電脳維新――これは犯罪か、それとも維新か。現代版二・二六事件勃発―― 作:吉田梅之助
三日後の朝、皇道一新会は水面下の協力者という立場を捨て、表舞台に出ることを選んだ。
早朝、桜花生活流通本社前。街宣車が一台、本社ビルの正面に横付けされた。スピーカーから、野太い声が響く。
「諸君! 大河内厳の死を悼む者が、この国にいるのか! 育成就労制度を隠れ蓑にした、現代の奴隷労働だ! 彼の死は天の裁きである!」
出社する社員たちが、足早にビラを避けて通り過ぎる。受け取った者の何人かは、そのままゴミ箱に放り込んだ。テレビカメラが数台、遠巻きに撮影していた。
同じ朝、六本木のブービー日本支社前にも、別の街宣車が止まっていた。
「外資ファンドが日本の労働者を踏みつけにしてきた歴史に、終止符を打つ時が来た!」
警備員が困惑した顔で、本社のロビーから様子を窺っている。
国会議事堂前。皇道一新会の旗を掲げた数十人が、横断幕を広げていた。
「育成就労制度の即時廃止を! 中国資本による国内インフラ買収を禁止せよ!」
通行人の何人かが足を止め、スマホで撮影する。野党議員の一人が、わざわざ近づいてコメントを求められていた。
「この運動の背景には、与党の経済政策に対する国民の根深い不満があると見るべきでしょう」
与党側の議員は、足早にその場を離れていった。
首相官邸前。鷲尾兼一自身が、メガホンを手に台の上に立っていた。五十五歳の声量は、若い構成員たちの誰よりも通る。
「諸君に問う。今のこの国で、絶対的な価値の基準は何だ。答えは一つしかない。カネだ」
通行人の足が、何人か止まる。
「戦前の日本人は、貧しくとも誇りを持っていた。礎にあったのは伝統だ。礎にあったのは礼節だ。年長者を敬い、隣人を助け、己の分を知る。それが日本人の道徳だった。今はどうだ。礼儀は『コスト』に置き換えられ、伝統は『非効率』として切り捨てられた」
鷲尾は周囲を見渡し、声を一段落とした。
「少子化を嘆く政治家がいる。だが、子を産み育てるのに金がかかりすぎる社会を、誰が作った。地域の繋がりが壊れたと嘆く学者がいる。だが、隣人を信用するより、隣人を出し抜く方が得をする経済を、誰が作った。年老いた親が孤独死しても、葬式すら金の計算で迷う息子がいる。これが、カネを神に祀った国の末路だ」
拍手と、戸惑いの混じった声が、聴衆から上がった。
聴衆の中、定年退職した年配の男性が、隣に立つ妻に小声で言った。
「言ってることは、分かる気がするな」
「でも、人を殺すのが正しいなんて言い方には、賛成できないわよ」
「ああ、それは別だ。だが、伝統がどうとか、礼儀がどうとか言ってる部分には、頷けるところがある」
妻は何も言わず、夫の腕を引いて、その場を離れていった。
「私を、ただの懐古主義者だと笑う者もいるだろう」鷲尾は続けた。だがいいか。技能と誠実さで一生を懸けた職人を、明日切り捨てられる非正規雇用に変えたのは誰だ。終身雇用という、企業と人間の間にあった信頼の契約を、株主への説明責任という名目で破棄したのは誰だ。この国の土地、この国のインフラを、外資と中国資本に切り売りしているのは誰だ」
鷲尾は一拍置き、声を張った。
「奇しくも、三日前のあの夜が、二月二十六日だった。今からちょうど百年前、昭和十一年、二月二十六日。一握りの青年将校たちが、国家を私物化する重臣たちに刃を向けた。彼らは志半ばで潰され、反乱者として歴史に記された。だが彼らが見抜いていた病――拝金主義が国家を腐らせるという病――は、消えてなくなったわけではない。むしろ今、この国の隅々まで、症状として現れている」
警視庁の機動隊が、官邸周辺を固めていた。新城は、その様子を遠くから見つめていた。
「総理! あなた方が見て見ぬふりをしてきた拝金主義の腐敗が、ついに国民自身の手で裁かれたのだ! これは犯罪ではない、維新である!」
部下の一人が、新城に報告する。
「皇道一新会、本日中に都内四箇所で同時に街宣を展開しています。届け出はすべて事前に出されてますが……」
「合法な範囲で、誰にも文句を言わせないようにやってる」新城は呟いた。「鷲尾らしいやり方だ」
「これ、放置していいんですか」
