鬼滅の刃 ―鬼切異聞―   作:からし明太子

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序章 鬼を知らぬ鬼斬り
プロローグ 渡辺綱


 

 

 帝都の朝は、思いのほか早い。

 

 夜明けとともに空を覆っていた薄墨色がほどけ始めると、眠っていた街は人の手によって少しずつ息を吹き返していく。

 

 軒先に箒をかける商人。

 

 新聞の束を抱えて駆ける少年。

 

 石畳を叩く馬蹄。

 

 遠くで鳴る路面電車の鈴。

 

 味噌汁の匂い。

 

 炊き上がった米の湯気。

 

 まだ半分ほど眠った顔をした勤め人たちが家々から吐き出され、それぞれの一日へ向かっていく。

 

 そんな人の流れの中を、一人の男が歩いていた。

 

 渡辺綱。

 

 二十四歳。

 

 背丈は周囲の男より頭一つ高く、無駄なく鍛えられた身体を、仕立ての良い洋装の下へ収めている。

 

 急いでいるわけではない。

 

 だが遅くもない。

 

 歩幅は一定。

 

 背筋は伸びている。

 

 視線は真正面。

 

 ただし、前だけを見ているわけではなかった。

 

 左手の商家から荷物を抱えた丁稚が出てくる。

 

 三歩先。

 

 右手から自転車。

 

 荷車が道の中央へ寄る。

 

 前を歩く老人が僅かに足をもつれさせる。

 

 それらを意識している様子もないまま、綱の身体は最短の動きで人を避けていく。

 

 半歩右。

 

 一歩前。

 

 肩を引く。

 

 また前へ。

 

 誰ともぶつからない。

 

 人の流れそのものが彼を避けているようにも見えた。

 

 もっとも、実際には逆だった。

 

 綱の方が、すべてを避けている。

 

「わっ!」

 

 甲高い声。

 

 横道から少年が飛び出した。

 

 新聞を抱えたまま走っていたせいで、前を見ていない。

 

 そのまま行けば、荷車の車輪の前へ出る。

 

 綱の右手が伸びた。

 

 少年の襟首を掴む。

 

「ぐえっ」

 

 少年の身体が止まる。

 

 直後、鼻先を掠めるように荷車が通り過ぎた。

 

 馭者が気づきもせず遠ざかっていく。

 

「……あ」

 

 少年は目を丸くした。

 

 綱は掴んでいた襟を離す。

 

「前を見た方がいい」

 

「あ……はいっ! すみません!」

 

「俺に謝る必要はない」

 

「え?」

 

「轢かれるのはお前だ」

 

「…………はい!」

 

 少年は今度こそ道の左右を確認し、それから走り去った。

 

 綱はその背中を一度だけ見送る。

 

 怪我はない。

 

 なら問題ない。

 

 再び歩き出す。

 

 助けたことについて、特別な感慨はない。

 

 危険だった。

 

 手が届いた。

 

 だから引いた。

 

 それだけである。

 

 少なくとも綱自身は、そう認識している。

 

 懐から懐中時計を取り出す。

 

 七時四十一分。

 

 予定より二十秒ほど遅れた。

 

 誤差だろう。

 

 宮内省には余裕を持って到着できる。

 

 時計を戻したところで、後方から聞き慣れた声が飛んできた。

 

「渡辺さーん! ちょ、待ってくださいって!」

 

 綱は足を止めた。

 

 振り返る。

 

 同僚の小林が、人波を縫うように走ってくる。

 

 綱と同じく宮内省に勤める男で、年齢は二つ下。

 

 息を切らしながら綱の横まで来ると、膝に手をついた。

 

「はぁ……はぁ……お、おはようございます」

 

「おはよう」

 

「何で……朝からそんな普通に歩いてるのに……追いつけないんですか……」

 

「歩幅の差ではないか?」

 

「いや、そういうことですかね……」

 

 小林は額の汗を拭った。

 

「それより渡辺さん。昨日、結局何時まで残ってました?」

 

「二十一時頃には出た」

 

「ああ、よかった。意外と普通――」

 

「帰ってから剣を振った」

 

「……何時まで?」

 

「零時前まで」

 

