電脳維新――これは犯罪か、それとも維新か。現代版二・二六事件勃発―― 作:吉田梅之助
午前三時半。新城は六本木からの帰り道、わずかな時間を使って光が丘に立ち寄った。
母は古い団地の一室で、テレビをつけたまま眠っていた。電気代を気にして、暖房は入れていない。新城は毛布をかけ直し、冷蔵庫を開けた。中には、賞味期限の近い惣菜が二つだけ並んでいる。
「……もうすぐだ」
誰に言うでもなく呟き、冷蔵庫を閉めた。部屋を出るとき、ポケットの中に、まだ微かに温かいワイヤーの感触が残っていることに気づいた。
同じ頃、ボイラー室。トクジは一人、紙コップに残ったバーボンを見つめていた。脳裏に、先週の夜のことが浮かんだ。施設部長の
「トクジさんよ、俺、本気で高崎に帰ろうかと思ってるんだよ」
山倉はハイボールのグラスを揉みながら言った。
「部長が? 意外ですね。そういえば、
「だからこそだよ」
山倉は苦笑した。「都内で家を買うなんて、もう諦めた。中央区も世田谷も、見るたびに値段が上がってる。中国の投資会社とか、外資のファンドが、まとめて買ってくるんだよ。俺らみたいな普通の会社員が買える値段じゃない。中古ですらムリだな」
「賃貸で十分じゃないですか」
「賃貸も上がってる。それに、子供を都内の学校に通わせる金もかかる。……うちの嫁の実家も高崎なんだ。あっちなら、同じ給料でも一軒家が建つ」
トクジさんは黙って頷いた。
「俺は別に、東京で成功したいわけじゃなかったんだよ。異常だよ。東京で生活して家族を養うっていうことは」
山倉は呟いた。「ただ、家族で普通に暮らしたかっただけだ。それが、こんなに難しいなんて思わなかった」
「分かりますよ」
トクジさんは紙コップを掲げた。「俺だって、息子に正社員になれって言ったのも、似たような理由ですから。俺も田舎帰ろうかな」
二人はそれ以上、何も言わずに杯を重ねた。
ボイラー室で、トクジさんは目を開けた。紙コップの中身は、もう空だった。
「……山倉さんも、似たようなもんか」
小さく呟き、トクジさんは立ち上がった。
午前四時。三つの巨大な狂騒が社会を揺るがし始めた。
第一の狂騒。
国内最大のネットスーパー『フレッシュ・リンガス』。大河内厳が会長を務める桜花生活流通が運営するEC事業部門の主要サービスだ。その基幹システムを、宮内のハックが直撃した。全商品が強制的に「四十%オフ」に改ざんされる。深夜のオンライン緊急役員会議。寝間着の上に背広だけ引っ掛けた役員たちの怒号が飛び交っていた。
「決済を止めろ! 数億円の損失が出るぞ!」
「規約上、一度なされた申込みに対する安易なキャンセルはリスクです」法務担当が割って入る。「ですが――」
その声を断ち切るように、モニターの画面が突然分割された。左半分に黒い背景の白字、右半分に、寝室で血を流して横たわる男の写真。
『全件強制キャンセルを実行した場合、役員全員の物理的生存を保証しない。大河内会長の二の舞になりたくなければ、決済を通せ』
会議室が凍りついた。誰かが小さく息を吞む音がした。
「……これは」
「ディープフェイクだ!」
声を上げたのは、株主向け広報を担当する常務だった。
「最近のAIなら、こんな画像はいくらでも作れる。ハッカーの戯れ言にだまされるな!」
「あの服、あの寝室……桜花生活流通の会長室に飾ってあった写真と同じ部屋着だ」
一人の専務が、震える声で言った。「俺は先月、会食でお邸にお邪魔した。あの壁紙だ」
「それがどうした。だから何だ」
「だから本物かもしれないと言ってるんだよ!」
専務が震える手でスマートフォンを取り出した。一一〇番への発信画面が、青白く顔を照らす。