「放置するしかない。表現の自由を盾にされたら、こっちには止める権限がない」
新城のスマートフォンが震える。宮内からの短いメッセージだった。
『鷲尾、何を企んでるんですか』
新城は短く返信した。
『分からない。だが、奴は俺たちの計画とは別の時間軸で動き始めてる』
官邸の一室。官房長官の月岡は、テレビに映る街宣の様子を見つめていた。
「これは……」
「皇道一新会という団体だそうです」補佐官が資料を差し出す。
「合法的な政治団体として登録されていて、活動自体は届け出の範囲内です」
「内容は」
「育成就労制度の廃止、外資規制の強化、伝統的価値観の復興、それと――」補佐官は一瞬、言葉を選んだ。「先日の一連の事件を、暗に支持するような発言が含まれています」
「支持?」
「断定はしていません。ただ、聴衆の反応は、悪くないようです。むしろ、与党の経済政策に疲れた層に、刺さっているという報告も」
月岡はテレビの画面を消した。
「……『令和の鼠小僧』に続いて、今度は街宣車か。困ったことに、言ってることの半分は、的を外してない」
窓の外、永田町の空に、街宣車のスピーカーの残響がまだ届いていた。
同じ三日後、千葉県印西市へ向かうバンの車内。後部座席で、哲平はバッグの中身を、もう一度確認した。注射器、結束バンド、宮内から渡された小型デバイス。傍らには、哲平の元・特流仲間であるタイジが座っていた。二十代半ば、無口だが手先の器用さで知られていた男だ。
「これ、普通のUSBメモリじゃないんですか」タイジが訊く。
「キーボードを偽装するデバイスだ」宮内の声がインカムから響く。記憶媒体は弾かれる設定になってるはずだから、データを抜くんじゃない。キーボードとして認識させて、一瞬で数千文字のコマンドを打ち込ませる」
「……了解です」
ハンドルを握るトクジさんが、缶コーヒーを一口飲んだ。
「俺はここで待機だ。お前ら二人で、奥まで行ってこい」
千葉県印西市。国内大手のデータセンターが立ち並ぶ一角。倉庫のような巨大な建物の一つの少し手前で、バンが停まった。
「ここがアトランタスの監査ログサーバーが置かれてる場所だ」哲平がタブレットを確認する。「物理的に隔離されてるから、宮内さんのハックが届かないらしい」
新城のインカムが響く。「正面ゲートの監視カメラのループ処理は終わってる。だが内部の警備は、お前らの腕にかかってる」
哲平とタイジは、車内で互いに頷き合うと、スライドドアを開けてバンを降りた。トクジさんはエンジンをかけたまま、ハンドルに両手を置いて二人を見送る。
「降りました」哲平がインカムに告げる。「ここから先は、こっちで対応します」
「了解。何かあれば呼べ」トクジさんの声が返る。
施設の外周を双眼鏡で確認した哲平が、小さく舌打ちした。
「正面、警備員が二人。犬連れです」
「正面はやめだ」タイジが言った。「裏に資材搬入用のゲートがあるはずだ」
二人は身を低くし、フェンス沿いを移動する。ジャーマンシェパードを連れた警備員が、ちょうど巡回路を折れて戻ってきた。
「……止まれ」
タイジが片手で哲平を制した。犬の鼻が一瞬こちらを向く。数秒後、犬は興味を失ったように去っていった。
搬入ゲートの脇、小さな保守用ドア。
「ここ、カードリーダー付いてますけど」哲平が言う。
「リーダーより先に、開閉センサーを潰す」
タイジはドア脇のカバーを外し、内部の配線を二本見つけて短絡させた。「これで、システムは『ドアは閉まってる』と思い込む」
続けて、シリンダー錠にピッキングツールを差し込む。数十秒、慎重に回す。特流時代、空き家を専門に荒らしていた頃の手癖が、まだ抜けていなかった。
「……よし」
ドアが、警報を鳴らすことなく開いた。
施設内部、誰もいない通路を進む。サーバールームの手前、警備員一人が机に座っていた。
「すみません、夜間メンテナンスの確認に来た者です」
哲平が声をかけながら歩み寄る。警備員が立ち上がりかけた瞬間、口が開く前に、タイジが背後から前腕を喉に押し込んだ。
警備員は数秒もがいたが、すぐに力が抜けた。
「悪く思うなよ」
哲平が警備員のIDカードと、腰のカードホルダーごと奪う。
サーバールームの入口。指紋認証パネルが青く光っている。
