プロローグ 渡辺綱
帝都の朝は、思いのほか早い。
夜明けとともに空を覆っていた薄墨色がほどけ始めると、眠っていた街は人の手によって少しずつ息を吹き返していく。
軒先に箒をかける商人。
新聞の束を抱えて駆ける少年。
石畳を叩く馬蹄。
遠くで鳴る路面電車の鈴。
味噌汁の匂い。
炊き上がった米の湯気。
まだ半分ほど眠った顔をした勤め人たちが家々から吐き出され、それぞれの一日へ向かっていく。
そんな人の流れの中を、一人の男が歩いていた。
渡辺綱。
二十四歳。
背丈は周囲の男より頭一つ高く、無駄なく鍛えられた身体を、仕立ての良い洋装の下へ収めている。
急いでいるわけではない。
だが遅くもない。
歩幅は一定。
背筋は伸びている。
視線は真正面。
ただし、前だけを見ているわけではなかった。
左手の商家から荷物を抱えた丁稚が出てくる。
三歩先。
右手から自転車。
荷車が道の中央へ寄る。
前を歩く老人が僅かに足をもつれさせる。
それらを意識している様子もないまま、綱の身体は最短の動きで人を避けていく。
半歩右。
一歩前。
肩を引く。
また前へ。
誰ともぶつからない。
人の流れそのものが彼を避けているようにも見えた。
もっとも、実際には逆だった。
綱の方が、すべてを避けている。
「わっ!」
甲高い声。
横道から少年が飛び出した。
新聞を抱えたまま走っていたせいで、前を見ていない。
そのまま行けば、荷車の車輪の前へ出る。
綱の右手が伸びた。
少年の襟首を掴む。
「ぐえっ」
少年の身体が止まる。
直後、鼻先を掠めるように荷車が通り過ぎた。
馭者が気づきもせず遠ざかっていく。
「……あ」
少年は目を丸くした。
綱は掴んでいた襟を離す。
「前を見た方がいい」
「あ……はいっ! すみません!」
「俺に謝る必要はない」
「え?」
「轢かれるのはお前だ」
「…………はい!」
少年は今度こそ道の左右を確認し、それから走り去った。
綱はその背中を一度だけ見送る。
怪我はない。
なら問題ない。
再び歩き出す。
助けたことについて、特別な感慨はない。
危険だった。
手が届いた。
だから引いた。
それだけである。
少なくとも綱自身は、そう認識している。
懐から懐中時計を取り出す。
七時四十一分。
予定より二十秒ほど遅れた。
誤差だろう。
宮内省には余裕を持って到着できる。
時計を戻したところで、後方から聞き慣れた声が飛んできた。
「渡辺さーん! ちょ、待ってくださいって!」
綱は足を止めた。
振り返る。
同僚の小林が、人波を縫うように走ってくる。
綱と同じく宮内省に勤める男で、年齢は二つ下。
息を切らしながら綱の横まで来ると、膝に手をついた。
「はぁ……はぁ……お、おはようございます」
「おはよう」
「何で……朝からそんな普通に歩いてるのに……追いつけないんですか……」
「歩幅の差ではないか?」
「いや、そういうことですかね……」
小林は額の汗を拭った。
「それより渡辺さん。昨日、結局何時まで残ってました?」
「二十一時頃には出た」
「ああ、よかった。意外と普通――」
「帰ってから剣を振った」
「……何時まで?」
「零時前まで」
小林の顔から安堵が消えた。
「そこから風呂?」
「ああ」
「寝たのは?」
「一時頃だ」
「起きたのは?」
「五時」
沈黙。
小林はしばらく何も言わなかった。
綱も黙って待った。
「……渡辺さん」
「何だ」
「人間ですよね?」
綱は少し眉を寄せた。
「そのつもりだが」