 小林の顔から安堵が消えた。

 

「そこから風呂?」

 

「ああ」

 

「寝たのは?」

 

「一時頃だ」

 

「起きたのは?」

 

「五時」

 

 沈黙。

 

 小林はしばらく何も言わなかった。

 

 綱も黙って待った。

 

「……渡辺さん」

 

「何だ」

 

「人間ですよね?」

 

 綱は少し眉を寄せた。

 

「そのつもりだが」

 

「いや、その返しをされると逆に不安になるんですよ」

 

「何故だ?」

 

「普通、四時間しか寝てない人は朝からそんな顔してないんです」

 

「どんな顔だ」

 

「昨日七時間寝ました、みたいな顔です」

 

「そうか」

 

「そうです」

 

 綱は自分の顔を触った。

 

「分からないな」

 

「でしょうね」

 

 小林は溜息をついた。

 

 付き合いは一年ほどになる。

 

 その一年で、小林は渡辺綱という男についてある程度理解した。

 

 仕事は恐ろしく速い。

 

 しかも速いだけではなく、正確だ。

 

 頼まれた書類は期日前に出来上がる。

 

 警護配置の穴もすぐ見つける。

 

 人の顔と名前をほぼ一度で覚える。

 

 一度説明した仕事を二度聞かない。

 

 だからといって他人へ同じ水準を要求するわけでもなく、遅れている者がいれば黙って手伝う。

 

 偉ぶらない。

 

 怒鳴らない。

 

 陰口も言わない。

 

 上司には礼を尽くす。

 

 部下にも横柄ではない。

 

 困っている人間を見れば助ける。

 

 そこまで聞けば、ずいぶん出来た男に思える。

 

 実際、小林も綱を嫌ってはいない。

 

 むしろかなり好いている。

 

 ただし――少し妙なのだ。

 

「渡辺さんって、今日仕事終わったら何するんです?」

 

「剣を振る」

 

「明日は?」

 

「剣を振る」

 

「明後日は?」

 

「何もなければ剣を振る」

 

「休みの日は?」

 

「午前に剣を振る」

 

「午後は?」

 

「本を読むこともある」

 

「おっ」

 

「そのあと剣を振る」

 

「駄目だこの人」

 

 綱が横を見る。

 

「何がだ?」

 

「渡辺さん、本当に趣味ないんですか」

 

「趣味」

 

「剣じゃなくてですよ」

 

 綱は少し考えた。

 

 考えて。

 

 さらに考えた。

 

「……特にないな」

 

「即答より悲しいですよ、今の間」

 

「すまない」

 

「謝らないでください。もっと悲しくなるから」

 

「難しいな」

 

「何がです?」

 

「お前との会話が」

 

「こっちの台詞ですよ!」

 

 小林の声が朝の通りに響く。

 

 周囲の人間が何人か振り返った。

 

 綱は特に気にしない。

 

 小林は咳払いをして声量を落とした。

 

「じゃあ逆に、好きなものは?」

 

「特には」

 

「嫌いなもの」

 

 そこで綱は少しだけ考えた。

 

「斬り合いは、あまり好きではない」

 

「……え?」

 

 小林が目を瞬いた。

 

 意外だった。

 

 これほど毎日刀を振っている人間なのだから、てっきり剣そのものが好きなのだと思っていた。

 

「剣が好きなんじゃないんですか?」

 

「嫌いではない」

 

「でも斬り合いは嫌い?」

 

「ああ。人が死ぬからな」

 

 あまりにも当然のことを言う声音だった。

 

「なら、何でそんなに剣の稽古を?」

 

「必要だからだ」

 

「何に?」

 

「人を守るのに」

 

 小林は黙った。

 

 綱は前を向いたまま続ける。

 

「俺の仕事では、刀を抜く可能性がある。抜いた時に弱ければ困るだろう」

 

「……それだけ?」

 

「他にあるのか?」

 

「いや……」

 

 小林には分からない。

 

 一日三時間。

 

 四時間。

 

 時にはそれ以上。

 

 十年以上。

 

 ただ「必要だから」という理由だけで、毎日毎日刀を振り続けられる人間など、本当にいるものなのだろうか。

 

