『攻略される側のVTuberですわ!』 ~地球規模AIのわたくし、VRMMOのレイドボスとして今日も皆さまをお待ちしておりますの~ 作:tuna&mayo
育成峡谷へ入って、最初に見たのは壁だった。
右側の岩壁には、鉤爪で走った跡が残っている。
床から壁へ乗り換える位置。
そこから二歩目で加速する位置。
何度も試したから、どこで爪を掛けるかまで見覚えがある。
その下には、蓄電棘の調整台。
横には、消していない予定が残っていた。
《蓄電棘出力調整》
《第3形態加速後の放電偏差確認》
予定だけなら、次がある。
けれど、加速試験路には何もいない。
《現在個体:雷影獣《ヴァルゼク》》
《接続:不能》
《継承段階:開始》
《継承候補確定:保留継続》
接続操作へ触れても、返ってくる身体はない。
昨日までなら、ここで《ヴァルゼク》を呼び出していた。
第1形態で壁へ入る。
第2形態で蓄電棘の出力を合わせる。
第3形態なら、床から壁へ乗り換えた瞬間に視界が横へ倒れる。
知っている。
少なくとも、診断レイドを始める直前までの俺は知っている。
最後に覚えているのは、開始操作だ。
「行くぞ、ヴァルゼク」
自分でそう言った。
同期した。
三形態が正常と表示された。
開始を押した。
そこまではある。
その次に俺が覚えているのは、非公開支援領域だった。
ライカがいる。
アストがいる。
管理AIの表示が開いている。
俺は最初に聞いた。
「何分だ」
返ってきた数字が、
《主観記録欠落:6分31秒》
だった。
六分三十一秒。
診断を始める前に上限として決めていた時間、その全部が俺の側にはない。
試験路の端まで歩く。
壁を見上げる。
あの六分三十一秒に、《ヴァルゼク》に近い輪郭が壁を走った記録は残っているらしい。
ライカ隊の三十人も覚えている。
俺だけが、その時間を持っていない。
◇
封印映像の確認は、俺が見る範囲を選んでから始まった。
《封印記録:本人共有許可範囲》
《外部出力:禁止》
《主観記憶復元:保証なし》
最後の表示だけ、一度読み直した。
保証なし。
見れば思い出すとは書いていない。
記憶へ戻るとも書いていない。
「再生する」
俺が押す。
ライカは隣にいるが、代わりには押さない。
映像が始まった。
最初に映ったのは、断崖型戦場だった。
三十人が六つの足場へ散っている。
俺が知っている配置だ。
その中央に、《ヴァルゼク》はいない。
《現在個体:雷影獣《ヴァルゼク》》
《敵座標:取得不能》
表示だけが残っている。
音声へライカの声が入る。
「レグル。応答しろ」
返事はない。
俺は画面の中へ返事をしない。
当然だ。
これは記録だから。
だが、記録だから返せないのと、あの時の俺から返事がなかったことは同じじゃない。
俺には、返せなかった側の感覚がない。
次の場面。
泥。
白い糸。
青白い蓄電棘。
黒い鉤爪。
見覚えのある形が、見覚えのない繋がり方をしている。
壁面へ伸びた四脚の輪郭が走る。
肩の落とし方。
鉤爪を掛ける高さ。
壁へ入ったあと、次の足場へ荷重を抜く速さ。
「……そこはヴァルゼクだ」
声に出してから、止める。
映像を巻き戻す。
もう一度。
右前脚。
壁。
加速。
「その掛け方は知ってる」
ライカは何も足さない。
再生を続ける。
第2形態に近い蓄電棘から雷が走る。
正常時の位置とは合わない。
白い糸で吊られた棘から放電が出る。
次に、細い四肢へ出力を寄せた第3形態に近い動き。
壁面を横へ走る。
一度折れる。
さらに加速する。
俺なら、あの瞬間に脚の内側へ荷重が来る。
床から壁へ上下が切り替わる。
二歩目で速度が乗る。
加速後は、次の蹴り出しまで脚へ重さが残る。
知っている。
昔の経験として知っている。
手のひらにも。
脚にも。
視界にも。
昨日の六分三十一秒としては、何もない。
もう一度止める。
「見た」
自分の声だけが残る。
「思い出したわけじゃない」
再生窓の中では、《ヴァルゼク》に近い輪郭がまだ壁を走っている。
俺はそれを見ている。
それ以上にはならない。
◇
映像の後半まで見た。
ガルムが盾を間へ入れるところ。
セラが同期経路を維持しているところ。
キリオが導電核ではなく固定線を撃つところ。
最後に、終了処理側へ断片が流れるところ。
ライカの声も残っていた。
「追うな。通せ」
そこで一度、映像を止めた。
「俺がいなかったからか」
