い、幾度の生を渡っても、
あなたの魂は、この岸辺を忘却することはかなわない――
彼女の眼は悲しみを湛えていた。だが、その奥には深い慈愛に満ちていた。
――それは、神々よりも古い契り。川の流れさえ、もう覚えてはいない。
あなたを苦界へ送り出さずに済むのなら。わたしがあなたと供にいられるのであれば。
けれど、川は魂を彼方へ運び、あなたはまた、私の手を離れていく――
彼女は目を伏せると滔々と流れる川を見つめた。
川面には大勢の人々が流されていた。苦悶の表情を浮かべ、救いを求めるように対岸に形無き手を伸ばしている。
ある者は波に呑まれ、ある者は川底へ沈み、またある者は水の中で誰かの名を呼んでいた。
その声は岸まで届かなかった。
――人はこの川を、神々の誓いの川とも、忘却の川とも呼んだ。
川は底無き底を流れ、忘却の海へと注ぐ。
魂はそこで記憶を失い、また新たな生へ向かう。
罪業を忘れるまで、その魂が贖罪されるまで。
私はこの輪廻を岸辺から見続けている――
俺は川に近づき、その川底を眺めた。金剛石のような星空を映し出しきらめく川底には、真珠のような玉となった魂たちが溶け合い離れ合い、未完成の形を作っている。
魚のような影。
両生類のような影。
まだ何者でもないものが、水の底から生まれようとしていた。
それらはひとつの形を保てない。近づいてはほどけ、ほどけてはまた結び直される。
魂は忘れられるだけではない。何かの種となって、次の生へ渡っていくのだろうか。
「あなたは……ずっと、ここにいるのか」
声に出したつもりだった。けれど、言葉は音にならず、川面を揺らすこともなかった。
彼女は答える代わりに、俺を見つめた。
その視線に触れたとき、胸の奥が痛んだ。
彼女が抱えているもの。それが契約の証なのだと、なぜか感じた。
彼女は髪の毛をひと房手に取った。
髪は水のようにほどけ、透明な雫となって掌へ落ちた。
いくつもの雫が集まり、ひとつの玉を形作る。
彼女がその宝玉に唇を落とすと、月の光が内側に宿り、銀色に輝いた。
宝玉は彼女の掌の上で、鼓動のように淡く明滅した。
――これは、忘却の海でほどけるはずだった、記憶のひとかけら。
苦界とここを渡す標。現と夢を渡す契りの石――
彼女は跪いて俺の手を取り、その手の甲に口づけした。手の甲から銀色の光が輝き、宝石が手中に握りこまれた。彼女はいとおしそうにその手をなでると俺の瞳を見つめた。
彼女の瞳の奥には、宇宙が織りなす因果が流れていた。
星々の生まれる前から続いているような時間。
命が形をとり、崩れ、また別の命となっていく流れ。
無限にも思えるその連なりが、彼女の慈愛と悲しみを映しながら、ひと筋の川となって続いていた。
そのまま俺はこの永遠ともいえる世界で揺蕩いたいと思った。
ここにいれば、何も選ばずに済む。川はすべてを受け入れ、すべてを運び去る。罪も、痛みも、いつか忘却の海へ沈んでいく。
彼女は悲しげに目を閉じた。
それから、跪いたまま川岸の砂地に指先で円を描いていった。その軌跡を追うように水が湧き、星明かりが一つ、また一つと水面に沈んでいく。水は澄んでいるのに、底は見えなかった。
砂が白く固まり、石の縁を形作る。浅い水盆が、彼女の指先の下に生まれた。
やがて水盆は砂地から離れ、俺の目の前まで静かに浮かび上がった。夜空の星と月を映し、縁の白い石が淡く光っている。
俺は導かれるように、その水盆をのぞき込んでいた。
――これは、あなたを裁く水ではない。
あなたが忘れたものを、あなた自身に返す水鏡――
初めに映ったのは、俺の顔だった。
だが、水面が揺れると、その顔は見知らぬ異国の少年のものへ変わった。
少年は痩せていた。土で汚れた頬に涙の跡があり、両手には大麦の種が載っている。
道端には、飢えた人々が身を寄せ合っていた。ぼろ布をまとい、少年へ向けて手を伸ばしている。
少年は、自分に残された種の半分を差し出した。
「これで、今日は越せる」
そう言ったのだろう。声は聞こえなかったが、少年の唇が動いた。
種を受け取った人々は、分け方をめぐって争い始めた。先を争い、押し合い、相手の手から種を奪う。
少年は間に入ろうとした。小さな手で、争う大人たちを止めようとした。
誰かの腕が少年を突き飛ばした。
少年は地面に倒れた。握っていた残りの種が土へ散らばる。誰もそれを拾わなかった。
殴り合い。殺し合い。
彼らは当初の目的を忘れ、同胞さえも手をかけるようになった。