「渡辺さん」

 

「何だ」

 

「人生、楽しいです?」

 

 口にしてから、小林はしまったと思った。

 

 随分と無遠慮な質問だ。

 

「いや、今のは――」

 

「楽しい、か」

 

 綱が立ち止まった。

 

 怒ってはいない。

 

 ただ、本当に回答を探しているようだった。

 

「すまない」

 

「はい?」

 

「よく分からない」

 

 小林は言葉を失う。

 

「嬉しいとか楽しいとか、分からないってことですか?」

 

「いや。意味は理解している」

 

 綱は少し首を傾ける。

 

「嬉しい人間を見れば、嬉しいのだろうと分かる。悲しんでいる人間も分かる。お前が今、少し困っているのも分かる」

 

「そこまで分かるなら普通じゃないですか」

 

「だが、自分についてはよく分からない」

 

 淡々。

 

 自嘲でもない。

 

 悲観でもない。

 

「仕事を終えれば、それでいいと思う。剣が昨日より僅かに上達していれば、悪くないと思う。それを楽しいと呼ぶのかは……考えたことがないな」

 

「……寂しくないですか?」

 

「一人でいることが?」

 

「はい」

 

「特には」

 

「即答だ……」

 

「ただ」

 

「ただ?」

 

「お前のように話しかけてくる者を、不快だと思ったこともない」

 

 小林が止まる。

 

 綱は一歩進んでから、ついてこないことに気づいて振り返った。

 

「どうした」

 

「いや……渡辺さん、それ」

 

「何だ」

 

「たぶん結構、嬉しいこと言ってますよ」

 

「そうなのか?」

 

「そうですよ!」

 

「なら、よかった」

 

 綱はまた歩き出す。

 

 小林はしばらく呆然としてから、その後を追った。

 

     ◇

 

 渡辺綱は、渡辺家の嫡流に生まれた。

 

 家系を遡れば平安時代。

 

 源頼光に仕え、坂田金時、碓井貞光、卜部季武と並び「頼光四天王」と呼ばれた武士――渡辺綱へ行き着く。

 

 もっとも、大正の世になれば、その名を誇って暮らしているわけでもない。

 

 武士の時代はとうに終わった。

 

 刀を腰に差して町を歩けば、それだけで珍しい。

 

 それでも渡辺家には残ったものがあった。

 

 剣。

 

 古文書。

 

 そして一振りの太刀。

 

 髭切。

 

 後世では、鬼切安綱とも呼ばれる刀。

 

 幼い頃。

 

 父に初めてそれを見せられた日のことを、綱は覚えている。

 

『これはお前のものではない』

 

 父はそう言った。

 

『渡辺家のものでもない』

 

 幼い綱は首を傾げた。

 

『なら、誰のものですか』

 

『必要な時に、必要な者が使う刀だ』

 

『それは誰です』

 

『今は俺だ。いずれ、お前になるかもしれん』

 

 それから十数年。

 

 刀は父から綱へ渡った。

 

 綱は源氏の伝説に酔わなかった。

 

 先祖の武功を自分のものだとも思わなかった。

 

 鬼切と呼ばれた由来にも、当時はさほど興味を抱かなかった。

 

 自分が斬ったわけではないからだ。

 

 ただ。

 

 刀としては素晴らしい。

 

 よく斬れる。

 

 丈夫だ。

 

 重心が良い。

 

 長年手入れされてきた刀身は、古刀でありながら歪みがなく、綱が全力で振っても応える。

 

 だから使う。

 

 その程度だった。

 

 まだこの頃の渡辺綱は知らなかった。

 

 先祖が鬼を斬ったという昔話が、ただの昔話ではないことを。

 

     ◇

 

 宮内省。

 

 午前中はいつも通りだった。

 

 綱は机に積まれた書類を一枚ずつ処理していた。

 

 確認。

 

 署名。

 

 次。

 

 数字の誤りを見つける。

 

 修正。

 

 次。

 

 警護経路図。

 

 二つの死角。

 

 赤で印を付ける。

 

 次。

 

「渡辺」

 

「はい」

 

 呼ばれて顔を上げる。

 

 上司の佐々木が手招きしていた。

 

