大聖堂の奥に口を開けていた巨大な石扉をくぐり抜けると、吹き荒れる灰の嵐は一層その激しさを増していた。
天を突く黄金樹の神体へ向けてまっすぐに伸びる長大な登り階段——【エルデの玉座】へと続く最後の回廊には、もはや神聖さの欠片もなく、ただ終末の静寂と焦熱の気配だけが立ち込めている。
石段を踏みしめるたび、分厚く積もった灰がボフボフと鈍い音を立てて舞い散る。
アウレーザは白銀の大剣を握りしめ、重厚な甲冑を擦れ合わせながら一歩一歩踏みしめて登っていた。
「……ミケラ様。本当に、あの者がこの先に?」
「いるに決まってるでしょ。大聖堂でギデオンを蒸発させた後、あいつは一度も立ち止まってないんだから。ほらそこ、茹でカニの殻が散らばってる」
頭上をふわふわと漂う半透明のミケラが、透けた足先で階段の隅を指し示した。見れば、確かに真新しい甲殻類の殻がぽつぽつと点在している。神聖なる王座へのアプローチを、間食のゴミをポイ捨てしながら闊歩する褪せ人。その徹底した生活感と不敬の極みに、アウレーザは兜の奥で深々と眉間を揉みほぐしたくなった。
だが、階段を登りきり、視界が大きく開けた瞬間——
アウレーザの足が完全に止まった。
そこは、灰都の最頂部。
背後には燃え盛る大黄金樹の巨大な幹が、赤黒い炎を噴き上げながら世界の天井を焦がしている。そしてその眼前、かつて黄金律の頂点たる王が腰掛けたであろう、荘厳なる【エルデの玉座】の広場の中央に、一筋の巨大な影が仁王立ちしていた。
圧倒的なまでの筋骨隆々たる巨躯。
獅子のような白髪を風になびかせ、身に纏うのは荒れ狂う野性を剥き出しにした簡素な毛皮の腰布のみ。両の拳には乾きかけた血がこびりつき、足元の大地には幾重にも亀裂が走り、まるで天変地異そのものが人の形を取って立ち尽くしているかのようであった。
——最初のエルデの王、ゴッドフレイ。
かつて蛮地の戦士の長として荒れ狂い、長き戦いの果てに己の渇きを鎮めるため、その背に獅子の宰相セローシュを宿し、黄金の時代を武力によって切り拓いた伝説の武人。
だが、今その背にセローシュの姿はなかった。
あるのは、己が手で相棒の獅子を屠り、真の姿たる【戦士ホーラ・ルー】へと回帰した者のみが放つ、剥き出しの闘志であった。
アウレーザは息を呑んだ。
その巨躯から漂う威圧感は健在であったが、歴戦の武人の眼は誤魔化せなかった。
筋骨隆々たる胸板には、無数の鋭利な裂傷が刻み込まれ、そこから鮮血が絶え間なく灰の地面へと滴り落ちていた。傷口の周囲には、肉体を維持する限界を超えた証である、淡く儚い黄金の光の粒子が立ち昇っている。
どれほど大地を力強く踏みしめ、泰然自若を装っていようとも、彼がすでに致命傷を負い、死の淵に立っていることは明白であった。
しかし、アウレーザはその傷について一切口にしなかった。
戦場で命を燃やし尽くそうとしている偉大なる戦士に対し、怪我を案じることなど無礼の極みである。それが、かつて同じ戦場で血を流した武人としての、侵すべからざる礼節であった。
アウレーザは背筋を正し、白銀の大盾を引いて厳かに片膝をついた。
「……お久しゅう御座います、ゴッドフレイ様。よもや、ご健在であられたとは」
重厚な兜の奥から響く凛とした美声に、巨漢がゆっくりと顔を上げた。
血に濡れた獰猛な瞳がアウレーザを捉え、やがてその厳つい口元に、懐かしむような豪快な笑みが浮かんだ。
「ぬ……? アウレーザか、久しいな! 巨人戦争以来であるか? ……あの闘いは、存分に心躍ったのう!」
地鳴りのような重低音が広場を震わせた。遥かなる過去、過酷極まる北方の凍土。巨人の群れを相手に共に血風を巻き起こした記憶が、刹那の間に二人の武人の脳裏を駆け抜ける。
「はっ。あの折、王の武勇を間近で拝見いたしましたこと、今なお我が魂の誉れにございます」
礼を尽くすアウレーザ。
だが、その厳粛な再会の空気を、上空から降ってきた乾いた声が無慈悲に引き裂いた。
「ゴッドフレイじゃん。祝福失って追放されたくせに、いつの間にか戻ってきたんだ」