「待て」
常務がその手を強く押さえた。
「もし本物だったとしても、今、警察を呼んでどうなる。会社の混乱に火に油を注ぐだけだ」
「これは脅しじゃない、殺人だぞ!」
「殺人だとしても、そっちは俺たちにできることは何もない。今は、目の前の決済をどうするかだけを考えろ」
専務の手から、スマートフォンが机に滑り落ちた。誰も拾わなかった。
沈黙を破ったのは、市場原理主義・株主至上主義に長年嫌気がさしていた、フレッシュ・リンガス社長の有馬貞治だった。
「……すでに決済は成立している。ここでキャンセルすれば社会的信用も失う。腹は私が切る。全件、指示通りに配送しろ」
その凄みのある声色に全取締役が黙った。
「警察には法務から通報しておけ」
第二の狂騒。
外資系ギグワークプラットフォーム『ブービー』。宮内は決済サーバーに侵入し、注文代金を「0円」に書き換えた。さらに店舗への代金と配達員への報酬を「米国本社のプール口座からの強制引き落とし」に再設定。日本法人はトップのメイナードと連絡が取れず、完全にフリーズした。
その絶望的な空白を突き、哲平が裏ネットワークで全国の配達員たちに号令をかけた。
『今日は配達員の奴隷解放記念日だ! 報酬は本社から満額出る。システムが復旧する前に、街中のメシを全部タダで困窮世帯に配り切れ!』
緑色の保温バッグを背負った無数の自転車とバイクが、義賊と化して夜明け前の街を駆けていく。
環八沿い、検問のパトカーが二台、道を塞いでいた。
「止まれ! 積み荷を確認させてもらう」
制服警官が自転車の群れに手を上げる。哲平が真っ先にブレーキをかけた。全ての自転車の荷台には保温バッグが積まれており、山脈の様相を呈している。
「これ、フードバンクの緊急配送です」
哲平はスマホの画面を見せた。偽造された配送指示書――宮内が三十分前に発行したものだ。
「フードバンク? こんな時間に?」
「物価高で炊き出しの依頼が殺到してて。練馬区社会福祉協議会から正式に委託されてます」
警官は怪しむように荷台を覗いた。コシヒカリの袋、黒毛和牛のパック。
「……これ、結構いいもの積んでますね」
「寄付です。今は変な噓のネットスーパーの件で、企業がイメージ回復のために大盤振る舞いしてるんですよ」
警官は一瞬、考え込んだ。背後で無線が鳴る。
『各局、シブンギブン関連の通報多数、人員をそちらに――』
「……行っていいぞ。早く配ってこい」
警官が自転車の群を手で示した。哲平たちは検問を抜け、夜明け前の道を駆けていく。
「親方、よくあんな噓、即興で言えますね」
仲間の若いライダーが笑う。
「噓じゃない。半分は本当だ。寄付なのは事実だしな」
哲平はペダルを踏み込んだ。
第三の狂騒。
全国チェーンのコンビニ『シブンギブン』。早朝の中村橋駅前。疲れた顔の会社員が六百五十円の「特製・二段重ね風おにぎり弁当」をレジに持っていく。スキャンした瞬間、聞いたことのない低い警告音が鳴り響いた。
[おにぎり弁当:六百五十円]
[構造欺瞞(上げ底)控除:マイナス四百二十円]
[差引請求額:二百三十円]
自動音声レジが無機質な声で読み上げる。
『この商品の空洞率は六十五%です。真実のグラム単価に基づき、適正価格で決済します』
この怪現象はSNSで瞬く間に拡散され、大衆が店舗へ殺到した。本部はPOSを止めれば全店の決済が止まる。指を咬んで見ているしかなかった。
テレビでは、情報番組のキャスターが慌てた様子で原稿を読んでいた。
「繰り返します。本日未明より、国内大手のECサービス、ネットスーパー、コンビニチェーンで、同時多発的なシステム障害が発生しています。一部では商品が大幅に割引されたり、無料で配送される事案も確認されており、政府は注意を呼びかけています」