 五十を越えた男で、綱を宮内省へ引き入れた一人でもある。

 

「少しいいか」

 

「はい」

 

 綱が立つ。

 

 佐々木は自室へ入るよう促した。

 

 扉が閉まる。

 

「例の件だ」

 

「芝区の失踪ですか」

 

「ああ」

 

 机の上に封筒が置かれた。

 

 綱は受け取る。

 

 中には複数の写真。

 

 白黒。

 

 粗い。

 

 それでも何が写っているのかは分かった。

 

 人間の死体。

 

 正確には、人間だったもの。

 

 右腕がない。

 

 腹部が大きく抉られている。

 

 首にも噛み跡のようなもの。

 

「今朝、増上寺から少し離れた空き家で発見された」

 

「失踪した一人ですか」

 

「警察はそう見ている。身元確認中だ」

 

 綱は写真を見る。

 

 感情が動かないわけではない。

 

 酷い死に方だ、と思う。

 

 家族がいれば辛いだろう、とも思う。

 

 だがそれによって手元が乱れることはない。

 

 必要なのは、何が起きたかを知ることだ。

 

「獣害ということになりそうだ」

 

「無理があります」

 

「即答だな」

 

「はい」

 

「理由は」

 

 綱が写真を一枚、机へ置いた。

 

「服です」

 

「服?」

 

「腹部を食われているのに、衣服の破損が少ない」

 

 佐々木が写真を覗き込む。

 

「……確かに」

 

「獣が襲ったなら、服ごと噛むはずです。これは服を捲るか、破ってから肉へ届いている」

 

「人間の仕業だと?」

 

「まだ分かりません」

 

 別の写真。

 

 血痕。

 

「それと、ここが殺害現場ではない」

 

「何故分かる」

 

「出血量が少ない。これだけ身体を損壊して、これしか血がないのは不自然です」

 

「運び込んだ?」

 

「そう考える方が自然です」

 

「この成人男性を?」

 

「はい」

 

 佐々木の表情が僅かに強張った。

 

「一人で?」

 

「それは分かりません。ただ、もし一人ならかなり力が強い」

 

 綱は次の写真へ目を移す。

 

 柱に残った傷。

 

 五本。

 

「爪……か?」

 

「かもしれません」

 

「熊では?」

 

「この辺りまで熊が来た記録は?」

 

「ない」

 

「なら別のものです」

 

 佐々木が椅子へ深く座る。

 

「渡辺」

 

「はい」

 

「今夜見てきてくれるか」

 

「承知しました」

 

 即答。

 

 佐々木は眉を寄せた。

 

「少しは考えろ」

 

「必要ですか?」

 

「何がいるか分からんのだぞ」

 

「だから調べるのでしょう」

 

「そういうところだ、お前は」

 

「?」

 

「いや」

 

 佐々木は額を揉んだ。

 

「一人で行くな、と言いたいところだが……」

 

「他の者がいると危険かもしれません」

 

「それも分かっている」

 

 綱なら逃げられる。

 

 少なくとも佐々木はそう思っている。

 

 かつて護衛中に暴漢五人へ襲われた際、綱は刀を抜かず全員を取り押さえた。

 

 しかも一人として骨を折らなかった。

 

 後で何故刀を使わなかったのか聞けば、

 

『人間だったので』

 

 と答えた。

 

 まるで相手によっては刀を使うことがあるような言い方だった。

 

「渡辺」

 

「はい」

 

「危険だと思ったら戻れ」

 

「承知しました」

 

「本当に分かっているな?」

 

「はい」

 

「……不安だ」

 

     ◇

 

 午後十一時を過ぎると、帝都もさすがに静かになる。

 

 大通りを外れれば、なおさらだった。

 

 街灯と街灯の間。

 

 暗闇。

 

 月明かり。

 

 遠くで犬が吠える。

 

 綱は和装へ着替えていた。

 

 洋装でも戦えないことはない。

 

 だが足さばきが僅かに悪くなる。

 

 調査対象が人間とは限らない。

 

 なら、動きやすい方がいい。

 

 腰には髭切。

 

 ――鬼切安綱。

 

 綱は足を止めた。

 