「いや、その返しをされると逆に不安になるんですよ」
「何故だ?」
「普通、四時間しか寝てない人は朝からそんな顔してないんです」
「どんな顔だ」
「昨日七時間寝ました、みたいな顔です」
「そうか」
「そうです」
綱は自分の顔を触った。
「分からないな」
「でしょうね」
小林は溜息をついた。
付き合いは一年ほどになる。
その一年で、小林は渡辺綱という男についてある程度理解した。
仕事は恐ろしく速い。
しかも速いだけではなく、正確だ。
頼まれた書類は期日前に出来上がる。
警護配置の穴もすぐ見つける。
人の顔と名前をほぼ一度で覚える。
一度説明した仕事を二度聞かない。
だからといって他人へ同じ水準を要求するわけでもなく、遅れている者がいれば黙って手伝う。
偉ぶらない。
怒鳴らない。
陰口も言わない。
上司には礼を尽くす。
部下にも横柄ではない。
困っている人間を見れば助ける。
そこまで聞けば、ずいぶん出来た男に思える。
実際、小林も綱を嫌ってはいない。
むしろかなり好いている。
ただし――少し妙なのだ。
「渡辺さんって、今日仕事終わったら何するんです?」
「剣を振る」
「明日は?」
「剣を振る」
「明後日は?」
「何もなければ剣を振る」
「休みの日は?」
「午前に剣を振る」
「午後は?」
「本を読むこともある」
「おっ」
「そのあと剣を振る」
「駄目だこの人」
綱が横を見る。
「何がだ?」
「渡辺さん、本当に趣味ないんですか」
「趣味」
「剣じゃなくてですよ」
綱は少し考えた。
考えて。
さらに考えた。
「……特にないな」
「即答より悲しいですよ、今の間」
「すまない」
「謝らないでください。もっと悲しくなるから」
「難しいな」
「何がです?」
「お前との会話が」
「こっちの台詞ですよ!」
小林の声が朝の通りに響く。
周囲の人間が何人か振り返った。
綱は特に気にしない。
小林は咳払いをして声量を落とした。
「じゃあ逆に、好きなものは?」
「特には」
「嫌いなもの」
そこで綱は少しだけ考えた。
「斬り合いは、あまり好きではない」
「……え?」
小林が目を瞬いた。
意外だった。
これほど毎日刀を振っている人間なのだから、てっきり剣そのものが好きなのだと思っていた。
「剣が好きなんじゃないんですか?」
「嫌いではない」
「でも斬り合いは嫌い?」
「ああ。人が死ぬからな」
あまりにも当然のことを言う声音だった。
「なら、何でそんなに剣の稽古を?」
「必要だからだ」
「何に?」
「人を守るのに」
小林は黙った。
綱は前を向いたまま続ける。
「俺の仕事では、刀を抜く可能性がある。抜いた時に弱ければ困るだろう」
「……それだけ?」
「他にあるのか?」
「いや……」
小林には分からない。
一日三時間。
四時間。
時にはそれ以上。
十年以上。
ただ「必要だから」という理由だけで、毎日毎日刀を振り続けられる人間など、本当にいるものなのだろうか。
「渡辺さん」
「何だ」
「人生、楽しいです?」
口にしてから、小林はしまったと思った。
随分と無遠慮な質問だ。
「いや、今のは――」
「楽しい、か」
綱が立ち止まった。
怒ってはいない。
ただ、本当に回答を探しているようだった。
「すまない」
「はい?」
「よく分からない」
小林は言葉を失う。
「嬉しいとか楽しいとか、分からないってことですか?」
「いや。意味は理解している」
綱は少し首を傾ける。
「嬉しい人間を見れば、嬉しいのだろうと分かる。悲しんでいる人間も分かる。お前が今、少し困っているのも分かる」
