渡辺綱が「鬼」という存在を知ってから、三日が過ぎた。
その三日間で、彼の生活が劇的に変わったかと言えば――そんなことはなかった。
朝五時に起きる。
井戸水で顔を洗う。
庭に出る。
刀を振る。
朝餉を済ませ、宮内省へ出仕する。
仕事を片付ける。
帰宅する。
また刀を振る。
風呂に入り、寝る。
昨日までとほとんど同じだった。
ただ一つ。
机の隅に、新しい資料が積み上がっていることを除けば。
鬼。
夜間の失踪。
原因不明の惨殺事件。
獣害として処理された記録。
死体の一部だけが見つかった事件。
何十年も前から残る、説明のつかない報告書。
「……多いな」
綱が呟いた。
宮内省の資料室。
窓から差し込む午後の日差しの中、古びた紙の匂いが漂っている。
机いっぱいに広げられた資料。
隣では小林が、既にげんなりした顔をしていた。
「何がです?」
「似た事件だ」
「そりゃあまあ……人が行方不明になる事件くらい昔からありますよ」
「それだけではない」
綱は一枚を抜き出す。
明治二十九年。
山間部。
一家六人失踪。
屋内に大量の血。
遺体なし。
次。
明治三十四年。
旅人三名死亡。
首と手足に食害痕。
大型獣と断定。
だが、事件が起きたのは人家の密集地。
さらに次。
明治四十一年。
夜警二名が行方不明。
翌朝、刀と衣服だけが発見された。
「これ」
綱が指で紙を叩く。
「何です?」
「共通している」
「何が?」
「夜だ」
「……夜?」
「事件が起きるのは日没から夜明けまで。朝になってから被害が発生した記録がほとんどない」
小林の顔から少しずつ冗談めいた色が消えていった。
「それって……」
「ああ」
綱は書類を閉じる。
「鬼だと仮定すれば、説明できる事件が多い」
「……本気で調べてたんですか」
「何故調べない?」
「いや、だって」
小林は声を潜める。
「普通は『鬼がいました』なんて言われたら、自分の目を疑うでしょう」
「見間違いではない」
「そういうところですよ」
「どこだ」
「そこです」
綱は少し考えた。
分からなかった。
諦めて資料へ視線を戻す。
「渡辺さん」
「何だ」
「怖くないんです?」
この質問は、鬼と遭遇してから何度目だろう。
小林だけではない。
上司の佐々木にも聞かれた。
鬼殺隊の沢村にも聞かれた。
綱はそのたび、答えに少し困る。
「怖くないわけではないと思う」
「思う?」
「首を斬っても動いた時は驚いた」
「それ、恐怖じゃなくて驚愕でしょう」
「違うのか?」
「違います」
「そうか」
小林は机へ突っ伏した。
「もう駄目だこの人」
「聞こえているぞ」
「聞かせてます」
綱は気にせず、次の書類へ手を伸ばす。
その時だった。
「渡辺」
資料室の入口。
佐々木が立っていた。
「はい」
「少しいいか」
声が仕事用ではない。
綱はすぐに立つ。
小林も顔を上げた。
「例の件ですか?」
「小林」
「はい」
「ここから先は聞くな」
「……ですよね」
「悪いな」
小林は不満そうだったが、素直に引き下がった。
「じゃあ渡辺さん」
「何だ」
「死なないでくださいね」
綱が瞬きをする。
「今日は誰かと斬り合う予定はないが」
「そういう話じゃないんですよ」
「そうなのか」
「……もういいです」
小林が去っていく。
その背を見送ってから、綱は佐々木へ向き直った。
「何でしょう」
「客だ」
「俺に?」
「ああ」
「誰です」
「鬼殺隊」
綱の目が僅かに細くなった。
◇
宮内省の応接室。
待っていたのは、三日前に会った沢村ではなかった。
若い女性だった。
白樺のような白い髪。
柔らかな物腰。
しかし姿勢に隙がない。
鬼殺隊の隊服ではなく、落ち着いた和服姿だった。
彼女は綱を見ると、静かに一礼する。
「渡辺綱様でしょうか」
「ああ」
佐々木が横から咳払いした。
「渡辺」
「何です」
「初対面の女性だぞ」
「それが?」
「もう少し愛想というものをだな」
綱は女性を見る。
少し考えた。
「……渡辺綱です。よろしくお願いします」
佐々木が額を押さえた。
