蕎麦と炎
煉獄杏寿郎と最初に刀を交えた日から、渡辺綱の生活そのものが大きく変わることはなかった。
朝に起きる。
剣を振る。
宮内省へ出仕する。
働く。
帰る。
再び剣を振る。
必要があれば、夜の帝都へ出る。
人を害する鬼がいれば斬る。
それまでと同じだった。
――少なくとも、本人はそう思っていた。
◇
「綱! 奇遇だな!」
初めてそれを奇遇と呼んだのは、産屋敷邸での手合わせから半月ほど経った日のことだった。
昼。
帝都の一角。
宮内省での外回りを終えた綱は、馴染みの蕎麦屋の暖簾を潜った。
「いらっしゃ――」
店主の声を遮るほどの大音声。
「おお!」
綱の足が止まる。
店の奥。
炎を思わせる髪。
人目を惹く羽織。
そして、その前には既に空になった丼が三つ。
煉獄杏寿郎だった。
「……煉獄」
「うむ!」
「何故ここにいる」
「蕎麦を食べている!」
「それは見れば分かる」
「そうか!」
「ああ」
会話が終わった。
……はずだった。
「綱も食事だろう! 一緒にどうだ!」
店内の視線が一斉に綱へ集まる。
綱は少しだけ考えた。
いつもなら一人で食べる。
特に理由はない。
一人で困らないからだ。
「嫌なら無理にとは言わん!」
「いや」
綱は煉獄の向かいへ座った。
「構わない」
「そうか!」
煉獄が嬉しそうに笑う。
何故そこまで喜ぶのか、綱にはよく分からなかった。
「渡辺さん、いつもの?」
店主が聞く。
「ああ。盛りを一枚」
「一枚!?」
煉獄が驚いた。
綱が見る。
「少ないか?」
「少ない!」
「そうなのか」
「俺は今五枚目だ!」
綱は煉獄の前を見る。
三つしかない。
「残り二枚は?」
「これからだ!」
「なるほど」
「君ももっと食べるべきだ!」
「必要な量を食べている」
「剣士は身体が資本だ!」
「それは同意する」
「ならば二枚だ!」
「何故そうなる」
店主が声を殺して笑っていた。
綱がそちらを見ると、慌てて顔を背ける。
「……何だ?」
「いえいえ」
よく分からない。
やがて蕎麦が運ばれてきた。
煉獄の前にも追加。
「いただきます!」
「ああ」
煉獄は箸を取る。
一口。
「旨い!」
店中に響いた。
綱が箸を止める。
「声が大きい」
「旨いものを旨いと言っている!」
「それは分かる」
「綱は旨くないのか!」
「旨い」
「ではもっと嬉しそうに食べるといい!」
綱は蕎麦を見る。
一口。
噛む。
飲み込む。
「……旨い」
「変わっていないぞ!」
「変える必要があるのか?」
「ない!」
「ならいいだろう」
「うむ!」
煉獄がまた食べる。
「旨い!」
綱は自分の蕎麦を静かに啜った。
不思議だった。
一人で食べる時より、騒がしい。
明らかに騒がしい。
なのに。
不快ではなかった。
◇
「綱はいつもここへ来るのか?」
「時々だ」
「そうか!」
「宮内省から近い」
「なるほど!」
「煉獄は?」
「任務帰りだ!」
「この辺りに鬼が?」
「いや! 少し離れた町だ!」
煉獄の声量は相変わらずだった。
「昨夜、三体斬った!」
「そうか」
「うむ!」
「怪我は」
煉獄の箸が一瞬だけ止まった。
そして、口元が上がる。
「ない!」
「ならよかった」
「……」
「何だ」
「いや!」
煉獄が妙に嬉しそうに蕎麦を啜る。
「何故笑う」
「綱も仲間を心配するのだと思ってな!」
「当然だろう」
「当然か!」
「ああ」
「そうか!」
また笑う。
綱は少し眉を寄せる。
「それほど変なことを言ったか?」
「いや! 何もおかしくない!」