 鼻を僅かに動かす。

 

 血の臭い。

 

 犬のものではない。

 

 人の血は、何度か嗅いだことがある。

 

 視線を落とす。

 

 石畳。

 

 黒い染み。

 

 しゃがみ、指先で触れた。

 

 僅かに湿っている。

 

「新しいな」

 

 立ち上がる。

 

 血痕は点々と奥へ続いている。

 

 逃げた人間のものではない。

 

 間隔が不自然だ。

 

 何かを運んだ時に落ちた。

 

 綱は音を立てずに進む。

 

 呼吸が、自然と深くなる。

 

 それは鬼殺隊が「全集中」と呼ぶものに極めて近かった。

 

 だが綱はそんな名称を知らない。

 

 剣を振る時にどう呼吸すれば最も身体が動くのか。

 

 どの瞬間に吸い。

 

 どの瞬間に吐くか。

 

 筋肉へ力を入れる時。

 

 抜く時。

 

 血が身体を巡る感覚。

 

 何年も繰り返していくうちに、自然とそうなっただけ。

 

 綱本人にとっては、

 

 呼吸は呼吸。

 

 剣は剣だった。

 

 路地の先。

 

 ずる。

 

 何かを引きずる音。

 

 綱の視線が僅かに鋭くなる。

 

 ぴちゃ。

 

 濡れた音。

 

 その後。

 

 ぐちゃり。

 

 肉を噛む音。

 

 角を曲がる。

 

 そこに男がいた。

 

 背中を向けてしゃがんでいる。

 

 ぼろぼろの着物。

 

 痩せている。

 

 一見すれば、浮浪者にしか見えない。

 

 だが足元から、人間の脚が伸びていた。

 

 綱は立ち止まった。

 

「何をしている」

 

 男の肩が止まる。

 

 ゆっくり。

 

 振り返る。

 

 最初に見えたのは口だった。

 

 赤い。

 

 口の周り。

 

 頬。

 

 顎。

 

 全部。

 

 血。

 

 次に歯。

 

 尖っている。

 

 人間の犬歯ではない。

 

 そして目。

 

 瞳孔。

 

 何より、臭い。

 

 血と腐肉。

 

 綱は、目の前にいるものを知らない。

 

 だが少なくとも、

 

 まともな人間ではない。

 

「見たな」

 

 男が笑った。

 

「見た」

 

「……怖くねぇのか?」

 

 綱は少し考えた。

 

「何をだ」

 

 男の笑みが消えた。

 

「俺をだよ」

 

「お前が何なのか、まだ分からない」

 

「は?」

 

「だから判断できない」

 

 男のこめかみに青筋が浮かぶ。

 

「舐めやがって……!」

 

「それと」

 

 綱の視線が男の足元へ。

 

 倒れている人間。

 

 胸は動いていない。

 

「その人間を食べたのか?」

 

 一瞬。

 

 男が笑った。

 

 口角が裂けるほど。

 

「ああ」

 

「そうか」

 

 綱の右手が柄へ触れる。

 

「なら、斬ることにする」

 

「――あ?」

 

 男の身体が沈んだ。

 

 膝。

 

 腰。

 

 肩。

 

 視線。

 

 綱の目がそれらを拾う。

 

 右腕。

 

 爪。

 

 喉を狙う。

 

 次に何をするのか。

 

 分かりやすい。

 

「死ねぇ!」

 

 男が跳んだ。

 

 常人なら目で追うことすら難しい速度。

 

 数間の距離を一息で消す。

 

 その爪が綱の喉へ迫り――

 

 落ちた。

 

「…………は?」

 

 男は地面へ着地した。

 

 右腕がない。

 

 数歩後方。

 

 自分の腕が転がっている。

 

 綱は刀を抜き終えていた。

 

 刀身に血が一筋。

 

 男の目が見開かれる。

 

「てめ……何を……」

 

「速いな」

 

 綱が言う。

 

「だが、動きは分かりやすい」

 

「……っ」

 

「肩が先に動きすぎている」

 

「何を言って――」

 

 斬られた肩から肉が盛り上がる。

 

 骨。

 

 筋。

 

 皮膚。

 

