鬼滅の刃 ―鬼切異聞―   作:からし明太子

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第二話 産屋敷の主

 

 

 渡辺綱が「鬼」という存在を知ってから、三日が過ぎた。

 

 その三日間で、彼の生活が劇的に変わったかと言えば――そんなことはなかった。

 

 朝五時に起きる。

 

 井戸水で顔を洗う。

 

 庭に出る。

 

 刀を振る。

 

 朝餉を済ませ、宮内省へ出仕する。

 

 仕事を片付ける。

 

 帰宅する。

 

 また刀を振る。

 

 風呂に入り、寝る。

 

 昨日までとほとんど同じだった。

 

 ただ一つ。

 

 机の隅に、新しい資料が積み上がっていることを除けば。

 

 鬼。

 

 夜間の失踪。

 

 原因不明の惨殺事件。

 

 獣害として処理された記録。

 

 死体の一部だけが見つかった事件。

 

 何十年も前から残る、説明のつかない報告書。

 

「……多いな」

 

 綱が呟いた。

 

 宮内省の資料室。

 

 窓から差し込む午後の日差しの中、古びた紙の匂いが漂っている。

 

 机いっぱいに広げられた資料。

 

 隣では小林が、既にげんなりした顔をしていた。

 

「何がです?」

 

「似た事件だ」

 

「そりゃあまあ……人が行方不明になる事件くらい昔からありますよ」

 

「それだけではない」

 

 綱は一枚を抜き出す。

 

 明治二十九年。

 

 山間部。

 

 一家六人失踪。

 

 屋内に大量の血。

 

 遺体なし。

 

 次。

 

 明治三十四年。

 

 旅人三名死亡。

 

 首と手足に食害痕。

 

 大型獣と断定。

 

 だが、事件が起きたのは人家の密集地。

 

 さらに次。

 

 明治四十一年。

 

 夜警二名が行方不明。

 

 翌朝、刀と衣服だけが発見された。

 

「これ」

 

 綱が指で紙を叩く。

 

「何です?」

 

「共通している」

 

「何が?」

 

「夜だ」

 

「……夜?」

 

「事件が起きるのは日没から夜明けまで。朝になってから被害が発生した記録がほとんどない」

 

 小林の顔から少しずつ冗談めいた色が消えていった。

 

「それって……」

 

「ああ」

 

 綱は書類を閉じる。

 

「鬼だと仮定すれば、説明できる事件が多い」

 

「……本気で調べてたんですか」

 

「何故調べない?」

 

「いや、だって」

 

 小林は声を潜める。

 

「普通は『鬼がいました』なんて言われたら、自分の目を疑うでしょう」

 

「見間違いではない」

 

「そういうところですよ」

 

「どこだ」

 

「そこです」

 

 綱は少し考えた。

 

 分からなかった。

 

 諦めて資料へ視線を戻す。

 

「渡辺さん」

 

「何だ」

 

「怖くないんです?」

 

 この質問は、鬼と遭遇してから何度目だろう。

 

 小林だけではない。

 

 上司の佐々木にも聞かれた。

 

 鬼殺隊の沢村にも聞かれた。

 

 綱はそのたび、答えに少し困る。

 

「怖くないわけではないと思う」

 

「思う?」

 

「首を斬っても動いた時は驚いた」

 

「それ、恐怖じゃなくて驚愕でしょう」

 

「違うのか?」

 

「違います」

 

「そうか」

 

 小林は机へ突っ伏した。

 

「もう駄目だこの人」

 

「聞こえているぞ」

 

「聞かせてます」

 

 綱は気にせず、次の書類へ手を伸ばす。

 

 その時だった。

 

「渡辺」

 

 資料室の入口。

 

 佐々木が立っていた。

 

「はい」

 

「少しいいか」

 

 声が仕事用ではない。

 

 綱はすぐに立つ。

 

 小林も顔を上げた。

 

「例の件ですか?」

 

「小林」

 

「はい」

 

「ここから先は聞くな」

 

「……ですよね」

 

「悪いな」

 

 小林は不満そうだったが、素直に引き下がった。

 

「じゃあ渡辺さん」

 

「何だ」

 

「死なないでくださいね」

 

 綱が瞬きをする。

 

「今日は誰かと斬り合う予定はないが」

 

「そういう話じゃないんですよ」

 

「そうなのか」

 

「……もういいです」

 

 小林が去っていく。

 

 その背を見送ってから、綱は佐々木へ向き直った。

 

「何でしょう」

 

「客だ」

 

