電脳維新――これは犯罪か、それとも維新か。現代版二・二六事件勃発――   作:吉田梅之助

1 / 3
同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正す


第一幕 数字の檻と、二枚舌

 

 練馬区・中村橋駅前。スーパー『テンドウ』の夕方の混雑。

 

「えっ、この卵、先週より上がってる……?」

 

 宮内健介(みやうちけんすけ)は値札をもう一度確かめた。十五円。たかが十五円。だが積み重なれば、月に数百円は消える。

 

「お会計、千二百八十円になります」

 

 レジの店員が無機質に告げる。電子マネーのチャージが切れていたので宮内は黙って千円札と小銭を数えた。

 

「お先に失礼しまーす」

 後ろの女性が会計を済ませ、足早に去る。カゴの中身は、半額シールの惣菜パックだけだった。

 

 レジ脇、年配の女性が小銭を数えながら呟いていた。

「卵が一パック三百円超えるなんてねえ……」

 

 誰に言うでもない呟きが、宮内の耳の奥に残った。スマートフォンが震えた。社内チャットの通知だった。

 

『明日十八時、本社一階ロビーにて株主総会後の祝賀会を開催します。経営企画室は全員出席のこと』

「……祝賀会、ね」

 

 宮内はレシートを握り潰し、コートのポケットに押し込んだ。

 

   *

 

 渋谷『ネクスト・プルート』本社一階ロビー。シャンパングラスが、軽やかな音を立てて重なる。

 

「鶴見社長、上場以来の最高益、おめでとうございます!」

「いやいや、皆さんの頑張りのおかげですよ」

 

 鶴見玲央(つるみれお)が満面の笑みでグラスを掲げる。フラッシュが何度も焚かれた。

 

「社長、株主への説明はどうされるんですか」

「もちろん、しっかりとした説明責任を果たします。これからの経営は数字だけじゃない。パーパス経営です」

「社長は、社員の健康経営にも力を入れていらっしゃると伺いましたが」

「ええ。実は私自身、人体実験のつもりで、次世代型のスマート・ペースメーカーを胸に入れているんですよ。健康データをアプリと連携させて、心拍も血圧も、すべてクラウドで一元管理する。経営者が自ら体現する。それが、これからの『人的資本経営』のあるべき姿だと思っています」

 

 軽い笑いとともに、フラッシュがさらに激しく焚かれた。

 記者たちが一斉にメモを取った。会場の隅。宮内はグラスを片手に、誰とも話さず立っていた。

 

「宮内くん、浮かない顔だね」

 

 声をかけたのは、同じ経営企画室の先輩社員だった。

「いえ。……昨日、卵が、ちょっと高かったので」

「は?」

 

 宮内は短く笑い、グラスの泡を見つめた。

 

「あの人、また同じこと言ってるな」

 鶴見の方を見やり、先輩が小さく肩をすくめる。

「パーパス、人的資本経営。聞いてて飽きないっすか」

「飽きるよ。だが、給料の話になった瞬間だけは、不思議とパーパスを言わなくなる」

 

 宮内が静かに言った。

 

   *

 

 数日後。『ネクスト・プルート』本社、人事評価面談室。

 

 長机を挟んで宮内と鶴見が向き合う。傍らでは人事担当が一人、ノートパソコンを開いたまま黙って座っていた。

 

「数字は素晴らしいよ、宮内くん」

 鶴見がタブレットをスクロールする。

 

「業務効率化プロジェクト、年間で二億四千万円のコスト削減。投資収益率(ROI)は過去最高クラスだ」

「ありがとうございます。それを踏まえて、メンバークラスの基本給の見直しをお願いしたいのですが」

「うん、その話だよね」

 

 鶴見はタブレットを置いた。

 

「気持ちはわかる。だが、今は時期が悪い」

「時期、ですか」

「上場直後だ。株主への説明責任がある。役員報酬と従業員給与の比率は、常にウォッチされている。下手に上げると、ガバナンスを疑われる」

「二億四千万円の成果に対して、私が要求している額がいくらか、ご存知ですか」

 