 腕が生え始める。

 

 今度は綱の目が僅かに見開かれた。

 

「……なるほど」

 

 男が笑う。

 

「驚いたか?」

 

「ああ」

 

「人間とは違うんだよ、俺は!」

 

 綱は再生していく腕を見る。

 

「そうらしい」

 

「俺たちは死なねぇ!」

 

「俺たち?」

 

 男が一瞬、口を閉じる。

 

 綱はそこを聞き逃さない。

 

「他にもいるのか」

 

「知るか!」

 

 再生した右腕を振り上げる。

 

 今度は左も同時。

 

 爪が伸びる。

 

「くたばれ!」

 

 二本。

 

 左右。

 

 時間差。

 

 綱は一歩だけ前へ出た。

 

 斬。

 

 右腕。

 

 返す。

 

 斬。

 

 左腕。

 

 男の目に恐怖が混じる。

 

「な――」

 

 綱はさらに踏み込む。

 

 男の視界から姿が消える。

 

 いや。

 

 消えたのではない。

 

 近づきすぎた。

 

 首筋に冷たいものが触れる。

 

「待――」

 

 横一閃。

 

 首が落ちた。

 

 胴体が崩れる。

 

 頭が地面を転がり、壁へぶつかった。

 

 綱は血振りをする。

 

「……これで」

 

 納刀しかけて。

 

「殺す」

 

 声。

 

 綱の動きが止まる。

 

 地面の首がこちらを睨んでいる。

 

「殺してやる……殺して……」

 

 綱は刀を鞘へ戻さない。

 

 胴体が動いた。

 

 首を探すように腕が這う。

 

 切断された首の下から、肉が伸びている。

 

「首でも死なないのか」

 

 綱はしゃがみ込んだ。

 

「近寄るな!」

 

 首が叫ぶ。

 

「確認しているだけだ」

 

「何をだ!」

 

「どうすれば死ぬ」

 

 男の顔が引き攣った。

 

 綱には悪意がない。

 

 残酷な響きになっている自覚すらない。

 

 ただ必要だから質問している。

 

「教えるわけねぇだろ!」

 

「そうか」

 

 立ち上がる。

 

「なら試す」

 

「……は?」

 

 胴体へ一閃。

 

 肩から腰まで斜めに断つ。

 

「ぎゃああああっ!」

 

 もう一閃。

 

 右脚。

 

 左脚。

 

 腕。

 

「や、やめろ!」

 

「再生するのだろう?」

 

「痛ぇんだよ!」

 

 綱の刀が止まる。

 

「痛覚はあるのか」

 

「当たり前だろうが!」

 

「そうか。それは悪かった」

 

「謝りながら斬るな!」

 

「だが、人を食べるなら放置はできない」

 

「何なんだよお前!」

 

 綱は再生していく肉を見る。

 

 腕一本より、胴体を細かく分断した方が再生が遅い。

 

 つまり再生にも限度はある。

 

「細かく斬れば、戻るまで時間が掛かるらしい」

 

「……っ」

 

「なら簡単だ」

 

 男の頬が引き攣る。

 

「何がだ」

 

 綱は空を見る。

 

 月。

 

 時間。

 

 夜明けまではまだ遠い。

 

「朝まで再生させなければいい」

 

 男が固まった。

 

「…………は?」

 

「斬る。再生する。再生したところをまた斬る」

 

 綱は淡々と説明する。

 

「それを朝まで続ける」

 

「お前……」

 

「何だ」

 

「頭がおかしいのか!?」

 

 綱は本気で考えた。

 

「そう言われたことはないと思う」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

 男は這う。

 

 逃げる。

 

 綱は一歩進み、脚を斬る。

 

「ぎゃあ!」

 

「逃げるな」

 

「逃げるわ!」

 

「困る」

 

「俺の台詞だ!」

 

 綱は僅かに眉を寄せた。

 

「では、どうすれば死ぬか教えてくれ」

 

「誰が教えるか!」

 

「なら仕方ない」

 

 鬼切安綱を構える。

 

 正眼。

 

 刃先はぶれない。

 

 男はそこで初めて理解した。

 

 この人間は怒っていない。

 

 自分を憎んでもいない。

 

