買いたい本があったわけじゃない。
ただ、小さなレジャーシートの上、箱に入った古本と、古本屋の幟と、パラソル。
その奥でちょこんと座っている、グレーの子に会いたかっただけだった。
ちいかわ族の広場。
「あ……これ、ください」
モブのちいかわ族。
箱の中から、適当に手に取った一冊。
握りしめていたコインを渡す。
小さな手から手へ、ぬくもりが移る。
古本屋さんは「ありがとうございます! この本、とっても素敵な絵本なんですよ」と、嬉しそうに微笑んだ。
「……うん。よんで……みる」
ボクが言えた言葉はそれだけ。本当は「明日の討伐、もしよかったら一緒に行きませんか」とか、「草むしりのあと、スイーツを一緒に食べませんか?」とか、言いたいことは山ほどあった。でも、自分は“なんか、ちいさくて、なさけないやつ”なのだ。
断られたらどうしよう。
自分のせいで困らせたらどうしよう。
自分が話しかけたせいで、古本屋さんが嫌な気分になったら、どうしよう。
本当は、声をかけられるのも迷惑に思っているんじゃないか。
そう思うと、声がキュッと、喉の奥で詰まってしまうのだった。
だから、また今日も。
一言、ふた言の挨拶だけで終わってしまった。
買った本を胸に抱え、“なんかちいさくてショボーンとしてるやつ” = “ちいショボ”は、トボトボと歩き出す。
数日後のこと。今日こそは誘ってみようと、少しの勇気をポケットに詰め込んで、古本屋さんの露店へ向かった。けれど、ちいショボの足は遠くでぴたりと止まった。
「ッアー!!」
大きな声と一緒に、真っ白でフワフワした、なんかちいさくてかわいいやつ。モモンガが、古本屋さんの店の前で「おい、その本を読め!」と駄々をこねていた。モモンガの尻尾が、古本屋さんの顔を前を往復した。古本屋さんは「わっ、ちょっと……くすぐったいですよ」と、咎めることもなく、好きにさせている。
そのあとも、モモンガは古本屋さんに言いたい放題、甘えたり、ワガママを言ったりしている。古本屋さんは困ったように眉を下げながらも、どこか嬉しそうにモモンガの応対をして、お昼ご飯のカツサンドを分けてあげていた。
ちいショボは、広場の屋台の陰から、じっと見つめていた。
あんな風に、当たり前に隣にいて。
あんな風に、笑い合っていて。
自分が何日も、何ヶ月も悩んで出せなかった勇気を通り越して、モモンガは一瞬で古本屋さんの、特別な誰か になっていた。寂しい。すごく、胸の奥がキュッと痛む。でも、遠くで見える古本屋さんの笑顔は、ちいショボが一度も引き出してあげられなかったくらい、柔らかくて暖かかった。
「フ……ッ」
ちいショボの口から、自嘲気味の溜息がこぼれる。
わかっていた。自分じゃ、駄目なんだって。
ちいショボは、ポケットの中に隠していた勇気をそっと握りつぶす。
古本屋さんが嬉しそうなら、これでいい。
こぶしを少しだけ強く握り直し、ちいショボは二人に気づかれないよう、静かに後ろを向いて歩き出した。
彼は、ごく普通のちいかわ族。
いつも、さえない顔でしょぼくれている。
なんかちいさくてしょぼーんとしてる奴。
“ちいショボ”。
起きて、集合体操をして。仕事を受注して。お弁当を食べて。また働いて。夕方の買い物をして。晩御飯をいただいて。寝る。大きな変化もない、いたって平穏な日常。それでも、たまには小さな波風が立つ。
草むしり検定5級に合格した。ちいショボは、使い終えた参考書を売りに出かけることにした。だが、大手の古本屋に持ち込むと、「書き込みがあるので値段はつけられません」と冷淡に断られてしまう。
その素っ気ない言い方に、少し傷ついたちいショボは、売るのを諦めて家路についた。紙ゴミの日にでも出そうか。そう思いながら歩いていると、広場で、小さな路上古本屋が品物を広げているのが目に入った。ダメ元で査定をお願いしてみる。その古本屋さんは、ページを丁寧にめくって、ひとつひとつ優しく確認してくれた。
古本屋さんは「大切に使われてたんですね。わずかですけど、お値段つきますよ」と言った。ほんのわずかながら、値段をつけてくれたのだった。
(買い取って、もらえた……)