「いや、額の問題じゃないんだ」

 

 鶴見は身を乗り出した。

 

「これからの時代は、お金じゃない。パーパスだよ」

「パーパス」

「会社の存在意義。社員一人ひとりが、社会的な意義を感じて働ける環境。それが今、何より大事なんだ。……代わりに、ストックオプションを多めに割り当てる方向で考えてもいい」

「上場後に価値が確定しない紙を、今の生活費の代わりにできるとお考えですか」

 

「君は優秀だ。だからこそ、長期で会社の成長に賭けてほしい」

「私は今月、卵が一パック三百円を超えたことへの対応に賭けています」

「……君は、そういう個人的な事情を会社に持ち込むのか」

「個人的な事情ではありません。日本中の現場で起きている話です」

 

 鶴見はため息をつき、椅子に深く座り直した。

 

「分かった。来期、もう一度検討しよう」

「来期」

「ああ。今は無理だ」

 

 人事担当の打鍵音だけが、室内に響いていた。

 

「……社長」

「何だ」

 

 宮内は、しばらく黒いタブレットの画面に映る自分の顔を見つめていた。

 

「なんでROIがどーのとかいってる会社が、給料の話になったとたん精神論になるんだよ」

 

 声は、ほとんど囁きに近かった。

 

「……は?」

「いや……」

 

 鶴見は一瞬、笑いかけた。冗談だと思ったのだろう。だが、宮内の目には、笑いの余地が一切残っていなかった。

 

「君、今、何と――」

「いえ。何でもありません」

 

 宮内は静かに一礼し、席を立った。人事担当は、何も聞いていないという顔のまま、ノートパソコンの画面に視線を落としていた。

 

   *

 

 数週間後。二〇三六年二月二十四日、午前二時。

 

 渋谷の地下、複合商業ビル『サイバークロス・タワー』地下四階。重油の匂いがこもるボイラー室の最奥に、四人の男が集まっていた。

 

「ほら、施設部門長からくすねてきた、とっておきのバーボンだ」

 

 佐藤徳治(さとうとくじ)――トクジさんと呼ばれる初老男が、紙コップに琥珀色の液体を注いでいく。

 

「酒は全部終わってからにしますよ、トクジさん」

 

 新城貴明(しんじょうたかあき)が、ノートパソコンのケーブルをルーターに差し込みながら応じた。

「相変わらず堅いねえ、警視さんは」

「堅くなきゃ、警視庁の監視網は抜けられません」

「監視ログのバイパス、進んでます?」哲平が口を挟む。

「終わった。我々の通信は、存在しない幽霊のパケットとして処理される」

 

 新城が眼鏡を押し上げる。

 

「さすが。国家権力の中枢にいる男は頼りになるねえ」

 トクジさんが笑う。「で、俺は何の役に立ってるんだったかな」

 

「あなたの配管図と鍵束がなければ、このボイラー室自体に誰も近づけません」

 宮内が静かに言った。

 

「お、買われてるねえ」

「こちらのハック状況も問題ないっす」徳原哲平(とくはらてっぺい)がスマホをしまう。

「配送ルートの接収、バックドア設置、完了」

「ご苦労。これで足場は固まった」

 

「二日後の午前三時、同時決行」宮内が確認するように言う。「新城さんの防衛網麻痺を合図に、私が外資ECを接収する。哲平の部隊と新城さんで、大河内(おおこうち)とメイナードを執行」

「予定通りだな」とトクジさん。

「ええ」

「……俺、未だに信じらんないんすけど」哲平が呟く。「警視庁の警視と、ビルの清掃のおっさんと、IT企業のマネージャーが、同じ部屋で人を殺す相談してるって」

 

「お前だって、匿流(トクリュウ)の生き残りだろ」新城が言う。

「俺は別に正義感とかじゃないっすよ。腹が立ってるだけで」

「それで十分だ」宮内が言った。「俺たちを繋いでるのは、思想じゃないだろ。腹立たしさだけだ」

「次に、もう一つ片付ける」

 

