鬼滅の刃 ―鬼切異聞―   作:からし明太子

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第一話 渡辺の末裔

 

 

 朝日が、路地の奥まで差し込んでいた。

 

 ほんの少し前までそこにあった鬼の身体は、もう跡形もない。

 

 灰すら残さず消えた場所を挟んで、四人の人間が向かい合っている。

 

 三人は黒い詰襟。

 

 腰には刀。

 

 その刀身は既に鞘の中へ収まっていたが、柄からして軍刀とは違う。

 

 そしてもう一人。

 

 渡辺綱。

 

 白い羽織の下に動きやすい黒の装束。

 

 夜通しの戦闘で袖口には血が飛び、肩口にも僅かな裂け目がある。

 

 腰には古刀。

 

 髭切。

 

 ――あるいは、鬼切安綱。

 

「……宮内省?」

 

 黒服の男の一人が、もう一度聞き返した。

 

「ああ」

 

 綱は頷く。

 

「宮内省の渡辺綱だ」

 

「渡辺……綱?」

 

 別の男が眉を寄せた。

 

 名前に聞き覚えがあったのかもしれない。

 

 だが今は、それより気になるものがある。

 

 足元。

 

 大量の血痕。

 

 何度も何度も刃が叩き込まれた跡。

 

 石畳の一部など、刀傷で削れている。

 

 そして――日輪刀ではない刀。

 

「その刀を見せろ」

 

 一人が言った。

 

 若い。

 

 二十歳前後。

 

 険のある目。

 

 綱は彼を見る。

 

「何故だ?」

 

「本当に日輪刀じゃないのか確認する」

 

「日輪刀というものを俺は知らない」

 

「……抜け」

 

「断る」

 

 即答だった。

 

 若い男の目が鋭くなる。

 

「何だと?」

 

「初対面の相手に刀を渡す理由がない」

 

 声は静かだ。

 

 挑発ではない。

 

 だが若者にとっては、そう聞こえたらしい。

 

「こっちは鬼殺隊だぞ」

 

「そうか」

 

「…………」

 

「それで?」

 

「お前な……!」

 

 男が一歩前へ出る。

 

 中央にいた年長の隊士が肩を掴んだ。

 

「やめろ、柴崎」

 

「ですが!」

 

「この人の言っていることの方が正しい」

 

 柴崎と呼ばれた青年が唇を噛む。

 

 年長の隊士は綱へ向き直った。

 

 三十代半ば。

 

 頬に古い傷。

 

 目元には深い疲れが刻まれている。

 

「失礼しました」

 

「いや」

 

「鬼殺隊、癸――では通じませんね」

 

「分からない」

 

「でしょうね」

 

 男は僅かに苦笑した。

 

「名を沢村と言います。こちらは柴崎。もう一人が村井」

 

 最後の一人が軽く頭を下げる。

 

 綱も同じように返した。

 

「それで、沢村殿」

 

「殿は結構です」

 

「そうか。では沢村」

 

「……切り替えが早いですね」

 

「駄目だったか?」

 

「いえ」

 

 どうにも調子が狂う。

 

 沢村は小さく息を吐いた。

 

「一つずつ聞きます。昨夜、ここにいたのは鬼ですね?」

 

「おそらく」

 

「おそらく?」

 

「俺が『鬼』という呼称を知ったのは、つい先ほどだ」

 

「…………」

 

「人間ではない。人を食う。首を斬っても死なない。身体を再生する。朝日で消滅する。それを鬼と呼ぶなら、そうなのだろう」

 

 三人が黙った。

 

 綱が何かおかしなことを言ったわけではない。

 

 むしろ、整理の仕方は正確だった。

 

 正確すぎた。

 

「あなたは……昨日まで鬼を知らなかった?」

 

「ああ」

 

「日輪刀も?」

 

「ああ」

 

「藤の花は?」

 

「花としてなら知っている」

 

 柴崎が頭を抱えた。

 

「何なんだよこの人……」

 

「聞こえているぞ」

 

「すみません!」

 

「気にしていない」

 

 沢村は、もう一度現場を見る。

 

 鬼が消滅した地点から、斬撃の痕跡が路地の奥まで続いている。

 

 何十回。

 

 いや、それ以上だ。

 

「一晩中、戦ったんですか?」

 

「正確には三時間と四十分ほどだ」

 

「…………」

 

「途中で再生速度が落ち始めたので、後半は少し楽だった」

 

「楽……」

 

「動きも単調になった」

 

 柴崎が、たまらず口を挟む。

 

「いや、ちょっと待ってください」

 

「何だ」

 

