『攻略される側のVTuberですわ!』 ~地球規模AIのわたくし、VRMMOのレイドボスとして今日も皆さまをお待ちしておりますの~ 作:tuna&mayo
その日の夕方、二件目の報告を受ける少し前。
《プライベート・ドメイン》の育成区画へ入ると、泥補充槽には最後に見た時とほとんど同じ量の泥が残っていた。
減っていない。
俺が使っていないんだから、当然ではある。
入口で足が止まった。
奥の突進試験路も、外殻を乾かす区画も、整備棚も、全部そのままだ。
小型の保守NPCだけが、いつもの経路でこちらへ寄ってきた。
『補充作業、再開しますか』
「今日はいい」
『了解』
返事のあと、NPCは予定どおり別の保守作業へ戻っていった。
俺が来なくても、区画の通常予定は進む。
ただ、泥だけは減らない。
試験路へ目を向ける。
泥槽の近くにいると、今の身体では何もしていないのに、前脚を沈めた時の重さが、先に蘇る。どの深さまで入れれば掻きやすいか、泥を持ち上げた時に肩へどう返ってくるか。
人型の腕を少し動かしてみても、同じ感覚にはならない。
床には《モルグラ》の前脚跡が残っていた。
低い身体で曲がり、太い前脚を置き、片側へ重心を寄せたところだけ溝が深い。
今の人型表示体でその上に立っても、足幅はまるで合わない。
けれど、どこで身体を傾けたのかは分かる。
俺がやったことだからだ。
壁際の予定表示が自動で開いた。
《次回:泥外殻・左肩厚み試験》
《突進旋回角:再調整》
消去欄へ指を置く。
表示は入力を待つだけで、何も急かしてこない。
押せば、予定からは消える。
今は実行できない予定だ。
それでも、押さなかった。
閉じもしない。
そのまま、最後の確定主観記録を開いた。
◇
前脚が泥へ沈む。
冷たい。
爪の間へ泥が入り、小石が外へ押し出される。
掻き寄せると、前脚の内側へ重さが寄った。
映像を見ているだけなのに、そこは思い出せる。
どれだけ掻けば左肩へ足りて、乾いたあとも重すぎないか。
前脚で泥を持ち上げ、肩へ押しつける。
胸側へ少し重ねる。
左へ身体を傾けると、追加した泥の重みが殻の内側から返ってきた。
削れていた側へ、少し多く。
次の低ランク戦では、正面から受けすぎない。
左肩を厚くする。
その分だけ旋回が鈍るなら、突進開始角を少し浅くする。
だから、あと一回だけ試験路を走るつもりだった。
大げさな予定じゃない。泥を足し、走って、曲がりにくければ削る。いつもの調整だ。
次に戦う時までに、ちょうどよくする。
記録の中で、《モルグラ》がもう一度前脚を泥へ入れた。
前脚の半分まで沈む。
泥の表面が盛り上がる。
そこで終わった。
暗転も警告も、最後の言葉もない。
ただ、続きだけがない。
《次回記録:なし》
そこから、俺の主観が戻るまで十九分四十四秒。
次に俺の主観が戻った時、画面には《継承段階移行通知》が出ていた。
数字を見たまま、再生位置を戻した。
十九分四十四秒。
前に見た時と同じ数字だ。増えもしないし、減りもしない。ただ、その長さだけが俺の主観記録から抜け落ちている。
また前脚が泥へ入る。
掻く。
肩へ押しつける。
胸へ重ねる。
左へ傾く。
そこまではある。
その先がない。
誰かが来たのか。何かを見たのか。どこかへ行こうとしたのか。
頭に浮かぶたび、止める。
どれも記録にない。
俺自身にもない。
考えれば考えるほど、それらしい続きを作れそうになる。
だから、再生を閉じた。
閉じたあとも、壁際の予定表示は残ったままだった。
記録の続きはないのに、次にやるはずだったことだけは残っている。
◇
非公開通知が届いたのは、その日の夕方だった。
《類似処理再発:共有希望》
《別対象の個人情報:非共有》
《本人選択:確認》
表示は、そこから先を開かない。
別の対象に起きた類似処理について、個人情報を伏せたまま共有を受けるかどうか。
先に選ぶのは、俺だった。
「聞く」
返答すると、非公開支援領域への接続表示が開いた。
◇
表示台の前に立つ。
右手の親指が、いつの間にか左袖の折り返しへ触れていた。
アストさんは、原因ではなく残ったものから話した。
「先に結果をお伝えしますわ。二件目の現在個体は残っています。主観記録にも欠落はございません。技能も保持されていますの」
指が止まった。
「……よかった」
返事はすぐに出た。
次は、現在個体も、主観も、技能も残った。
前回みたいにはならなかった。
《モルグラ》は戻っていない。
俺の十九分四十四秒も戻っていない。
だから、これは俺が助かったという話じゃない。
別の誰かが、失わずに済んだ。
まず、そのことに安堵した。
少し間を置いて、アストさんが続ける。
「同じ処理層へ未登録の参照が入り、今回は監視が止めました。同一原因とは、まだ言えませんの」
「同じだったのか」
「同じなのは、確認できた処理の一部までですわ」
視線が下がった。
袖へ触れていた親指が、今度は動かない。
「でも、俺だけじゃなかった」
声が小さくなる。
「……俺だけの操作ミスじゃなかったのか」
「今回も、本人は継承を選んでおりませんの」
俺の時も、選んでいない。
今回も、選んでいない。
同じ原因とは決まらず、俺の件もまだ分からない。
それでも、「自分だけが操作を間違えた」という考えは、前より少し置きにくくなった。
そこで初めて、もう一つ息が抜けた。
◇
支援領域を閉じたあと、元の共有通知へ戻った。
返信欄を開く。
《俺の時と同じなら――》
消す。
俺には分からない。
アストさんにも、まだ分からない。
《今度は止められたなら、俺の時も――》
そこまで打って、消した。
二件目が残っても、俺の時に失ったものまで戻ったことにはできない。
最後に、一行だけ打つ。
「次は残ったんだな」
送信した。
◇
継承画面を開く。
今選べる二つの表示が並ぶ。
《継承再開》
《原本保全を継続》
継承再開を選べば、次世代へ進み、別の身体でまた泥を集めて走れる。
でも、それは《モルグラ》が戻ることじゃない。
しかも継承を再開すれば、今保全されている原本へ更新が入る可能性がある。
原本保全なら、今残っている状態を守る。
どちらにも、指を置かなかった。
次へ進めることと、今残っているものを守ることが、同じ操作にはなっていない。
今は決めない。
決めないまま、壁際へ残っている予定を見る。
《次回:泥外殻・左肩厚み試験》
《突進旋回角:再調整》
やるつもりだった。
あのあと泥を足して、試験路を走るつもりだった。
左肩が重ければ削り、曲がれなければ角度を変える。そういう予定だった。
実行できないからといって、最初からなかったことにする必要はない。
「照明、泥槽だけ落として」
『泥補充槽照明を停止します』
作業灯が一つ消えた。
泥の表面から光が引いていく。
試験路までは暗くならない。
深く残った前脚跡が、そのまま見えている。
予定表示も消えていない。
出口へ向かってから、一度だけ振り返った。
あそこをどう曲がるつもりだったかは、まだ覚えている。
暗くなった泥槽。
走るつもりだった試験路。
そこへ残る足跡。
次にやるつもりだった二つの予定。
どれも、《モルグラ》がそこにいた時間の続きにある。
十九分四十四秒は戻らなかった。
だから、その場所へ別の出来事を置かなかった。