「そこまで分かるなら普通じゃないですか」
「だが、自分についてはよく分からない」
淡々。
自嘲でもない。
悲観でもない。
「仕事を終えれば、それでいいと思う。剣が昨日より僅かに上達していれば、悪くないと思う。それを楽しいと呼ぶのかは……考えたことがないな」
「……寂しくないですか?」
「一人でいることが?」
「はい」
「特には」
「即答だ……」
「ただ」
「ただ?」
「お前のように話しかけてくる者を、不快だと思ったこともない」
小林が止まる。
綱は一歩進んでから、ついてこないことに気づいて振り返った。
「どうした」
「いや……渡辺さん、それ」
「何だ」
「たぶん結構、嬉しいこと言ってますよ」
「そうなのか?」
「そうですよ!」
「なら、よかった」
綱はまた歩き出す。
小林はしばらく呆然としてから、その後を追った。
◇
渡辺綱は、渡辺家の嫡流に生まれた。
家系を遡れば平安時代。
源頼光に仕え、坂田金時、碓井貞光、卜部季武と並び「頼光四天王」と呼ばれた武士――渡辺綱へ行き着く。
もっとも、大正の世になれば、その名を誇って暮らしているわけでもない。
武士の時代はとうに終わった。
刀を腰に差して町を歩けば、それだけで珍しい。
それでも渡辺家には残ったものがあった。
剣。
古文書。
そして一振りの太刀。
髭切。
後世では、鬼切安綱とも呼ばれる刀。
幼い頃。
父に初めてそれを見せられた日のことを、綱は覚えている。
『これはお前のものではない』
父はそう言った。
『渡辺家のものでもない』
幼い綱は首を傾げた。
『なら、誰のものですか』
『必要な時に、必要な者が使う刀だ』
『それは誰です』
『今は俺だ。いずれ、お前になるかもしれん』
それから十数年。
刀は父から綱へ渡った。
綱は源氏の伝説に酔わなかった。
先祖の武功を自分のものだとも思わなかった。
鬼切と呼ばれた由来にも、当時はさほど興味を抱かなかった。
自分が斬ったわけではないからだ。
ただ。
刀としては素晴らしい。
よく斬れる。
丈夫だ。
重心が良い。
長年手入れされてきた刀身は、古刀でありながら歪みがなく、綱が全力で振っても応える。
だから使う。
その程度だった。
まだこの頃の渡辺綱は知らなかった。
先祖が鬼を斬ったという昔話が、ただの昔話ではないことを。
◇
宮内省。
午前中はいつも通りだった。
綱は机に積まれた書類を一枚ずつ処理していた。
確認。
署名。
次。
数字の誤りを見つける。
修正。
次。
警護経路図。
二つの死角。
赤で印を付ける。
次。
「渡辺」
「はい」
呼ばれて顔を上げる。
上司の佐々木が手招きしていた。
五十を越えた男で、綱を宮内省へ引き入れた一人でもある。
「少しいいか」
「はい」
綱が立つ。
佐々木は自室へ入るよう促した。
扉が閉まる。
「例の件だ」
「芝区の失踪ですか」
「ああ」
机の上に封筒が置かれた。
綱は受け取る。
中には複数の写真。
白黒。
粗い。
それでも何が写っているのかは分かった。
人間の死体。
正確には、人間だったもの。
右腕がない。
腹部が大きく抉られている。
首にも噛み跡のようなもの。
「今朝、増上寺から少し離れた空き家で発見された」
「失踪した一人ですか」
「警察はそう見ている。身元確認中だ」
綱は写真を見る。
感情が動かないわけではない。
酷い死に方だ、と思う。
家族がいれば辛いだろう、とも思う。
だがそれによって手元が乱れることはない。
