タイム・アフター・杜王町   作:ライダー☆

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第一話 俺の名前は朝倉透

 二〇一一年三月、杜王町。

 

 最初に気づいたのは、影の角度だった。

 

 三月の陽といえば、下校時刻にはもうだいぶ西へ傾いているはずだ。それが、俺と友人たちが橋を渡り終えようとする頃には、影が日時計の針そのものになって、見ている端から足元を這い進んでいた。

 

 俺は朝倉透。高校一年生。この時点ではまだ、それだけの人間だった。

 

「一体なんだァーーッ、これはぁーーッ」

 

 友人の一人が、声をひっくり返して叫んだ。

 

 空では、雲が飛沫のようにちぎれて流れていた。太陽が白い尾を引いて弧を描き、月がそれを追いかけて昇っては沈み、また昇る。桜がひと息に咲き切って散り、蟬の声が湧いたと思った次の瞬間には、もう木枯らしが吹いている。季節が、まばたきの間に四つ巡っていった。

 

 友人たちは口々に悲鳴を上げていた。誰かが泣き、誰かが「地震か」「いや違う、これは」と要領を得ない言葉を吐き散らし、誰かがただその場にへたり込んでいた。

 

 俺は、そのどれでもなかった。

 

 怖くない、というのとは違う。恐怖が俺の中に足を踏み入れるより先に、別の何かがすでにその場所を陣取っていた。皮膚の下、もっと正確に言うなら骨と骨のあいだの、名前のない場所から、何かが静かに滲み出してくる。力、としか呼びようのないものだった。使ったこともない筋肉が、今この瞬間、使われるのを待ち構えている。

 

 自分の両手を見下ろした。見た目には何も変わっていない手のひらを、何度も握っては開いた。意味のある確認じゃない。ただ、そうせずにはいられなかった。

 

 友人たちの制服が色を失っていく。繊維の一本一本まで数えられそうな速さで褪せ、糸がほつれ、灰のように風にさらわれていった。露わになった肌もまた同じ速さで老いさらばえていくのを、俺は見た。皮膚が乾き、罅割れ、痛みに悲鳴を上げる暇すら与えられないまま、輪郭ごと崩れていく。

 

 塵になった友人たちが、地面の裂け目——いや、裂け目という言葉すら生ぬるい、世界そのものの継ぎ目みたいなところから溢れ出す光の渦に、抗う間もなく吸い込まれていった。

 

 俺はそれを、ただ見ていた。

 

 自分の制服もまた同じ速度で朽ちていくのを肌で感じながら、声を上げる資格すら持たされていない、奇妙な傍観者の場所に立たされて。

 

 ズズズ……ズズ……。

 

 その音の中に、人の輪郭があった。

 

 誰かが立っている。いや——最初はそう思った。だが目を凝らすほどに、それが「誰か」という形を借りているだけの、もっと別の何かだとわかってきた。

 

 声をかけようとした。喉まで出かかった言葉は、結局最後まで出なかった。

 

 地上が裂けた。

 

 世界そのものが皮を剝がれるように裂け、人という人が輪郭を失って塵になり、一つの巨大な、宇宙としか言いようのない光の渦へと吸い込まれていく。恐ろしいほど鮮明に見えていた。服はすでに俺の身体からも消え失せていた。生まれたままの丸裸で、俺だけが、そこに取り残された。

 

 この期に及んで気にすることでもないんだろうが、裸というのは地味に堪えるものだ。

 

 ——今、この宇宙は膨張している。だが、それは永遠には続かない。膨張はやがて収束へと転じ、すべては極小の一点に還り、そして「無」になる。無からまた新しい宇宙が生まれ、同じ歴史を性懲りもなく繰り返す。あとの世で人はこれを、こう呼ぶことになるらしい。「一巡」と。

 

 もちろん、宇宙の終わりまで人間の寿命が保つはずもない。だからある男は考えた。人類を生かしたまま、周りの時間だけを無限大に加速させればいい、と。宇宙の終わりへ、無へ、そして新たな宇宙の誕生、新たな「現在」へ——全人類を生きたまま連れて行く。

 

 日本の、杜王町という小さな町で下校途中だった一人の高校生——朝倉透という名の少年は、そんな企みの存在すら知る由もなかった。

 

 男の名は、エンリコ・プッチ。彼の知らない土地で、彼の知らない何かを追い求めていた、一人の神父だった。

 

 ——場面は、再び透に戻る。

 

 気づけば、あの宇宙みたいな空間の中に、一人で——いや、二人で立っていた。すべてが飲み込まれたあとも、その名づけようのない場所には、確かに二人分の気配があった。さっき見えた、あの人の容と、俺自身だ。