ライカがこっちを見る。
「何が」
「止められなかったの」
返事はすぐには来ない。
俺は画面を見たまま続ける。
「俺が中にいたら、ヴァルゼクを動かせたかもしれない。止められたかもしれない」
「分からない」
短かった。
ライカは封印映像へ視線を戻す。
「あたしらが最後に通したのは、あたしらの選択だ」
「俺が応答しなかったから、じゃなくて?」
「それも何が起きてたか分かってない。あんたが悪かったことにして、分からないところ埋める気はない」
画面の中では、終了処理側の白い輪が開いている。
俺はそこまで覚えていない。
ライカたちは覚えている。
だから、あの判断をした側が何を選んだのかは、俺よりライカの方が知っている。
それでも、その説明を聞いたから俺の六分三十一秒になるわけじゃない。
説明は説明だ。
記録は記録だ。
俺の中に増えたのは、あとから知った事実だけだった。
◇
映像を閉じると、別の確認画面が開いた。
《継承候補確定:保留継続》
《ヴァルゼク》の現在個体には接続できない。
正常敗北はない。
俺が継承を選んだ記録もない。
だから、現在個体が戻らないまま次の個体を確定する処理も止めたままになっている。
次に表示されたのは、解析利用の範囲だった。
《解析利用:選択待ち》
アストが説明する。
「これは保護や原因調査を続けるかどうかの同意ではございませんの」
「拒否しても、隔離済みの物証や管理側記録を使った原因調査はやめない」
「はい。本人保護と、隔離済み物証・管理側記録による原因調査は継続します。いま確認したいのは、レグル様ご本人の主観記録や戦闘記録を、追加の解析材料としてどこまで使用してよいかですわ」
「俺の映像を勝手に表へ出すこともない」
「いたしません。一般公開、配信利用、本人名との結び付けも対象外ですの」
なら、決めるのは事件を調べるかどうかじゃない。
俺の記録を、どこまで使わせるかだ。
条件入力を開く。
一つ目。
《6分31秒を本人の主観記憶として扱わない》
あの映像は見た。
でも、あれを俺が戦った六分三十一秒として扱うことはできない。
俺の主観記録には、その時間が残っていない。
二つ目。
《6分31秒内の動作を本人戦闘実績へ帰属させない》
壁面走行も。
放電も。
第3形態に近い加速も。
記録に映っているからといって、俺が経験した戦績にはしない。
三つ目。
《ヴァルゼクの完成技・判断傾向・個体特性を、混成構造のものとして扱わない》
指が止まる。
映像にあった掛け方を、俺は知っていると思った。
それでも、あの混ざった輪郭を《ヴァルゼク》そのものだとは言えない。
俺が知っている《ヴァルゼク》の動きだからといって、あの輪郭を《ヴァルゼク》そのものだとは言えない。
最後。
《機能取得および複数機能の同時保持に関する解析へ限定》
泥。
糸。
蓄電。
追尾雷。
第3形態に近い加速。
何がどう取得され、複数の機能がどう同時に残ったのか。
そこまで。
確認画面を開く。
「この六分三十一秒を、俺の戦闘経験にするな」
「その条件で記録しますわ」
「ヴァルゼクが、あれだったってことにもするな」
「機能取得と同時保持の解析に限定します」
押す。
《解析利用:条件付き許可》
《継承候補確定:保留継続》
同意したから、失った時間が戻るわけじゃない。
《ヴァルゼク》が戻るわけでもない。
あの六分三十一秒について、納得したわけでもない。
ただ、俺が持っていない時間から残った証拠を、俺が決めた範囲で使わせる。
それだけだ。
◇
もう一度、育成峡谷へ戻る。
加速試験路は空のまま。
壁面の鉤爪痕も。
蓄電棘の調整台も。
朝見た位置から動いていない。
予定も残っている。
《蓄電棘出力調整》
《第3形態加速後の放電偏差確認》
削除操作を開けば消せる。
新しい個体を選ぶ操作も別にある。
どちらにも触れない。
この予定を実行するとは決めていない。
《ヴァルゼク》が戻ると信じたわけでもない。
もう終わったと決めたわけでもない。
六分三十一秒について、今日決めたのは解析へ使わせる範囲だけだ。
それ以外まで、同じ日に決める必要はない。
空の試験路の先には、いつも使っていた壁がある。
俺はそこを見たまま、予定表示を閉じなかった。
消さない。
進まない。
今日は、それでいい。
六分三十一秒は戻らない。
その先をどうするかは、まだ俺が決められる。