「違う。まあいい」
女性は僅かに微笑んだ。
「お気になさらず。産屋敷あまねと申します」
「産屋敷」
綱はその名を反芻した。
三日前。
沢村から聞いた。
「鬼殺隊の当主と同じ姓だな」
「はい。夫です」
「そうか」
あまねは、一瞬だけ綱の反応を待ったようだった。
何も続かない。
「……驚かれないのですね」
「夫婦なら姓が同じなのは普通では?」
「そこではありません」
「そうなのか?」
横で佐々木が深い溜息を吐いた。
「渡辺、頼むから話を進めてくれ」
「分かりました」
綱はあまねを見る。
「用件を」
「夫が、あなたにお会いしたいと申しております」
「鬼殺隊の当主が?」
「はい」
「理由は」
「直接お話ししたい、と」
「分かった」
「……よろしいのですか?」
「ああ」
今度はあまねが僅かに目を瞬いた。
「場所も、こちらの素性も、まだ何も説明しておりませんが」
「鬼について知りたい」
「はい」
「あなたたちは鬼について知っている」
「その通りです」
「なら会う価値がある」
単純明快だった。
疑いがないわけではない。
だが疑いだけで情報を拒絶する理由もない。
「ただし」
綱が続ける。
「今日は無理だ」
「……はい?」
「仕事が残っている」
あまねが珍しく言葉に詰まる。
「宮内省のお仕事が?」
「ああ」
「鬼に関わる重要なお話なのですが」
「それとこれとは別だ」
佐々木が顔を覆った。
「渡辺……」
「何です」
「いや。お前はそれでいい」
「?」
あまねは綱を数秒見つめたあと、口元にごく小さな笑みを浮かべた。
「夫から聞いていた通りの方のようです」
「俺について?」
「はい」
「何と」
「お会いしてからのお楽しみに、と言われています」
「そうか」
綱はそれ以上追及しなかった。
「明日なら休みだ」
「では、明日の午前にお迎えへ参ります」
「分かった」
話が終わった。
綱が立つ。
「あの」
あまねが呼び止める。
「何だ」
「……刀をお持ちになりますか」
「当然だろう」
「そうですね」
「駄目なのか?」
「いいえ」
あまねは首を横へ振った。
「むしろ、夫も拝見したいでしょう」
綱の腰。
そこに今は刀はない。
宮内省内では決められた場所へ預けている。
「髭切を?」
「はい」
その言葉に。
綱の視線が初めて、はっきり変わった。
「何故、その名を知っている」
声は大きくない。
だが空気が少しだけ張った。
佐々木すら反射的に綱を見る。
あまねは怯まない。
「産屋敷家には、鬼に関する非常に古い記録がございます」
「……」
「その中に」
静かな声。
「渡辺綱という名も」
綱が黙った。
「そして――髭切の名も残されています」
◇
翌日。
帝都を離れる列車の中。
綱は窓の外を流れていく景色を眺めていた。
白い外套。
その内側には黒を基調とした和装。
腰には一振りの刀。
髭切。
世間でいうところの鬼切安綱。
向かいにはあまねが座っている。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「鬼殺隊は、いつから存在している」
「正確な始まりは記録に残っておりません」
「そうなのか」
「少なくとも数百年以上は」
「……随分長いな」
「鬼舞辻無惨も、それだけ長く存在しています」
「何故まだ倒せていない」
あまねの表情が僅かに曇った。
責めたわけではない。
綱はただ疑問を口にしただけだった。
「強いからです」
「それだけか?」
「いいえ」
あまねは窓の外を見る。
「見つからないのです」
「見つからない」
「鬼舞辻無惨は自らの存在を隠すことに非常に長けています。姿を変え、身分を変え、鬼たちを使って情報を遮断する」
「臆病なのだな」
あまねの視線が戻る。
「……そう評する方は珍しいですね」
「強いのだろう?」
「はい」
「なら隠れなくてもいい」
「確かに」
「だが隠れる」
綱は腕を組む。
「死ぬのが怖いのだろう」
あまりにも単純な結論。
しかし。
あまねは否定しなかった。
「夫も、似たことを申します」
「そうか」