「なら何故」
「嬉しかったからだ!」
綱は黙った。
嬉しい。
その感覚を、煉獄は実に簡単に口にする。
楽しい。
嬉しい。
悔しい。
悲しい。
この男は、自分の内側にあるものをそのまま言葉にできる。
綱には少し眩しく感じられた。
何故そう感じるのかまでは、まだ分からなかった。
◇
それから一月後。
「綱!」
「……またか」
「また会ったな!」
同じ蕎麦屋。
煉獄。
七杯目。
「今日は多いな」
「よく見ているな!」
「前は五杯だった」
「覚えていたのか!」
「ああ」
「では今日は十杯までいく!」
「無理をする必要はない」
「無理ではない!」
「そうか」
綱はいつもの席へ座った。
店主はもう何も聞かず、蕎麦を二人分用意し始める。
「渡辺さん、今日は二枚にします?」
「一枚でいい」
「綱!」
「一枚で足りる」
「そうか!」
意外にも煉獄は引き下がった。
綱が見る。
「今日は勧めないのか」
「人には人の適量がある!」
「前回と言っていることが違う」
「学んだからな!」
「そうか」
「うむ!」
綱は、ほんの僅かに口元を緩めた。
自分では気づいていなかった。
店主は気づいた。
煉獄も。
だが煉獄は何も言わなかった。
◇
さらにその二週間後。
今度は蕎麦屋ではなかった。
夜。
林の中。
綱が一体の鬼の腕を斬り落とした、その直後。
別方向から炎のような剣筋が走った。
鬼の首が宙を舞ぶ。
「む!」
「……煉獄か」
「綱!」
森に響く声。
「何故ここに!」
「宮内省の調査だ」
「そうか!」
「そちらは」
「鬼殺隊の任務だ!」
二人の間。
首を落とされた鬼が崩れていく。
綱は髭切についた血を払う。
「俺が斬った腕が先に戻った」
「うむ!」
「再生が早い鬼だった」
「確かに!」
「日輪刀は便利だな」
煉獄が一瞬、目を丸くした。
そして笑った。
「まだ言っているのか!」
「事実だろう」
「なら日輪刀を持てばよい!」
「それは断る」
「何故だ!」
「髭切の方が馴染んでいる」
「頑固だな!」
「そうか?」
「そうだ!」
背後。
別の気配。
二人の顔から同時に笑みが消えた。
鬼。
一体。
二体。
三体。
木々の間。
囲まれている。
「うむ! 多いな!」
「そうだな」
「俺は右へ行く!」
「ああ」
それだけ。
打ち合わせなど必要なかった。
煉獄が踏み込む。
炎のような剣が闇を裂く。
綱は逆方向。
鬼が腕を伸ばす。
落とす。
返す。
脚。
胴。
首。
日輪刀ではない。
首を斬っても鬼は死なない。
だから。
「煉獄」
「うむ!」
綱が首を斬り飛ばす。
宙へ。
煉獄の刀が走る。
同じ首をもう一度斬る。
日輪刀。
鬼が灰になる。
「なるほど!」
「何がだ」
「君と戦うのはやりやすい!」
「俺も同じことを考えていた」
「そうか!」
一瞬だけ二人の視線が交わった。
笑うのは煉獄だけ。
だが。
綱の瞳にも、僅かな熱があった。
◇
戦闘が終わる頃。
東の空が白み始めていた。
煉獄が刀を納める。
「腹が減ったな!」
「ああ」
「蕎麦を食べに行こう!」
「この時間に開いている店があるのか?」
「探せばある!」
「探すのか」
「うむ!」
綱は少し考えた。
「付き合おう」
煉獄が振り返る。
「む?」
「何だ」
「いや!」
笑う。
「随分、返事が早くなったと思ってな!」
「腹が減っている」
「そうか!」
「ああ」
「ならば行こう!」
二人は並んで歩き始めた。
◇
そうして。
一度。
二度。
三度。