必要なのは、何が起きたかを知ることだ。
「獣害ということになりそうだ」
「無理があります」
「即答だな」
「はい」
「理由は」
綱が写真を一枚、机へ置いた。
「服です」
「服?」
「腹部を食われているのに、衣服の破損が少ない」
佐々木が写真を覗き込む。
「……確かに」
「獣が襲ったなら、服ごと噛むはずです。これは服を捲るか、破ってから肉へ届いている」
「人間の仕業だと?」
「まだ分かりません」
別の写真。
血痕。
「それと、ここが殺害現場ではない」
「何故分かる」
「出血量が少ない。これだけ身体を損壊して、これしか血がないのは不自然です」
「運び込んだ?」
「そう考える方が自然です」
「この成人男性を?」
「はい」
佐々木の表情が僅かに強張った。
「一人で?」
「それは分かりません。ただ、もし一人ならかなり力が強い」
綱は次の写真へ目を移す。
柱に残った傷。
五本。
「爪……か?」
「かもしれません」
「熊では?」
「この辺りまで熊が来た記録は?」
「ない」
「なら別のものです」
佐々木が椅子へ深く座る。
「渡辺」
「はい」
「今夜見てきてくれるか」
「承知しました」
即答。
佐々木は眉を寄せた。
「少しは考えろ」
「必要ですか?」
「何がいるか分からんのだぞ」
「だから調べるのでしょう」
「そういうところだ、お前は」
「?」
「いや」
佐々木は額を揉んだ。
「一人で行くな、と言いたいところだが……」
「他の者がいると危険かもしれません」
「それも分かっている」
綱なら逃げられる。
少なくとも佐々木はそう思っている。
かつて護衛中に暴漢五人へ襲われた際、綱は刀を抜かず全員を取り押さえた。
しかも一人として骨を折らなかった。
後で何故刀を使わなかったのか聞けば、
『人間だったので』
と答えた。
まるで相手によっては刀を使うことがあるような言い方だった。
「渡辺」
「はい」
「危険だと思ったら戻れ」
「承知しました」
「本当に分かっているな?」
「はい」
「……不安だ」
◇
午後十一時を過ぎると、帝都もさすがに静かになる。
大通りを外れれば、なおさらだった。
街灯と街灯の間。
暗闇。
月明かり。
遠くで犬が吠える。
綱は和装へ着替えていた。
洋装でも戦えないことはない。
だが足さばきが僅かに悪くなる。
調査対象が人間とは限らない。
なら、動きやすい方がいい。
腰には髭切。
――鬼切安綱。
綱は足を止めた。
鼻を僅かに動かす。
血の臭い。
犬のものではない。
人の血は、何度か嗅いだことがある。
視線を落とす。
石畳。
黒い染み。
しゃがみ、指先で触れた。
僅かに湿っている。
「新しいな」
立ち上がる。
血痕は点々と奥へ続いている。
逃げた人間のものではない。
間隔が不自然だ。
何かを運んだ時に落ちた。
綱は音を立てずに進む。
呼吸が、自然と深くなる。
それは鬼殺隊が「全集中」と呼ぶものに極めて近かった。
だが綱はそんな名称を知らない。
剣を振る時にどう呼吸すれば最も身体が動くのか。
どの瞬間に吸い。
どの瞬間に吐くか。
筋肉へ力を入れる時。
抜く時。
血が身体を巡る感覚。
何年も繰り返していくうちに、自然とそうなっただけ。
綱本人にとっては、
呼吸は呼吸。
剣は剣だった。
路地の先。
ずる。
何かを引きずる音。
綱の視線が僅かに鋭くなる。
ぴちゃ。
濡れた音。
その後。
ぐちゃり。
肉を噛む音。
角を曲がる。
そこに男がいた。
背中を向けてしゃがんでいる。
ぼろぼろの着物。
痩せている。
