大正浪漫英雄記〜役立たずの忌み子が、100万分の1の奇跡を起こし世界を守護する〜 作:時代に遅れている
大正二年(1913年)七月。
近代化の波が押し寄せる華やかな帝都から遠く離れた、深い山奥の寒村。
じっとりとした夏の夜気の中、松明の赤い炎が村人たちの狂気を孕んだ顔を不気味に照らし出している。
「ああ、やっとこの時が来たよ」
「無事に見つかって良かった……これでまた、村は救われる」
「まぁ、神にも先祖さまにも見捨てられた『忌み子』だ。ものの怪サマには、ちょうど良い捧げものになるだろうさ」
安堵と嘲笑が入り混じった囁きが、闇夜に溶けていく。
その異様な光景に、偶然村を訪れていたよそ者の男が血相を変えて声を荒げた。
「人身御供《いけにえ》……まさか、まだそんな因習が残っていたなんて! それに、まだほんの子供じゃないか!」
「ええい、うるさい! よそ者はすっこんでおれ!!」
村長のしゃがれながらも威圧感のある一喝が飛ぶ。
「村より捧げものを贈る。これは――先祖代々より定められた、我々を護るための絶対の掟じゃ」
古来より人々に恐れられてきた鬼や妖。彼らは総じて『ものの怪』と呼ばれる。
これまで数え切れないほどの命が、その理不尽な猛威によって奪われてきた。
奴らが現世へと這い出してくる出入り口の姿は、常に決まっている。
空間を歪め、禍々しい瘴気と共に突如として現れる『鳥居』だ。
そして今。
俺――灯道煌介《とうどう こうすけ》は、その生贄として白羽の矢を立てられ、口を開けた鳥居の前に立たされている。
「どうしたの? 震えたりして」
背後から、佳織の嘲笑うような声が耳を打った。
「これは名誉なことなのよ。何の『御扉《みとびら》』にも選ばれなかった役立たずのアンタが、初めて村のために役に立てるんだから」
鳥居の奥に広がる異界。
そこから現れるものの怪に対抗できるのは、神や先祖から特別な異能を貸し与えられた『盤士《ばんし》』と呼ばれる者たちだけだ。
盤士として選ばれた人間の前には、必ず自然を超越した力を持つ御扉《みとびら》が顕現する。
試練を与え、力を授けるその神秘の扉には、三つの等級が存在し、
下位から順に『桜』『翡翠』。そして、最高位たる『白磁』。
とりわけ白磁の御扉に選ばれた者は、神から直接力を預かるとされ、他の等級とは比較にならないほどの絶大な異能を手にする。
実は、俺の住むこの村にも盤士はいる。それも、最高位の白磁に選ばれた逸材が。
後ろの佳織がその白磁の盤士だ。
だが――この村の人間は、決してものの怪と戦おうとはしない。
遙か昔、討伐に向かったはずのその強力な盤士が、誰一人として帰ってこなかったからだ。
圧倒的な力を以てしても敵わないという絶望が、村人たちの心をへし折った。
以来、村は戦うことを放棄し、定期的に生贄を捧げることで異界の主と密約を交わし、ものの怪が現世へ溢れ出す『飽和』を未然に防ぎ続けているのだ。
何の力も持たず、扉すら現れなかった俺は、ただ死ぬためだけにこの世に生を受けた忌み子。
「さぁ、行くんだよ。村のために、立派に喰われておくれ」
背中を、ドンッと強く突き飛ばされた。
抵抗する間もない。
足場を失った俺の体は、どす黒い闇が渦巻く鳥居の奥へと、真っ逆さまに呑み込まれていく。
「ふー、おつかれさん。あの鳥居の中に入っちまえば、もう決して現世へは出られやしないさ」
空間の裂け目が閉じる直前。
向こう側から、村の男たちの安堵しきった声が鼓膜を打つ。
「良かった、本当に良かった。アイツは親が亡くなってからというもの、どうにも薄気味悪くてかなわんかったんだ。……忌み子の分際で、ここまで育ててやっただけでも感謝して欲しいくらいだぜ」
「違いねぇ! さぁ、村に帰ったら厄落としも兼ねて、盛大に酒盛りだァァァ!!」
醜悪な歓声と共に、鳥居の向こう側の光が完全に遮断された。
そして俺は、ひどく冷たい泥濘《ぬかるみ》の中へと一人取り残された。
(……全部、聞こえてるっていうのに)
麻縄で両手首を縛り上げられたまま泥水に浸かり、俺は自嘲するように鼻で笑った。
だが、連中への怒りや恨みよりも先に、どこか冷めきった感情が勝っている。
これから化け物に喰われて死ぬであろう人間の絶望など、あの村の連中からすれば知ったことではないのだろう。
俺は縛られた手で上手くバランスを取りながら、ゆっくりと上体を起こして周囲を見渡した。
初めて足を踏み入れた『異界』。
そこは、俺が生まれ育った現実の山奥と似て非なる、おぞましくも奇妙な空間。
鬱蒼とした木々は生気を失って苦悶するようにねじ曲がり、空はまるで血を流したように赤黒く淀んでいる。
空気はひどく冷たく、一呼吸するだけで肺腑が凍りつくような死の匂いが充満していた。
