運転手転生〜異世界に行ったら君を守る〜 作:ただの名無し
朝、岩穴の隙間から差し込む光は、いつだって赤紫色に濁っていた。
雨上がりの水たまりに手を浸し、冷たい水で顔を洗う。
水面に揺れる己の影を見るたび、胸の奥が冷たく凍りついていくのが分かった。
灰色の肌。母親譲りの黒い髪。すっと通った鼻筋に、切れ長の目。
鏡などなくても、嫌でも理解させられる。この顔は、俺に命を託して死んでいったあの両親の面影そのものだ。
「……こんなの、俺じゃない」
水面を殴りつけ、波紋で己の顔をかき消す。
俺は、三十手前の日本人だったはずだ。
家庭を持ち、トラックを運転し、そして……心臓発作を起こして未来ある高校生やそれを救おうとした男性を轢き殺した、最低の加害者だったはずだ。
なのに、なぜ俺は新しい命をもらい、新しい肉体で生きている?
なぜ、名も知らぬ魔族の夫婦が、自らの血を吐きながら俺を生き永らえさせた?
(違う……認めないぞ)
俺は固く目を閉じ、泥のついた手を強く握りしめた。
ここは異世界などでは断じてない。ここは、地獄だ。
俺が犯した最悪の罪に対する、永劫の罰を与えるために用意された地獄に違いないんだ。
あの夫婦も、俺に『生きる罪悪感』を刻み込むために用意された地獄の幻影に過ぎない。
そう思い込むことで、どうにか自分の精神を保っていた。
「ここは地獄で、俺はいずれ酷い目に遭って死ぬべきだ」と自分に言い聞かせることだけが、自分が殺した被害者と残してきた家族に対する、唯一の気持ちの持ち方だった。
◇
「おい、また水たまりと睨めっこしてんのか?」
背後から、呆れたような声が掛けられた。
振り返ると、そこには銀髪で褐色肌の少年が立っていた。
額に粗末な布を巻き、尖った耳を覗かせている。同じ生き残りの少年、ヤガだ。
その隣には、岩のように大柄な身体を持った灰色の肌の少年ダント。
少し後ろには、金髪の清楚な少女ラーナと、大きな魔導書のような皮束を大切そうに抱えた小柄な黒髪の少女リアが立っていた。
「……何か用か」
俺は視線を逸らし、冷淡な声で返した。
「何か用か、じゃねえよ! グリム爺さんが干し肉削ってくれたから、早く来いって言いに来てやったんだ。ほらよ!」
ヤガが馴れ々々しく俺の手に干し肉の欠片を押し付けようとしてくる。俺はその手を、素早く払いのけた。
「……いらない。俺の分は、お前たちで分けろ」
「はあ!? またそれかよ! お前、昨日もほとんど食ってねえだろ!」
ヤガが悔しそうに眉をひそめる。
「ユーベ……無理しちゃダメだよ。ヤガは口が悪いけど、すごく心配してるんだから。ほら、一緒に食べよ?」
ラーナが優しく微笑みながら足元へ歩み寄り、削られた干し肉の入った小さな木皿を地面に置いてくれた。彼女の綺麗な金髪が朝日に照らされて柔らかく揺れる。
「そうだよ、ユーベ。僕の分も半分あげるからさ。ちゃんと食べないと、大きくなれないよ?」
ダントがその大きな体躯を小さく丸め、遠慮がちに木皿の端を指さした。彼はいかつい見た目に反して、この中で一番気が優しく大人しい性格をしている。
彼らと出会ったのは、両親が死んだ悲劇の翌日だった。
ここはいかなる勢力にも属せない両親のいない子供たちの溜まり場だった。以前はこの岩穴にもっとたくさんの子供たちがいた。だが、病気で死に、魔物に殺され、あるいは絶望してここをみな去っていった。
残されたのは、この4人だけだ。
「……どうせここはいずれ全員が死ぬ地獄だ」
俺がそう思い込むには、十分すぎるほど残酷な現実がこの岩穴に転がっていた。
「俺に関わるな。放っておいてくれ」
「放っておけるかよ! お前、いっつも一人で死にそうな顔してんだろ! 俺たちは仲間なんだからさ!」
ヤガがしつこく食い下がってくる。
彼らは親を失った者同士、身を寄せ合って生きようとしていた。だが、俺にとって彼らの温もりは恐怖そのものだった。
何より、俺を惑わせるのは黒髪の幼い少女、リアだった。
無口で、大きな皮束の魔導書を大切そうに抱える小さな姿。そのふとした仕草や横顔が、前世で残してきた幼い娘にあまりにも似ていたのだ。