 

 さっき言いかけたことを、今度こそ言い切った。

 

「お前はなんだ?俺の身体から急に『現れた』感じがするんだ……」

 

 答えはない。人の容は、何も発さない。ただそこに、在るというよりも、俺に寄り添うようにして揺れている。

 

「それに、なんでだ?なんで俺だけここにいる?ほかのみんなは……俺の友達は、あの空間に吸い込まれていったのに……お前の、せいなのか?」

 

 問いかけた瞬間、俺自身の身体もまた、吸い込まれ始めた。

 

 だが、それは先ほど目にしたものとは違っていた。同じ景色、同じ光、同じ渦——それなのに、これは「違う」のだと、言葉より先に、心の奥のどこかで理解できた。あの光は、何かを終わらせるための渦だった。今、俺を包んでいるこれは——何かを、もう一度始めるためのものだ。

 

 服が、戻ってくる。まったく見覚えのない服が。

 

 夢だったのか、と思いながら身を起こす。だが起き上がった自分の身体には、さっき夢の中で見たのと寸分違わぬ服が纏われていた。窓の外に広がる町並みは、見たこともないものだった。見たこともないのに、どこかで見たことがあるような、奇妙な既視感がまとわりついている。

 

 その見知らぬ町を歩き出した。しばらく行くと、コンビニエンスストアのガラス扉の前で、足が止まった。

 

 ガラスに映る自分の姿。濃い色のシャツに、ゆったりとしたシルエットのズボン。特別に目を引く装いというわけでもないはずなのに、一度視線が留まると、そこから逸らすことができない。

 

 顔は、自分のものだ。背格好も変わらない。なのに、そのガラスの中の自分を見つめているうちに、妙な感覚に襲われた。鏡というものは本来、見慣れた自分を映し返してくるはずのものだ。それなのに今、ガラスの向こうから見返してくる顔は、確かに朝倉透の顔でありながら、一枚の膜を隔てた向こう側に立つ誰かのようでもあった。同じ顔、同じ背丈、同じ立ち姿。それでいて、纏っている空気だけが、俺の知る「朝倉透」のものじゃなかった。

 

 その違和感の正体に、ゆっくりと近づいていった。

 

 ——これは、自分の顔ではない。

 

 ——自分とまったく同じ顔を持つ、別の誰かの姿だ。

 

 だが、それを「別人」と切り捨てることも、俺にはできなかった。その身体の内側から見える景色、指先の感覚、呼吸のリズム——そのすべてが紛れもなく「自分」のものとして馴染んでいたからだ。他人の身体を借りているんじゃない。この身体は、最初から俺のものだった。理屈より先に、そんな確信が胸の底から込み上げてくる。

 

 わかった。

 

「自分は、別の存在になった(・・・・・・・・)………」

 

 その言葉が胸の内で像を結んだ瞬間、唇から、抑えようもなく声が漏れた。

 

「俺の名前は朝倉透!!…………間違いない……「生まれ変わった」んだ!!転生したんだ、俺という存在は……!!」

 

 誰に向けるでもない叫びだった。だがその声は、確かに自分の耳に届いて、それまで輪郭を持たなかった予感に、初めて名前を与えた。

 

 自分は消えたんじゃない。塵になって、光の渦に飲まれて、それきり終わったんじゃない。すべてが一度塵に還り、そこからまた新しく始まった、あの果てしない繰り返しの向こう側——そのどこかに確かに存在していたはずの「もう一人の朝倉透」——顔も、声も、生まれた「場所」も同じであろう、自分自身の写し身。俺は今、その身体の内側に、記憶ごと入り込んでしまった。

 

 二つの人生が、一つの器の中で重なり合っている。

 

 その理解を裏づけるように、ガラスに映る自分の傍らには——本来そこに立っているはずの、あの人の容が、映っていなかった。

 

 鏡には映らない何かが、確かに自分の隣に立っている。俺にはそれがわかった。わかってしまった。

 

 自己紹介にしては、ずいぶん遠回りをした。だが、これが俺の——朝倉透の、正確には「朝倉透という身体に収まった何者か」の、始まりだった。

 

 隣に立つ、鏡に映らない誰かは、まだ何も名乗っていない。

 

 こいつが何なのか、俺はまだ知らない。だが、これからずっと隣にいる気でいるらしいことだけは、なんとなく察しがついていた。

 

 

 

 

 

 一九九九年九月、杜王町。

 

 朝倉透は、そこで初めて、これから幾度となく目の当たりにすることになる「奇妙な光景」の、最初の一つに出会うのだった。

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