 宮内がノートPCの画面を切り替えた。「シブンギブンだ」

 

「コンビニ、ですか」哲平が顔を上げる。「……ローザンはどうします?あそこも大手ですけど」

「ローザンは対象外だ」

「なぜだ」新城が問う。

「夜になれば半額シールを貼って、売れ残りを現場に還元してる。あれに救われてる人間がどれだけいるか」

 

「たしかに」哲平が小さく笑う。「俺もよく世話になってます。上げ底戦略でさんざん消費者をバカにしてきたシブンギブンだけ血祭りにあげましょう。で、どうやるんです?」

「商品マスタの価格テーブルを書き換える」

 

 宮内はエンターキーを叩いた。「パッケージの空洞率から『真実のグラム数』を割り出して、適正価格で決済させる。名付けて『真実のグラム単価ハック』」

 

「底上げされたプラスチックの中身を、経済的にぶっ潰すってわけだ」

「パッケージの空洞率なんてどうやって調べたんですか」

「物好きな動画配信者が、動画の企画で割り出していた。そいつにデータをもらった」

「配信者のデータなんか信じられるんですか」哲平がそう言うと宮内はすぐに答えた。

 

「問題ない。そいつは工学博士だ。大学の研究室を借りて計測してる」

「それはまた物好きな……」

 

 トクジさんが紙コップを呷る。

「では、明後日の午前三時」

 

 宮内がノートPCを閉じた。

「同時にすべてをひっくり返す」

 

 翌日。永田町、内閣府の会議室。物価高対策をめぐる、急遽招集の関係閣僚会議が開かれていた。

 

「消費税を一時的に二パーセント下げる。これしかないでしょう」

 

 経済対策担当大臣、来栖修一(くるすしゅういち)が資料を叩いた。

「財源はどうするんですか」財務官僚が即座に切り返す。「恒久財源のない減税は、市場に悪いシグナルを送ります」

「そもそも、消費税を下げる発想自体が間違っている」

 

 与党財政規律派の重鎮、堂島(どうじま)が割って入った。「下げるべきは法人税の優遇措置だ。便乗値上げで過去最高益を出している企業から、適正に取ればいい。増税こそが筋だ」

 

「企業を増税で締め上げたら、投資が萎縮します」来栖が即座に返す。

「投資より先に、国民が餓えてます」堂島が机を叩く。

「だったら給付金の方が早い」別の議員が手を挙げた。「消費税は全国民に薄く効くだけだ。本当に困窮してる層に、現金を直接配る方が効率的だろう」

「給付金は事務コストが膨大です」官僚がすぐに資料を読み上げる。

 

「対象の選定、申請受付、不正対策……前回は配布まで四ヶ月かかりました」

「四ヶ月待てる国民がどこにいるんですか」

「ガソリン税の暫定措置の方が現実的では」さらに別の声。「効果が見えやすい」

「ガソリンだけ下げて、卵や米はどうするんです」

 

「だから給付金だと言ってるでしょう」

「給付金は遅いと言ってるでしょう」

 

 会議室の声が重なり、誰の発言も最後まで聞かれなくなっていく。

 

「……すみません」

 

 経済学者枠で呼ばれた委員が、小さく手を挙げた。「議論が、堂々巡りになっています」

 

 誰も答えなかった。

 

「大臣」委員が続ける。「国民は卵の値段一つで生活感を測ってるんですよ。データより先に、生活が壊れてます」

「分かってます。分かってますよ」

 

 来栖は資料を閉じた。「とにかく、この件は持ち帰って、与党内でもう一度すり合わせを」

 

「いつまでにですか」

「……出来るだけ早く」

 

 誰も、何も決めなかった。

 

 九段下、靖国神社にほど近い古い柔道場兼事務所。表札には『皇道一新会』とだけある。

 

「お久しぶりっす、鷲尾の親父」

 