金額のことなんて、本当はどうでもよかった。僕が頑張って勉強した証を、書き込みだらけの泥くさい努力を、否定しないで、ちゃんと見てくれた気がして。あの柔らかい笑顔と、耳に残るかわいらしい声。
「ありがとうございました」って言われた瞬間、なんだか胸の奥がぎゅーっと熱くなって、涙が出そうになっちゃった。
古本屋さんにとっては、きっと誰にでも見せるいつもの丁寧な接客で、ただの営業トークだったのかもしれない。ううん、絶対にそうだ。あんなに親切で優しい子だもん、僕だけに特別なんてあるわけない。
だけど、僕にとっては違ったんだ。
ずっとモノクロだった僕の毎日に、初めてあたたかな光が射し込んだみたいで。
古本屋さんと交わしたほんの数言の言葉が、僕の宝物になった。あの優しさに触れられただけで、僕はもう少しだけ、自分のことを好きになれる気がするんだ。
広場に立つ大きなパラソルと、風にひらひらとなびく〔 古本 〕の旗。その下には、大切に扱われている本たちが、木箱の中で静かに買い手の訪れる時を待っている。あの日以来、ちいショボは小さな露店古本屋の魅力に、すっかりとりつかれてしまった。用もないのに広場を通りかかっては、こっそり視線を送る。時折、意を決して本を手に取り、ほんの数行の言葉を交わす。ただそれだけのことが、ちいショボの胸を、淡いときめきでいっぱいにした。
「今日も買ってくださって、ありがとうございます。この本も、きっと面白いですよ」
そっと添えられる柔らかな笑顔と、鈴を転がすような愛らしい声。モノクロで味気なかったちいショボの毎日に、ぽっと温かな灯りがともる。たった一言、ふた言のささやかな会話。それが、ちいショボのそっけない日常を鮮やかに塗り替えていく、かけがえのない色彩となっていくのだった。
(……ああ、通じ合えた……!)
たったこれだけのことで、こんなに幸せな気持ちになれるなんて。
ちいショボは、もう少しだけ、この世界で生きていくのが楽しみになった。
古本屋さんに、もっと色んな本の感想を伝えたいな。
もっと色んな話をしたいな。
あの子との会話が、僕の生きる意味になっていく。
そんな気がしたんだ。
数日後。朝日が射し込む広場。
そこには今日も、労働を求めるちいかわ族が集まり、労働の鎧さんから、それぞれ仕事を受け取っている。
「はい、草むしりね。気をつけていっておいで」
ちいショボはそっと息をつく。草むしり。それが今の自分の身の丈にあった、つつましくも精いっぱいの日常の営みだ。そのとき、ふと視線の先で小さな人影が動いた。
古本屋さんだ。
大きなパラソルの下でいつも柔らかく微笑んでいる、露店の古本屋さん。鎧さんから受け取ったのは、草むしりではなかった。
握りしめられているのは、冷たく固い金属の質感を宿した、グレーの刺股。危険と背中合わせの“討伐”の仕事。
ちいショボは(古本屋さんも、討伐に、いくんだ)と呟いた。小さな背中にグレーの刺股を背負い、あの子は真剣な眼差しで歩き出していく。華奢な肩、不安を隠すように前を見つめる横顔。
叫び出して、その袖を引っ張りたかった。ちいショボは「危ないから行かないで」と、自分の頼りない手で引き止めたかった。あるいは「一緒に行くよ」と、頼もしく隣に並びたかった。でも、草むしりの票しか持っていない自分には、なにもできない。武器すら持たない自分の弱さが、もどかしくて、悔しくて。遠ざかっていく小さくて愛おしい背中を、ただ祈るような気持ちで見送る。
(どうか、無事でいて……)
広場の喧騒の中、手に握りしめた草むしりの券だけが、やけに重たく冷たく感じられた。
そして時間が経過して。
夕暮れのやわらかな光が、広場を橙色に染め上げていく。
しゃがみっぱなしだった腰をのばし、ちいショボはそっと息を吐いた。草むしりの仕事を終えて鎧さんの元へ向かうと、手渡された報酬はいつもより少しだけずっしりと重い。
ちいショボは(あ……5級のぶんだ)と気付いた。参考書を握りしめて努力した日々が、ほんのわずかなコインの上乗せとなって返ってきた。胸の奥にじんわりと小さな誇らしさが込み上げる。でも、次に訪れたのは、胸を締めつけるような強い焦燥感だった。(古本屋さんは? 無事に戻ってる……?)