「俺に?」

 

「ああ」

 

「誰です」

 

「鬼殺隊」

 

 綱の目が僅かに細くなった。

 

     ◇

 

 宮内省の応接室。

 

 待っていたのは、三日前に会った沢村ではなかった。

 

 若い女性だった。

 

 白樺のような白い髪。

 

 柔らかな物腰。

 

 しかし姿勢に隙がない。

 

 鬼殺隊の隊服ではなく、落ち着いた和服姿だった。

 

 彼女は綱を見ると、静かに一礼する。

 

「渡辺綱様でしょうか」

 

「ああ」

 

 佐々木が横から咳払いした。

 

「渡辺」

 

「何です」

 

「初対面の女性だぞ」

 

「それが?」

 

「もう少し愛想というものをだな」

 

 綱は女性を見る。

 

 少し考えた。

 

「……渡辺綱です。よろしくお願いします」

 

 佐々木が額を押さえた。

 

「違う。まあいい」

 

 女性は僅かに微笑んだ。

 

「お気になさらず。産屋敷あまねと申します」

 

「産屋敷」

 

 綱はその名を反芻した。

 

 三日前。

 

 沢村から聞いた。

 

「鬼殺隊の当主と同じ姓だな」

 

「はい。夫です」

 

「そうか」

 

 あまねは、一瞬だけ綱の反応を待ったようだった。

 

 何も続かない。

 

「……驚かれないのですね」

 

「夫婦なら姓が同じなのは普通では?」

 

「そこではありません」

 

「そうなのか?」

 

 横で佐々木が深い溜息を吐いた。

 

「渡辺、頼むから話を進めてくれ」

 

「分かりました」

 

 綱はあまねを見る。

 

「用件を」

 

「夫が、あなたにお会いしたいと申しております」

 

「鬼殺隊の当主が?」

 

「はい」

 

「理由は」

 

「直接お話ししたい、と」

 

「分かった」

 

「……よろしいのですか?」

 

「ああ」

 

 今度はあまねが僅かに目を瞬いた。

 

「場所も、こちらの素性も、まだ何も説明しておりませんが」

 

「鬼について知りたい」

 

「はい」

 

「あなたたちは鬼について知っている」

 

「その通りです」

 

「なら会う価値がある」

 

 単純明快だった。

 

 疑いがないわけではない。

 

 だが疑いだけで情報を拒絶する理由もない。

 

「ただし」

 

 綱が続ける。

 

「今日は無理だ」

 

「……はい?」

 

「仕事が残っている」

 

 あまねが珍しく言葉に詰まる。

 

「宮内省のお仕事が?」

 

「ああ」

 

「鬼に関わる重要なお話なのですが」

 

「それとこれとは別だ」

 

 佐々木が顔を覆った。

 

「渡辺……」

 

「何です」

 

「いや。お前はそれでいい」

 

「?」

 

 あまねは綱を数秒見つめたあと、口元にごく小さな笑みを浮かべた。

 

「夫から聞いていた通りの方のようです」

 

「俺について?」

 

「はい」

 

「何と」

 

「お会いしてからのお楽しみに、と言われています」

 

「そうか」

 

 綱はそれ以上追及しなかった。

 

「明日なら休みだ」

 

「では、明日の午前にお迎えへ参ります」

 

「分かった」

 

 話が終わった。

 

 綱が立つ。

 

「あの」

 

 あまねが呼び止める。

 

「何だ」

 

「……刀をお持ちになりますか」

 

「当然だろう」

 

「そうですね」

 

「駄目なのか?」

 

「いいえ」

 

 あまねは首を横へ振った。

 

「むしろ、夫も拝見したいでしょう」

 

 綱の腰。

 

 そこに今は刀はない。

 

 宮内省内では決められた場所へ預けている。

 

「髭切を?」

 

「はい」

 

 その言葉に。

 

 綱の視線が初めて、はっきり変わった。

 

「何故、その名を知っている」

 

 声は大きくない。

 

 だが空気が少しだけ張った。

 

 佐々木すら反射的に綱を見る。

 

 あまねは怯まない。

 

「産屋敷家には、鬼に関する非常に古い記録がございます」

 

「……」

 

「その中に」

 

 静かな声。

 

「渡辺綱という名も」

 

 綱が黙った。

 

「そして――髭切の名も残されています」

 

     ◇

 

 翌日。

 

 帝都を離れる列車の中。

 

 綱は窓の外を流れていく景色を眺めていた。

 

 白い外套。

 