『おかえり』と笑っていた娘をあの世界に残し、人を殺し、自分だけがこうして別の世界で生きている。
リアの姿を見るたび、前世の妻や娘に対する罪悪感が激しい濁流となって押し寄せ、俺は彼女から目を逸らすことしかできなかった。
だが——昨夜、リアが寒そうに震えていたので、みんなが眠った隙にそっと自分の粗末な毛布を重ねてやっていた。
言葉も交わさず、素っ気なく立ち去る俺の背中を、リアは静かな黒い瞳で見つめていたことにユーベは気づかなかった。
「……ユーベ、昨日はありがと」
リアが小さくポツリと呟いた。抱えていた本の隙間から、ほんの僅かに口元を緩めている。
「なっ……何のことだ」
「知ってる。夜、毛布かけてくれた。ユーベは、やさしい」
無口なリアがまっすぐに俺を見つめてくる。
彼女は理解していたのだ。ユーベが自分たちを避けるのは嫌っているからではなく、不器用で、痛々しいほどの優しさと罪悪感を抱えているからなのだと。
「……勝手にしてろ!」
俺は叫び、ヤガたちを強く押し退けて、逃げるように洞窟の奥へと歩き去った。
◇
「……ユーベ」
その日の夜、子供たちが重なり合って眠りについた頃。
洞窟の入口で石剣を研いでいた老戦士——この世界の両親から俺を託された老人グリムが、静かに俺を呼び寄せた。
グリムは頭部に大きな傷跡を持ち、また、その手には数々の傷跡がついていた。
グリムは研ぎ石を置くと、深く落ち込んだ目で俺を見つめた。
「お前が己を苛んでいる理由は分からん。……だがな、わしにはお前の気持ちが少しだけ解る気がするのだ」
グリムは静かに吐息をつき、夜空の赤紫色の月を見上げた。
「わしも昔……自分の息子夫婦と、まだ幼かった孫を魔物に殺された。わしだけが生き残り、守れなかった後悔で毎日死ぬことばかり考えていた。……ここにいた他の子供たちも守ってやれず、死なせ、去らせてしまった。この世界すべてが、わしを罰するための地獄に見えたよ」
「……っ」
「だがな、そんな時にヤガたちを拾った。そして……お前の両親が、血と泥に塗れてお前をわしに託してきたんだ。あの二人はな、己の命が消える寸前だというのに、我が子が生き残る希望を手に入れたことだけに感謝して笑っていた」
グリムの手が、俺の小さな頭の上に重々しく乗せられた。しわくちゃて傷だらけの無骨な男の手だった。
しかし、そこには確かにある温かみを感じる手であった。
「わしは悟った。死ぬことなど、何の償いにもならんとな。わしの命は、あいつらが残してくれた『未来』を守るために残されたのだと。……だからユーベ、お前に言っておく」
グリムは力強い目で、まっすぐに俺の目を見つめた。
「無理に相手を殺すな、ただ死ぬな、泥を舐めても逃げて生き残れ」
グリムの言葉が、瞳が、その俺を撫でる手の全てが俺の全身に降り注がれる電流ような感覚を与える。
「戦う必要などない。誰かを傷つける必要もない。ただ死ぬ気で逃げて、命を繋げ。それが……お前を見送った親への、唯一の答えだ」
その言葉は、俺の胸に重く突き刺さっていた。
◇
悲劇は、その翌日の午後に訪れた。
グリムが子供たちに生き残るための罠を教えていた時——赤紫色の砂塵を巻き上げ、体長三メートルを超える巨体を持った六本脚の魔物が姿を現した。
黒く濁った甲殻。緑色の毒液を垂らす顎。
凶悪な肉食魔物がその場に現れたのだ。今の彼らにとっては、まさに絶対的な死の象徴だ。
「逃げろッ!!」
グリムが折れた鉄剣を構えて立ち塞がるが、魔物の巨大な前脚が一閃し、激しい骨折音とともにグリムの身体が岩壁に吹き飛ばされた。
「うそ…」
「…そんな」
ラーナやダントの呟きと同時に———
「走れぇぇぇッ!! 生き残れぇぇっ!!」
ボロボロの死にかけの身体で絶叫するグリム。ヤガたちは泣きながらその場を走り出したが、俺だけは足を止めていた。
(ここで俺が死ねば、全てが終わる……)
俺は逃げず、グリムの折れた鉄剣を拾い上げ、自暴自棄に魔物へと歩み寄った。
死に場所を求めるように、こんな地獄から逃げるように、魔物の眼球目掛けて剣を突き出そうとした——その瞬間。
爪を立てる魔物の皮膚に、折れた鉄剣の尖端が触れた感触。
——ドンッ!!