握りしめた袋の重みも忘れ、ちいショボは広場の中を目で探した。行き交う人々、作業を終えた賑やかな声。その混雑のすき間に、見覚えのある小さな背影を見つけた瞬間、ドッと緊張が解けて膝が抜けそうになる。
古本屋さんだ。
無事だった。
怪我もないみたいだ。
刺股を背負い、鎧さんから討伐の報酬を受け取っている。その横顔には、無事に仕事を終えた安堵の笑みが浮かんでいた。
ちいショボは(よかった……本当に、よかった……)と、喜んだ。生きて戻ってきてくれた。ただそれだけのことが嬉しくて、たまらなかった。ちいショボは、少し増えた草むしりの報酬を見つめながら、一歩前へ踏み出そうとする。
「無事でよかった」って。
「今日もお疲れ様」って。
「この増えたお金で、また新しい本を買うよ」って。
けれども、その一歩は途中で止まってしまった。
討伐という厳しい仕事を終えたばかりの古本屋さんと、ただ草をむしっていただけの自分。手元にあるのは、五級のささやかな手当と、泥のついた手だけ。
ちいショボは(今、声をかけたら迷惑かな……)としり込みした。言いたい言葉は喉の奥でつかえ、声にならない。小さく踏み出した足を引き戻し、ちいショボは、古本屋さんの視野から隠れるように、そっと陰に身をひそめた。無事に帰ってきてくれただけで十分だ。そう自分に言い聞かせながら、遠くからその笑顔を見つめることしかできない。
夕空の下、握りしめた報酬の硬貨が、やけに冷たく感じられた。
翌日、ちいショボは久しぶりに〔 討伐 〕の仕事を選んだ。
手元にあるのは、自分で買い揃えた剣と、小さな丸盾。討伐を主におこなう ちいかわ族 も、少なからずいる。そんな彼等の装備を見渡しても、盾を持って討伐に向かう ちいかわ族 なんて、まず見かけない。
傷つくのが怖くて。
敵から攻撃を受けるのが怖くて。
敵と向き合うのが嫌で。
そんな臆病で引っ込み思案な性格が、そのままこの丸盾に表れているみたいで。
少し、苦笑いがこぼれる。
でも、この武器を手に入れるまでは、本当に必死だった。
最初はなにも持っていなくて、レンタル武器の棍棒を、必死に振り回したっけ。草むしり検定の勉強をしながら地道に草をむしり、真夜中に眠気をこらえながらキノコを採り、時には工場の薄暗い部屋で果物にシールを貼って。コツコツと貯めたお金で、この剣と丸盾を買えた日の喜びは、今でも胸の奥に鮮やかだ。
そんな過去の努力を思い出して ちいショボが感慨に浸っていると、広場がふっと華やいだ気がした。古本屋さんだ。広場にやってきた。朝日が昇る広場では、労働の鎧さんの周りに、今日もたくさんの ちいかわ族が仕事をもとめて群がっている。グレーの群衆の中で、あの子が受け取ったのは、今日も、討伐の紙片だった。
ちいショボは(あっ)と声にならない呻きを漏らした。
胸が、大きく跳ねる。
右手で剣の柄と、左手で丸盾の握り手を、ぎゅっと握りしめた。今日のちいショボには武器がある。自分の身を守る盾だってある。
ちいショボは(一緒に行かない? 一緒なら、僕が盾になるから)と、言いかけた。喉まで出かかった言葉。それでも、勇気を振り絞ろうとした瞬間、喉がひゅっと縮こまって、掠れた吐息しか出ない。声が、震えて出てくれないんだ。そのとき、人ごみの隙間から、古本屋さんがちいショボに気づいてくれた。古本屋さんは、いつもの柔らかな表情で、ちょこんと小さく会釈をしてくれた。たったそれだけのことで、ちいショボの心は跳ね上がってしまう。なのに、古本屋さんが歩き出したのは、ちいショボに割り当てられた討伐エリアとは、まったく正反対の方向だった。