一見すれば、浮浪者にしか見えない。
だが足元から、人間の脚が伸びていた。
綱は立ち止まった。
「何をしている」
男の肩が止まる。
ゆっくり。
振り返る。
最初に見えたのは口だった。
赤い。
口の周り。
頬。
顎。
全部。
血。
次に歯。
尖っている。
人間の犬歯ではない。
そして目。
瞳孔。
何より、臭い。
血と腐肉。
綱は、目の前にいるものを知らない。
だが少なくとも、
まともな人間ではない。
「見たな」
男が笑った。
「見た」
「……怖くねぇのか?」
綱は少し考えた。
「何をだ」
男の笑みが消えた。
「俺をだよ」
「お前が何なのか、まだ分からない」
「は?」
「だから判断できない」
男のこめかみに青筋が浮かぶ。
「舐めやがって……!」
「それと」
綱の視線が男の足元へ。
倒れている人間。
胸は動いていない。
「その人間を食べたのか?」
一瞬。
男が笑った。
口角が裂けるほど。
「ああ」
「そうか」
綱の右手が柄へ触れる。
「なら、斬ることにする」
「――あ?」
男の身体が沈んだ。
膝。
腰。
肩。
視線。
綱の目がそれらを拾う。
右腕。
爪。
喉を狙う。
次に何をするのか。
分かりやすい。
「死ねぇ!」
男が跳んだ。
常人なら目で追うことすら難しい速度。
数間の距離を一息で消す。
その爪が綱の喉へ迫り――
落ちた。
「…………は?」
男は地面へ着地した。
右腕がない。
数歩後方。
自分の腕が転がっている。
綱は刀を抜き終えていた。
刀身に血が一筋。
男の目が見開かれる。
「てめ……何を……」
「速いな」
綱が言う。
「だが、動きは分かりやすい」
「……っ」
「肩が先に動きすぎている」
「何を言って――」
斬られた肩から肉が盛り上がる。
骨。
筋。
皮膚。
腕が生え始める。
今度は綱の目が僅かに見開かれた。
「……なるほど」
男が笑う。
「驚いたか?」
「ああ」
「人間とは違うんだよ、俺は!」
綱は再生していく腕を見る。
「そうらしい」
「俺たちは死なねぇ!」
「俺たち?」
男が一瞬、口を閉じる。
綱はそこを聞き逃さない。
「他にもいるのか」
「知るか!」
再生した右腕を振り上げる。
今度は左も同時。
爪が伸びる。
「くたばれ!」
二本。
左右。
時間差。
綱は一歩だけ前へ出た。
斬。
右腕。
返す。
斬。
左腕。
男の目に恐怖が混じる。
「な――」
綱はさらに踏み込む。
男の視界から姿が消える。
いや。
消えたのではない。
近づきすぎた。
首筋に冷たいものが触れる。
「待――」
横一閃。
首が落ちた。
胴体が崩れる。
頭が地面を転がり、壁へぶつかった。
綱は血振りをする。
「……これで」
納刀しかけて。
「殺す」
声。
綱の動きが止まる。
地面の首がこちらを睨んでいる。
「殺してやる……殺して……」
綱は刀を鞘へ戻さない。
胴体が動いた。
首を探すように腕が這う。
切断された首の下から、肉が伸びている。
「首でも死なないのか」
綱はしゃがみ込んだ。
「近寄るな!」
首が叫ぶ。
「確認しているだけだ」
「何をだ!」
「どうすれば死ぬ」
男の顔が引き攣った。
綱には悪意がない。
残酷な響きになっている自覚すらない。
ただ必要だから質問している。
「教えるわけねぇだろ!」
「そうか」
立ち上がる。
「なら試す」
「……は?」
胴体へ一閃。
肩から腰まで斜めに断つ。
「ぎゃああああっ!」
もう一閃。
右脚。
左脚。
腕。
「や、やめろ!」
「再生するのだろう?」
「痛ぇんだよ!」