半透明のミケラが、腕を組んでぷかぷかと降りてきた。
その双眸には、アウレーザが向けたような敬意など微塵もなかった。あるのは、身内に対するどこか冷ややかで、心底どうでもよさそうな蔑みだけであった。
ミケラにとってゴッドフレイは、母マリカの「前夫」に過ぎない。血の繋がりなどなく、ましてや知性と繊細な計略を好むミケラから見れば、力任せに全てを叩き潰すことしか能のない原始的な戦闘狂という評価であった。
ミケラはジト目を向け、透けた人差し指を突きつけて問い詰めた。
「ここに壺頭の変態が来なかった?」
唐突極まる問いに対し、ゴッドフレイは腕組みをしたまま、破顔して豪快に頷いた。
「あの男か! うむ、相見えたぞ! たしかに面妖な出で立ちではあったが……あれは良き戦士であった!」
「は?」
ミケラの可憐な眉がピキリと跳ね上がった。
「通したってこと? 何やってんのさ、それでも最初の王なの!?」
「俺はもうゴッドフレイではない」
巨漢は己の胸をドンと叩き、誇らしげに咆哮した。
「戦士ホーラ・ルーとして闘い、そして完敗したのだ! ……俺の渾身の地揺らしを、あの男は軽やかに跳び跳ねて全てかわし、僅かな隙を突いて曲剣を巧みに操り、我が血を奪い去ってみせた!」
「……」
アウレーザの兜が、微かに傾いた。
ゴッドフレイは意気揚々と、自らの敗北をまるで最高の武勇伝であるかのように語り続ける。
「ならば掴み掛かって投げ飛ばしてやろうと思ったのだが、俺の拳が掠りもせんとはな! 大地を踏み砕く衝撃波も、すべて爪先ほどの跳躍で宙に浮いてかわされ、着地と同時に出血の刃を幾重にも叩き込まれた! まさに血湧き肉躍る、実に良き死闘であった!」
あまりにも嬉々として語られる戦闘の顛末。
だが、アウレーザの脳裏に浮かび上がったのは、神話的な英雄譚などでは断じてなかった。
地響きを立てて大技を繰り出す屈強な大男の足元で、パンツ一丁の変態がピョンピョンとリズミカルにバッタのように跳ね回り、無敵判定ですり抜けながら曲剣でシャカシャカと出血を強いていくという、極めて作業的かつ無慈悲な光景であった。
アウレーザは深く、長いため息を吐き出した。
「……ゴッドフレイ様」
「む?」
「それ、バッタ野郎に一方的に切り刻まれただけでは?」
冷徹な事実の指摘であった。
だが、歴戦の戦闘狂にはそんなツッコミすら心地よい余韻にしか聞こえないらしい。「カッカッカ!」と豪快に笑い飛ばすばかりである。
一方、その脳筋ぶりに完全に愛想を尽かしたミケラは、冷淡極まる口調で切り捨てた。
「そんなんだから母様に呆れられて追放されたんだよ」
痛烈極まる正論のナイフが初代王の胸先に突き立てられるが、ゴッドフレイは意に介する様子もなく、ただ天を仰いで笑っている。
「もういいよ、敗者の脳筋はそこで座ってな。いこうアウレーザ。あいつ、とっくに黄金樹の中に入っちゃってるじゃん」
ミケラはゴッドフレイを一瞥もせず頭上を通り越すと、燃え盛る大樹の根元——眩い光を放つ霧の入り口に向かって一人でふよふよと進んでいってしまった。
取り残された玉座の広場に、再び灰の吹き抜ける音が戻る。
アウレーザが立ち上がり、主君の背を追おうと足を踏み出したその時、背後から低く、威厳に満ちた声が呼び止めた。
「……アウレーザよ」
振り返ると、そこには先ほどの豪快な笑みを消し、静かに目を細めたゴッドフレイが立っていた。傷口から立ち上る光の粒子は一層濃くなり、その肉体の輪郭がわずかに揺らぎ始めている。
「お主、今はあのミケラに仕えておるのか? ……貴様ほどの戦士が、魅了されておるわけでもあるまいに」
鋭い眼光であった。
百戦錬磨の英雄だからこそ、アウレーザの瞳に宿る理性が、ミケラの甘美な神の魅力に侵されていないことを見抜いていた。
アウレーザは苦渋に満ちた面持ちで、重い鉄の手甲を胸に当てた。
「左様にございます。遺憾ながら、ミケラ様より第二の命を授けられましたゆえ」
「そうか」
ゴッドフレイは深く息を吐き、静かに首を振った。