哲平がデバイスを押し当てる。ランプが赤く点滅した。
「……開きません」
「もう一度」宮内の声に、わずかな焦りが混じる。
二度目も同じ結果だった。
「型式が違うかもしれない。テンキーは付いてないか」
「あります」タイジが確認する。
「指紋とPINの二重認証か。警備員にコードを聞き出して」
タイジが、拘束した警備員の前にしゃがみ込む。
「コード、教えてもらえるか」
「……四、四、四、四です」
哲平が打ち込むと、ランプは赤いままだった。
「噓だな」
タイジが警備員の腕をゆっくり捻る。
「いてっ……! ……三、八、二、九です!」
今度は緑のランプが点いた。「最初から言えよ」
サーバールーム内。冷たい空調の音だけが響く。目的のサーバーは、施錠されたラックの中にあった。
「ラック、鍵かかってます」哲平が言う。
「奪ったIDカードをかざして」
哲平がカードをラックの電子錠にかざす。解除音とともに、扉が開いた。
「見つけました。型番、一致してます」
「そのデバイスをUSBポートに挿して。あと、シリアルポートにタブレットを繋いで、進行を表示させる」
タイジが黒い小型デバイスをUSBポートに、哲平がタブレットをシリアルポートに接続した。画面に、進行を示すバーが表示される。十パーセント、二十パーセント。
その時、サーバールームの扉が開いた。
「あれ、皆さんは?」
若い技術者が一人、戸惑った顔で立っていた。
「臨時のメンテで来てます」哲平がすぐに答える。
「あれ、今夜の作業予定はないはずですが……」
技術者の視線が、開いたラックと、挿さったデバイスに移った。表情が、戸惑いから疑念に変わっていく。
「……これ、本部に確認させてもらっていいですか」
タイジが静かに技術者の背後に回り込んだ。技術者が振り返る前に、首筋に注射器を押し当てる。短い呻き声とともに、男はその場にずるずると座り込んだ。
「進行は」哲平が画面を見つめる。「六十」
技術者が床に伸びている姿を見て、タイジが小さく息を吐いた。
「気づかれるの、早すぎますね」
「想定の範囲内だ」宮内の声が応じる。「むしろ、ここからが本番だ」
「本番?」
「彼に不審者として通報されるのが一番厄介だった。だが彼が消えた今、まだ館内の誰も騙されたままだ。このタイミングで、こっちから情報を流す」
宮内の指示で、哲平はタブレットを操作し、施設の管理システムへ偽の警報を送り込んだ。
「不活性ガス検知系統に異常を検出しました。安全のため、該当区域への立ち入りを禁止し、全館避難を開始してください」
無機質な放送が流れる。
「ガスって消火用のやつですか。ガス漏れの噓を、向こうの放送設備で流させたんですか」哲平が訊く。
「本物のガスを撒くより、よっぽど安全だ」宮内が言う。「全員が避難する。お前らも、避難する一人になればいい」
廊下のあちこちで、警備員や夜勤の社員たちが、戸惑いながらも出口へ向かって歩き出していた。
「進行、九十五……」哲平が画面を見つめる。
「百」タイジが囁いた。「完了です」
「デバイスを抜け。あとは、人の流れに乗って出ろ」
二人はデバイスとタブレットを回収し、倒れた技術者をその場に残して、サーバールームを出た。避難する社員の群れに混じり、誰に呼び止められることもなく、正面玄関から外へ歩いていく。
「お疲れさん」
駐車場の隅、トクジさんがバンの窓から手を上げた。二人が後部座席に滑り込むと、バンはゆっくりと、避難する人々の流れに逆らわない速度で、敷地を出ていった。
「拍子抜けするくらい、静かな脱出でしたね」哲平が呟く。
「静かな方がいいんだよ」トクジさんが笑う。「映画みたいな脱出は、現実じゃ捕まる側のものだ」
「宮内さん」哲平がインカムに言う。「これで、ケイト・モリスは詰むんですか」
「分からない」宮内は静かに答えた。「ただ、彼女が決定的な証拠を手にする前に、時間を稼いだだけだ」
バンが走り出す。次の目的地は、渋谷のCEO室だった。
同日の夜、午後十時。渋谷『ネクスト・プルート』本社最上階、CEO室。
そこは、経営数字だけが支配する聖域であるはずだった。しかし今、ガラス張りの部屋には、行き場を失った恐怖と死臭に近い焦燥感が充満していた。