少年は空を見上げた。
神よ。どうか、私たちをこの地獄から救ってください。
人々が飢えずにすむように。
互いを傷つけずにすむように。
少年はその場で殺され、息を引き取った。
水面がまた揺れた。
俺は水面へ手を伸ばしかけた。けれど触れる前に、景色が崩れていく。
違う時代、違う服、違う名前。
今度は石畳の広場だった。服装も、建物も、先ほどの少年とは違う。腰には短剣が下がり、俺の前には木の板と巻物が並んでいた。
俺は名簿を書き写す役目を担っていた。
名前を一つ記せば、その者は法の外へ追いやられる。家は没収され、財産は売られ、匿った者にも罰が及ぶ。殺した者には報奨が与えられる――そんな命令が、広場の壁に告げられていた。
俺は役人だった。
ある名前の前で、筆が止まった。
その男に会ったことがある。その男は政治的な敵ではあったが、武器を取り政府に反逆したことはない。家族を守るために、前の支配者に従っていただけのどこにでもいるような役人だった。
「この者は、反逆者ではありません」
俺は上役に言った。
上役は巻物から目を上げなかった。
「お前が決めることではない。名を書け」
俺は迷った。男の名を書かなければ、次に消されるのは自分かもしれない。家族の暮らしも、役目も、すべて失うかもしれない。
筆先が紙に触れた。
俺は名前を書いた。
数日後、男の屋敷は差し押さえられていた。庭先で、男の妻が家財を積んだ荷車を見つめている。俺はその前を通り過ぎた。
だが、俺は、男の妻の視線から目をそらせなかった。
彼女が何かを言っている。俺には聞こえない。
でも、その口の動きはわかった。
――どうして。
やがて屋敷は競売にかけられ、俺は安く手に入れた土地の一部を受け取った。
それは命令だった。
自分が決めたことではない。
そう言い聞かせた。
水面が暗くなった。
次に映ったのは、長い街道だった。
道の両側に、十字架が並んでいた。
一人ずつの姿を数えることはできなかった。風が吹くたび、布と髪が揺れる。遠くまで続く道に、人々は足を止めずに下を向いて進んでいく。
奴隷たちの反乱は鎮圧された。
捕らえられたものは見せしめにされた。
俺は捕らえられた者たちが十字架で磔にされ、火で焼かれて肌と肉が溶け落ちていくのを
を黙って見守っていた。
俺は刑吏だった。
上官は、逃げようとする者がいないか目を光らせろと命じた。俺は槍を持って立っていた。処刑を命じたのは俺ではない。反乱を始めたのも俺ではない。そう思えば、自分はただ命令を守っているだけだった。
一人の奴隷が、かすれた声で水を求めた。
俺は腰の水袋に手をかけた。
上官の目がこちらを向いた。
俺は水袋から手を離した。
しばらくして、奴隷は動かなくなった。
帰り道、俺はその男の持ち物を拾った。小さな木片だった。何かの名前が刻まれていたが、俺は読まずに懐へしまった。
反乱に加わらなかった人々も、その街道を通るたび、俺たちの仕事を見た。
見て、目をそらした。
俺も、そうしていた。
水面に、別の時代の景色が重なる。
軍団の一員として、俺は前線で敵を槍で突いた。戦いが終わると、倒れた兵士の持ち物を漁った。食料が尽きれば近くの村から奪い、倉庫を空にし、家屋に火を放った。
女子供は首を切り落とし、赤ん坊は石を掴んで頭を潰した。
助けを求める声。
許しを請う声。
親を求める声。
赤ん坊の泣き声。
俺は聞こえなかったふりをした。
その夜、略奪した食料を仲間と分け合った。口の中には煙の味が残っていた。誰かが勝利を祝って歌い、俺も一緒に歌った。
筆を持つ手。
水袋を下ろした手。
槍を握った手。
どの生でも、手は同じ形をしていた。
水面が揺れた。揺れるたび、違う顔、違う場所、違う時代が現れては消えた。誰かに命令されていたこともある。自分から進んで選んだこともある。生きるために従ったこともあれば、得をするために目をつぶったこともあった。
すべてを同じ罪と呼べるのか、俺にはわからなかった。
ただ、どの記憶にも、俺が選んだ瞬間があった。
水面が揺れる。
揺れる。
揺れる。
記憶の濁流に意識が押し流されそうになりながら、俺は目を離せなかった。
いつの間にか、光景は消えていた。
喉の奥がひどく乾いていた。
水が欲しい。
すべてを忘れさせる水。あの場面も、あの手の感触も、名簿に書いた名前も、見て見ぬふりをした男の声も。
水盆の水を飲めば、もう一度なかったことにできる気がした。