 哲平が頭を下げる。古びた畳の上、座布団に座った男が片眉を上げた。鷲尾兼一(わしおけんいち)。五十五歳。皇道一新会総裁。短く刈った白髪、日に焼けた皮膚に深い皺。傍らには文庫本が山のように積まれている。

 

「てっぺいか。おまえもうトクリュウは上がったんじゃないのか。何の用だ」

「相談したいことがあって」

「相談、ねえ」

 

 鷲尾は文庫本のページを折り、机に置いた。

 

「俺はお前らみたいなチンピラの揉め事の仲裁屋じゃねえぞ」

「人を一人、片付けたいんです。大河内厳(おおこうちいわお)

 

 鷲尾の目つきが変わった。

 

「てめぇ。ウチはヤクザじゃねぇんだぞ」

「すみません、すみません……わかってます」

「まぁ続けろ。あの大河内だな」

「ご存知で?」

 

「知らねえわけがあるか」

 

 鷲尾は身を乗り出した。「大手食品コングロマリット『桜花生活流通』の会長。――あの会社、育成就労の連中を時給三百円台で働かせてるって噂がある。制度の建前は『人材育成』だ。実態は技能実習の頃と同じ、人買いだ」

 

「親父も詳しいんですね」

「俺は毎月、官報と業界紙を端から端まで読む。北一輝(きたいっき)も読む。だが今の役人どもの誰よりも、現場が腐ってることはよく分かってる」

「きた、いっき?」

 

 鷲尾は鼻で笑った。「戦前の思想家だよ」「大河内の会社はそれだけじゃない。中国資本の出資を裏で受け入れて、国内の物流網を売り渡そうとしてるって話もある」

 

「俺らは別に、その話で動いてるわけじゃないんですけど」

「だろうな。お前らは思想がない。腹が立ってるだけだろう」

 

 鷲尾は哲平を見据えた。「だが俺には思想がある。資本主義に魂を売った国を、もう一度立て直すための思想だ。お前らの『腹立たしさ』と、俺の『思想』は、たまたま同じ標的を向いてるってだけだ。現に大河内の自宅前で街宣やったこともある」

 

「……それで、手伝ってもらえます? 資金も用意してます。五本でどうでしょう?」

「何が欲しいんだ」

「実行部隊の人手です。大河内の邸宅、ボディガードがいる」

 

 鷲尾は腕を組んだ。

 

「うちの若い連中、十人くらい貸してやる。だが条件がある」

「何です」

「現場に、うちの声明文を残させろ」

「……それは困ります」

 

「困るのはお前らの問題だ。俺たちは無償じゃ動かねえ。手柄は手柄として残す」

 

 哲平は少し黙った。

 

「分かりました。宮内に話してみます」

「宮内、ね」鷲尾が呟く。「IT屋か」

「会ったことあるんですか」

「ない。だが、名はよく聞く。お前みたいなのを使ってる時点で、頭はいいんだろう」

 

 鷲尾は文庫本を再び開いた。「いいだろう。決行はいつだ」

 

「二月二十六日、午前三時です」

 

 鷲尾の表情が、わずかに動いた。

 

「……二・二六、か」

「は?」

「気にするな。ただの因縁だ」

「うちの若いのを、世田谷に向かわせる」

 

 鷲尾は本に視線を落としたまま言った。「ただし、てっぺい。一つだけ覚えとけ」

 

「何です」

「俺たちが手を貸すのは、お前らに共鳴したからじゃねえ。大河内が、この国を売ったからだ」

 

 哲平は一礼し、道場を出た。九段下の空に、靖国神社の木々が黒い影を落としていた。

 

   *

 

 二月二十六日、午前三時。世界が最も深い眠りに沈む時刻。渋谷の地下で、宮内の網膜に無機質なコードの羅列が反射している。

 

「警視庁の初動監視システム、完全停止を確認」

 

 インカム越しに、六本木にいる新城の冷たい声が響く。

 

「了解。これより本丸を落とす」

 

