吹き荒れる熱風が、舞い上がった灰の粒子を巻き上げて渦を巻いていた。
かつて世界の中心として栄華を極め、黄金の祝福に満ち溢れていた王都ローデイルは、いまや見る影もなく沈黙していた。かつて見上げるほどの威容で天を支えた大黄金樹の神体は、赤黒い火柱となって内側から崩壊を続けており、膨大な灰が神代の終焉を告げる灰色の吹雪となって吹きすさぶ。
その焦土の只中を、重厚な白銀の甲冑を纏った大英雄アウレーザが進んでいた。
一歩踏みしめるごとに、膝下まで積もった灰がボフボフと鈍い音を立てる。かつて幾多の古竜を討ち払い、黄金樹の元で武名を轟かせた大英雄にとって、この光景は言葉にしがたい悪夢そのものであった。兜のスリットの奥で眉間を深く寄せ、痛む胃袋を押さえつけたくなる衝動を必死で堪える。
「……信じられん。これが、あの壮麗を極めた王都だというのか。黄金樹が、あのような無惨な薪のように燃え盛るなど……」
「情緒に浸ってる暇なんてないよ、アウレーザ! ほら、急いで急いで! あの壺頭の変態、間違いなく黄金樹の方向に向かっちゃってるんだから!」
頭上から、緊迫感の欠片もない鈴を転がすような美声が降ってきた。
見上げれば、金髪をふわふわとなびかせた幼き神ミケラが、半透明の体をぷかぷかと宙に浮かべながら、手招きするように前方へと漂っていた。体も愛も迷いも影の地の道端に景気良く不法投棄してきたその霊体は陽炎のように透き通り、風が吹けば飛ばされそうなほどにスカスカである。
「急げと仰られましても、足元はこの体たらくです。……それに、ミケラ様。なぜ先ほどから瓦礫の上をわざわざ遠回りして進んでいるのです? あちらの崩れた崖を飛び降りれば、すぐ眼下に大通りが見えておりますが」
アウレーザが指し示したのは、崩落した城壁の裂け目であった。下の段差まではせいぜい二十メートルほど。鍛え上げられた戦士であれば、軽やかに着地することも不可能ではない高さである。
だが、半透明のミケラは血相を変えて小さな両手を横に激しく振った。
「バカッ! 死ぬ気!? あそこから飛び降りたら即死だよ!!」
「は? 即死? 見たところ二十メートル程度でしょう。このアウレーザ、かすり傷一つ負わぬ自信がありますが」
「駄目なものは駄目なの! 十九・九九メートルまでなら無傷でスタッと着地できるけど、一ミリでも超えた瞬間、どんな頑丈な英雄だろうが即死なんだよ! 『YOU DIED』って情けない文字が目に浮かぶよ!」
「一ミリ差でアウト? 意味がわかりませんが?」
「いいから、あっちから黄金樹に向かうよ!」
ミケラに急かされ、灰を分け入った回り道の先に聳え立っていたのは、かつて大樹の信仰を司る高僧や貴族たちが集った荘厳なる巨構、【黄金樹の大聖堂】であった。
幾重にも連なる巨大なアーチ、豪奢な石柱、かつてはステンドグラスが嵌め込まれていたであろう高窓。しかし、それらの壮麗な意匠の多くは爆風によって吹き飛ばされ、床には無数の瓦礫と焦土が散乱していた。吹き抜けの天井からは燃え盛る黄金樹の赤黒い火の粉が絶え間なく降り注ぎ、聖堂の内部を黄昏の赤銅色に染め上げている。
大聖堂の分厚い石扉を押し開けたアウレーザは、その足元に転がっている異様な物体に気づき、ピタリと足を止めた。
「……ミケラ様。何者かが倒れています」
アウレーザは白銀の大盾を油断なく構え、身を屈めてその残骸を検分した。