コメンテーターの弁護士が眉をひそめる。
「これは明らかに犯罪行為です。便乗して安い物を受け取った方も、後で返金を求められる可能性がありますよ」
「でも先生」もう一人のコメンテーターが割って入る。「正式に注文が成立して配達されちゃってるものを、どうやって返金請求するんですか」
「……それは、追って検討されるんでしょう」
シブンギブン中村橋店。レジに並ぶ列が、店の外まで続いていた。
「ねえ、本当にこの値段でいいの?」
「さっきからずっとこの値段ですよ。早く並んだ方がいいですよ」
店員も半笑いで対応している。本部からはレジの表示通り会計しろとのお達しが来ている。
レジの警告音が鳴るたび、小さな歓声が上がった。
哲平の脳裏に、決行前夜の打ち合わせがふと浮かんだ。
「転売目的で注文しまくる奴が、絶対に出てきますよ」哲平が言った。
「完全には防げない」新城が答える。「だが、放置すれば現場の混乱が大きくなりすぎる。お前らが気づいた時点で、何か基準を作っておけ」
「基準って言われても……」
「同じ住所への配送は二回まで、でいい」宮内が言った。「三回目からは、転売目的とみなして停止リストに入れる。完璧じゃないが、何もないよりはずっといい」
「それ以上は、現場の判断に任せるしかないってことですね」
「お前らの裁量だ」新城が言った。「全部は救えない。救える範囲で、できるだけ多く救え」
「あと、配達員側も信用できるとは限らない」宮内が続けた。「短時間に同じ場所へ三回以上届けた配達員は、ランダムでアカウントを停止する」
「ランダム?」哲平が訊き返す。
「全件チェックする余裕はない。だが『見つかるかもしれない』という不確実性さえあれば、大半は自重する」
「捕まらなかった奴は、見逃されるってことですか」
「運が良かっただけだ」宮内は淡々と言った。「完璧な監視より、適度な恐怖の方が安く済む」
哲平はその記憶を振り払い、画面に向き直った。
豊島区のあるマンション前。配送ライダーの一人が、配送リストを確認していた。
「……これで三回目ですよね」
「いや、人数分必要なんだよ。家族五人だから」
「規則で、同じ住所は二回までなんです。三回目は転売目的とみなされます」
「ねえよそんな規則。誰が決めたんだ」
「俺たちです」
ライダーはその住所を停止リストに加え、哲平に報告した。短い返事が来た。
『よくやった。リストに加えとけ』
善意は無差別には届かない。受け取る側にも、選別の目が必要だった。
別のエリアでは、配達員の一人が、知人のマンションに六回も同じ荷物を届けていた。受け取った相手からは、毎回缶ビール一本を謝礼として渡されていた。
七回目の配送リクエストを送った直後、彼のアカウントは凍結された。
『不正利用の疑いにより、配達権限を停止しました』
「……は? なんでこのタイミングで」
配達員はスマホの画面を何度も叩いたが、復旧の見込みはなかった。哲平の元には、システムからの自動通知が一件届いていた。
『ランダム監査、該当一名。アカウント停止済み』
SNSでは『#令和の鼠小僧』というタグが急速に伸びていた。
『シブンギブンのレジ、本当に空洞率表示出てる。笑うわ』
『フレッシュ・リンガス、四割引きまだ続いてる。今のうち買っとけ』
『これ犯罪なんだろうけど、庶民は誰も損してないなら別にいいんじゃない?』
一方、被害企業の株価をリアルタイムで追う投資系インフルエンサーの投稿も流れていた。
『フレッシュ・リンガス、開示情報なし。これ空売り狙いのインサイダーの仕業じゃないか?』