――ひっく。
微かな、けれど確かなしゃくり上げるような嗚咽が、死んだように静かな森の奥から響いた。
俺は咄嗟に身を屈めて息を潜める。
獣か、それとも下級のものの怪か。
音のした枯れ木の陰へと慎重に足音を殺して近づき、そっとその裏側を覗き込んだ。
「ひえッ!」
そこに丸まっていた小さな影が、俺と目が合うなり短い悲鳴を上げて頭を抱え込んだ。
「しーっ!」
俺が慌てて拘束されたままの両手を突き出し、その口元を塞ぐような仕草をすると、影はビクビクと肩を震わせながら、おずおずと顔を上げた。
そこにいたのは、ボロボロに擦り切れた着物を纏った、俺と同年代か少し下くらいの少女。
「……君は?」
警戒を解くように、できるだけ静かで穏やかな声を意識して尋ねる。
少女は涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を歪めながら、怯えきった声で答えた。
「わ、わたしは……生贄で、ここに……」
「生贄? じゃあ、俺より前にあの村から突き落とされたってことか」
「は、はい。半日ほど前から……ずっと、この森の中で隠れてまして……」
「半日……?」
俺は思わず眉をひそめた。
村の掟では、生贄が捧げられるのは一年に一度。俺より前に犠牲となった人がこの鳥居へ突き落とされたのは、一年前のはずだ。
(どうやら、この異界は現実と時間の流れが違うらしい……)
現実の一年が、ここではたったの半日。
そんな狂った世界で、この小さな体で、来るかもわからない助けを待ちながら孤独と恐怖に耐え続けていたのか。
「大変だったな……」
俺は縛られたままの両手を伸ばし、彼女の手ををとって逃げようとした、その時――。
『グルルルルル……ッ』
鼓膜を震わせる低い唸り声と共に、背後の生気を失った木々がバキバキと無惨にへし折られた。
ドスンッ! と重い地響きを立てて、俺たちの目の前に『それ』が降り立つ。
「ひ、あ……ッ」
少女が短い悲鳴を上げて腰を抜かした。
オレも全身の血の気が引くのを感じる。
血と腐肉が入り混じった強烈な悪臭。見上げるほどの筋骨隆々な巨体に、獅子を思わせる悍ましい獣の頭部。
鋭い牙の隙間からは粘ついた涎が滴り落ち、らんらんと赤く輝く双眸が、明確な『食欲』を伴って俺たちを見下ろしていた。
これが……ものの怪
村の大人たちが震え上がり、戦うことすら放棄した絶望の化身。
神からの力である『御扉』にすら選ばれず、両手首を麻縄で縛られている忌み子の俺が、こんな化け物に勝てる見込みなど万に一つもない。
『グァァァァァァァッ!!』
獅子の化け物が咆哮を上げ、丸太のように太い腕を振り上げた。
ここで二人とも喰われる。その事実が脳裏をよぎった瞬間――体は、思考よりも先に動いていた。
「……立て!」
「え……?」
「いいから、立って逃げろ!!」
俺は少女を突き飛ばすようにして背後へ逃がし、自ら化け物の前へと飛び出した。
縛られた両手で地面の泥をすくい上げ、獅子の顔面めがけて思い切り投げつける。
「グルァッ!?」
泥が目に入り、化け物が苛立ったように顔を振る。
その隙に、化け物の意識を自分へ向けるため、ありったけの声を張り上げた。
「こっちだ化け物! 腹が減ってんだろ、喰いたきゃ喰いに来やがれ!!」
狂ったような俺の挑発に、獅子の化け物は完全に標的をこちらへ絞り、血に濡れた巨大な顎をガチガチと鳴らして突進してきた。
(……一体、俺は何をやっているんだ)
異能もない。村から見捨てられた役立たず。
武器一つ持たず、両手まで縛られたただの十代のガキが、山すら砕くようなバケモノの囮になるなど、正気の沙汰ではない。
だが。
ここで逃げ隠れしたところで、どうせいつかは見つかって喰われるだけの運命だ。
俺を虫ケラのように見捨てた村の連中――あいつらの思い通りに、ただ泥の中で震えながら死を待つなんてことだけは、御免だ。
背後の木々がへし折られる轟音を聞きながら、俺は無我夢中で暗い森を駆け抜けた。泥に足を取られ、木の根に躓きながらも、とにかく逃げて、逃げて、逃げ続けた。
――しかし、唐突にその足は縫い止められる。
「これは……」
目の前に転がっていたのは、無惨に喰い荒らされた人間の遺骸。
傍らに落ちている朽ちた武器や装束の残骸から、それがかつて村から討伐に向かい、帰らなかったという強き盤士たちの成れの果てだと直感する。
神から異能を授かったはずの強者ですら、この化け物の前ではただの餌肉に過ぎないのだ。
その絶対的な絶望を見せつけられ、脳裏に生々しい『死』の予感が閃く。
恐怖で全身の血が凍りつき、一歩も前に進めない。
自然と足が止まった、次の瞬間。
ゴシャッ……!!