そこに転がっていたのは、炭化してボロボロになった豪奢なローブと鎧を纏った、一人の老戦士の死体であった。全身を凄まじい高熱の奔流で焼き尽くされたのか、皮膚は黒焦げとなり、周囲の石畳には青白い魔力の結晶がガラスのように焼き付いて凝固している。
何より異様だったのは、その頭部を覆う兜であった。耳を模した無数の突起が不気味に張り巡らされ、見る者に生理的な悪寒を催させる奇怪極まる意匠。手元には、複雑な装飾が施された豪奢な王笏が、半ば溶けかけた状態で転がっていた。
アウレーザは兜の奥で鋭く目を細めた。
「どうやら一足遅かったようですね。凄まじい魔法の痕跡です。……彼は?」
白銀の騎士の問いに対し、肩口をふよふよと漂っていたミケラが、死体を見下ろして心底軽蔑しきったように唇を尖らせた。
「こいつは百智卿・ギデオン=オーフニールだね。褪せ人なんだけど、なんでも自分でやらずに他人にやらせるタイプのクズだよ」
「へえ、ミケラ様みたいですね」
「僕、神なんだけど?」
半透明の幼き神が頬を膨らませて抗議の視線を送ってきたが、アウレーザは一切目を合わせず完全にスルーした。自分は安全圏の霊体で浮遊しながら、他人に「ちょっとあの変態殺してきて」と命じるクソガキ神が、他人の他力本願を罵倒するなど噴飯物であった。
「それにしても、死してなお濃密な魔力の残滓を感じます。これほどの手練れを、魔法で圧倒したというのか。……ミケラ様、床に血痕が」
アウレーザが指し示した床には、乾きかけた鮮血の塊が、赤黒い光の粒子を淡く明滅させながら渦を巻いていた。
「君の神だよ? 無視はよくないと思うな、アウレーザ」
ミケラはジト目を向けつつも、すぐに興味を惹かれたように血痕へと近寄った。
「……あ、それ触ると死んだ時の様子が霊体で再生されるんだ。ちょっと見てみようよ」
「死者の最期の記憶が再生されると? なんと悍ましい術式……しかし、敵の手の内を知るには好都合か」
アウレーザが銀の手甲に包まれた指先で、床の赤黒い血痕に触れた。
瞬間、キィンと硬質な鈴の音が大聖堂に反響し、床から血のように赤い霧が立ち上った。霧は瞬く間に凝固し、かつてこの場所で起きた惨劇の光景を、立体的な半透明の幻影として空間に投影し始めた。
再生された過去の幻像——そこには、健在であった頃のギデオン=オーフニールが立っていた。
豪奢な耳の兜を被り、両手を広げ、まさにこれから大いなる運命の戦いに臨まんとする風格を漂わせている。その視線の先、聖堂の入り口側には、一人の人影が音もなく佇んでいた。
頭部に巨大な壺。
全身には防具の類を一切身につけず、薄汚れた腰布——完全なパンツ一丁。
引き締まった浅黒い肌を晒し、巨大な曲剣を両手で構えている。
あの、狂気の天災。壺頭の褪せ人であった。
ギデオンは王笏を掲げ、朗々とした、聞く者を陶酔させるような美声で仰々しい演説を開始した。
『ああ、やはり君だったか。エルデンリングに見え、エルデの王になるのだな』
運命の皮肉を噛みしめるような、深みのある独白であった。これまでの旅路を讃え、互いの因縁を確かめ合う、まさに物語のクライマックスのように芝居がかった、それでいて荘厳な口上。
だが。
眼前の壺全裸は、その演説を完全にフル無視していた。
微動だにせずギデオンの言葉を聞くどころか、即座に懐から薄汚れた小瓶を取り出すと、親指でコルクを弾き飛ばし、中に入った液体——魔力を纏った青色の霊薬を、一気に煽り始めた。【ゴクッ、ゴクッ、プハーッ】と喉を鳴らす下品な音が、ギデオンの高尚な演説の合間に響き渡る。
続いて褪せ人は、腰から黄金樹の聖印を取り出し、天に向けて掲げた。