渋谷のカフェ。二人の会社員が、呆れたように話していた。
「ウチも小売事業の値上げばっか叩かれてるけど、ウチじゃなくて桜花の方が狙われてんだな」
「あそこ、技能実習云々で前から色々言われてたじゃん」
「育成就労、な。今はそう呼ぶんだよ」
「どっちでもいいけど、自業自得って感じはするよな」
午前七時。練馬区・光が丘の巨大な団地群。一日の食事を二回に減らしている年金暮らしの老夫婦の玄関に、最高級の新潟産コシヒカリと黒毛和牛、そして湯気を立てる鰻重が積み上げられていた。伝票には『令和維新・適正分配』。
老夫婦は震える手でスマートフォンの銀行口座を確認した。宮内がマネーロンダリングを経由させ、資本家の裏口座から引き出した資金が振り込まれている。振込人名義は『ツルミレオ(キフキンハヤメニツカエ)』。
老夫婦は、玄関前の「豊かさ」と画面の数字を交互に見比べ、皺だらけの顔を覆って泣き崩れた。
光が丘団地、別の棟。母子家庭の佐伯由美は、ドアの外に積まれた段ボールを見て、最初は詐欺か嫌がらせだと思った。伝票には『令和維新・適正分配』とだけある。差出人の記載はない。箱の中身は、子供用の冬物コートと、賞味期限の長い米と缶詰だった。サイズは、小学三年の息子の体格に合っている。
「……何で、うちの子のサイズ知ってんの」
由美はスマホで写真を撮り、誰に送るでもなく呆然と眺めた。
別の棟。年金だけで暮らす一人暮らしの老人、田中は、銀行の通知音で目を覚ました。スマートフォンの画面に表示された入金額を見て、何度も指で数字をなぞった。
「……桁、間違ってないよな」
画面には『ツルミ レオ』の名義で、十八万円の振込記録。田中はテレビをつけた。ニュースでは、大手食品コングロマリット『桜花生活流通』の会長・大河内厳が、自宅で急死したと報じられている。田中はその名前に、聞き覚えがあった。半年前、卵の値段が一夜で倍になった日のことを思い出す。
練馬区内のSNSグループには、似たような報告が次々に上がっていた。
『うちにも来た。米と毛布。誰だこれ』
『近所のばあちゃんも泣いてた』
『令和維新ってトレンドになってる』
哲平はスマホでその投稿の波を眺めながら、小さく笑った。
「……俺たちのやったこと、ちゃんと届いてるみたいですね」
宮内は画面を見ず、ただ短く答えた。
「届いてるのは金と米だ。意味は、後から勝手についてくる」
「銀行に入った金、法律的にはどうなるんですか」哲平が訊く。やっぱ返さなきゃいけないような気がするんですけど」
いつの間にか合流していた新城が、缶コーヒーを片手に話に加わった。
「二つ問題がある」宮内が答えた。「一つ目。犯罪収益移転防止法に基づくマネーロンダリング対策だ。普段使ってない口座に突然大金が入れば、銀行は自分の判断で取引を止められる。法律で凍結が義務付けられてるわけじゃないが、銀行の裁量一つで止まる」
「で、結局どうすればいいんだ」哲平が訊く。
「だから、速さだけが頼りだ」宮内は静かに言った。「金が残ってるうちに止められれば取られる。先に出金して使い切られれば、誰にも取り返せない」
「二つ目は」宮内が続けた。「不当利得だ」
「不当利得?」哲平が訊く。
「何にもしてないのに不当に得た金は元に返せってルールだ」宮内が言う。「特に生活費に使った分は、理屈上、今でも返還義務の対象になる。生活費じゃなくてギャンブルに使えば返さなくていいんだがな」
「は? なんですか、それ」哲平が顔をしかめた。
「真面目に使うほど、返す義務が残るってことだな」新城が呟く。
「理論上はそうです」宮内が言った。「だが、実際に誰が訴える?会長は死んでる。後継が混乱してる最中に、『同情を集めてる年金生活者を訴えた会社』になるリスクを背負う経営者がどこにいる」