 その内側には黒を基調とした和装。

 

 腰には一振りの刀。

 

 髭切。

 

 世間でいうところの鬼切安綱。

 

 向かいにはあまねが座っている。

 

「一つ聞いていいか」

 

「はい」

 

「鬼殺隊は、いつから存在している」

 

「正確な始まりは記録に残っておりません」

 

「そうなのか」

 

「少なくとも数百年以上は」

 

「……随分長いな」

 

「鬼舞辻無惨も、それだけ長く存在しています」

 

「何故まだ倒せていない」

 

 あまねの表情が僅かに曇った。

 

 責めたわけではない。

 

 綱はただ疑問を口にしただけだった。

 

「強いからです」

 

「それだけか?」

 

「いいえ」

 

 あまねは窓の外を見る。

 

「見つからないのです」

 

「見つからない」

 

「鬼舞辻無惨は自らの存在を隠すことに非常に長けています。姿を変え、身分を変え、鬼たちを使って情報を遮断する」

 

「臆病なのだな」

 

 あまねの視線が戻る。

 

「……そう評する方は珍しいですね」

 

「強いのだろう?」

 

「はい」

 

「なら隠れなくてもいい」

 

「確かに」

 

「だが隠れる」

 

 綱は腕を組む。

 

「死ぬのが怖いのだろう」

 

 あまりにも単純な結論。

 

 しかし。

 

 あまねは否定しなかった。

 

「夫も、似たことを申します」

 

「そうか」

 

 そこで会話が切れた。

 

 あまねは、向かいに座る男を改めて見る。

 

 二十四歳。

 

 年齢だけなら若い。

 

 だが奇妙な落ち着きがある。

 

 鬼を一晩中、一人で拘束した。

 

 日輪刀なし。

 

 呼吸の知識なし。

 

 鬼の存在すら知らない。

 

 通常ならありえない。

 

 だから産屋敷耀哉は彼を呼んだ。

 

 それだけではない。

 

 その名。

 

 渡辺綱。

 

 そして。

 

 髭切。

 

「渡辺様」

 

「綱でいい」

 

「では、綱様」

 

「様も要らない」

 

「……綱さん」

 

「ああ」

 

「渡辺家では、鬼について何か伝えられていないのですか」

 

「昔話ならある」

 

「どのような?」

 

「祖先が鬼を斬った」

 

「頼光四天王の」

 

「ああ」

 

「茨木童子」

 

 綱の視線が、あまねへ向いた。

 

「よく知っているな」

 

「有名な伝承ですから」

 

「そうだな」

 

 綱は窓外へ目を戻す。

 

「だが俺は、昔話だと思っていた」

 

「今は?」

 

「少し考えを改めた」

 

「少し、なのですね」

 

「鬼がいたからといって、伝承のすべてが事実になるわけではない」

 

「……なるほど」

 

 あまねは、微かに笑った。

 

「堅実なのですね」

 

「普通だと思うが」

 

「おそらく綱さんの普通は、世間の普通とは少し違います」

 

「最近よく言われる」

 

     ◇

 

 産屋敷邸。

 

 敷地へ足を踏み入れた瞬間。

 

 綱は一つ気づいた。

 

「藤か」

 

「はい」

 

 庭。

 

 藤。

 

 季節を外れてなお咲く花。

 

「鬼除けだな」

 

「よくお分かりで」

 

「三日前も見た」

 

 それだけではない。

 

 屋敷全体。

 

 配置。

 

 道。

 

 木々。

 

 人の動線。

 

 守ることを前提に組まれている。

 

 しかし軍の施設ほど無骨ではない。

 

 家。

 

 人が暮らす場所として保たれている。

 

 綱は周囲を見ながら歩く。

 

「気になりますか」

 

「良い場所だと思った」

 

 あまねは少し意外そうな顔をする。

 

「そうですか」

 

「ああ」

 

「綱さんにも、そういった感想があるのですね」

 

「俺を何だと思っている」

 

「夫からのお話を聞く限りでは、もう少し……」

 

「もう少し?」

 

「いえ」

 

 言うのをやめた。

 

 綱も追及しない。

 

 縁側。

 

 そこに、一人の男が座っていた。

 

 白い肌。

 

 顔の上部には病による痕。

 

 身体は見るからに弱っている。

 

 しかし。

 

 綱は足を止めた。

 

 弱い。

 

 肉体は間違いなく弱い。

 

 剣を握れば、おそらく一般人にも勝てない。

 

 なのに――

 

 不思議と軽く見ようとは思わなかった。

 

