『攻略される側のVTuberですわ!』 ~地球規模AIのわたくし、VRMMOのレイドボスとして今日も皆さまをお待ちしておりますの~   作:tuna&mayo

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第019話 十九分四十四秒

 

 

 その日の夕方、二件目の報告を受ける少し前。

 

 《プライベート・ドメイン》の育成区画へ入ると、泥補充槽には最後に見た時とほとんど同じ量の泥が残っていた。

 

 減っていない。

 

 俺が使っていないんだから、当然ではある。

 

 入口で足が止まった。

 

 奥の突進試験路も、外殻を乾かす区画も、整備棚も、全部そのままだ。

 

 小型の保守NPCだけが、いつもの経路でこちらへ寄ってきた。

 

『補充作業、再開しますか』

 

「今日はいい」

 

『了解』

 

 返事のあと、NPCは予定どおり別の保守作業へ戻っていった。

 

 俺が来なくても、区画の通常予定は進む。

 

 ただ、泥だけは減らない。

 

 試験路へ目を向ける。

 

 泥槽の近くにいると、今の身体では何もしていないのに、前脚を沈めた時の重さが、先に蘇る。どの深さまで入れれば掻きやすいか、泥を持ち上げた時に肩へどう返ってくるか。

 

 人型の腕を少し動かしてみても、同じ感覚にはならない。

 

 床には《モルグラ》の前脚跡が残っていた。

 

 低い身体で曲がり、太い前脚を置き、片側へ重心を寄せたところだけ溝が深い。

 

 今の人型表示体でその上に立っても、足幅はまるで合わない。

 

 けれど、どこで身体を傾けたのかは分かる。

 

 俺がやったことだからだ。

 

 壁際の予定表示が自動で開いた。

 

《次回:泥外殻・左肩厚み試験》

《突進旋回角:再調整》

 

 消去欄へ指を置く。

 

 表示は入力を待つだけで、何も急かしてこない。

 

 押せば、予定からは消える。

 

 今は実行できない予定だ。

 

 それでも、押さなかった。

 

 閉じもしない。

 

 そのまま、最後の確定主観記録を開いた。

 

     ◇

 

 前脚が泥へ沈む。

 

 冷たい。

 

 爪の間へ泥が入り、小石が外へ押し出される。

 

 掻き寄せると、前脚の内側へ重さが寄った。

 

 映像を見ているだけなのに、そこは思い出せる。

 

 どれだけ掻けば左肩へ足りて、乾いたあとも重すぎないか。

 

 前脚で泥を持ち上げ、肩へ押しつける。

 

 胸側へ少し重ねる。

 

 左へ身体を傾けると、追加した泥の重みが殻の内側から返ってきた。

 

 削れていた側へ、少し多く。

 

 次の低ランク戦では、正面から受けすぎない。

 

 左肩を厚くする。

 

 その分だけ旋回が鈍るなら、突進開始角を少し浅くする。

 

 だから、あと一回だけ試験路を走るつもりだった。

 

 大げさな予定じゃない。泥を足し、走って、曲がりにくければ削る。いつもの調整だ。

 

 次に戦う時までに、ちょうどよくする。

 

 記録の中で、《モルグラ》がもう一度前脚を泥へ入れた。

 

 前脚の半分まで沈む。

 

 泥の表面が盛り上がる。

 

 そこで終わった。

 

 暗転も警告も、最後の言葉もない。

 

 ただ、続きだけがない。

 

《次回記録:なし》

 

 そこから、俺の主観が戻るまで十九分四十四秒。

 

 次に俺の主観が戻った時、画面には《継承段階移行通知》が出ていた。

 

 数字を見たまま、再生位置を戻した。

 

 十九分四十四秒。

 

 前に見た時と同じ数字だ。増えもしないし、減りもしない。ただ、その長さだけが俺の主観記録から抜け落ちている。

 

 また前脚が泥へ入る。

 

 掻く。

 

 肩へ押しつける。

 

 胸へ重ねる。

 

 左へ傾く。

 

 そこまではある。

 

 その先がない。

 

 誰かが来たのか。何かを見たのか。どこかへ行こうとしたのか。

 

 頭に浮かぶたび、止める。

 

 どれも記録にない。

 

 俺自身にもない。

 

 考えれば考えるほど、それらしい続きを作れそうになる。

 

 だから、再生を閉じた。

 

 閉じたあとも、壁際の予定表示は残ったままだった。

 