遠ざかっていく小さな背中。
古本屋さんの持つ刺股と、僕の手にある丸盾。
交わることのない行き先。
ちいショボは、朝もやの向こうへ消えていく愛おしい後ろ姿を、じっと見送ることしかできなかった。
何回か、討伐の仕事をこなして、身も心も疲れ切った ちいしょぼ。
しばらく討伐はお休みすることにした。
薄暗い夜の森に、ぽつり、ぽつりと揺れる淡い光。
ちいしょぼが引き受けたのは、闇夜にしか確認できない夜光キノコの採取作業だった。集まったのは、名前も知らない数十人のモブかわたち。誰一人として口を開く者はいない。静寂に包まれた森の中、ただ淡々と、黙々と、キノコを摘み取り袋にいれる音だけが響いている。互いに干渉せず、言葉も交わさない。そこにあるのは、生きるための作業と無言の連帯感だけだった。
やがて東の空が白み始め、夜明けが訪れる。
仕事を終えた一行は監督の鎧さんのもとへ戻り、手のひらに乗るくらいの僅かな報酬を受け取ると、挨拶を交わすこともなく静かに解散していった。
ちいショボも、報酬をもらって広場にむかった。冷えた身体は、早朝から開いている大衆食堂の前に立った。ガラガラと引き戸を開ける。店内は、温かな湯気と、香ばしい出汁の匂いに満ちている。見渡せば、討伐帰りの賑やかなグループや、楽しそうに笑い合いながら朝食を囲む友達同士の姿があった。
ちいショボは(……みんな、楽しそうだな)と思いながら、賑わう店内をすり抜ける。静かなカウンターの端っこに一人で腰を下ろした。注文した朝定食が運ばれてくる。温かいご飯、湯気の立つお味噌汁、お醤油がかかったトロトロの半熟卵、脂ののった鮭、よくつかった沢庵と茄子の御新香。箸をつけ、口に運ぶたび、夜通しの作業で疲れた身体に、しんみりと塩味と温もりが染み渡っていく。
周りの楽しげな話し声や、弾む笑顔をつとめて無視して、ちいショボは静かに鮭の身をご飯にのせて、ほおばり、かみしめる。孤独だけど、どこか穏やかな朝のひととき。
ちいショボは(古本屋さんはもう、起きているのかな……)と、思った。温かいお味噌汁をすする胸の奥で、広場の古本屋さんの顔をふと思い浮かべながら、ちいショボは黙々と一人だけの朝食を味わい続けた。
(いいな。楽しそうだな、みんな)
湯気の向こうから聞こえてくる、弾んだ笑い声。
カウンターの端っこにいる ちいショボの耳に痛いくらい届いてくる。向こうの席には、おそろいのポシェットを下げたグループ。あっちのテーブルには、肩を並べて追加で頼んだレバニラ炒めを仲良く分け合う友達同士。それに比べて、僕はどうだろう。一晩中、名前も知らない人たちと無言でキノコを摘んで、もらった僅かなコインを握りしめて、一人でカウンターの隅っこで下を向いている。
(羨ましいな……。誰かと、おつかれさまって言い合いながら、朝ごはんを食べたかったな)
胸の奥が、ぎゅーっと締めつけられるように痛い。
急に自分がすごく惨めで、ちっぽけで、世界でたった一人取り残されたみたいな、強烈な寂しさが押し寄せてくる。
なんで、気さくに話せる友達の一人もいないんだろう。
なんで、こんなに器用じゃなくて、引っ込み思案で、いつも一人なんだろう。
(ダメだな。こんなこと考えてたら、お味噌汁に涙が落ちちゃうよ)
ごくりと、喉の奥に固まった惨めさを、温かい味噌汁と一緒に押し込む。
古本屋さんみたいに優しい人は、こんな僕のこと、本当はどう思っているんだろう。寂しい人って、哀れんでいるのかな。それとも、たんなる客の一人なのかな。溢れそうになる涙を必死でこらえながら、ちいショボはただ黙々と、冷めていくご飯を口の中に運び続けた。