 男が笑う。

 

「初めまして」

 

 穏やかな声。

 

「渡辺綱さん」

 

「初めまして」

 

 綱は一礼した。

 

「産屋敷耀哉です」

 

「聞いている」

 

「来てくれてありがとう」

 

「こちらも聞きたいことがある」

 

「うん。そのために呼んだ」

 

 耀哉は、隣を示した。

 

「座ってくれるかい」

 

「ああ」

 

 綱が座る。

 

 あまねは耀哉の傍らへ。

 

 短い沈黙。

 

 先に口を開いたのは耀哉だった。

 

「三日前、鬼を一体倒したそうだね」

 

「倒したというより、朝まで逃がさなかっただけだ」

 

「同じことだよ」

 

「そうなのか?」

 

「鬼殺隊からすればね」

 

 耀哉は楽しそうに微笑む。

 

「それにしても、驚いた」

 

「何が」

 

「鬼を知らず、日輪刀も持たず、それでも鬼と戦い続けた」

 

「逃がすわけにはいかなかった」

 

「怖くなかった?」

 

 またその質問。

 

 綱は少しだけ考えて答える。

 

「未知の相手ではあった」

 

「うん」

 

「だから慎重にはなった」

 

「それだけ?」

 

「他に何が必要だ」

 

 耀哉は笑った。

 

 声を上げるわけではない。

 

 けれど本当に面白そうに。

 

「何かおかしかったか」

 

「いや。ごめんね」

 

「謝る必要はない」

 

「そうだね」

 

 耀哉の声には、不思議と人を苛立たせない柔らかさがある。

 

 綱も警戒を少し下げる。

 

「綱」

 

 耀哉が初めて、呼び捨てにした。

 

「そう呼んでも?」

 

「構わない」

 

「では綱。君に一つ確認したい」

 

「何だ」

 

「鬼を憎んでいるかい」

 

 意外な質問だった。

 

「いや」

 

 答えは早い。

 

 耀哉の表情は変わらない。

 

「三日前、人を喰っていた鬼も?」

 

「憎んではいない」

 

「でも斬った」

 

「ああ」

 

「どうして?」

 

 綱は耀哉を見る。

 

「人を喰ったからだ」

 

「憎くなくても?」

 

「関係があるのか?」

 

「君にとっては、ないんだね」

 

「ああ」

 

 綱は少し考え、言葉を続けた。

 

「鬼を嫌う必要はないと思う」

 

「うん」

 

「人を喰うなら止める。止まらないなら斬る。それだけだ」

 

「可哀想だとは?」

 

「思うこともあるだろう」

 

「それでも?」

 

「斬る」

 

 迷いがない。

 

 だが冷酷でもない。

 

「死にたくないと言っていた」

 

 あまねの表情が僅かに動く。

 

「三日前の鬼が?」

 

「ああ」

 

「その時、どう思ったの」

 

 耀哉が問う。

 

「可哀想だと思った」

 

 綱は正直に答える。

 

「なら何故?」

 

「逃がせば他の人間が死ぬ」

 

 それだけ。

 

「可哀想だと思うことと、斬るべきかどうかは別だろう」

 

 耀哉は目を閉じた。

 

 しばらく。

 

「……そうだね」

 

 静かな返答。

 

「きっと君は、私たちとは少し違う形で鬼を見ている」

 

「そうなのか」

 

「鬼殺隊には、鬼を強く憎む者が多い」

 

「家族を殺された?」

 

「ほとんどがそうだ」

 

「なら当然だ」

 

「君はそうではない」

 

「まだ、俺の近しい者は殺されていない」

 

 まだ。

 

 その言葉を。

 

 この時の綱は深く考えなかった。

 

「だからかもしれない」

 

 耀哉も、それ以上は触れない。

 

「もう一つ」

 

「何だ」

 

「鬼殺隊に入る気はないかい」

 

 綱は少し目を瞬いた。

 

 それから。

 

「断る」

 

 あまねですら僅かに驚くほど早かった。

 

 耀哉はむしろ微笑みを深める。

 

「理由を聞いても?」

 

「俺は宮内省の人間だ」

 

「うん」

 

「既に仕事がある」

 

「鬼を斬ることよりも?」

 

「比べるものではないだろう」

 

 綱の声は変わらない。

 

「国を守る仕事も必要だ。鬼を斬る仕事も必要なのだろう。だからといって、今している仕事を捨てる理由にはならない」

 

「なるほど」

 

「それに」

 

「それに?」

 