綱の刀が止まる。
「痛覚はあるのか」
「当たり前だろうが!」
「そうか。それは悪かった」
「謝りながら斬るな!」
「だが、人を食べるなら放置はできない」
「何なんだよお前!」
綱は再生していく肉を見る。
腕一本より、胴体を細かく分断した方が再生が遅い。
つまり再生にも限度はある。
「細かく斬れば、戻るまで時間が掛かるらしい」
「……っ」
「なら簡単だ」
男の頬が引き攣る。
「何がだ」
綱は空を見る。
月。
時間。
夜明けまではまだ遠い。
「朝まで再生させなければいい」
男が固まった。
「…………は?」
「斬る。再生する。再生したところをまた斬る」
綱は淡々と説明する。
「それを朝まで続ける」
「お前……」
「何だ」
「頭がおかしいのか!?」
綱は本気で考えた。
「そう言われたことはないと思う」
「そういう問題じゃねぇ!」
男は這う。
逃げる。
綱は一歩進み、脚を斬る。
「ぎゃあ!」
「逃げるな」
「逃げるわ!」
「困る」
「俺の台詞だ!」
綱は僅かに眉を寄せた。
「では、どうすれば死ぬか教えてくれ」
「誰が教えるか!」
「なら仕方ない」
鬼切安綱を構える。
正眼。
刃先はぶれない。
男はそこで初めて理解した。
この人間は怒っていない。
自分を憎んでもいない。
人を食われた正義感で激昂しているわけでもない。
殺すことを楽しんでもいない。
むしろ斬り合いそのものには、微かな嫌悪すらある。
なのに。
だからこそ。
止まらない。
人を食った。
危険。
放置できない。
斬る。
その判断の間に、何も挟まらない。
「……化け物」
男が呟く。
綱は聞こえていた。
「俺は人間だ」
「嘘つけ……」
「何故だ」
「普通の人間が……鬼の腕を、あんな……!」
そこで綱は初めて、その言葉へ反応した。
「鬼?」
男の顔が変わる。
「今、鬼と言ったな」
「…………」
「それがお前たちの呼び名か」
「……知らねぇ」
「そうか」
綱の視線が僅かに細くなる。
鬼。
聞き覚えのない話ではない。
昔話。
伝承。
祖先。
鬼切。
だが。
「まさかな」
小さく呟く。
目の前の男が身を震わせる。
綱はその震えを恐怖だと理解した。
だが何故自分を怖がるのかは、よく分からなかった。
「安心しろ」
「何をだよ……」
「朝までには終わる」
「何一つ安心できねぇ!」
男の絶叫が夜の路地に響いた。
綱は刀を振るう。
斬。
再生。
斬。
また再生。
そのたびに観察する。
速度。
限界。
肉体の構造。
攻撃の癖。
男が抵抗するたび、腕を斬る。
逃げようとするたび、脚を斬る。
再生した瞬間を狙う。
いつしか鬼の方が攻撃することをやめた。
攻撃すれば、その部位を斬られる。
何もしなくても、再生すれば斬られる。
夜が長い。
途方もなく長い。
そして。
空の端が僅かに白み始めた頃。
「……や、めろ」
鬼の声にはもう力がなかった。
「もうすぐ朝だ」
「だから……やめろ……!」
初めて、鬼が太陽を恐れていることを綱は知る。
「朝が怖いのか」
「来るな……来るな、来るな……!」
綱が空を見る。
東。
薄明。
鬼の身体が猛烈な勢いで再生を始めた。
逃げるため。
「なるほど」
綱は構える。
「朝日で死ぬのか」
鬼の顔が絶望に染まる。
「てめぇ……!」
綱が斬る。
脚。
鬼が倒れる。
「やめろ!」
腕。
「離せ!」
もう一方。
「死にたくない!」
その言葉で。
ほんの一瞬。
綱の刀が止まった。
死にたくない。
当然だ。
人間ならそう思う。
では、これは?
