運転手転生〜異世界に行ったら君を守る〜 作:ただの名無し
雨の音が、不気味なほど耳について離れなかった。
ワイパーが激しく左右に揺れ、フロントガラスの視界を濡れた黒で塗りつぶしていく。
あの日、俺はいつものようにトラックのハンドルを握っていた。
愛する妻と、まだ幼い娘の笑顔を思い浮かべながら、いつも通りの夜道を走っていたはずだった。
言葉を覚えたばかりの娘が「おかえり」と笑う顔。
夜遅く帰る俺を優しく迎えてくれた妻の温もり。
平凡だが、間違いなく俺の宝物だったあの幸せ。
——胸が、跳ねた。
「が、は……っ!?」
心臓を、太い針で直刺しにされたような激痛。
肺から一瞬で空気が抜け落ち、視界が途端にぐにゃりと歪む。
脚の力が抜け、アクセルを踏み込んだ右足が強張って固直する。
『あ、危ねえぞ!』
雨音を切り裂いて届いたのは、若い男の声だった。
薄れゆく視界の向こう、濡れた歩道で路上に出て言い争っていた三人の高校生。
もう少しで彼らをトラックで轢いてしまう——そう思った、まさにその時だった。
だらしない格好をした小太りの男が、不意に他の高校生二人を力任せに押し退けるようにして、路上へ飛び出してきた。
——踏め、ブレーキを踏め、脚を動かせ!!
脳内でどれほど叫んでも、麻痺した身体はピクリとも動かない。
急ブレーキも叶わぬまま、トラックの巨体が高校生たちを助けようと飛び出した男目掛けて突進していく。
突進する数ミリ秒の前。飛び出してきた男の顔と、ばっちりと目が合った。
必死で誰かを助けようとした男の、後悔と覚悟が混ざり合った瞳。
次の瞬間、空間が歪むような妙な『光』が視界を覆い——押し退けられたはずの高校生二人の姿が、かき消えるように消滅した。
——ドンッ。
重い肉体と鉄塊が衝突する、生々しく鈍い衝撃。
残された小太りの男を轢き潰した感覚を残したまま、俺の意識は深い闇へと落ちていった。
俺は、人を殺してしまった。
家族を愛し、人の親であったはずのこの手で、未来ある青年たちやそんな彼らを救おうとした男の命を奪ってしまった。
それに、残された妻と娘はどうなる? 「人を殺した運転手の家族」として、激しい世間の糾弾に晒されるのではないか。なんてことだ、なんてことを。
俺は自分の不注意と病で人を殺し、愛すべき妻と我が子の未来まで汚してしまったのだ。
そこで意識が完全に途切れた。
◇
あたたかい。
闇の中で浮遊していた意識が、不意に強烈な「感覚」に引き戻された。
耳の奥で、誰かの必死な声が聞こえる。知らない言語だ。喉を鳴らすような、硬く聞き慣れない音の羅列。
だが、その言葉に込められた感情だけは痛いほど伝わってきた。狂おしいほどの愛おしさと、悲痛な祈り。
「……あ、う……?」
声を出そうとして、自分の口から漏れたのは掠れた赤ん坊の産声だった。
重い瞼を必死に押し開ける。
視界はぼやけ、焦点がうまく結ばない。だが、自分を見下ろしている二つの顔があることだけは分かった。
一人は、灰色の肌と小さな角を持った、傷だらけの若い男。
もう一人は、同じく灰色の肌に切れ長の目を持ち、疲れ果てた表情を浮かべた黒髪の女性。
二人は粗末な皮布に包まれた俺を、壊れ物を扱うかのような手つきで代わる代わる抱きしめていた。
(な……なんだ……? ここは……病院か……? 俺は、生き残ったのか……?)
戸惑いながら手を動かそうとした俺は、自分の視界に入った自らの手を見て凍りついた。
小さく、皺の寄った、真っ赤な赤ん坊の手。
三十手前で、ハンドルを握り続けて硬いタコができていたはずの俺の手ではない。
頭の中が激しい混乱に包まれる。
赤ん坊? 俺が?
じゃあ、あの事故は? 俺のトラックに轢かれたあの男性は? 消えてしまった高校生たちはどうなった?
警察の取調べは? 残してきた俺の妻と、まだ幼い娘は——どうなったんだ!?