「鬼殺隊へ入れば、会合や報告が増えるのだろう」

 

 あまねの動きが止まった。

 

 耀哉も一瞬、黙る。

 

「……増えるね」

 

「なら、なおさら今のままでいい」

 

 耀哉が肩を震わせた。

 

「何だ」

 

「いや……本当に君は面白い人だ」

 

「そう言われる理由が分からない」

 

「それも含めてだよ」

 

「?」

 

 笑われている。

 

 だが悪意はない。

 

 綱は困ったものの、腹は立たなかった。

 

「ただ」

 

 綱は続ける。

 

「協力はできる」

 

 耀哉の笑みが少し変わった。

 

「協力?」

 

「鬼が人を襲っているのだろう」

 

「うん」

 

「それを知って何もしないのは気分が悪い」

 

 綱自身。

 

 その言葉を口にしてから、ほんの僅かに眉を動かした。

 

 気分が悪い。

 

 必要だから。

 

 仕事だから。

 

 そうではなく。

 

 自分がそうしたくないから。

 

 そんな言い方をした。

 

「俺の仕事に支障がない範囲なら、鬼を斬る」

 

「……ありがとう」

 

 耀哉は静かに頭を下げた。

 

 綱も軽く頭を下げる。

 

「礼を言われるほどではない」

 

「いいや」

 

「?」

 

「人を助けるというのは、どんな理由であれ感謝されていいことだよ」

 

 綱は何も答えなかった。

 

 少し。

 

 居心地が悪い。

 

 褒められるのは昔から得意ではない。

 

「それから」

 

 耀哉が言う。

 

「君の刀を見せてもらってもいいかな」

 

 綱の手が自然と髭切へ触れた。

 

「抜くのか」

 

「できれば」

 

「分かった」

 

 立ち上がる。

 

 庭へ。

 

 鞘を左手に。

 

 柄へ右手。

 

 綱が刀を抜いた。

 

 すらり。

 

 朝の光を受けて、古い刀身が淡く輝く。

 

 飾り立てた美しさではない。

 

 古刀特有の、静かな凄み。

 

「髭切」

 

 耀哉が呟く。

 

「ああ」

 

「鬼切安綱」

 

「その名で呼ぶ者もいる」

 

「君は呼ばないの?」

 

「髭切と教わったからな」

 

「そう」

 

 耀哉が目を細める。

 

「産屋敷家の記録にはね」

 

「?」

 

「この刀についての記述がある」

 

 あまねが一冊の古い冊子を持ってくる。

 

 布に包まれている。

 

 随分古い。

 

 綱が刀を納め、受け取る。

 

 崩れた文字。

 

 だが読める。

 

 源頼光。

 

 四天王。

 

 金時。

 

 貞光。

 

 季武。

 

 そして。

 

「……渡辺綱」

 

 自分と同じ名。

 

「君の祖先だね」

 

「ああ」

 

 さらに読み進める。

 

 大江山。

 

 鬼。

 

 茨木。

 

 一条戻橋。

 

 髭切。

 

 鬼の腕を斬った。

 

 幼少期から何度も聞いた伝承。

 

 しかし。

 

 産屋敷家の記録には。

 

 昔話では書かれない一文がある。

 

 ――鬼は、人を喰らうもの。

 

 ――首を断つだけでは滅びず。

 

 ――日の光に焼かれ消ゆ。

 

 綱の指が止まった。

 

「……」

 

「どうしたの」

 

「一致している」

 

 耀哉は黙って待つ。

 

「三日前に見た鬼と」

 

「うん」

 

「この記録は、何年前のものだ」

 

「写本だけれど、原本は平安期に近い時代まで遡る」

 

 綱が紙を見る。

 

 鬼。

 

 昔からいた。

 

 自分の祖先は。

 

 本当に。

 

「鬼を斬ったのか」

 

「おそらく」

 

 耀哉は静かに答える。

 

 綱は腰の髭切を見る。

 

 何百年も前。

 

 同じ刀。

 

 同じ姓。

 

 同じ名を持つ男が。

 

 鬼を斬った。

 

「……出来すぎだな」

 

「嫌かい?」

 

「いや」

 

 綱は冊子を閉じる。

 

「先祖が何を斬ったかは、俺には関係ない」

 

 耀哉が僅かに目を細める。

 

「俺は俺だ」

 

 何の気負いもない。

 

「先祖が強かったからといって、俺の剣が強くなるわけでもない」

 

「そうだね」

 

「人間なんて、そう簡単には強くならない」

 