そこで会話が切れた。
あまねは、向かいに座る男を改めて見る。
二十四歳。
年齢だけなら若い。
だが奇妙な落ち着きがある。
鬼を一晩中、一人で拘束した。
日輪刀なし。
呼吸の知識なし。
鬼の存在すら知らない。
通常ならありえない。
だから産屋敷耀哉は彼を呼んだ。
それだけではない。
その名。
渡辺綱。
そして。
髭切。
「渡辺様」
「綱でいい」
「では、綱様」
「様も要らない」
「……綱さん」
「ああ」
「渡辺家では、鬼について何か伝えられていないのですか」
「昔話ならある」
「どのような?」
「祖先が鬼を斬った」
「頼光四天王の」
「ああ」
「茨木童子」
綱の視線が、あまねへ向いた。
「よく知っているな」
「有名な伝承ですから」
「そうだな」
綱は窓外へ目を戻す。
「だが俺は、昔話だと思っていた」
「今は?」
「少し考えを改めた」
「少し、なのですね」
「鬼がいたからといって、伝承のすべてが事実になるわけではない」
「……なるほど」
あまねは、微かに笑った。
「堅実なのですね」
「普通だと思うが」
「おそらく綱さんの普通は、世間の普通とは少し違います」
「最近よく言われる」
◇
産屋敷邸。
敷地へ足を踏み入れた瞬間。
綱は一つ気づいた。
「藤か」
「はい」
庭。
藤。
季節を外れてなお咲く花。
「鬼除けだな」
「よくお分かりで」
「三日前も見た」
それだけではない。
屋敷全体。
配置。
道。
木々。
人の動線。
守ることを前提に組まれている。
しかし軍の施設ほど無骨ではない。
家。
人が暮らす場所として保たれている。
綱は周囲を見ながら歩く。
「気になりますか」
「良い場所だと思った」
あまねは少し意外そうな顔をする。
「そうですか」
「ああ」
「綱さんにも、そういった感想があるのですね」
「俺を何だと思っている」
「夫からのお話を聞く限りでは、もう少し……」
「もう少し?」
「いえ」
言うのをやめた。
綱も追及しない。
縁側。
そこに、一人の男が座っていた。
白い肌。
顔の上部には病による痕。
身体は見るからに弱っている。
しかし。
綱は足を止めた。
弱い。
肉体は間違いなく弱い。
剣を握れば、おそらく一般人にも勝てない。
なのに――
不思議と軽く見ようとは思わなかった。
男が笑う。
「初めまして」
穏やかな声。
「渡辺綱さん」
「初めまして」
綱は一礼した。
「産屋敷耀哉です」
「聞いている」
「来てくれてありがとう」
「こちらも聞きたいことがある」
「うん。そのために呼んだ」
耀哉は、隣を示した。
「座ってくれるかい」
「ああ」
綱が座る。
あまねは耀哉の傍らへ。
短い沈黙。
先に口を開いたのは耀哉だった。
「三日前、鬼を一体倒したそうだね」
「倒したというより、朝まで逃がさなかっただけだ」
「同じことだよ」
「そうなのか?」
「鬼殺隊からすればね」
耀哉は楽しそうに微笑む。
「それにしても、驚いた」
「何が」
「鬼を知らず、日輪刀も持たず、それでも鬼と戦い続けた」
「逃がすわけにはいかなかった」
「怖くなかった?」
またその質問。
綱は少しだけ考えて答える。
「未知の相手ではあった」
「うん」
「だから慎重にはなった」
「それだけ?」
「他に何が必要だ」
耀哉は笑った。
声を上げるわけではない。
けれど本当に面白そうに。
「何かおかしかったか」
「いや。ごめんね」
「謝る必要はない」
「そうだね」
耀哉の声には、不思議と人を苛立たせない柔らかさがある。
綱も警戒を少し下げる。
「綱」
耀哉が初めて、呼び捨てにした。
「そう呼んでも?」
「構わない」
「では綱。君に一つ確認したい」
「何だ」
「鬼を憎んでいるかい」
意外な質問だった。
「いや」
答えは早い。
耀哉の表情は変わらない。
「三日前、人を喰っていた鬼も?」
「憎んではいない」
「でも斬った」
「ああ」
「どうして?」
綱は耀哉を見る。
「人を喰ったからだ」
「憎くなくても?」
「関係があるのか?」
「君にとっては、ないんだね」
「ああ」