『お父さん』として娘を抱きしめる資格も、妻の傍にいる資格も、俺は自分自身の罪で永遠に失ってしまった。
激しい後悔と罪悪感が、胸の奥を激しくかきむしる。
思考がまとまらない。だが、俺を抱く男の、ゴツゴツとした手から伝わる体温だけが異様なほど生々しかった。
男はボロボロと大きな涙をこぼし、俺の額に自分の額を押し当てていた。女性もまた、消え入りそうな声で俺の頬を撫でる。
(この人たちは……一体誰なんだ……?)
生まれたばかりの子供のように俺を優しく抱き抱える疲れ果てた女。それを楽しそうに、幸せそうに眺める傷だらけの若い男。
だが、その幸せなはずの光景は、周囲を覆う絶望的な空気によってすぐに打ち砕かれた。
鼻を刺すのは、強烈な腐臭と、焦げ付くような鉄の匂い。
肌を焼くのは、突き刺さるような冷たい風と、舞い散る赤紫色の砂塵。
ここは日本ではない。病院でも、天国でもない。
ふと、二人の隙間から外の風景が見えた。
荒れ果てた赤茶けた大地。崩れかけた粗末な岩の洞穴。そして、遠くで響き渡る、人間のものではない「何か」の遠吠えと今まで生きてきた中で一度も見たことのないその姿。
——ここは、地獄だ。
俺は即座にそう思った。
俺は人を殺した。何の罪もない、勇敢に高校生たちを庇った男性の未来を、俺の身勝手な心臓発作で奪い去った。
殺人の罪を犯し、その上、妻と子供の未来を奪ってしまった。
だから、俺は落ちたのだ。
あんな化け物の徘徊する地獄に赤ん坊として生まれ変わらされたのだと。
胸を締め付けるのは、正視できないほどの罪悪感だった。
俺に抱擁をくれるこの若い夫婦も、地獄の亡者なのかもしれない。あるいは、罪人である俺を産み落とすために用意された幻影なのか。
俺は言葉も出せず、ただ赤ん坊の小さな体で震えることしかできなかった。
◇
それからの数日間は、悪夢のような時間だった。
俺の肉体は日に日に衰弱していった。赤ん坊の体はあまりにも脆く、そしてこの環境はあまりにも過酷すぎた。
両親——そう呼ぶべき二人は、そんな過酷な極貧の集落で生きる者たちだった。
集落と言っても、数家族が岩陰に身を寄せ合っているだけの惨めな避難所に過ぎない。
周りは凶暴な魔物が徘徊する危険地帯。まともな食べ物も、きれいな水すらない。
父親は毎朝、ボロボロの石剣を握り締めて狩りに出かけていった。
そして夕方になると、血まみれになり、時にはどこかを大きく負傷しながら帰ってきた。手にあるのは、僅かな干し肉の切れ端や、泥のついた不気味な植物の根だけだ。
母親は、そんな父親を介抱しながら、自分も満足に食べていない体で俺に乳を与えようとした。
だが、母親の胸からは母乳などほとんど出なかった。彼女の肌は日増しに青白くなり、頬は削げ落とされ、目元には濃い隈が落ちていた。
「……あう……」
母親の細い腕の中で、俺は何もできない自分を呪った。
生きていた頃は、トラックを運転して家族を養っていた「父親」だったはずだ。それなのに、今の俺は言葉すら話せず、自分で立つこともできず、またしても自分を愛してくれる親の命を吸い上げるだけの「重荷」でしかなかった。
娘の成長を見守ることもできず、妻に苦労をかけ、ここでは新しい親を苦しめている。
俺という人間は、どこへ行っても誰かの命と幸せを奪うことしかできないのか。
(やめてくれ……俺なんかに、そんな優しさを向けないでくれ……!)
母親がかすれた声で子守唄を歌うたび、俺の胸は苦しさで張り裂けそうになった。
俺は罪人だ。人を殺し、残した家族をも不幸に落としめた最低の男だ。
そんな俺のために、なぜこの人たちは命を削っている?
なぜ、自分たちの僅かな食料を削ってまで、俺を生かそうとする?