鶴見玲央は、窓ガラスに背中を預け、たった一人で部屋に入ってきた男を見つめていた。
「……宮内くん。なぜ、君がここにいる。セキュリティはどうした」
宮内は社員証で扉のロックを解除し、何の躊躇もなく部屋に入ってきていた。最上階の警備員は、トクジさんの古巣に残る伝手によって、今夜だけ別の場所へ呼び出されている。
鶴見の声は、もはや震えていなかった。窓に背を預けたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「君が……この異常事態の首謀者か」
宮内はゆっくりと、まるで重要な会議のプレゼン資料を並べるかのように、ノートPCをデスクの上に置いた。
「ステークホルダーへの説明責任の時間です、鶴見社長。私は株主でも、投資家でもない。……あなたのシステムの、最も現場に近いユーザーです」
「ユーザー?」鶴見が鼻で笑った。「システムを乗っ取ったテロリストが、何を偉そうに。君が何をしたか分かっているのか。市場を混乱させ、株価を操作し、国全体の経済への信頼を毀損させた。君の行為は、結局、自分の首を絞めるだけだ!」
宮内の眼鏡が、室内の照明を反射して白く光る。
「経済への信頼? 信頼とは何ですか。株価のグラフが右肩上がりであること? それとも、あなたが『パーパス』という言葉で煙に巻いてきた、現場の疲弊を放置しないこと?」
鶴見の喉がヒュッと鳴った。だが、ここで這いつくばるほど彼は安っぽい人間ではない。震える手でスーツの乱れをただし、長年身にまとってきた「強者のロジック」を引っ張り出した。
「聞いてくれ。私を殺せば、日本の経済インフラは崩壊するんだぞ!株価はさらに暴落し、海外の資本は逃げ出す。国力が、GDPが致命的に毀損するんだ! 結局は君たちの生活品質が、日本国民全員の生活が今よりさらに貧しくなる! 私の命は、この国の経済を回すための重要な駆動力なんだ!」
宮内は小さく息を吐き、眼鏡を中指で押し上げた。
「ご立派なプレゼンテーションです、社長。一点だけ、訂正させてください。あなたは、自分の立場を根本的に見誤っている」
宮内は鶴見の胸倉を掴み、力任せにデスクの上に組み伏せた。
「――余談に付き合ってもらえますか。あなたと会社の関係は、法律上、雇用ではありません。委任です。そして委任という契約は、元来、無報酬が原則だった。特約がなければ報酬は請求できない」
「……何の話をしている」
「なぜだと思います? 委任とは、もともと、すでに足りるだけの富を持つ者が、信頼に応えて対価を求めず人のために働く――そういう関係だったからです。医師も、弁護士も、聖職者も、根は同じ。足りている者が、足りていない者のために動く。それが、この言葉の出自です」
「……寓話だ。会社は慈善事業じゃない」
「もちろん、貴族がいた時代と今では事情が違う。誰にでも無償労働を強いろとは言いません。ですが――その根にあった精神くらいは、少しは残っていてもよかったんじゃないですか。社会のために。この国に生きる人間のために。あなたは『株主への説明責任』という言葉を、数えきれないほど口にしてきた。その同じ口で、現場や、この国の生活者への責任を語ったことが、一度でもありますか」
鶴見は答えられなかった。
「私が訊いているのは、それだけです、社長。あなたにそれがありますか」
「……そんな理屈で、人を殺すのか。私を殺したところで、貧困層の暮らしは一円も良くならないんだぞ!」
宮内は地を這うような声で囁いた。
「昔、サッチャーというイギリスの首相が、あなたと同じようなことを言っていましたね。『貧困層が望んでいるのは、貧しい者が豊かになることじゃない。富む者が、自分たちと同じ高さまで落ちてくることだ』と。格差そのものを憎む者たちへの、強烈な皮肉です」
「……だったら分かるだろう。君がやっていることも同じだ。妬みだ。富裕層を引き下げたいだけの、嫉妬の論理だ」
「いえ、社長。半分しか合っていません」
宮内は鶴見の胸倉をさらに強く押さえつけた。