 人を食われた正義感で激昂しているわけでもない。

 

 殺すことを楽しんでもいない。

 

 むしろ斬り合いそのものには、微かな嫌悪すらある。

 

 なのに。

 

 だからこそ。

 

 止まらない。

 

 人を食った。

 

 危険。

 

 放置できない。

 

 斬る。

 

 その判断の間に、何も挟まらない。

 

「……化け物」

 

 男が呟く。

 

 綱は聞こえていた。

 

「俺は人間だ」

 

「嘘つけ……」

 

「何故だ」

 

「普通の人間が……鬼の腕を、あんな……!」

 

 そこで綱は初めて、その言葉へ反応した。

 

「鬼?」

 

 男の顔が変わる。

 

「今、鬼と言ったな」

 

「…………」

 

「それがお前たちの呼び名か」

 

「……知らねぇ」

 

「そうか」

 

 綱の視線が僅かに細くなる。

 

 鬼。

 

 聞き覚えのない話ではない。

 

 昔話。

 

 伝承。

 

 祖先。

 

 鬼切。

 

 だが。

 

「まさかな」

 

 小さく呟く。

 

 目の前の男が身を震わせる。

 

 綱はその震えを恐怖だと理解した。

 

 だが何故自分を怖がるのかは、よく分からなかった。

 

「安心しろ」

 

「何をだよ……」

 

「朝までには終わる」

 

「何一つ安心できねぇ!」

 

 男の絶叫が夜の路地に響いた。

 

 綱は刀を振るう。

 

 斬。

 

 再生。

 

 斬。

 

 また再生。

 

 そのたびに観察する。

 

 速度。

 

 限界。

 

 肉体の構造。

 

 攻撃の癖。

 

 男が抵抗するたび、腕を斬る。

 

 逃げようとするたび、脚を斬る。

 

 再生した瞬間を狙う。

 

 いつしか鬼の方が攻撃することをやめた。

 

 攻撃すれば、その部位を斬られる。

 

 何もしなくても、再生すれば斬られる。

 

 夜が長い。

 

 途方もなく長い。

 

 そして。

 

 空の端が僅かに白み始めた頃。

 

「……や、めろ」

 

 鬼の声にはもう力がなかった。

 

「もうすぐ朝だ」

 

「だから……やめろ……!」

 

 初めて、鬼が太陽を恐れていることを綱は知る。

 

「朝が怖いのか」

 

「来るな……来るな、来るな……!」

 

 綱が空を見る。

 

 東。

 

 薄明。

 

 鬼の身体が猛烈な勢いで再生を始めた。

 

 逃げるため。

 

「なるほど」

 

 綱は構える。

 

「朝日で死ぬのか」

 

 鬼の顔が絶望に染まる。

 

「てめぇ……!」

 

 綱が斬る。

 

 脚。

 

 鬼が倒れる。

 

「やめろ!」

 

 腕。

 

「離せ!」

 

 もう一方。

 

「死にたくない!」

 

 その言葉で。

 

 ほんの一瞬。

 

 綱の刀が止まった。

 

 死にたくない。

 

 当然だ。

 

 人間ならそう思う。

 

 では、これは?

 

 鬼。

 

 人を食った。

 

 だが。

 

 死ぬことを恐れている。

 

 綱は、その感情を理解できる。

 

 理解できるからこそ。

 

「すまない」

 

 鬼の目が見開かれる。

 

「だが、お前を逃がせば、また人を食うのだろう」

 

「食わねぇ! もう食わねぇから!」

 

「信じられない」

 

「頼む!」

 

 綱は男を見る。

 

 泣いている。

 

 本当に死にたくないのだろう。

 

 憐れだと思う。

 

 たぶん。

 

 少なくとも胸の内に、微かな重さを感じる。

 

 だが。

 

 それと判断は別だった。

 

「すまない」

 

 もう一度。

 

 今度は本当に謝罪だった。

 

「俺には、お前を放置できない」

 

 鬼切が閃く。

 

 その瞬間。

 

 朝日が路地へ差し込んだ。

 

「ぁ――」

 

 男の身体が燃えた。

 

 炎ではない。

 