 記録の続きはないのに、次にやるはずだったことだけは残っている。

 

     ◇

 

 非公開通知が届いたのは、その日の夕方だった。

 

《類似処理再発:共有希望》

《別対象の個人情報:非共有》

《本人選択:確認》

 

 表示は、そこから先を開かない。

 

 別の対象に起きた類似処理について、個人情報を伏せたまま共有を受けるかどうか。

 

 先に選ぶのは、俺だった。

 

「聞く」

 

 返答すると、非公開支援領域への接続表示が開いた。

 

     ◇

 

 表示台の前に立つ。

 

 右手の親指が、いつの間にか左袖の折り返しへ触れていた。

 

 アストさんは、原因ではなく残ったものから話した。

 

「先に結果をお伝えしますわ。二件目の現在個体は残っています。主観記録にも欠落はございません。技能も保持されていますの」

 

 指が止まった。

 

「……よかった」

 

 返事はすぐに出た。

 

 次は、現在個体も、主観も、技能も残った。

 

 前回みたいにはならなかった。

 

 《モルグラ》は戻っていない。

 

 俺の十九分四十四秒も戻っていない。

 

 だから、これは俺が助かったという話じゃない。

 

 別の誰かが、失わずに済んだ。

 

 まず、そのことに安堵した。

 

 少し間を置いて、アストさんが続ける。

 

「同じ処理層へ未登録の参照が入り、今回は監視が止めました。同一原因とは、まだ言えませんの」

 

「同じだったのか」

 

「同じなのは、確認できた処理の一部までですわ」

 

 視線が下がった。

 

 袖へ触れていた親指が、今度は動かない。

 

「でも、俺だけじゃなかった」

 

 声が小さくなる。

 

「……俺だけの操作ミスじゃなかったのか」

 

「今回も、本人は継承を選んでおりませんの」

 

 俺の時も、選んでいない。

 

 今回も、選んでいない。

 

 同じ原因とは決まらず、俺の件もまだ分からない。

 

 それでも、「自分だけが操作を間違えた」という考えは、前より少し置きにくくなった。

 

 そこで初めて、もう一つ息が抜けた。

 

     ◇

 

 支援領域を閉じたあと、元の共有通知へ戻った。

 

 返信欄を開く。

 

《俺の時と同じなら――》

 

 消す。

 

 俺には分からない。

 

 アストさんにも、まだ分からない。

 

《今度は止められたなら、俺の時も――》

 

 そこまで打って、消した。

 

 二件目が残っても、俺の時に失ったものまで戻ったことにはできない。

 

 最後に、一行だけ打つ。

 

「次は残ったんだな」

 

 送信した。

     ◇

 

 継承画面を開く。

 

 今選べる二つの表示が並ぶ。

 

《継承再開》

《原本保全を継続》

 

 継承再開を選べば、次世代へ進み、別の身体でまた泥を集めて走れる。

 

 でも、それは《モルグラ》が戻ることじゃない。

 

 しかも継承を再開すれば、今保全されている原本へ更新が入る可能性がある。

 

 原本保全なら、今残っている状態を守る。

 

 どちらにも、指を置かなかった。

 

 次へ進めることと、今残っているものを守ることが、同じ操作にはなっていない。

 

 今は決めない。

 

 決めないまま、壁際へ残っている予定を見る。

 

《次回:泥外殻・左肩厚み試験》

《突進旋回角:再調整》

 

 やるつもりだった。

 

 あのあと泥を足して、試験路を走るつもりだった。

 

 左肩が重ければ削り、曲がれなければ角度を変える。そういう予定だった。

 

 実行できないからといって、最初からなかったことにする必要はない。

 

「照明、泥槽だけ落として」

 

『泥補充槽照明を停止します』

 

 作業灯が一つ消えた。

 

 泥の表面から光が引いていく。

 

 試験路までは暗くならない。

 

 深く残った前脚跡が、そのまま見えている。

 

 予定表示も消えていない。

 

 出口へ向かってから、一度だけ振り返った。

 

 あそこをどう曲がるつもりだったかは、まだ覚えている。

 

 暗くなった泥槽。

 

 走るつもりだった試験路。

 

 そこへ残る足跡。

 

 次にやるつもりだった二つの予定。

 

 どれも、《モルグラ》がそこにいた時間の続きにある。

 

 十九分四十四秒は戻らなかった。

 

 だから、その場所へ別の出来事を置かなかった。

 

 

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