朝食を終えたちいショボは、少し重い足取りで広場へと向かった。ポケットの中にあるのは、昨夜のキノコ採取で手に入れた報酬。鮭定食で、だいぶ減った。それでも、古本屋さんの店で一番安い本なら、一冊くらいは買えるはずだ。
(古本屋さんに、会いたいな……)
そう思うだけで、胸の奥の冷たい寂しさがほんのり温かくなる。朝の活気に満ちた広場には、労働の鎧さんが立つ受付や、色とりどりの屋台、色んなモブかわ達が開く露店が、ひしめき合っている。その賑やかなグレーの波の向こうに、見覚えのある大きなパラソルと、古本の旗を見つけた。
ちいショボは(あ、いた……!)と、胸を躍らせ、勇んで店へと向かって歩み寄ろうとする。しかし、露店のすぐ近くまで来た瞬間、その足がピタリと止まった。そこには、見慣れない、変な奴がいた。
モモンガだ。
「これ読め~! 早く読んで聞かせろ~ッ!」
モモンガは古本屋さんに絵本を突きつけ、傍若無人な要求をつきつけている。古本屋さんは困ったような愛想笑いを浮かべていた。汗をかきながら、絵本を開いて、優しく読み聞かせてあげていた。
ちいショボは(なんなんだよ、アイツ)と、心の中で苛ついた。
せっかくの、古本屋さんとの大切な時間なのに。
ちいショボは(お店の邪魔だから、どいて……って、注意しなきゃ)と、一歩前へ踏み出そうとする。
そして、ここでも、足が、すくんで、動かない。
(……いや、でも、あいつ、急に襲いかかってくるかもしれないし)
(古本屋さんも、困ってるわけじゃなくて、楽しんで接客してるのかもしれないし)
(僕みたいなモブが出しゃばったら、余計に場がシラけちゃうかも……)
頭の中で、できない理由をひねり出す。
いくつも、いくつも、並べ立てる。
要するに、自分には、割り込む勇気なんてないのだ。
結局、ちいショボは木の陰に身をひそめ、そっと息を潜めることしかできなかった。古本屋さんの柔らかな読み聞かせの声と、それを満足そうに聴くモモンガ。二人の穏やかで楽しげなひとときを、少し離れた場所から、ただじっと指をくわえて見つめ続けるちいショボだった。
ある日、ちいショボは街に買い物にきていた。
そこで、意外な光景を目撃した。
ちいかわ族にも大人気のラーメン屋“郎”の前にできている長い行列。その列のすき間へ、あの横暴なモモンガが、当然のような顔で割り込もうとしたのだ。すると、見張っていた鎧さんが駆けつけた。鎧さんは「割り込みはダメだろっ!」と注意しながら、モモンガの首根っこをひょいと掴むとつまみ出した。追い払われるモモンガの姿を見て、ちいショボは胸がすく思いだった。日頃のモヤモヤがいっきに晴れ渡り、スカッとした溜飲が下がるのを感じる。
ちいショボは(いつもワガママで、威張ってばかりいるからだよっ)と、一人で小さくガッツポーズをしそうになった。
その時だった。“郎”の列に並んでいた人物が、すっと列を離れて、モモンガのもとへ駆け寄っていった。古本屋さんだ。
古本屋さんは不満げなモモンガに優しく声をかけると、その手を引いて歩き出した。向かった先は“郎”ではなく、少し離れた場所にある、ちょっと高級なチェーン店中華料理屋だった。
店内の様子を遠目からのぞき込むと、古本屋さんはテーブル席で嬉しそうに料理をほおばるモモンガを、微笑みながら見守っていた。そして会計のとき、自分の財布から二人分のコインを出して、そっと支払いを済ませたのだ。
(えっ……モモンガのぶんまで、奢ってあげてる……?)