「鬼相手に一晩戦って、感想が『後半は楽だった』なんですか?」

 

「そうだが」

 

「鬼ですよ!?」

 

「ああ」

 

「普通の刀ですよ!?」

 

「名刀だ」

 

「そういう問題じゃない!」

 

 綱は僅かに眉を寄せた。

 

 困っている。

 

 本当に、何を怒られているのか理解できていないらしい。

 

「では、どうするのが普通なんだ?」

 

「逃げますよ!」

 

「逃がせば人を食うだろう」

 

「だから鬼殺隊を呼ぶんです!」

 

「呼び方を知らなかった」

 

「…………」

 

「だから自分で斬った」

 

 柴崎は口を開いたまま止まった。

 

 沢村が額を押さえた。

 

「なるほど……」

 

「理解してもらえたか」

 

「理解したくありませんでしたが」

 

 綱には、その違いがよく分からない。

 

 その時。

 

 村井が、遺体の方へ近づいた。

 

 鬼に食われていた男。

 

「……この人」

 

 声が低くなる。

 

 綱の視線もそちらへ向いた。

 

「生きていない」

 

「分かっています」

 

 村井はしゃがみ込む。

 

 手を合わせた。

 

「俺たちが、もう少し早く来ていれば」

 

「違う」

 

 三人が綱を見る。

 

「この人が死んだのは、俺がここへ来るより前だ」

 

「だからって――」

 

「お前たちの責任ではない」

 

 淡々とした言葉。

 

 しかし、冷たくはなかった。

 

「救えなかった者すべてを自分の責任にしていれば、いずれ何もできなくなる」

 

 沢村の目が僅かに見開かれた。

 

 綱は遺体を見る。

 

「俺も間に合わなかった」

 

 ほんの少し。

 

 声が低くなった。

 

「それだけだ」

 

 悲しんでいないように見える。

 

 だがそうではない。

 

 沢村には、それが何となく分かった。

 

 この男はたぶん――感情の出し方が、自分たちと違うだけなのだ。

 

「……宮内省の方でしたね」

 

「ああ」

 

「何故、この事件を?」

 

「命令された」

 

「それだけですか?」

 

「仕事だからな」

 

「危険でも?」

 

「危険だから放置するのか?」

 

 またそれだ。

 

 沢村は思わず苦笑した。

 

「いえ」

 

「なら同じだろう」

 

 たしかに。

 

 鬼殺隊も同じだ。

 

 鬼がいる。

 

 人が襲われる。

 

 だから行く。

 

 それをこの男は、組織すら知らず一人でやった。

 

「渡辺さん」

 

「何だ」

 

「少し、場所を変えませんか」

 

 綱の目が僅かに鋭くなる。

 

「理由は?」

 

「ここでは話せないことがあります」

 

「鬼についてか」

 

「はい」

 

「分かった」

 

 即答。

 

 沢村が逆に戸惑った。

 

「……随分すぐ信用するんですね」

 

「信用はしていない」

 

「え」

 

「だが、鬼のことを知っているのは事実らしい。話を聞く価値はある」

 

「…………」

 

「もし騙しているなら、その時考える」

 

 柴崎がぼそりと呟いた。

 

「怖ぇ……」

 

「何か言ったか?」

 

「何でもないです!」

 

     ◇

 

 案内されたのは、町外れにある古い屋敷だった。

 

 門に藤の家紋。

 

 綱はそれを見上げる。

 

「藤か」

 

「知っていますか」

 

「鬼が嫌うのか?」

 

 沢村の足が止まった。

 

「何故分かったんです」

 

「わざわざ意匠として強調している。鬼に関係があるのだろう」

 

「……本当に何者なんですか」

 

「渡辺だ」

 

「それはもう知っています」

 

 屋敷の中へ。

 

 女主人が迎えた。

 

 鬼殺隊の協力者らしい。

 

 朝食まで出された。

 

「どうぞ」

 

「いただきます」

 

 綱は普通に食べ始めた。

 

 白飯。

 

 味噌汁。

 

 焼き魚。

 

 沢村たちは綱をちらちら見る。

 

「何だ」

 

「いや……」

 

「食べないのか?」

 

「食べます」

 

 夜通し鬼を刻んでいた男が、ごく普通に朝飯を食べている。

 

 奇妙な光景だった。

 

 もっとも、綱にとっては腹が減ったから食べているだけだ。

 

「それで」

 

 味噌汁を一口飲み、綱が口を開く。

 

「鬼とは何だ」

 

 沢村が箸を置いた。

 

「人を喰う化け物です」

 

「それは見た」

 

「元は人間です」

 

 綱の箸が、ほんの僅かに止まる。

 