「しかも全国にバラまかれてる」新城が付け加える。
「一件数万円か数十万円の話を、弁護士費用をかけて何千件も追いかける企業はない」宮内は言った。「理屈の上では負けても、実際には誰も追いかけてこない。それが唯一の救いだ」
首相官邸、記者会見室。官房長官の月岡が、硬い表情でマイクの前に立った。
「本日未明より発生している、複数の民間企業を標的とした一連のシステム障害について、政府として把握している状況をご説明いたします」
フラッシュが一斉に焚かれた。
「政府としては、関係省庁と連携し、原因の特定と被害の最小化に全力を挙げております」
「これは国家を狙ったテロ攻撃ですか」記者の一人が手を挙げる。
「現時点では、捜査機関が原因の特定を進めている段階です」
「システムを強制的に停止させれば、被害は広がらないのでは」
「それについては、現在、関係各所と協議を進めております」
月岡の額に、わずかに汗が浮いていた。
「物価高に苦しむ国民の一部が、今回の事象を歓迎する声も見られますが」
「……いかなる理由があっても、不正アクセスやシステムの不正操作は、断じて許されるものではありません」
その一言は、後ろの席からの失笑を誘った。
会見終了後、官邸の小部屋。
「停止できないんですか、本当に」
補佐官の声に、月岡は椅子に深く沈み込んだ。
「フレッシュ・リンガスとブービーを今止めたら、何が起きると思う」
「……配送が、止まります」
「もう数十万件、無料の食料が配送中だ。途中で止めれば、受け取れない世帯が出る。それがニュースになった瞬間、政府が貧困層への食料供給を止めた、という話に化ける」
「ですが、放置すれば」
「放置すれば、犯罪を野放しにしている政府、という話になる。どっちに転んでも、こっちが悪者だ」
月岡は天井を見上げた。
「……誰が考えたか知らんが、よくできた仕掛けだよ。動けば負け、動かなくても負け」
「ちなみに官房長官、SNSでは『令和の鼠小僧』がトレンド入りしてます」
補佐官がスマホの画面を差し出す。月岡はそれを一瞥し、すぐに目を逸らした。
「……見なくていい」
「与党の支持率にも、何か影響が出るかと」
「分かってる。分かってるから、見なくていいと言ってるんだ」
来栖修一が、ノックもせずに部屋へ入ってきた。
「官房長官、消費税減税の件、また蒸し返されてますよ。『あのとき決断してれば、こんなことにならなかったんじゃないか』と」
「今それを言うのか、お前は」
「世間はそう見てる、ということです」
月岡は何も答えず、ただ窓の外を見つめていた。永田町の空は、よく晴れていた。
午前十時。霞が関の警視庁本庁舎。サイバー犯罪対策課は未曾有のパニックに包まれ、テレビでは官房長官が右往左往しながら声明を発表している。決済と物流ネットワークを物理的に遮断すれば大衆への食料供給網がストップし暴動が起きるため、国家権力は完全に機能不全に陥っていた。
その喧騒の中心で、新城警視は自席に深く腰掛け、静かな手つきで第一報の捜査報告書を打ち込んでいた。
『東欧を拠点とするプロの国家級ハッカー集団「クラーケン」による犯行と断定』
「東欧の連中か……! 捜査権が届かん」
対策課長が頭を抱える。
新城の報告書一枚で、国家の視線は完全に海外へ逸らされた。
もっとも、新城の権限が揉み消せるのは、あくまでサイバー犯罪対策課が管轄する「電脳の罪」――システム侵害の領域だけだった。大河内厳とザッカリー・メイナードの死そのものは、刑事部捜査一課の管轄であり、新城の肩書きが及ぶ範囲ではない。