脳裏に駆け巡る、雨の国道。フロントガラスの割れる音。トラックが男性を轢き潰し、肉と骨が砕けた生々しい振動。
「うっ、あ……っ!?」
殺す? 俺が……命を奪う!?
無理だ! 恐ろしい! 気持ち悪い! これ以上、何かを傷つけるなんて……命を奪うなんて絶対に無理だ!!
「おえっ……ぐぁ、ああっ……ッ!!」
強烈な拒絶反応。俺は剣を取り落とし、地面に膝をついて胃液と泥水を大量にぶちまけた。
ゲロまみれで蹲り、指一本動かせない俺の頭上に、魔物の脚が振り下ろされる。
(ああ……俺はダメだ。戦うこともできない……情けない。だが、これでやっと死ねる……!)
「うおあああああッ!!」
ドガッ!!
ダントが岩を抱えて魔物の関節に体当たりし、体勢を崩させた。
「ユーベ!! オイ、早く立つんだバカ野郎ッ!!」
ヤガが飛び込み、吐瀉物と泥で汚れた俺を力任せに背負い上げる。
ラーナが泣きながら泥を投げ、リアが怯えながらも魔導書の束を叩きつけて音を立て、魔物の気を逸らす。
誰も戦っていない。誰もこの魔物を殺そうとしていない。
ただ、グリムの教え通り——全員で生き残ることだけに、その幼い命を燃やしていた。
ヤガの肩の震え。背中から伝わる必死な体温。
吐瀉物を撒き散らしながら、俺の目からは情けなさと悔しさの涙があふれ出した。
(俺は……戦うこともできない。剣を持つこともできない半端で臆病者の罪人だ……! だけど…………こんな子供たちを死なせたくない……!!)
俺は吐瀉物に塗れた唇を噛み締め、グリムのあの言葉を頭の中で必死に叫んだ。
——殺すな、死ぬな、泥を舐めても逃げて生き残れ!!
「ヤガ……! 東の岩場だ……! あそこの狭い亀裂なら、あの巨体は絶対に入れない!」
「おうよッ!! みんな、走れぇぇぇッ!!」
◇
俺たちは必死で泥を蹴り、大人一人がやっと通れる岩の隙間へと雪崩れ込んだ。
ズドンッ!と岩壁に激突する魔物。狭い隙間に阻まれ、しばらくして俺たちを諦めたようで、咆哮を残して去っていった。
暗闇の中、重なり合って倒れる俺たち。
全員息は上がり、泥や汗、涙に鼻水でぐちゃぐちゃに汚れていた。
そして怪我を負いながらも、ヤガは腫れ上がった顔で笑った。
「へへ……逃げ切ったぞ。俺たち、生き残ったんだ」
「ユーベ……大丈夫? 怪我はない?」
ラーナが心配そうに、泥に汚れた俺の顔を拭ってくれる。
「ユーベのおかげだよ。あの隙間に入る判断をしてくれてなかったら、僕たち間違いなく潰されてた……ありがとう」
ダントが荒い息を吐きながら、優しく微笑んだ。
俺は膝に顔をうずめ、荒れる息を整えら震える手で地面の泥を握りしめた。
リアがそっと近寄り、俺の汚れた袖を小さな手で優しく握りしめてくれる。
俺はあの魔物に攻撃することが出来なかった。分かっていた。前から何かを殺そうとしたり、人を傷つけそうになると、あの光景がフラッシュバックしてくるのだ。だから、武器を握るだけでトラウマに襲われ、ゲロを吐いて倒れた。
戦うことすらできない、そんな致命的な『弱点』を抱えた欠陥品だ。今までの俺ならそんな欠陥品でも、死ねば終わりだと諦めていた。
だが——もうずっと前から薄々分かっていた、この世界は地獄なんてものではないと。俺はこの世界に生きるユーベなんだ。
この世界の人々は生きていて、それぞれの思いや肉体が感情が今この場にあるのだと。
この狭く暗い隙間の中で、ようやく気付いた。
そして、ここにいる彼らをせめて守りたいと思った。
戦えないなら、戦わない道を探すしかない。
剣が振れないなら、知恵を絞り、罠を張り、泥を啜り、どんな惨めな姿を晒してでも、逃げて逃げて逃げ切ってやる。
「……行こう。魔大陸最大の街……『リカリス』へ」
グリムが語っていた、いつか辿り着くべき希望の街。
俺の言葉にみんなが同意し、その場を後にする。
大人の保護者を失った5人の子供たちは、己の弱さを抱えたまま、村や集落を渡り歩いて生き抜く過酷な旅へと足を踏み出していった。