鬼。
人を食った。
だが。
死ぬことを恐れている。
綱は、その感情を理解できる。
理解できるからこそ。
「すまない」
鬼の目が見開かれる。
「だが、お前を逃がせば、また人を食うのだろう」
「食わねぇ! もう食わねぇから!」
「信じられない」
「頼む!」
綱は男を見る。
泣いている。
本当に死にたくないのだろう。
憐れだと思う。
たぶん。
少なくとも胸の内に、微かな重さを感じる。
だが。
それと判断は別だった。
「すまない」
もう一度。
今度は本当に謝罪だった。
「俺には、お前を放置できない」
鬼切が閃く。
その瞬間。
朝日が路地へ差し込んだ。
「ぁ――」
男の身体が燃えた。
炎ではない。
皮膚が崩れる。
灰。
肉体が端から消滅していく。
「嫌だ……」
鬼が呟く。
「嫌だ……死にたく……」
綱は黙って見ていた。
逃がさないため刀を構えたまま。
やがて。
何も残らなくなった。
朝の光。
静かな路地。
残されたのは、食われた人間の遺体と。
一晩中刀を振っていた男だけ。
綱はしばらく灰の消えた場所を見る。
「鬼……か」
刀を見る。
鬼切安綱。
髭切。
先祖が鬼を斬ったという伝承。
「……出来すぎているな」
だが事実だ。
なら調べる必要がある。
刀を納める。
疲労はある。
腕も重い。
一晩中斬り続けたのだから当然だ。
それでも歩ける。
宮内省へ報告しなければならない。
そして。
食われた人間の身元も調べる必要がある。
綱は遺体へ視線を落とす。
「遅くなってすまない」
救えなかった人間。
返事はない。
綱は遺体へ一礼した。
その時だった。
「――動くな!」
鋭い声。
綱の視線が上がる。
屋根の上。
一人。
黒い詰襟。
腰には刀。
さらに背後から二人。
全員が綱へ殺気を向けている。
一般人ではない。
警察でも軍人でもない。
綱は柄には触れなかった。
「何者だ」
黒装束の男が問う。
綱も同じことを聞きたかった。
「宮内省の渡辺だ」
三人が一瞬、黙る。
「……宮内省?」
「ああ」
「ここで何をしている」
「鬼を斬っていた」
さらに沈黙。
三人の視線が、地面へ。
鬼の気配。
ない。
朝日に焼かれた。
だが戦闘痕は異常だった。
石畳。
壁。
大量の血。
何十。
いや。
何百回斬ったのか。
そして目の前の男が持っている刀。
日輪刀ではない。
隊服でもない。
藤の家紋もない。
なのに。
「……お前」
一人の隊士が掠れた声を出した。
「まさか……日輪刀なしで、鬼と一晩戦ってたのか?」
綱は少し考えた。
「その刀を日輪刀と呼ぶのなら、俺のは違う」
三人の顔が引き攣った。
綱はそれに気づく。
「何か変なことを言っただろうか」
誰も答えない。
ただ。
三人の鬼殺隊士は、その朝。
後に鬼舞辻無惨と上弦の鬼たちからさえ、その存在を疎まれることになる男と出会った。
鬼の存在を知らず。
日の呼吸も知らず。
日輪刀も知らず。
鬼舞辻無惨という名すら知らない。
ただ剣だけを振り続け。
人の身のまま。
鬼を斬れるところまで来てしまった男。
頼光四天王――渡辺綱。
その血を継ぎ。
その名を継ぎ。
その刀を継いだ末裔。
渡辺綱。
もっとも。
本人に言わせれば。
そんな大層な話ではない。
鬼が人を襲っていた。
だから斬った。
それだけなのだから。
――そしてこの出会いから。
渡辺綱はようやく知ることになる。
この国の夜には。
自分が思っていたよりもずっと多くの、
斬るべきものが潜んでいることを。
そしていつの日か。
その夜の果てで。
炭を売る一人の少年と、
人であろうとする一人の鬼に出会うことを。
まだ。
彼は知らない。
――『鬼切異聞』。
その始まりである。