四日目の夜。ついに決定的な出来事が起きた。
集落の周囲に、魔物の群れが接近したのだ。
闇の中から響く、生肉を貪るような唸り声。集落の男たち数人が武器をとって飛び出していく悲鳴と、肉が引き裂かれる不穏な音。
父親が血だらけになって岩洞へ戻ってきた。
彼の腹部は大きく引き裂かれ、赤黒い血が濁流のように溢れ出していた。左腕は妙な方向に曲がっている。
「……ッ、……!!」
父親は絶叫を上げながら、母親の手を引いた。
母親もまた、すでに立つことすらままならないほど体力を使い果たしていたが、必死の思いで俺を抱きかかえ、父親に肩を貸した。
三人は、闇の中を必死に逃げた。
背後から迫る魔物の気配。冷たい雨が降り出し、赤ん坊の俺の肌を氷のように刺す。
両親の荒い息遣いと、血の混じった咳き込む音が雨音に混ざり合う。
どれほど走っただろうか。
辿りついたのは、大きな岩壁の影に作られた、小さな洞窟だった。
そこには、数人の子供たちと、一人の年老いた魔族の老人が固まって身を潜めていた。
長は、頭部に大きな傷跡を持つ古い戦士のようだった。だが、その目は深く落ち込み、諦念と悲壮感に満ちていた。
「……!!」
父親は膝から崩れ落ち、血の泡を吹きながら長にすがりついた。
そして、母親が抱いていた俺を、震える両手で受け取ると——老人の目の前に捧げ出すように差し出した。
父親の口から出た言葉の意味は、今の俺には分からない。
だが、その表情を見れば、何を言っているのか嫌でも理解できた。
『この子を……俺たちの代わりに……生かしてくれ』
『頼む……この子だけでも……!』
父親の頭が、泥で汚れた地面に何度も叩きつけられる。
母親もまた、父親の隣で泥に伏し、老人の手元へ俺を押し進めながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔で祈るように叫んでいた。
「あ……あ……っ!」
俺は赤ん坊の声で叫んだ。手を伸ばそうとした。
やめろ、やめてくれ!
俺なんかを見捨てて、お前たちが生きろ!
俺は人を殺した罪人だ! 我が子や妻の未来を奪った最低の父親だ! 助ける価値なんてない! 俺を置いて逃げろ!!
だが、俺の幼い叫びは、ただの赤ん坊の泣き声として洞窟内に響くだけだった。
老人は苦渋に満ちた表情で長き沈黙を保った後、ゆっくりと頷いた。
そして、力強い骨ばった手で、俺の体を包む皮布を引き取った。
老人の手へ渡された瞬間、母親の顔に——初めて、安堵の笑みが浮かんだ。
血と泥に塗れた、あまりにも美しく、排他的で、そして切ない笑顔だった。
「……ッ、……」
母親は俺の小さな頬に、最期の口づけを落とした。
冷たくなりかけた彼女の唇の感触が、俺の皮膚に深く刻み込まれる。
父親は満足そうに息を吐くと、そのままガクリと首を垂らし、動かなくなった。
母親もまた、父親の体に寄り添うように倒れ込み、二度と目を開けることはなかった。
雨の音が、洞窟の外で冷たく響き続けていた。
◇
両親が動かなくなってから、数年が過ぎた。
老人は言葉通り、俺を集落の生き残りの子供たちと共に守り育ててくれた。
洞窟の片隅で、俺は他の幼い子供たちと肩を寄せ合いながら、泥交じりの水を啜り、干し肉のかけらを噛み砕いて生き永らえた。
老人は時折、俺の顔をじっと見つめては、静かに溜息をついていた。
その視線には、命を託された重みと、未来のないこの世界への絶望が混ざり合っている。
そして——俺の精神が、少しずつこの世界の「現実」を理解し始めたのは、言葉を少しずつ覚え、自分の足で歩けるようになり始めた頃だった。
鏡などない。だが、雨上がりの水たまりに映る自分の顔を見れば、そこにはまだ幼さが残るが、日本人とは思えない灰色の肌に、母親譲りの黒髪と切れ長の目をした少年が写っていた。
なんだこれは……こんなの俺じゃない。
だって、生きていた頃の俺は黒髪黒目で、どこにでもいそうな平凡な日本の男だったはずなのに。
なんで、こんなにも……俺を生かして死んでいった、あの二人に似ているんだ。
父親と同じ灰色の肌。母親譲りの切れ長で静かな目元。
水たまりの中の少年は、紛れもなくあの二人が命を賭して紡いでくれた「血と愛の結晶」そのものだった。
前世で人を殺し、自分の妻と娘の未来すら壊してしまった最低の俺が。
この世界では、二人の親から命を注がれ、その面影を全身に宿して生きている。
胸の中には、惨めで、やり切れなくて、誰にもぶつけることができない最悪な気持ちだけが残っていた。