俺は顔を近づけた。
透き通った水が顔を映す。
疲れ切った顔だった。目の下には影が落ち、唇は乾いている。水面が震えると、その顔の奥に、少年の顔や役人の顔や兵士の顔が重なった。
醜い顔ではない。怪物でもない。
どこにでもいる人間の顔だった。
どれも、俺だった。
それが、かえって耐えがたかった。
この男は、殺さなければならない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが溢れた。
「あ、ああ……」
うめき声にも似た、声なき声が吐き出されていく。
水面に映る男も、同じように口を動かしている。
早く、こいつを消さなければ。
俺は水盆へ手を伸ばした。水を飲むためなのか、水面に映る顔を壊すためなのか、自分でもわからなかった。
その時、すぐそばから少女のまなざしを感じた。
彼女は俺の手を止め、体を抱き寄せた。胸に抱え込むように、俺の頭を肩へ寄せた。
俺は抵抗できなかった。
――あなたの罪は私の罪。
ここが生まれる前から私たちの運命は決まっていた。
自らを責め、罰を下し、記憶の重さから己の魂を砕いてしまう者達がいた。
罪苦を忘れることがあなたたちを救うと信じた私は、輪廻を通して人々に忘れることを与えた――
――そこにあなたが初めてこの岸へ来た。
飢えた人々へ種を分け、誰にも届かぬ祈りを残して、あなたが死んだとき。
あなたは、清かった。まっすぐで、どこまでも透き通った瞳をしていた。だから、いつかあなたとともに歩めると思っていた――
彼女の声は悲痛に満ちていた。
――私とあなたはここで契約を結び、知恵の果実を与えて人々を導いた。人々は作物を育て、町を築き、病や寒さから身を守る術を得た。この世から苦しみを取り除けると思っていた。人々は地に満ち、飢える人々は少なくなったかに見えた。だが、人は脆く、弱い。種族としての人間は我々に比べて未熟だった――
――人々は残酷だった。人々は理性を持ちながらもその獣性にしたがい、狡猾に互いを貶め、血を流し合った。自然を貶め、神々を殺した。あなたはそれでも人々に知恵を授けようとした。だが、人であるあなたは壊れていった――
彼女は俺の頭をなでていた。優しく自分の子供をなでるように。
悲しみを抱えきれず、それでも離すまいとする人の手だった。
――罪を忘れた人々は新たに罪を起こし、その罪はさらに罪を引き起こす。互いに争い、血を流し、大地を罪で埋め尽くしていく。終わりのない罪の連鎖から神々は私を罪人として水盆に封じ込めた。だから私はこうして人々の罪を見続けている――
星々と月の光が、俺の肩に降り注いでいる。
彼女は俺の両手を包み込み、こちらを見つめた。
時の流れが瞳の中に渦巻き、その瞳に映る自分の心を包み込んでくれるように感じた。
――いつか再びここへ還るとき、
わたしはこの岸にいる。
あなたが帰る道を失わぬように――
彼女は俺に顔を近づけていた。長いまつ毛の向こうで彼女の瞳がこちらを映していた。彼女の目に映る星々に引き寄せられ――
気付けば、俺は水盆をのぞき込んでいた。俺の顔が映っている、ただの水深の浅い水盆だ。
「あれ?」
手を開いた。
掌には、透明な石があった。
その内側で、銀色の光が一度だけ明滅した。
「……夢か」
遠くで、川の流れる音が聞こえた気がした。
白昼夢だろうか。
寝ぼけたような気分になりながら、掌にある石を見つめた。
夢だったのなら、どうして手の中に石があるのだろう。
俺は首をかしげながらポケットに石を入れた。
「こちら、別区画の地下貯水場に排水完了しています。現在、トンネル内の亀裂の有無を確認しています」
業務連絡だと思われる放送が鳴り響く。
「お疲れ様です。これで本試験を終了します。試験実施者は外に退去してください」
アナウンスが響いた。
部屋の扉の向こうで、バルブが回り、機械音が規則正しく続いている。
天井奥では監視カメラが赤く点滅していた。
彼女の名は、まだ思い出せない。
それでも、誰かが呼んでいる気がした。
川辺で待つ、あの少女の声が。
俺はポケットの中で俺は石を握りしめながら、部屋を出た。
ああ、ふざけたい……とてもふざけたい……文章が固い……
裏設定ですが、今回出てきた少女はあらゆる神話と関わりがあり、それなりに重要なポジションにあります。神話と人間の関係性については、今後の話で触れられたらいいなと思ったり。
読む人がそれなりにいれば続けるかも(続かない)