 宮内はエンターキーを押し込んだ。標的は、フレッシュ・リンガスをはじめ国内の物流・小売各社の基幹システムを陰で支える、外資系クラウド基盤ベンダー『アトランタス』。

 

 新城が穿った保守用バックドアは、本来決済システムから隔離されているはずの開発系ネットワークへの、細い裂け目に過ぎない。宮内はそこから、半年がけで集めた退職者の使い回しパスワードと、内部文書の断片を足がかりに、権限を一段ずつ食い破っていく。セグメンテーションという名の防火壁を、力ではなく忍耐で溶かしていくような作業だった。

 

 宮内の画面に、見慣れない警告ウィンドウが浮かんだ。

 

「新城さん」インカムに声を送る。「アトランタス側のSOC(ソック)が、こっちの侵入経路に気づきかけてます」

「対処できるか」

「今、おとりを作ってます」

 

 宮内はキーボードを叩いた。別の踏み台サーバーから、わざと目立つ異常通信を発生させる。しばらくして、監視ログの追跡先が、本来の侵入経路から逸れていくのが見えた。

 

「食いついた」宮内が短く言う。「シンガポール発の攻撃だと思ってる」

「本物はどっちだ」

「もちろん、こっちです」

「お前、こういう仕事、楽しんでないか」

 

「楽しんでません。ただ、得意なだけです」

 

 やがて最後のゲートが落ちる。数分後、国内最大級の決済インフラと数千万件の顧客データが、一介の会社員の手の中にあった。

 

 同時刻、物理空間でも二つの天誅が執行されていた。

 

 東京都世田谷区。高い塀に囲まれた大河内厳の豪邸。外周に沿って停まった黒いバンから、十数人の男たちが音もなく降りた。哲平の部隊三人と、鷲尾が寄越した皇道一新会の男たち。

 

「思ったより、警備が増えてますね」

 哲平が双眼鏡を覗く。「物価高で世間が荒れてるからか。先月、警備会社と新規契約したらしいっす」

 

「上等だ」

 皇道一新会の班長格、四十がらみの男が拳を鳴らす。「俺たちは喧嘩の方が得意でね」

 

 自宅警備のセンサーは新城の遠隔操作で、すでに沈黙している。門扉脇、警備員二人が立っていた。

 

「おい、お前ら――」

 

 一人が声を上げかけた瞬間、皇道一新会の男が背後から首を絞め落とす。もう一人は哲平の仲間がバールで膝を割った。

 

「ぐあっ……!」

 うずくまった警備員の口を、別の男が即座に塞ぐ。

 

「館内にもう二人いる。庭師のふりした見張りも一人」

 

 哲平が部下に指で合図する。玄関ホール。出てきた制服姿の警備員が、特殊警棒を構える間もなく、皇道一新会の男に組み付かれた。壁に叩きつけられる鈍い音。続いて二階から駆け下りてきたもう一人を、哲平自身が体当たりで階段下まで転がす。

 

「……っ、てめえら――」

「黙れ」

 

 哲平が膝で押さえつけ、首筋に注射器を打ち込んだ。男の身体から力が抜けていく。全員を制圧するまで、九十秒もかからなかった。

 

「綺麗な手際だ」皇道一新会の班長が口笛を吹く。「トクリュウの連中も、見直してやらんといかんな」

 

 その時、皇道一新会の若い男の一人が、リュックから何かを取り出した。布製の旗――『皇道一新会』の文字が染め抜かれている。

 

「ちょっと待て」哲平が割って入った。「何やってんだ」

「現場に残すんですよ。総裁の指示でしょ」

「いや、それはダメだ」

「は?親父から聞いてないんですか」

 

「聞いてる。だが今はダメだ。警察の偽装工作と矛盾する」

 

 班長が間に入る。

「……まあいい。今夜は持って帰れ。チャンスはまだある」

 

 若い男は不満げに旗をリュックへ戻した。哲平はその様子を一瞬だけ見つめ、何も言わずに二階へ向かった。

 