世田谷署に設置された捜査本部は、大河内邸の現場検証から、ある程度の見立てを立てていた。
「邸宅破り、それも複数犯にしちゃ、手際が良すぎる」
捜査一課の刑事の一人が、現場写真を見ながら呟いた。「二〇二〇年代後半の匿流系の空き巣グループの手口に近い。最近、解散した連中の中に、こういう仕事をする奴がいたはずだ」
その読みは、的を外してはいなかった。だが、何百人といる「元・匿流」の中から、哲平という一人の名前に辿り着くには、まだ何重もの壁があった。指紋は残っていない。現場周辺の防犯カメラの映像は、新城の手で最初から欠落している。捜査一課が追えるのは、輪郭のない影だけだった。
新城は、自分の報告書がカバーできる範囲を正確に理解していた。バールで折れた肋骨や、ワイヤーで絞められた頸動脈という「肉体の罪」までは、彼の権限では揉み消せない。残された道は一つ、二つの捜査――電脳と、肉体――が、最後まで交わらないことを祈ることだけだった。
練馬の会社員。日雇いの配達員。ビルの夜間警備員。そして警察の裏切り者。たった四人の男が東京の片隅で紡いだ謀略に、この国の中核で気づく者は一人もいなかった。
報告書を打ち込み終えた新城のタブレットに、SNS監視システムからの自動アラートが点灯した。皇道一新会系の個人アカウントが、大河内邸の事件発生時刻と完全に一致する投稿をしていた。
『大河内厳。国を売った経済界の重鎮に、ついに天誅が下った。我々はこの一矢に、深く共鳴する』
いいねの数は、すでに四桁を超えている。フォロワーの多い陰謀論系インフルエンサーが、すでに引用付きで拡散していた。
「……ふざけてるのか」
新城は奥歯を噛んだ。投稿主は皇道一新会の構成員、二十代の男。本人の顔と本名が紐づいた個人アカウントだった。クラーケンという虚偽のシナリオの隅に、現実の名前が一つ、生のまま転がっている。
新城はすぐに哲平へ電話を入れた。
「お前のところの新しい友達が、SNSに余計なことを書いてる。今すぐ消させろ。消したところで、もう手遅れかもしれんが」
「……すぐ確認します」
数分後、九段下の道場。
「責任者を出せ」
哲平が鷲尾の前に立つ。語気が荒い。
「親父、約束はどうなったんですか。現場に何も残さないって話だったでしょ」
鷲尾は文庫本を閉じた。
「現場には何も残してねえ。投稿したのは別の若いのだ。SNSは『現場』じゃない」
「同じことです。警察の偽装報告と矛盾するんですよ」
鷲尾は無言で立ち上がり、奥の部屋へ向かった。怒声が一度だけ響き、すぐに静かになった。戻ってきた鷲尾は、スマートフォンの画面を哲平に見せた。投稿は削除されている。
「教育が足りなかった。詫びる」
「もう何件かスクリーンショットが回ってます。消しただけじゃ終わりません」
「分かってる。本人には、しばらく身を隠させる。ネットの噓なんざ、明日には別の話題に流れていく」
鷲尾は哲平を見据えた。
「だが、てっぺい」
「何です」
「これで一つ、お前らに恩を売った形になったな。覚えとけ」
哲平は何も言わず、道場を出た。
警視庁、サイバー犯罪対策課のオフィス。桜井澪は、新城が提出した報告書を、自分のデスクで読み返していた。画面には、クラーケンの過去の犯行記録と、今回の手口を並べた比較表が表示されている。
「……時間帯が合わない」
彼女は呟き、社内チャットで新城を呼び出した。
「警視、一つ確認したいことがあります」
「何だ」
「クラーケンの過去の事案、すべて欧州時間に発生してます。今回だけ、日本時間の深夜です」
新城は表情を変えなかった。「タイムゾーンの偽装は、彼らの常套手段だ。報告書にも書いた」