列の順番をあっさり手放してまで、我がままなモモンガを気遣い、ご馳走してあげる優しさ。ちいショボは、その光景に深く息をのんだ。古本屋さんの底のない温かさと、誠実さに、改めて胸が打たれる。同時に、嫌な奴がひどい目にあった事に溜飲を下げていた自分の小ささが急に恥ずかしくなり、なんとも言えない切なさが胸に広がっていくのだった。
ある日、ちいかわ世界に特別な“湧き処”が現れた。
巨大なシュークリームの山だ。
ダブルクリーム。
Kiri山脈。
ふわふわの生地から甘いカスタードが溢れる夢のような光景に、ちいショボの胸は高鳴る。
(あの子と一緒に、食べたいな……!)
ちいショボは古本屋さんを誘おうと、大急ぎで広場へ向かった。けれど、いつものパラソルの下に姿はない。シュークリームの噂は、すでに広場中を駆けめぐっていた。もしかしたら、もう向かっているのかもしれない。そう思ったちいショボは、期待と、少しの焦りを胸に、シュークリームの山へと急いだ。
たどり着いた現場は、甘い香りと、ちいかわ族たちの歓声に包まれていた。みんな自宅からボウルとスプーン、あるいはシャモジを持ってきている。ちいショボは、グレーの子達の波をかき分けるようにして、山に登る。甘い岩壁の向こうに、見覚えのある姿があった。古本屋さんだ。同時に、彼女の隣には、やっぱりあのモモンガがいた。
モモンガは「おいッ! お前ッ! クリームの多いとこ寄こせッ!」と、相変わらずだった。そして古本屋さんも「ふふ、はいはい。は~い、どうぞ」と、呆れながらもに適当にあしらっていた。ふたりは並んで座り、とっても楽しそうにシュークリームをほおばっている。その、あたたかで、どこか入る隙のない空気感。
(……そっか。やっぱり、僕の入る場所なんてないんだ。)
差し出そうとした手と、声をかけようとした言葉が、静かに止まる。
ちいショボはフッと息を吐き、ふたりの楽しげな姿に背を向けて、歩き出した。そして、少し離れた場所で、名前も知らない他のモブかわたちの輪に交ざる。隣では「コ……コッペパンにはさんでさァッ……缶詰めの蜜柑のせたりしてッ……」「フウッ……ッ!!」と興奮しているちいかわ族もいた。仲のよさそうな彼等の脇で、ちいショボは一人でシュークリームを口に運んだ。溢れ出る甘いクリームの味はとても美味しかったけれど、ちいショボの口の中には、どこか切ない余韻が広がっていくのだった。
すると、隣のウサギっぽいちいかわ族が、「ウラッ」とビスケットを手渡してきた。身振り手振りに従がってちいショボがビスケットにクリームをよそうと、ウサギっぽいちいかわ族は、チョコソースをかけて「ウララッ」と薦める。ちいショボは、ザクッとゆく。
「!!!!」
この瞬間だけは、世界が美味の色彩で覆い尽くされた。
ある日。討伐から無事に戻ってきた古本屋さんを、ちいショボは遠くから見つけた。討伐の報酬で新品の本屋さんに立ち寄り、一冊だけ本を買ったようだ。広場から少し離れた場所で、岩に座り、手に入れたばかりの本を、本当に嬉しそうに読んでいる。その後姿の愛らしさに胸が温かくなるけれど、やっぱりちいショボは声をかけられないまま、陰から見つめることしかできなかった。
そのときだった。
頭に寄生キノコを生やしたモモンガが、「おいっ、なんか生えたぞっ」と言いながら、いつもより断然に重い足取りで古本屋さんに近づいていったのは。
モモンガは「からだがダルくて、やっっけにねむいぞっ、なんとかしろっっ」と、珍しく弱音めいたものを吐いた。そんなモモンガを見て、ちいショボの胸の奥に、ほんの一瞬だけ意地悪い考えがよぎってしまう。(あのまま寄生キノコに乗っ取られちゃえばいいのに……そうしたら、古本屋さんの邪魔をする奴がいなくなるのに)