自分の体から鳴ったとは思えないほど、ひどく鈍く、悍ましい破砕音が異界の森に響き渡った。
背後から襲いかかってきた獅子の巨大な顎が、俺の胴体を容赦なく噛み砕いたのだ。
熱い。痛い。
いや、あまりの衝撃に、痛みすら一瞬遅れてやってくる。
口からごぼりと大量の血が溢れ出し、視界がぐらりと天地を逆転させた。
(あ、あぁ……)
刃物のような無数の牙が内臓を容易く貫き、骨を臼のようにすり潰していく感覚。
むせ返るような血と腐肉の悪臭に包まれながら、俺の体は化け物の暗くぬかるんだ食道の中へと、真っ逆さまに呑み込まれていった。
――あっけない幕切れ。
誰からも期待されず、神にも先祖にも見放された『忌み子』の、底辺を這いずるような短い生涯。
最後にあの名も知らぬ小さな少女を逃がせたことだけが、俺の人生で唯一の、そして初めての『意味のある行動』だったのかもしれない。
全身の感覚が急速に薄れ、意識が深い泥の底へと沈んでいく中。
俺の魂の奥底で、決して消え去ることのない強烈な感情が、燻るように熱を持ち始めていた。
(これで終わりなのか? 何一つ成し遂げることもなく……せっかく逃がしたあの子のために、大した時間も稼げずに。結局、役立たずのまま死んでいくのか……?)
理不尽に対する怒り。己の無力さへの絶望。
(力が欲しい……。世界中を救うような神の力なんていらない。せめて……自分の手の届く範囲の、抱え込んだ人や場所くらいは守り抜けるような、力が――!)
――その、強烈な『生への執着』と不屈の『怒り』が、魂の臨界点を突破した、次の瞬間。
俺の目の前に、赤々と燃え盛る『透徹の篝火《かがりび》』に包まれた、荘厳な一枚の『御扉』が顕現した。
(……御扉? 良かった。俺の前にも、ついに御扉が……)
安堵と歓喜が、微かに胸をよぎる。だが――遅すぎた。
今の俺にはもう、その扉へ手を伸ばし、自らの意思で開け放つだけの『命の灯火』が残っていない。
無情にも、意識は完全に途切れようとしていた。
だが――俺を喰い散らかした獅子の化け物も顕現した強大な御扉の力に、本能的な恐怖を覚えたのだろう。
狂乱したよう身を震わせ、獲物《オレ》ごと、御扉を破壊せんと突進してきた。
――ドンッ!!!
天地をひっくり返すような轟音と共に、化け物の巨体が大きく弾け飛んだ。
視界を覆っていた肉の壁が吹き飛び、再び異界の赤黒い空が覗く。
信じられないことに、燃え盛る御扉の中から突然、屈強な『人間の手』が飛び出してきたのだ。
その腕は、山のように巨大な獅子の化け物を、まるで軽い鞠《まり》のように遥か彼方へと弾き飛ばしてしまった。
(……は?)
御扉の中から、人間の手が……?
試練を与えるはずの扉。そこから手が飛び出してくるなど、どんな文献にも、村の言い伝えにも聞いたことがない。
驚愕で思考が停止している俺をよそに、その無骨な手は真っ直ぐにこちらへと伸びてきた。
そして、血まみれで死にかけている俺の胸倉を力強く鷲掴みにすると――有無を言わさぬ凄まじい腕力で、燃え盛る御扉の奥深くへと、俺の身体を無理やり引きずり込んだのだ。
視界が、圧倒的な炎の光に白く染め上げられていく。
熱い。
だが、それは俺を焼き尽くす炎ではなく、凍りついた魂に再び命を吹き込むような、強烈な『産声』の熱。
――そうだ。
忌み子と呼ばれた俺が、帝都を揺るがす数奇な運命に巻き込まれていくのも。
百万人に一人しかあり得ないという、奇跡のような出会いも。
全ては、この狂った御扉の中から始まったんだ。
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