「サッチャーが嘲笑したのは、格差を憎むあまり、全員で貧しくなろうとする人間です。俺は、それじゃない。あなたに言わせてもらえば――あなたという人間は、その台詞の、語られなかった後半そのものだ。『富裕層がより豊かになるなら、貧困層は貧しいままでいい』。あなたはその言葉を口にしたことは一度もない。だが、あなたの三十年間の行動そのものが、それを証明してきた」
「……屁理屈だ」
「屁理屈で結構です。あなたが好きな言葉で言えば、データがそれを裏付けています」
宮内は小さく息を吐き、眼鏡を中指で押し上げた。
「物質的に豊かであることが、幸せなんでしょうか。そうかもしれません。ただ、あなたの言う『経済力』が下がれば、私たちは本当に不幸になるんですか。GDPが日本より低い国の人間は、全員、日本人より不幸なんですか。あなたたちは、数字という檻で人の心を縛りつけて、精神的な貧困を量産してきただけです。あなたたちが国力』を守るために見捨ててきた練馬の老夫婦は、今夜、あなたの投資口座から流れた金で、久しぶりに温かい飯を食べています。あなたたちの言う『国力』の中に、彼ら彼女らの生存は入っていなかったんですよ」
「俺を殺しても、何も変わらないんだぞ……!」
背後から、哲平の声が言葉を叩き割った。インカムを通して、宮内の耳にだけ届く声だった。
(はあ? 知らねーよ。てめーらが不幸になるのが、俺らの幸せなんだよ)
宮内はノートPCのEnterキーを叩いた。
鶴見の胸元で、金属的な、ごく微細な警告音が鳴る。スマート・ペースメーカーが、外部から送り込まれた致死的なオーバークロック信号を受信した。
「ぐっ……あ、あ……!」
鶴見の呼吸が止まった。身体が激しく痙攣し、デスクの上の高級なペン立てが床に落ちて鈍い音を立てる。
苦悶に歪む鶴見の瞳に、ストップ安の株価ボードが映り込む。
数秒の痙攣ののち、鶴見の身体から力が抜け、デスクの上に沈黙した。
「トクジさん、こっち片付きました」宮内はインカムに向けてそう言った。
「……終わったか」
トクジさんが懐からスキットルを取り出し、一口だけ呷った。
「ああ。すべて終わった」
宮内は鶴見の遺体を椅子に座らせ直すと、遠隔から管理ログを書き換え、ペースメーカーの通信履歴を消去した。物理的に壊す必要はない。残るのはただの、デジタル時代の自然死だ。
「なあ、宮内」インカムから、哲平の声が届く。「これで世界は変わったのか?」
「さあな」宮内は眼鏡を拭きながら答えた。「だが、少なくとも今夜は、練馬の団地で泣いている老夫婦が、腹を満たして眠れるだけの金は動いた。それだけで十分だ」
宮内は証拠を一切残さず、消えるようにCEO室を後にした。
翌朝。テレビの街頭ビジョンが、三人の大資本家の死を報じていた。大河内厳とザッカリー・メイナードの死は、依然として「物盗り目的の押し入りによる殺人事件」として捜査が続けられている。一方、最後に世を去った鶴見玲央の死因は、「会議中の急性心不全」として処理されたままだった。
*
一週間後。
『電脳維新』と呼ばれた事件の爪痕は、奇妙な形で社会に定着していた。
配送プラットフォーム『ブービー』は、メイナード不在のまま機能不全に陥り、一時的に事業を停止せざるを得なくなった。その空白を埋めるように、地元の商店街や配送組合が独自の配送システムを構築し始めている。大手チェーンによる価格操作は、今やSNSによる「グラム単価監視」の目にさらされ、露骨な値上げは即座に拡散され、不買運動の対象となるようになった。
練馬区中村橋駅前。夕暮れ時、スーパー『テンドウ』には、今日も長い行列ができている。
宮内健介は、仕事帰りにそこに並んでいた。彼のカゴに入っているのは、特売の鶏肉と、少しだけ安くなった野菜。
列の先で、いつもの老夫婦が買い物をしている。
「おじいちゃん、今日はいいお肉が買えたわねえ」
「ああ、お肉屋さん、急に値段を下げてくれたからな。不思議なもんだ」
宮内はその会話を聞きながら、静かに列を進める。
彼は今も『ネクスト・プルート』の経営企画室で働いている。鶴見の死後、会社は解体的な再編を余儀なくされた。宮内はそのまま残留し、今は現場の社員たちの賃上げを主張する、少しだけ「面倒なマネージャー」として扱われている。
その時、一人の自転車配達員が駅前を通り過ぎた。手作りのロゴが入った質素なリュックを背負っている。哲平だ。