 大河内厳の寝室。キングサイズのベッドで、高級なシルクのシーツに包まれて眠る男。原材料高を隠れ蓑に便乗値上げを繰り返し、買えない奴の自己責任」と公言していた顔には、傲慢な弛みが浮かんでいた。

 

 哲平は一切の躊躇なく、大河内の顔面に分厚い防刃テープを叩きつけた。

 

「んぐっ……!?」

 

 跳ね起きた巨体を、三人の男が体重をかけて一瞬でベッドに縫い付ける。結束バンドが手首と足首に深く食い込んだ。唇が忙しなく震え、声にならない言葉を漏らした。

 

「俺たちの食卓から奪った金で寝るベッドは、ふかふかか?」

 

 哲平は冷たい目で見下ろし、手にしたバールを容赦なく大河内の胸板に振り下ろした。鈍い肋骨の砕ける音。大河内の巨体が痙攣し、やがて動かなくなった。

 

 部屋の外で、皇道一新会の班長が静かに言った。

「いい仕事だ。だが、てっぺい――旗の話、忘れんなよ」

 

 港区・六本木。超高級ホテルの最上階へ向かう非常階段。新城貴明は足音を殺し、踊り場で足を止めた。階段の上から、警備員の声が聞こえた。

 

「……了解です。最上階、異常なしです」

 トランシーバーに応える声。足音が近づいてくる。新城は咄嗟に死角へ身を寄せた。胸ポケットから警視庁の身分証を取り出す。

 

「お疲れ様です」

 警備員が踊り場に姿を見せた瞬間、新城は先に声をかけた。

 

「……どなたですか」

「警視庁サイバー犯罪対策課です。本日未明、このホテル周辺で不審な通信機器の使用報告がありまして。確認だけさせてください」

 

 新城は身分証を一瞬だけ見せ、すぐにしまった。

 

「あ……はい、どうぞ」

 

 警備員は怪しむことなく頷いた。階級と地位の鎧は、こういう瞬間にこそ機能する。

 

「最上階に、外国籍のお客様がいらっしゃいますね。どなたか教えていただいても」

「はい、ザッカリー・メイナード様です」

「その階のセキュリティカメラ、念のため一時的に止めていただけますか。捜査の都合上」

「えっ、それは……。どういう法的根拠で?」

 

 警備員が一瞬、躊躇する。

 

「五分で済みます。テロ関連の可能性がある案件なので」

 新城は表情を変えずに言った。「責任は警視庁が持ちます。私の名刺をお渡ししておく」

 

「……分かりました」

 警備員は無線で本部に連絡し、最上階のカメラを止めた。

 

「ご協力、感謝します」

 

 新城は一礼し、警備員が降りていくのを見送った。足音が完全に消えるまで、十秒。新城はすでに死んでいるはずの天井のレンズへ、小さく頷いた。記録上、カメラはホテル側が「正当な手続き」で止めたことになる。新城自身のハッキングの痕跡は、その下に隠れて消える。

 

 最上階のスイートルームへ続く廊下。新城は静かに歩を進めた。手にはワイヤーが仕込まれた特殊な絞殺具。標的は、外資系ギグワークプラットフォーム『ブービー』日本法人代表、ザッカリー・メイナード。

 

 電子ロックを解除して寝室に踏み込むと、高級な香水の香りが漂っていた。メイナードは若い女を侍らせて熟睡している。新城は女の首筋に麻酔薬を押し当てて気絶させると、振り返ってメイナードの首にワイヤーを巻きつけた。

 

「……What the――」

 

 目を覚ましたメイナードが叫ぼうとした瞬間、新城はワイヤーを軽く一度だけ引いた。

 

「う!ぐぐううぅぅぅ……」

 

 声が消える。喉から漏れるのは、空気が抜けるような薄い音だけだった。新城は男の充血していく目を、表情も変えずに見下ろした。

 

「ギグワーカーは管理できても、自分の頸動脈までは管理できないってことだな」

 

 言い終えると同時に、ワイヤーを最後まで締め上げた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。