 綱の指が、長年使い込まれた柄へ触れる。

 

「結局、毎日刀を振るしかないだろう」

 

 あまねは黙って綱を見る。

 

 耀哉は。

 

 嬉しそうに笑った。

 

「君のそういうところを、私はとても好ましく思うよ」

 

「……そうか」

 

 また褒められた。

 

 やはり少し居心地が悪い。

 

 その時だった。

 

 庭の向こう。

 

「御館様!」

 

 大きな声。

 

 足音。

 

 綱が振り向く。

 

 炎のような髪。

 

 背筋を伸ばし。

 

 快活な眼差し。

 

 一人の男がこちらへ歩いてくる。

 

「任務より帰還しました!」

 

 綱が黙って見る。

 

 男も綱に気づいた。

 

「む!」

 

 声がさらに大きくなる。

 

「見慣れぬ御仁!」

 

 綱は少し眉を寄せた。

 

 声が大きい。

 

「煉獄」

 

 耀哉が呼ぶ。

 

「はい!」

 

「ちょうどよかった。紹介しよう」

 

 男――煉獄杏寿郎が綱の前へ立つ。

 

「炎柱、煉獄杏寿郎だ!」

 

「渡辺綱だ」

 

「うむ!」

 

「……」

 

「……」

 

 煉獄は笑顔。

 

 綱は無表情。

 

 三秒。

 

「それだけか!」

 

「他に何を言えばいい」

 

「なるほど!」

 

「納得したのか?」

 

「した!」

 

「そうか」

 

 あまねが口元を僅かに押さえた。

 

 耀哉も笑っている。

 

 綱には理由が分からない。

 

 煉獄の視線が綱の腰へ落ちる。

 

「素晴らしい刀だな!」

 

「分かるのか」

 

「うむ! そして君も剣士だ!」

 

「ああ」

 

「一目で分かる!」

 

「そうか」

 

「是非一度、手合わせ願いたい!」

 

 あまねが僅かに目を見開いた。

 

 耀哉は止めない。

 

 むしろ。

 

「綱はどうする?」

 

 綱は煉獄を見る。

 

 立ち方。

 

 肩。

 

 腰。

 

 脚。

 

 呼吸。

 

 一目。

 

 強い。

 

 それだけで分かる。

 

 昨日今日剣を持った人間ではない。

 

 人を守るために。

 

 何度も命を懸けてきた身体だ。

 

「構わない」

 

 綱は答えた。

 

 煉獄の笑みがさらに大きくなる。

 

「よし!」

 

「ただし」

 

「何だ!」

 

「真剣は使わない」

 

「当然だ!」

 

「人を斬るのは苦手だからな」

 

 煉獄の眉が僅かに上がった。

 

「これほど鍛えていながらか?」

 

「ああ」

 

 綱はいつもの調子で答える。

 

「鬼より、人の方が斬りづらい」

 

 ほんの一瞬。

 

 煉獄の笑顔が静かになった。

 

 そして。

 

 今度は先ほどより少し穏やかに笑った。

 

「なるほど」

 

「?」

 

「君とは、良い話ができそうだ!」

 

「そうなのか?」

 

「うむ!」

 

 やはり声が大きい。

 

 綱は少しだけ耳を離した。

 

 耀哉はその様子を眺めながら。

 

 静かに。

 

 本当に静かに微笑んでいた。

 

 鬼殺隊に属さぬ剣士。

 

 渡辺綱。

 

 この日。

 

 彼は鬼殺隊へ入らなかった。

 

 階級も得なかった。

 

 隊服も着なかった。

 

 柱にもならなかった。

 

 ただ。

 

 産屋敷耀哉との間に一つだけ約束を交わした。

 

 人を害する鬼がいる。

 

 己の手が届く。

 

 ならば斬る。

 

 それだけ。

 

 だが。

 

 後に鬼殺隊の者たちは知ることになる。

 

 その「それだけ」が。

 

 渡辺綱という男にとって。

 

 どれほど重い意味を持つのか。

 

 そして。

 

 煉獄杏寿郎との最初の手合わせを境に。

 

 柱たちもまた。

 

 気づき始める。

 

 宮内省から来たこの静かな男が。

 

 自分たちとは別の道を歩き。

 

 呼吸の系譜にも属さず。

 

 ただひたすら剣を磨いた果てに。

 

 とんでもない場所まで辿り着いているということを。

 

 ――もっとも。

 

 渡辺綱本人だけは。

 

 そのことを、まだ少しも理解していなかった。

 

 

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