「元は?」

 

「はい」

 

「生まれた時からああではないのか」

 

「違います」

 

 沢村は説明する。

 

 鬼。

 

 人間を食う。

 

 夜に生きる。

 

 怪力。

 

 再生能力。

 

 血鬼術。

 

 朝日に弱い。

 

 そして。

 

「始祖の鬼」

 

「名前は?」

 

「鬼舞辻無惨」

 

 綱は、その名を頭の中で反芻した。

 

「鬼舞辻無惨」

 

「千年以上生きていると言われています」

 

「千年」

 

「すべての鬼の始まりです」

 

 綱は焼き魚を一口。

 

「長生きだな」

 

 柴崎が吹き出しかけた。

 

「感想それですか!?」

 

「他に何と言えばいい」

 

「いや、もっと……」

 

「驚いてはいる」

 

「見えません!」

 

「そうか」

 

 沢村は続ける。

 

「鬼は無惨の血で増えます。そして俺たち鬼殺隊は、鬼を討つために存在しています」

 

「政府の組織ではないのか」

 

「違います」

 

「非公認?」

 

「はい」

 

「予算は」

 

「……産屋敷家が」

 

「なるほど」

 

 綱は真面目に聞いている。

 

 だが視点が妙に役人だった。

 

「構成員は?」

 

「……何人くらいだったかな」

 

「把握していないのか?」

 

「鬼退治の組織ですよ! 役所じゃないんだから!」

 

「組織なら人数くらい把握した方がいいと思うが」

 

「ぐっ」

 

 沢村が咳払いする。

 

「それで、鬼は日輪刀で首を斬れば死にます」

 

「昨日の刀か」

 

「そうです」

 

「材料は?」

 

「猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石です。日の光を吸っている特殊な鉱石で――」

 

 綱の視線が、腰の髭切へ落ちる。

 

「便利だな」

 

 三人が固まった。

 

「……便利?」

 

「首を一度斬ればいいのだろう」

 

「普通はその一度が命懸けなんです!」

 

「そうなのか」

 

「そうなんです!」

 

 綱は少し考え込んだ。

 

「なら、一度で斬れるように修行すればいい」

 

 柴崎が卓袱台へ額を打ちつけた。

 

「簡単に言うなぁ……!」

 

 綱は彼を見下ろす。

 

「何かおかしいことを言っただろうか」

 

「全部ですよ……!」

 

 沢村はもう笑うしかなかった。

 

     ◇

 

「呼吸?」

 

 食事を終えた頃。

 

 話は剣術へ移った。

 

「はい」

 

 柴崎が綱を見る。

 

「渡辺さん、昨日使ってましたよね?」

 

「何を」

 

「全集中の呼吸」

 

「知らない」

 

「いや絶対使ってたでしょう!」

 

「だから何だ、それは」

 

 沢村が説明を引き継ぐ。

 

「特殊な呼吸法です。大量の酸素を取り込み、身体能力を一時的に高める」

 

「……」

 

 綱は黙る。

 

「心当たりが?」

 

「あるにはある」

 

「やっぱり!」

 

「ただ」

 

 綱は自分の胸元へ手を当てた。

 

「別に特別なものではないと思う」

 

「え?」

 

「刀を振る時、最も身体が動きやすい呼吸を探していけば、自然とこうなった」

 

 三人が黙った。

 

「誰に習ったんです?」

 

「父から基礎は」

 

「呼吸を」

 

「呼吸は誰にも」

 

「独学?」

 

「ああ」

 

「何歳から?」

 

「意識し始めたのは十一か十二頃だったと思う」

 

「常時できます?」

 

 綱が首を傾げる。

 

「常時とは」

 

「寝てる時以外、ずっと」

 

「呼吸ならずっとしているだろう」

 

「そうじゃなくて……!」

 

 柴崎が頭を掻きむしる。

 

「もういい! この人に説明するの疲れた!」

 

「すまない」

 

「だから素直に謝らないでください!」

 

 沢村だけは笑わなかった。

 

 綱の呼吸。

 

 姿勢。

 

 歩き方。

 

 何気ない所作。

 

 昨日の戦闘痕。

 

 すべてを思い返す。

 

 もし、本当に。

 

 鬼殺隊へ入る前から。

 

 呼吸法を教わる前から。

 

 自分たちが命を削って身につける技術に、自力で近い場所まで到達しているのなら。

 

「……一度」

 

 沢村が言う。

 

「刀を振ってもらえませんか」

 

「構わない」

 

     ◇

 

 庭。

 

 朝露がまだ残っている。

 

 綱は白い羽織を脱ぎ、縁側へ置いた。

 