「それは分かってます。ただ、もう一点」
桜井はタブレットを差し出した。
「内部の特権アクセスログ、念のため遡って確認したんですが……三カ月前、警視のIDで一度、開発系ネットワークへのアクセスがあります。保守作業の記録は残ってますが、その内容、ちょっと細かすぎませんか」
新城の心拍が、わずかに早くなった。それを表に出すことはなかった。
「保守は俺の管轄だ。細かいのは当然だろう」
「もちろんです。ただの確認です」
桜井は軽く頭を下げ、自分のデスクへ戻った。
新城はすぐに、宮内へメッセージを送った。
『桜井がアクセスログを掘ってる。三カ月前の保守ログまで見られてる』
返信は数秒で来た。
『そのログ、僕が今すぐ書き換えます。何分か時間をください』
新城は画面を見ながら、桜井の様子を窺った。彼女はまだ自分のデスクで、別の資料を読んでいる。数分後、宮内からメッセージが届いた。
『完了しました。三カ月前のログ、保守内容を一般的な定期メンテナンスの記録に上書きしました』
新城は静かに息を吐いた。
その夜、桜井は自分のメモに、こう書き残した。
『新城警視のIDでのアクセス記録、再確認時に内容が変わっていた。これは記録の改ざんか、自分の見間違いか』
彼女はそのメモを、誰にも見せなかった。
翌日、桜井は課長に相談した。
「新城警視の保守ログ、内容が一度書き換わっている可能性があります」
課長は眉をひそめた。
「証拠は」
「……ログ自体は、今は綺麗になってます。私の記憶と、メモしか残ってません」
「記憶とメモか」
課長はため息をついた。「桜井、お前はよくやってる。だが今、世間が一番気にしてるのは、クラーケンをどう叩くかだ。身内を疑う前に、外を見ろ。あと記憶とメモでは話にならん」
「……分かりました」
桜井はそれ以上、何も言わなかった。だが、自分のメモは消さなかった。
*
数日後。警視庁、応接用の小会議室。新城の対面に座った女性が、名刺を滑らせた。『ケイト・モリス/Atlantas社
「来日が早いですね」新城が言った。「事件発生から、まだ四十八時間です」
「弊社の決済インフラが、国家規模で乗っ取られたんです。本社が損失額を心配する前に、私が飛びました」
ケイトはタブレットを開いた。同席していた警視庁の通訳が、彼女の英語を日本語に変換していく。
「過去、東南アジアの三つの金融機関の侵入事件を解決しています。今回も本社から直接、現地調査の指名を受けました」
「クラーケンについて、もう少し詳しく聞かせてください」
「東欧を拠点とする、国家レベルのハッカー集団です。過去にも複数の金融機関を――」
「報告書は読みました」ケイトが言葉を遮る。「ですが、いくつか腑に落ちない点があります」
「どうぞ」
「クラーケンの過去の手口は、すべて欧州の営業時間に合わせて実行されています。今回は日本時間の午前三時。彼らの行動パターンと一致しません」
「タイムゾーンの偽装は、彼らの常套手段です」
「もう一つ。侵入経路が、弊社の開発系ネットワークの、かなり内部に近い場所から始まっています。外部からの初期侵入の痕跡が、通常より圧倒的に薄い」
新城は表情を変えなかった。
「内部に協力者がいた可能性は、こちらでも検討しています」
「内部に?」ケイトが初めて視線を上げた。「具体的に、誰を」
「捜査中です」
ケイトはしばらく新城を見つめた。
「失礼ですが、警視さん。あなたの報告書、シンガポールの技術チームも精読しました。技術的には、よく書けています。……書けすぎている、とも言えます」
「それは、どういう意味でしょうか」
「分かりません。今のところは勘です。ただ、私は勘で三件、重大インシデントの原因究明に成功しています」