醜い妄想だ。
なのに、古本屋さんがとった行動は、予想外だった。古本屋さんは嫌な顔ひとつせず、モモンガの手を優しく包み込むと、そのまま自分の家へと連れて帰ろうとしたのだ。キノコを取ってあげるために、惜しみない優しさで手を差し伸べる古本屋さん。そのあまりに気高く、澄み切った優しさ。そして、それとは対照的な、自分の浅ましく、優しさのない冷たい心。
突きつけられた圧倒的な差に、ちいショボは愕然とした。自分の愚かさに恥ずかしさがこみ上げる。ちいショボは、広場で、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
ある日のこと。
ちいかわ族の間で、鎧さんが作った「カニのカチューシャ」を身につけるのがブームになっていた。モモンガは欲望のままに「ふたつ付けりゃいいだろッ」と、鎧さんがに強引にねだり、2セットも頭に装着した。ところが、いざ動いてみると「かさばるッッ! 重いぞッッ!! 皮膚が擦れてかゆいッッッ!!」と、問題と不満ばかりだった。
モモンガは「ふたつは余計だ……荷物だから置いとくか、ココに」と、たまたま傍にいたた古本屋さんの頭へ、あっさりとカニのカチューシャを押しつけるようにかぶせてしまった。突然のことに、モモンガがプレゼントしてくれたのッ!? と、呆然とする古本屋さん。そこへ通りかかった鎧さんが、ふたりの様子を見て声をかけた。
「オッ、あげたのかぁ。友達にっ」
その言葉を聞いた瞬間、古本屋さんの瞳が「!?」と大きく見開かれる。
ただの荷物として。
ちょうど誰かがいたから。
置かれただけ。
モモンガに深い意図なんてない。それでも「ともだち」という鎧さんの一言と、モモンガの体温が残るカチューシャの重み。思いがけない言葉に、古本屋さんは驚きと胸の熱さを隠しきれない。古本屋さん、はモモンガの方へと歩み寄る。
「動かないッッ」と尻尾をパタパタさせるモモンガの動きに真似るようにして、カチューシャのカニツメをパシパシと動かしてみせる古本屋さん。モモンガは「オォ~~? その部分、動くのかッッッ」と、食いつく。古本屋さんは、なんだか誇らしそうだ。モモンガは自分もカニツメをパシパシと動かしてみて、「どうだッ、お前みたいにできたぞッッ! 褒めろッッッ!」といつもの調子で迫る。モモンガに、そっと愛らしく微笑み返す古本屋さん。
その瞬間。
モブであったあの子の身に、静かな変化が起きた。
頭に灯った小さなカニのカチューシャと、ぽっと赤く染まる頬。ただの灰色のモブだったはずの古本屋さんに、やわらかで可憐な桜色の色彩が宿ったのだ。
遠くからその光景をそっと見つめるちいショボ。
(古本屋さんに、色がついた……)
古本屋さんの日常を鮮やかに彩り、特別なちいかわ族へと変えたのは、気まぐれで傍若無人なモモンガだった。ちいショボががあれほど願って、それでも勇気が出せずに、ついに成し遂げられなかった偉業。一歩を踏み出せなかった悔しさと、寂しさが、ちいショボの胸を締めつける。けれど、モモンガの前で心から嬉しそうに笑う古本屋さんの姿は、あまりにも眩しく、優しかった。
ちいショボは、ただその暖かな桜色を、静かに見つめ続けていた。
(おわり)
Q:このモブちいかわと、古本屋さん、どっちが強いですか?
A:古本屋さん。歯の鋭さから明らかに肉食獣。しかもモモンガを庇うために、魔女の顔面を躊躇なく全力で殴れるちいかわ族なので。