 黒を基調とした装束。

 

 細身に見える。

 

 だが腕を上げた瞬間、袖の下にある筋肉が分かる。

 

 肥大した身体ではない。

 

 必要な場所だけが、異常なまでに鍛えられている。

 

 綱は髭切の柄へ手を掛けた。

 

「何を斬ればいい」

 

 柴崎が丸太を運んでくる。

 

「これを」

 

「分かった」

 

「技とかあります?」

 

「ある」

 

「何を使います?」

 

 綱は丸太を見る。

 

「必要ない」

 

「…………」

 

 抜く。

 

 誰にも。

 

 見えなかった。

 

 音だけが遅れて届く。

 

 キン、と鍔鳴り。

 

 そして。

 

 丸太の上半分が、ずれた。

 

 落ちる。

 

 切断面。

 

 滑らか。

 

 柴崎の口が開く。

 

「……は?」

 

 綱は納刀している。

 

「こんなものか」

 

「今……」

 

「何だ」

 

「抜きました?」

 

「ああ」

 

「いつです?」

 

 綱は困った。

 

「今だが」

 

「そうじゃなくて!」

 

 沢村は何も言わない。

 

 見えなかった。

 

 抜刀の開始。

 

 肩。

 

 肘。

 

 手首。

 

 どこにも「これから斬る」という起こりがなかった。

 

 気がつけば、斬った後。

 

「もう一回お願いします」

 

 沢村が言う。

 

「構わない」

 

 今度は集中する。

 

 見る。

 

 見る。

 

 見る。

 

 綱の目。

 

 肩。

 

 腰。

 

 指。

 

 呼吸。

 

 何も変わらない。

 

 ――斬。

 

 また終わっている。

 

 沢村の背中を、冷たい汗が流れた。

 

「……何ですか、今の」

 

「抜刀だ」

 

「それは分かります」

 

「なら何が知りたい」

 

「どうやってるんです」

 

 綱は少し考える。

 

「相手が反応する前に斬る」

 

「それができないから聞いてるんです」

 

「そうなのか」

 

 柴崎が天を仰いだ。

 

「また始まった……」

 

 綱は本当に不思議そうだ。

 

「なら、相手を見る」

 

「どこを?」

 

「全部」

 

「全部?」

 

「目。肩。腰。足。重心。呼吸」

 

「同時に?」

 

「ああ」

 

「無理ですよ」

 

 即答。

 

 綱が僅かに首を傾げる。

 

「何故だ?」

 

「何故だじゃない!」

 

「慣れれば見える」

 

「何年やったらですか!?」

 

「覚えていない」

 

 柴崎が膝から崩れた。

 

 沢村は笑えなかった。

 

 目の前にいる男。

 

 鬼を知らない。

 

 日輪刀を知らない。

 

 呼吸の名すら知らない。

 

 それなのに。

 

 鬼殺隊で何年も生き延びた自分より――

 

 剣士として、遥か先にいる。

 

「渡辺さん」

 

「何だ」

 

「産屋敷様に会っていただけませんか」

 

 綱の目が変わった。

 

「誰だ」

 

「鬼殺隊の当主です」

 

「俺を呼んでいるのか?」

 

「まだ報告していません」

 

「なら、何故」

 

「会わせるべきだと思いました」

 

 綱は少し考える。

 

「今日中か?」

 

「いえ。先方の都合もありますから」

 

「ならいい」

 

「……何か予定が?」

 

「仕事がある」

 

 沢村。

 

「仕事」

 

「ああ」

 

「鬼を一晩中斬った翌日ですよ」

 

「今日は出勤日だ」

 

「休まないんですか?」

 

「何故だ?」

 

「寝てないからです!」

 

「四時間ほど寝れば足りる」

 

「昨日も四時間だったでしょう!」

 

 綱は考える。

 

「では今日は早く寝る」

 

「そうしてください!」

 

     ◇

 

 その日の午前九時。

 

 宮内省。

 

「おはようございます」

 

 いつも通りの声。

 

 綱が入ってくる。

 

 小林が顔を上げた。

 

「おはようござ――」

 

 止まった。

 

「渡辺さん」

 

「何だ」

 

「その服」

 

 綱の袖には、落とし切れなかった血の染み。

 

「少し汚れた」

 

「少し!?」

 

「声が大きい」

 

「何があったんですか!」

 

「夜の調査だ」

 

「何と戦ったらそうなるんです!?」

 

 綱は自席へ荷物を置く。

 

 少し考えた。

 

 今朝知った言葉。

 

「鬼だ」

 

 小林が笑った。

 

「はいはい、鬼ですね」

 