 皮膚が崩れる。

 

 灰。

 

 肉体が端から消滅していく。

 

「嫌だ……」

 

 鬼が呟く。

 

「嫌だ……死にたく……」

 

 綱は黙って見ていた。

 

 逃がさないため刀を構えたまま。

 

 やがて。

 

 何も残らなくなった。

 

 朝の光。

 

 静かな路地。

 

 残されたのは、食われた人間の遺体と。

 

 一晩中刀を振っていた男だけ。

 

 綱はしばらく灰の消えた場所を見る。

 

「鬼……か」

 

 刀を見る。

 

 鬼切安綱。

 

 髭切。

 

 先祖が鬼を斬ったという伝承。

 

「……出来すぎているな」

 

 だが事実だ。

 

 なら調べる必要がある。

 

 刀を納める。

 

 疲労はある。

 

 腕も重い。

 

 一晩中斬り続けたのだから当然だ。

 

 それでも歩ける。

 

 宮内省へ報告しなければならない。

 

 そして。

 

 食われた人間の身元も調べる必要がある。

 

 綱は遺体へ視線を落とす。

 

「遅くなってすまない」

 

 救えなかった人間。

 

 返事はない。

 

 綱は遺体へ一礼した。

 

 その時だった。

 

「――動くな!」

 

 鋭い声。

 

 綱の視線が上がる。

 

 屋根の上。

 

 一人。

 

 黒い詰襟。

 

 腰には刀。

 

 さらに背後から二人。

 

 全員が綱へ殺気を向けている。

 

 一般人ではない。

 

 警察でも軍人でもない。

 

 綱は柄には触れなかった。

 

「何者だ」

 

 黒装束の男が問う。

 

 綱も同じことを聞きたかった。

 

「宮内省の渡辺だ」

 

 三人が一瞬、黙る。

 

「……宮内省?」

 

「ああ」

 

「ここで何をしている」

 

「鬼を斬っていた」

 

 さらに沈黙。

 

 三人の視線が、地面へ。

 

 鬼の気配。

 

 ない。

 

 朝日に焼かれた。

 

 だが戦闘痕は異常だった。

 

 石畳。

 

 壁。

 

 大量の血。

 

 何十。

 

 いや。

 

 何百回斬ったのか。

 

 そして目の前の男が持っている刀。

 

 日輪刀ではない。

 

 隊服でもない。

 

 藤の家紋もない。

 

 なのに。

 

「……お前」

 

 一人の隊士が掠れた声を出した。

 

「まさか……日輪刀なしで、鬼と一晩戦ってたのか?」

 

 綱は少し考えた。

 

「その刀を日輪刀と呼ぶのなら、俺のは違う」

 

 三人の顔が引き攣った。

 

 綱はそれに気づく。

 

「何か変なことを言っただろうか」

 

 誰も答えない。

 

 ただ。

 

 三人の鬼殺隊士は、その朝。

 

 後に鬼舞辻無惨と上弦の鬼たちからさえ、その存在を疎まれることになる男と出会った。

 

 鬼の存在を知らず。

 

 日の呼吸も知らず。

 

 日輪刀も知らず。

 

 鬼舞辻無惨という名すら知らない。

 

 ただ剣だけを振り続け。

 

 人の身のまま。

 

 鬼を斬れるところまで来てしまった男。

 

 頼光四天王――渡辺綱。

 

 その血を継ぎ。

 

 その名を継ぎ。

 

 その刀を継いだ末裔。

 

 渡辺綱。

 

 もっとも。

 

 本人に言わせれば。

 

 そんな大層な話ではない。

 

 鬼が人を襲っていた。

 

 だから斬った。

 

 それだけなのだから。

 

 ――そしてこの出会いから。

 

 渡辺綱はようやく知ることになる。

 

 この国の夜には。

 

 自分が思っていたよりもずっと多くの、

 

 斬るべきものが潜んでいることを。

 

 そしていつの日か。

 

 その夜の果てで。

 

 炭を売る一人の少年と、

 

 人であろうとする一人の鬼に出会うことを。

 

 まだ。

 

 彼は知らない。

 

 ――『鬼切異聞』。

 

 その始まりである。

 

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