気づけば、数える意味がなくなるほど顔を合わせるようになった。
本当に偶然の時もあった。
煉獄が産屋敷邸へ戻った時、綱が報告に来ている。
宮内省の仕事で綱が町へ出れば、任務帰りの煉獄が蕎麦屋にいる。
鬼の討伐区域が重なり、夜明けまで共に戦うこともあった。
偶然ではない時も、少しずつ増えた。
「綱! 明日の昼、空いているか!」
「仕事だ」
「なら翌日は!」
「仕事だ」
「その次は!」
「休みだ」
「蕎麦を食べよう!」
「構わない」
やがて。
黒鉄が一枚の紙を持って飛んでくることもあった。
『明日、帝都へ行く! 昼頃にいつもの店で待つ! 煉獄杏寿郎』
綱は紙を読み。
「……約束になっているな」
「嫌カ?」
「いや」
黒鉄が首を傾げる。
「ナラ何ダ!」
「別に」
紙を折る。
捨てない。
机の引き出しに入れる。
黒鉄はそれを見ていたが、何も言わなかった。
◇
煉獄はよく喋った。
父のこと。
弟の千寿郎のこと。
鬼殺隊のこと。
剣のこと。
食べ物のこと。
そして、人を守ること。
「俺は強き者に生まれた者には、その力を弱き人を守るために使う責務があると思っている!」
蕎麦屋。
十杯目。
煉獄が言う。
綱は蕎麦湯を飲みながら聞いていた。
「責務か」
「うむ!」
「俺とは少し違うな」
「そうか?」
「ああ」
「綱はどう思う!」
綱は湯呑を見る。
「強いか弱いかは、あまり関係ない」
「ほう!」
「助けられる位置にいるなら助ける」
「うむ」
「それだけだ」
「何故だ!」
綱の手が止まる。
「何故……」
答えようとして。
少し困った。
必要だから。
そうすべきだから。
以前なら、それだけだった。
だが。
煉獄に何度も問われ。
耀哉に問われ。
自分でも少しずつ考えるようになっていた。
「目の前で人が死ぬのは」
綱は静かに言った。
「……気分が悪い」
煉獄は黙る。
「だから助ける」
「それは」
「何だ」
「十分だ!」
笑う。
「立派な理由だ!」
「そうなのか?」
「そうだ!」
「なら、そういうことにしておこう」
「うむ!」
綱が蕎麦を啜る。
煉獄も食べる。
「旨い!」
「……ああ」
「綱!」
「何だ」
「声が小さい!」
「旨い」
「もっと!」
「必要ない」
「はっはっは!」
煉獄の笑い声。
店主の笑い。
客たちの視線。
綱は。
以前ほど、それを騒がしいとは思わなくなっていた。
◇
ある日。
煉獄が珍しく、食事の途中で黙った。
綱が顔を上げる。
「どうした」
「何がだ?」
「静かだ」
「俺にも静かな時はある!」
「そうなのか」
「ある!」
「知らなかった」
「綱!」
「冗談だ」
煉獄の動きが止まった。
綱も止まる。
「……何だ」
「今」
「何だ」
「冗談を言ったのか!」
「ああ」
「綱が!」
「ああ」
「これはめでたい!」
「何故だ」
「店主! 蕎麦を二枚追加だ!」
「何故そうなる」
店主が腹を抱えて笑う。
綱は納得できなかった。
だが。
少しだけ。
笑った。
◇
そんな日々は。
永遠に続くほど長くはなかった。
人間の時間は短い。
鬼狩りの時間は。
なおさら。
それでも、この頃の二人はまだ知らない。
ある夜。
一台の列車。
そこで。
煉獄杏寿郎の人生が終わることを。
◇
数ヶ月後。
「綱!」
いつもの蕎麦屋。
煉獄はいつものように声が大きかった。
「今夜から任務だ!」
「そうか」
「列車に乗る!」
「列車?」
「無限列車というらしい!」
綱が箸を止める。
「物騒な名前だな」
「俺もそう思う!」
「何か起きているのか」