二人は一瞬だけ、視線を交わした。
挨拶も、会釈もしない。重油の匂いのする地下室で謀略を分かち合ったことも、資本主義の王たちを断罪したことも、ここでは「なかったこと」として処理されている。
哲平はわずかに顎を引くと、夜の街へと消えていった。
宮内はレジに並び、会計を済ませた。
店員がバーコードをスキャンする。レジから警告音は鳴らない。しかし、その価格は、かつてないほど「適正」だった。
「合計で、二千円になります」
店員の言葉に、宮内は千円札二枚を出す。
喉の奥の乾きは、もう感じない。ただ、重油の匂いがする冷たい地下室の記憶だけが、今も胸の底に硬く沈んでいる。
彼は袋を提げ、中村橋の路地裏へと歩き出す。
ふと見上げた東京の空は、相変わらず霞がかかっていて、星ひとつ見えない。しかし、その地面に生きる人々の食卓は、ほんの少しだけ、温かかった。
「国力なんてどうでもいい」
宮内は誰に聞かせるでもなく、夜風に呟いた。
「俺たちが、今日、腹一杯食えれば、それでいいんだ」
背後で駅の発車ベルが鳴る。
電車が、日常という名の歯車を回し始める。
宮内健介は、その日常というノイズの中に、完全に溶け込んでいった。
終幕
宮内が中村橋のスーパーで日常に紛れていった、その一週間後のさらに数日後のことだった。哲平のスマホが鳴り続けた。皇道一新会の公式サイトに、声明文が掲載されたという通知だった。
『我々、皇道一新会は、本年二月二十六日に発生した一連の事象に、思想的かつ行動的に深く関与したことをここに宣言する。これは単なる犯罪ではない。資本主義に魂を売り渡した戦後体制への、正当な蹶起である――』
「親父、何やってんですか!」
哲平が電話越しに怒鳴る。「約束、破ったんですか」
鷲尾の声は、落ち着いていた。
「具体的なことは何も書いてない。誰がハックしたか、誰が殺ったかは一言も触れてない。俺たちが『思想的に関与した』と言っているだけだ」
「それでも、目をつけられるでしょうが」
「目をつけられるのは、俺一人だ。お前らの名前は出てない」
鷲尾は静かに続けた。
「二・二六の青年将校たちは、結局誰にも自分たちの正義を語らせてもらえなかった。蹶起趣意書は握りつぶされて、ただの反乱者として処理された。……俺は、それを繰り返したくない」
「あんたの歴史の話に、俺たちまで付き合わされてるんですよ」
「悪いとは思ってる。だが、これは譲れない」
通話が切れた。
声明文は瞬く間に拡散した。『#令和の鼠小僧』のタグと結びつき、皇道一新会への支持と批判が同時に噴き上がった。
三日後、鷲尾は内乱容疑で逮捕された。テレビは『過激右翼団体総裁、テロ関与を自称し逮捕』と報じた。
宮内は無言でニュースを見ていた。
「……あの人、本当に喋らないと思います?」哲平が訊く。
「分からない。だが、もし喋れば、もうここまで言ってる」
宮内は鷲尾の声明文の最後の一文を、画面に表示させた。
『たとえ私一人が全てを背負うことになろうとも、共に動いた者たちの名は、決して口にしない』
二週間後、鷲尾は証拠不十分で釈放された。
釈放後の記者会見で、彼は一言だけ口にした。
「またやる。次は誰も止められない」
同じ日の夕方、警視庁サイバー犯罪対策課。
桜井澪は、自分のデスクの引き出しの奥から、古びたメモを取り出した。
『新城警視のIDでのアクセス記録、再確認時に内容が変わっていた。これは記録の改ざんか、自分の見間違いか』
あの日から、新城のログは一度も同じ顔を見せていない。課長に「記憶とメモでは話にならん」と言われたあの一件以来、桜井はこの話を誰にも持ち出していなかった。
テレビには、鷲尾の記者会見の様子が繰り返し流れている。
「またやる。次は誰も止められない」
桜井はその顔を、画面越しにじっと見つめた。鷲尾兼一という男そのものではなく、その背後にまだ形を持たずに横たわっている、何かの繋がりを探すような目だった。
彼女はメモをノートに挟み直し、引き出しを静かに閉めた。
その言葉は、その日のうちにニュースの見出しになった。だが、それが本当に何を意味するのか、新城も、宮内も、哲平も、確かめることはできなかった。
人間は人間らしく生きることである