ケイトはタブレットを閉じた。
「弊社としては、独自の技術調査チームを、こちらに常駐させてほしいです。捜査協力という形で」
「はい? 警察の施設内に民間人を置ける訳ないでしょう」同席していた新城の部下が大声で言った。
「警視庁としては、民間企業の独自捜査に、無制限の権限を与えることはできません」新城は静かにそう返した。
「分かっています。だから、こうしてあなたに先にお伝えしているんです」
ケイトは席を立った。
「クラーケン説、私はまだ信じていません。ただ、信じていないことを証明するには時間がかかる。……あなたに、その時間を差し上げます」
新城は彼女が会議室を出ていくのを見送った。ドアが閉まると、小さく息を吐く。すぐにスマートフォンを取り出し、宮内へ短いメッセージを送った。
「アトランタス社の監査員が、こちらに来ている。クラーケン説に懐疑的だ」
返信は数秒で来た。
「どのくらい踏み込まれてます?」
「侵入経路の質まで気づいてる。優秀だ」
「……厄介ですね」
「厄介で済めばいいがな」
新城はスマートフォンをポケットに戻し、誰もいない会議室で、ケイトが残していった名刺を指先で弾いた。
その日の夕方、ボイラー室に四人が集まった。
「アトランタスの監査員が動いてる」新城が言った。「侵入経路の質に気づいてる。優秀な女だ」
「対策は?」哲平が訊く。
「証拠は残してない。だが向こうが独自に技術調査を始めれば、いずれ何かに行き着く可能性がある」
宮内はキーボードを叩いた。
「念のため、ログの上書き頻度を上げます。本物の『クラーケン』らしい痕跡を、追加で埋め込んでおきます」
「偽の偽装を、もう一段重ねるってわけか」トクジさんが笑う。
「際限ないな、お前らの仕事は」
「際限なくやらないと、こっちが終わるんで」
新城は静かに言った。
「あの女は、おそらく長居する。鶴見の件まで、日本にいる可能性がある」
その一言が、部屋に重い沈黙を落とした。
*
三日後。ケイトは、ホテルの部屋でノートPCの画面に向かっていた。日本国内のセキュリティカンファレンス出席者リスト、業界誌の登壇者プロフィール、退職者データベース――地味な作業の積み重ねだった。
「絞り込みは進んでる?」
通訳兼アシスタントの男が訊く。
「侵入経路の設計思想が、特定のスタイルに似てる。業務効率化系のコンサルタント、もしくは元インフラエンジニア。日本国内で、この精度でセグメンテーションを突破できる人材は、そう多くない」
ケイトはリストを絞り込んでいく。画面に並ぶ名前の中に、『ネクスト・プルート 経営企画室』という所属が一件、混じっていた。
「この会社、何してる会社?」
「ITコンサルです。CEOが先月、上場で話題になってた会社ですね」
ケイトはその一行を、しばらく見つめた。
「……念のため、ここの社員リストも当たって」
その夜、ボイラー室。
「ケイト・モリスが、お前の会社の名前まで辿ってる」新城が言った。
宮内は表情を変えなかった。「具体的に、俺の名前まで?」
「まだだ。社員リストを当たり始めた段階だ。だが時間の問題だろう」
「鶴見の処刑は、今夜決行します」宮内が静かに言った。「彼女がリストを絞り切る前に、終わらせます」
哲平が口を挟む。「終わらせたところで、お前への疑いが晴れるわけじゃないでしょ」
「晴れなくていい」宮内は眼鏡を押し上げた。「鶴見が死ねば、俺はもう会社にいる理由を失う。疑われる前に、消えればいいだけだ」
新城が低く言った。
「逃げ場は用意してあるんだろうな」
「もちろんです」
宮内は短く答えた。それ以上は、誰も聞かなかった。