「四十人以上が行方不明になっている!」
綱の表情が少し変わる。
「多いな」
「ああ!」
「宮内省にその報告は上がっていない」
「鬼殺隊側で調査している!」
「そうか」
煉獄は蕎麦を啜る。
「旨い!」
いつも通りだ。
綱も食べる。
だが。
「煉獄」
「何だ!」
「一人か」
「途中で隊士と合流する!」
「そうか」
何故それを聞いたのか。
綱自身にも明確には分からなかった。
煉獄が笑う。
「心配しているのか!」
「……そうらしい」
以前なら否定していたかもしれない。
今は。
素直に認めた。
煉獄の瞳が少し見開かれる。
そして。
いつものように。
力強く笑った。
「心配無用!」
「あまりそれを言うな」
「む?」
「そういうことを言う者ほど無理をする」
「はっはっは! 確かに!」
「笑うところではない」
「すまん!」
「反省していないな」
「している!」
「そうか」
綱は箸を置く。
「死ぬなよ」
煉獄の笑みが。
一瞬。
穏やかなものへ変わった。
「ああ」
珍しく。
大声ではなかった。
「君もな、綱」
「俺は宮内省で仕事だ」
「鬼が出れば行くのだろう!」
「ああ」
「なら同じだ!」
綱は少し考え。
「そうだな」
頷いた。
◇
店を出る。
夕暮れ。
道が赤く染まっている。
煉獄は駅へ。
綱は宮内省へ戻る。
途中。
二人は別れる。
「綱!」
煉獄が振り返る。
「次に会ったら!」
「何だ」
「また蕎麦を食べよう!」
「ああ」
綱は答えた。
「今度は俺が払う」
「む!」
「いつもあなたの方が多く食べるのに割り勘では、俺が損をしている」
一瞬。
煉獄が呆気に取られる。
そして。
「はっはっはっはっは!」
夕暮れの町に笑い声が響いた。
「それならば次は俺が奢ろう!」
「話を聞いていたか?」
「聞いていた!」
「なら何故」
「次の次に綱が払えばいい!」
「……なるほど」
「ではな!」
「ああ」
煉獄が去る。
炎のような髪が、人混みの中へ消えていく。
綱は少しだけその背中を見送った。
それから。
いつも通り歩き出した。
次がある。
当然のように。
そう思っていた。
◇
――それが。
二人が共に蕎麦を食べた、最後の日になった。
◇
後に。
渡辺綱は、無限列車の跡地に立つことになる。
朝日。
破壊された線路。
散らばる血。
泣く少年。
動かなくなった炎柱。
その場にいた誰が見ても。
渡辺綱の顔は。
いつもと変わらない。
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
鬼切安綱を握り締めもしない。
ただ。
煉獄杏寿郎の亡骸を見下ろす。
そして。
ほんの少しだけ。
長く。
黙る。
誰も気づかない。
だが。
後に竈門炭治郎だけは。
その男の匂いの奥に。
わずかに混じったものへ気づく。
悲しみ。
悔しさ。
そして。
今までの渡辺綱にはほとんどなかった。
消えない、小さな熱。
上弦の参。
猗窩座。
綱は復讐のために鬼を斬る男ではない。
煉獄を殺したからといって。
鬼を憎むようになるわけでもない。
これからも。
人を害する鬼がいれば。
いつも通り斬る。
ただ。
上弦の参だけは。
頭の片隅から消えなくなる。
もし。
いつか。
出会ったなら。
その時は。
確実に斬る。
怒りに任せてではない。
復讐に酔ってでもない。
ただ。
自分の剣で。
必ず。
その首を落とす。
渡辺綱は。
まだ。
その未来を知らない。
だが。
炎柱との蕎麦の約束だけは。
最後まで。
忘れることはなかった。