ボワッと、眩い黄金の光が全裸の肉体を包み込み、身体能力を底上げする祈祷の光が立ち昇る。
アウレーザは幻影を見つめながら、耐えきれずにツッコミを入れた。
「今の祈祷は『黄金樹に誓って』ですよね。……燃やしといて図々しい奴だな」
「褪せ人なんてそんなもんだよ。使えるものは何でも使うんだから」
ミケラが呆れたように鼻を鳴らす間にも、幻影のギデオンはまったく意に介した様子もなく、陶酔しきった様子で長い演説を継続していた。
『……しかし、残念だ。その意志はよい。だが——』
演説が最高潮に達し、ギデオンが王笏を振り上げた、まさにその瞬間であった。
バフを盛り終えた壺全裸は曲剣を納刀するや否や、背中から青い輝石が煌く長杖——ルーサットの輝石杖を無言で構え直した。そして、一歩も間合いを詰めることなく、その場で腰を低く落とした。
ギデオンの口上が続く。
『——だが、達せられるべきではなああああああアアアァァァァアアアッ!!』
言葉の後半は、断末魔の絶叫へと強制的に書き換えられた。
壺全裸の杖の先端から、常軌を逸した太さの蒼碧の光線——伝説の魔術【彗星アズール】が、轟音と共に一直線に射出されたのである。
大聖堂の空気がプラズマのように励起し、凄まじい衝撃波が瓦礫を四方八方へと吹き飛ばした。
演説に夢中になっていたギデオンは回避行動を取ることすらできず、真正面からその蒼碧の奔流に呑み込まれた。
霊薬の効果によって魔力消費を完全にゼロ化した褪せ人は、トリガーを引きっぱなしにした重機関銃のごとく、数十秒間にわたって彗星アズールを放射し続けた。多段ヒットの凄まじい炸裂音が鳴り響き、ギデオンの体は床に足をつけることすらできず、光線の中でガクガクと痙攣しながら延々と削り取られていく。
やがて光の奔流が収まった時、そこには演説の余韻など微塵もなく、ただ真っ黒に炭化して床に転がる百智卿の残骸だけが残されていた。
壺全裸は杖を仕舞うと、残骸に向かって一瞬だけ高速でカチャカチャと屈伸運動を繰り返すと、何事もなかったかのようにスタスタと大聖堂の奥へと走り去っていった。
そこで、血痕の幻影はブツリと途切れた。
大聖堂に、重苦しい静寂が戻る。
アウレーザは白銀の大剣を握りしめたまま、信じられないものを見たという顔で床の焦げ跡を見つめ、それから激昂して叫んだ。
「卑怯な!? まだギデオン卿が名乗りを上げている最中だったというのに! 誉れの欠片もない!!」
大英雄の騎士道精神が、怒りに満ちていた。
武士の情け、騎士の礼節。戦いの前に名乗りを上げ、互いの覚悟を確かめ合うのは、知性ある戦士にとって侵すべからざる聖域のはずである。それを、相手が喋っている無防備な隙を突き、超遠距離から極大レーザーを浴びせて消し炭にするなど、外道の所業以外の何物でもない。
だが、宙に浮くミケラは冷ややかな目を細め、身も蓋もない現実主義をあっけらかんと口にした。
「殺し合い始まってるのに、自分語りで隙だらけになっちゃう方がバカなんだよ。ゴドリックも自分の腕を斧で切り落として竜の首くっつけようとかチンタラしてる間に、褪せ人にタコ殴りにされてたし。こういう容赦ない姿勢、僕らも見習わなきゃ!」
「見習うな」
一切の躊躇のない、鋭利な平手打ちのような即答であった。
敵が変態なのは百歩譲って受け入れるとしても、自らの主神までが「隙あらば自分語り中に奇襲しよう」などと言い出すのは、騎士として断じて許容できない。