綱は少し考え、言葉を続けた。
「鬼を嫌う必要はないと思う」
「うん」
「人を喰うなら止める。止まらないなら斬る。それだけだ」
「可哀想だとは?」
「思うこともあるだろう」
「それでも?」
「斬る」
迷いがない。
だが冷酷でもない。
「死にたくないと言っていた」
あまねの表情が僅かに動く。
「三日前の鬼が?」
「ああ」
「その時、どう思ったの」
耀哉が問う。
「可哀想だと思った」
綱は正直に答える。
「なら何故?」
「逃がせば他の人間が死ぬ」
それだけ。
「可哀想だと思うことと、斬るべきかどうかは別だろう」
耀哉は目を閉じた。
しばらく。
「……そうだね」
静かな返答。
「きっと君は、私たちとは少し違う形で鬼を見ている」
「そうなのか」
「鬼殺隊には、鬼を強く憎む者が多い」
「家族を殺された?」
「ほとんどがそうだ」
「なら当然だ」
「君はそうではない」
「まだ、俺の近しい者は殺されていない」
まだ。
その言葉を。
この時の綱は深く考えなかった。
「だからかもしれない」
耀哉も、それ以上は触れない。
「もう一つ」
「何だ」
「鬼殺隊に入る気はないかい」
綱は少し目を瞬いた。
それから。
「断る」
あまねですら僅かに驚くほど早かった。
耀哉はむしろ微笑みを深める。
「理由を聞いても?」
「俺は宮内省の人間だ」
「うん」
「既に仕事がある」
「鬼を斬ることよりも?」
「比べるものではないだろう」
綱の声は変わらない。
「国を守る仕事も必要だ。鬼を斬る仕事も必要なのだろう。だからといって、今している仕事を捨てる理由にはならない」
「なるほど」
「それに」
「それに?」
「鬼殺隊へ入れば、会合や報告が増えるのだろう」
あまねの動きが止まった。
耀哉も一瞬、黙る。
「……増えるね」
「なら、なおさら今のままでいい」
耀哉が肩を震わせた。
「何だ」
「いや……本当に君は面白い人だ」
「そう言われる理由が分からない」
「それも含めてだよ」
「?」
笑われている。
だが悪意はない。
綱は困ったものの、腹は立たなかった。
「ただ」
綱は続ける。
「協力はできる」
耀哉の笑みが少し変わった。
「協力?」
「鬼が人を襲っているのだろう」
「うん」
「それを知って何もしないのは気分が悪い」
綱自身。
その言葉を口にしてから、ほんの僅かに眉を動かした。
気分が悪い。
必要だから。
仕事だから。
そうではなく。
自分がそうしたくないから。
そんな言い方をした。
「俺の仕事に支障がない範囲なら、鬼を斬る」
「……ありがとう」
耀哉は静かに頭を下げた。
綱も軽く頭を下げる。
「礼を言われるほどではない」
「いいや」
「?」
「人を助けるというのは、どんな理由であれ感謝されていいことだよ」
綱は何も答えなかった。
少し。
居心地が悪い。
褒められるのは昔から得意ではない。
「それから」
耀哉が言う。
「君の刀を見せてもらってもいいかな」
綱の手が自然と髭切へ触れた。
「抜くのか」
「できれば」
「分かった」
立ち上がる。
庭へ。
鞘を左手に。
柄へ右手。
綱が刀を抜いた。
すらり。
朝の光を受けて、古い刀身が淡く輝く。
飾り立てた美しさではない。
古刀特有の、静かな凄み。
「髭切」
耀哉が呟く。
「ああ」
「鬼切安綱」
「その名で呼ぶ者もいる」
「君は呼ばないの?」
「髭切と教わったからな」
「そう」
耀哉が目を細める。
「産屋敷家の記録にはね」
「?」
「この刀についての記述がある」
あまねが一冊の古い冊子を持ってくる。
布に包まれている。
随分古い。
綱が刀を納め、受け取る。
崩れた文字。
だが読める。
源頼光。
四天王。
金時。
貞光。
季武。
そして。
「……渡辺綱」
自分と同じ名。
「君の祖先だね」
「ああ」
さらに読み進める。
大江山。
鬼。
茨木。
一条戻橋。
髭切。
鬼の腕を斬った。
幼少期から何度も聞いた伝承。
しかし。
産屋敷家の記録には。
昔話では書かれない一文がある。
――鬼は、人を喰らうもの。
――首を断つだけでは滅びず。