「……仕える神を間違えたのう、アウレーザ」
「……耳が痛いお言葉にございます」
アウレーザの兜ががっくりと項垂れた。
(知ってる。叩き起こされた瞬間からずっと後悔してる。チャリオットが正面衝突した瞬間も、百智卿が卑劣光線で消し炭にされた瞬間も、我が誉れを棄てるとか言って湿気た花火のカスを落とした瞬間も、一秒たりとも後悔しなかった時間などない)
喉まで出かかった膨大な愚痴を辛うじて呑み込み、アウレーザは騎士の誇りを胸に背筋を伸ばした。
「ですが、いかに我儘なクソガキ……失礼、主君であろうとも、第二の命を拾った手前、投げ出すのは我が騎士道に反しますゆえ」
その言葉を聞いたゴッドフレイは、ふっと口元を綻ばせた。
「フッ、相変わらず生真面目な男よ」
しかし、王の表情はすぐに厳格なものへと戻った。
「……冗談で言っておるのではないぞ。あれが胸の内にどのような律を抱いておるか知らぬが、いずれにせよそれは、このエルデの地を……黄金律を救いはせぬ。ミケラの優しさは、全てを等しく魅了し、奪い去る檻よ」
かつてマリカと共に、黄金の時代を築いた王だからこそ知る、神の血の業であった。
アウレーザは兜の奥で静かに目を伏せ、重々しく頷いた。
「……承知しております。ですが」
アウレーザは顔を上げ、黄金樹の入り口へと視線を向けた。
「あの壺全裸が王になるよりは、まだマシかと」
広場に、一瞬の静寂が落ちた。
ゴッドフレイは眉を寄せ、顎に手を当ててしばし沈思黙考した。
頭に巨大な壺を被り、防具の一切を脱ぎ捨てて薄汚れた布切れ一枚で練り歩き、戦闘前に腹を切ってカニを食い散らかす全裸の怪異が、エルデンリングを修復し、神聖なるエルデの玉座に鎮座する光景。
「……うむ、それもそうだな」
最初の王は、心底腑に落ちたという顔で深く頷いた。
「俺でさえ、王の椅子に座る時は、あの堅苦しい鎧を着たというのに……壺頭にパンツ一丁は流石にのう」
「そこなんですね、基準」
アウレーザは思わずツッコミを漏らした。
初代王が告げた唯一の懸念。世界の理とか、黄金律の存続とか、高尚な神学論争を一瞬で吹き飛ばす「王としての最低限のドレスコード」という極めて世俗的な基準。だが確かに、パンツ一丁の変態が世界の覇者として君臨する絵面は、倫理的にも視覚的にも狭間の地にとって耐え難い冒涜である。
「いつまで昔話に花咲かせてんのさアウレーザ! 早く来ないと置いてっちゃうよー!」
黄金樹の光の霧の前から、甲高いミケラの怒声が響いてきた。半透明の幼き神が、ぷんぷんと両手を振り回して地団駄を踏んでいる。
アウレーザは深々と一礼した。
「……では、主君が呼んでおりますので」
「うむ」
ゴッドフレイは堂々たる仁王立ちのまま、薄れゆく腕を組んで言った。
「達者でな、アウレーザ。……我が最期を、誰にも伝えてくれるなよ。戦士は、ただ土に還るのみだ」
「御意」
アウレーザは踵を返し、灰を蹴立ててミケラの下へと駆け寄った。
重厚な甲冑を鳴らしながら数歩進み、ふと気になって背後を振り返る。
そこには、もう誰もいなかった。
広大なエルデの玉座の広場には、ただ激しく吹き荒れる灰の嵐と、地面に深く刻まれた無数の亀裂、そして風に攫われて空へと昇っていく、金色の光の残滓が漂っているだけであった。
最初のエルデの王は、自らの血を流し尽くし、跡形もなく狭間の地から消滅していた。
「……ゴッドフレイ様」
大英雄は短く呟き、白銀の大剣の柄を固く握りしめた。
かつて仰ぎ見た偉大な王すらも、あの理不尽な変態の前に散った。もはやこの世界に残された防波堤は、己のこの剣と盾、そして背後で喚き散らすクソガキ神の霊体のみである。
「アウレーザ! ぼーっとしてないで! 霧をくぐるよ!」
ミケラが光の霧を指さし、焦れたように叫ぶ。
「……承知いたしました、ミケラ様」
アウレーザは大盾を構え、白銀の大剣を正段に構え直した。
胃の痛みはもはや限界を突破し、一周回って清々しいまでの覚悟へと変わっていた。
あとがきこそ、王の故よ!
クスリと笑えたら評価いただけると嬉しいです。