「ああ」

 

「……」

 

「ああ」

 

 小林の笑顔が消える。

 

「え?」

 

「鬼だった」

 

「…………」

 

「人を食っていた」

 

「…………渡辺さん?」

 

「何だ」

 

「寝不足ですよね?」

 

「四時間しか寝ていない」

 

「ですよね!」

 

「だが幻覚ではない」

 

「怖い怖い怖い! 真顔で言わないでください!」

 

 綱は椅子へ座る。

 

 机の上。

 

 昨日途中だった書類。

 

 筆を取る。

 

「仕事をする」

 

「待って! 鬼の話終わってませんよ!」

 

「報告書なら午後に出す」

 

「そういう意味じゃない!」

 

 小林が騒ぐ。

 

 周囲の同僚が笑う。

 

 いつも通りの職場。

 

 いつも通りの朝。

 

 ただ。

 

 渡辺綱にとって。

 

 世界は昨日までと、ほんの少しだけ変わっていた。

 

 鬼。

 

 人を喰う。

 

 夜に潜む。

 

 朝日で死ぬ。

 

 そして。

 

 鬼殺隊。

 

 知らなかっただけで。

 

 ずっとこの国のどこかで、人間と鬼は殺し合っていたらしい。

 

 なら。

 

 綱は筆を走らせながら、静かに考える。

 

 知ってしまった以上。

 

 人が襲われていると分かっていながら。

 

 何もしないという選択は。

 

 ――おそらく、自分にはできない。

 

 別に鬼を憎んでいるわけではない。

 

 昨夜の鬼にも。

 

 死に際には多少の憐れみを覚えた。

 

 死にたくないという気持ちも理解できた。

 

 だが。

 

 それと。

 

 人を喰う鬼を止めることは別だ。

 

「渡辺さん?」

 

 小林の声。

 

「何だ」

 

「ぼーっとしてましたけど」

 

「そうか」

 

「珍しいですね」

 

「ああ」

 

 綱は少しだけ視線を落とす。

 

「考え事をしていた」

 

「鬼のこと?」

 

「ああ」

 

「本当にいるんですか?」

 

「いる」

 

「怖くないんです?」

 

 綱は少し考えた。

 

 昨夜の爪。

 

 再生。

 

 首だけでも喋る異様な生命。

 

 恐怖。

 

「……どうだろうな」

 

「どうだろうって」

 

「人間よりは、分かりやすかった」

 

「何が?」

 

「斬っていいかどうかが」

 

 小林は黙った。

 

 綱は書類へ視線を戻した。

 

「人間を斬る方が難しい」

 

「……普通、逆じゃないですかね」

 

「そうなのか?」

 

「多分」

 

「そうか」

 

 綱は少し困ったように眉を寄せた。

 

 小林はその横顔を見ながら、何となく思う。

 

 昨日までと同じ渡辺綱。

 

 だが。

 

 たぶん。

 

 何かが始まっている。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 遠く離れた屋敷。

 

 庭には藤の花。

 

 まだ季節ではないにもかかわらず、その一角だけは甘い香りが漂っていた。

 

 白い肌。

 

 病によって弱った身体。

 

 穏やかな声音の男が、鎹鴉から届いた報告を聞いていた。

 

「……日輪刀を持たずに?」

 

 側仕えが頷く。

 

「はい」

 

「鬼を朝まで拘束した」

 

「はい」

 

「呼吸についての知識もない」

 

「そのようです」

 

 男は僅かに笑った。

 

「面白い人だね」

 

「宮内省に所属する渡辺綱という人物だそうです」

 

「渡辺……綱」

 

 その名を。

 

 ゆっくり口にする。

 

「渡辺綱か」

 

 古い名。

 

 この国に昔から残る、鬼斬りの名。

 

「偶然かな」

 

「お調べしますか?」

 

「お願いしよう」

 

 男――産屋敷耀哉は、柔らかく微笑む。

 

「でも、無理にこちらへ引き込んではいけないよ」

 

「はい」

 

「彼には彼の役目があるのだろうから」

 

 庭先で藤の花が揺れる。

 

「ただ」

 

 耀哉は静かに言った。

 

「一度、会ってみたいな」

 

 鬼殺隊の当主。

 

 そして。

 

 鬼殺隊に属さぬ鬼斬り。

 

 二人が顔を合わせるまで。

 

 そう時間は掛からなかった。

 

 その出会いが。

 

 後に鬼殺隊の戦いそのものへ、大きな変化をもたらすことを。

 

 まだ誰も知らない。

 

 鬼舞辻無惨すらも。

 

 ――この時は、まだ。

 

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