――日の光に焼かれ消ゆ。
綱の指が止まった。
「……」
「どうしたの」
「一致している」
耀哉は黙って待つ。
「三日前に見た鬼と」
「うん」
「この記録は、何年前のものだ」
「写本だけれど、原本は平安期に近い時代まで遡る」
綱が紙を見る。
鬼。
昔からいた。
自分の祖先は。
本当に。
「鬼を斬ったのか」
「おそらく」
耀哉は静かに答える。
綱は腰の髭切を見る。
何百年も前。
同じ刀。
同じ姓。
同じ名を持つ男が。
鬼を斬った。
「……出来すぎだな」
「嫌かい?」
「いや」
綱は冊子を閉じる。
「先祖が何を斬ったかは、俺には関係ない」
耀哉が僅かに目を細める。
「俺は俺だ」
何の気負いもない。
「先祖が強かったからといって、俺の剣が強くなるわけでもない」
「そうだね」
「人間なんて、そう簡単には強くならない」
綱の指が、長年使い込まれた柄へ触れる。
「結局、毎日刀を振るしかないだろう」
あまねは黙って綱を見る。
耀哉は。
嬉しそうに笑った。
「君のそういうところを、私はとても好ましく思うよ」
「……そうか」
また褒められた。
やはり少し居心地が悪い。
その時だった。
庭の向こう。
「御館様!」
大きな声。
足音。
綱が振り向く。
炎のような髪。
背筋を伸ばし。
快活な眼差し。
一人の男がこちらへ歩いてくる。
「任務より帰還しました!」
綱が黙って見る。
男も綱に気づいた。
「む!」
声がさらに大きくなる。
「見慣れぬ御仁!」
綱は少し眉を寄せた。
声が大きい。
「煉獄」
耀哉が呼ぶ。
「はい!」
「ちょうどよかった。紹介しよう」
男――煉獄杏寿郎が綱の前へ立つ。
「炎柱、煉獄杏寿郎だ!」
「渡辺綱だ」
「うむ!」
「……」
「……」
煉獄は笑顔。
綱は無表情。
三秒。
「それだけか!」
「他に何を言えばいい」
「なるほど!」
「納得したのか?」
「した!」
「そうか」
あまねが口元を僅かに押さえた。
耀哉も笑っている。
綱には理由が分からない。
煉獄の視線が綱の腰へ落ちる。
「素晴らしい刀だな!」
「分かるのか」
「うむ! そして君も剣士だ!」
「ああ」
「一目で分かる!」
「そうか」
「是非一度、手合わせ願いたい!」
あまねが僅かに目を見開いた。
耀哉は止めない。
むしろ。
「綱はどうする?」
綱は煉獄を見る。
立ち方。
肩。
腰。
脚。
呼吸。
一目。
強い。
それだけで分かる。
昨日今日剣を持った人間ではない。
人を守るために。
何度も命を懸けてきた身体だ。
「構わない」
綱は答えた。
煉獄の笑みがさらに大きくなる。
「よし!」
「ただし」
「何だ!」
「真剣は使わない」
「当然だ!」
「人を斬るのは苦手だからな」
煉獄の眉が僅かに上がった。
「これほど鍛えていながらか?」
「ああ」
綱はいつもの調子で答える。
「鬼より、人の方が斬りづらい」
ほんの一瞬。
煉獄の笑顔が静かになった。
そして。
今度は先ほどより少し穏やかに笑った。
「なるほど」
「?」
「君とは、良い話ができそうだ!」
「そうなのか?」
「うむ!」
やはり声が大きい。
綱は少しだけ耳を離した。
耀哉はその様子を眺めながら。
静かに。
本当に静かに微笑んでいた。
鬼殺隊に属さぬ剣士。
渡辺綱。
この日。
彼は鬼殺隊へ入らなかった。
階級も得なかった。
隊服も着なかった。
柱にもならなかった。
ただ。
産屋敷耀哉との間に一つだけ約束を交わした。
人を害する鬼がいる。
己の手が届く。
ならば斬る。
それだけ。
だが。
後に鬼殺隊の者たちは知ることになる。
その「それだけ」が。
渡辺綱という男にとって。
どれほど重い意味を持つのか。
そして。
煉獄杏寿郎との最初の手合わせを境に。
柱たちもまた。
気づき始める。
宮内省から来たこの静かな男が。
自分たちとは別の道を歩き。
呼吸の系譜にも属さず。
ただひたすら剣を磨いた果てに。
とんでもない場所まで辿り着いているということを。
――もっとも。
渡辺綱本人だけは。
そのことを、まだ少しも理解していなかった。