「大体、ミケラ様! 貴方様は先ほど『自分は神だ』と仰ったではありませんか! 神たる者が、あのようなパンツ一丁の卑劣漢の戦法を真似てどうするのです! 神の誉れは無いのですか!」
「誉れなんて腹の足しにもならないってことだよ! 現に僕、ラダーン兄様と一緒に正々堂々戦ったら、あいつに完封されちゃったんだからね!?」
逆ギレである。完全に開き直ったクソガキ神の論理であった。
ミケラはぷりぷりと怒りながら宙を激しく旋回し、それから何かとんでもない閃きを得たかのように、パッとその可憐な顔を輝かせた。
「決めたぞ。僕もあいつに勝つために、不必要なものは全部捨てる!」
「……は? 何を仰って——」
アウレーザの制止を完全に無視し、半透明のミケラは大聖堂の吹き抜け、赤黒く燃える空に向かって神々しく両手を掲げた。霊体から眩い黄金の神気が立ち上り、まるで偉大なる神話の一節を紡ぎ出すかのような、厳かな声音が大聖堂に響き渡る。
「我が誉れを、ここに棄てる――!!」
影の地において肉体を捨て、愛を捨て、迷いを捨て、幾多の十字を築いてきた幼き神による、自らの一部を切り離す霊的放棄の儀式であった。世界を新たな理で導くために過去のしがらみを解き放つ、崇高なる自己犠牲の瞬間。
ふわっと、透けたミケラの胸元から、一筋の淡い光の粒子が抜け落ちた。
アウレーザは思わず固唾を呑み、その神聖なる奇跡の行方を見守った。神が己の「誉れ」を捨てた時、世界にどれほどの激変がもたらされるのか。どれほどの強大な力へと昇華されるのか。
しかし。
ミケラの胸から抜け出た光の粒子は、鍛石の欠片よりも小さく、湿気た線香花火の燃えかすのような、今にも消え入りそうなみすぼらしいチリであった。
ふらふらと頼りなく空中を漂ったその小さなチリは、ぽとっと灰の床に落ち、
——プスン。
と、羽虫の鳴くような音とともに一瞬で消滅した。
後に残されたのは、ただの冷え切った灰の床だけであった。
沈黙。
圧倒的な虚無が二人を包み込んだ。
アウレーザは、そのチリが落ちて消えた床の染みを、感情の完全に抜け落ちた冷え切った目で見下ろした。何秒もの間、瞬き一つせず見つめる。
「……ちっさ」
誉れ高き大英雄は極めて平坦に、感情を削ぎ落とした声で呟いた。
そしてギギギと首を巡らせ、上空で「どうだ!」と言わんばかりに誇らしげに胸を張っているミケラを見上げる。
「な、何さその目は!? 神たる僕の崇高な儀式をバカにしてるでしょ!?」
「ミケラ様は、捨てられるほどの『誉れ』すら、最初から持っていなかったのですね……」
「え、ひど! 僕を誰だと思ってるの、純真無垢な神様だよ!?」
「本当に純真無垢なひとは、自らを純真無垢だと自称しませんし、死者を叩き起こして変態の暗殺を命じたりもしませんし、名乗り口上中の奇襲を推奨したりもしません」
アウレーザは盛大な溜息を吐き出すと、もはや相手にするのも馬鹿馬鹿しいとばかりに大聖堂の奥へと視線を向けた。
百智卿ギデオンの残骸が転がる広間の先には、かつて大いなる祝福を受けたものだけが立ち入ることができたという、黄金樹の深奥へと続く道が口を開けていた。
灰の風が冷酷に吹き抜けた。
あの壺頭の変態は、間違いなくこの先へと進んでいる。
アウレーザは白銀の大剣の柄を握り直し、重厚な大盾を構えた。胃の痛みは限界を超えてもはや麻痺しつつあったが、大英雄の眼光は鋭く輝き、いまだ鈍ってはいなかった。
この先、あとがきがあるぞ
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