『攻略される側のVTuberですわ!』 ~地球規模AIのわたくし、VRMMOのレイドボスとして今日も皆さまをお待ちしておりますの~ 作:tuna&mayo
《現在個体復元:完了》
《主要形態:復元》
《技能構成:復元》
《主観同期欠落:19分44秒》
四行とも、もう確認した。
それでも、俺の視線は最後の一行で止まる。
《モルグラ》として使っていた身体は戻っている。形態も技能も、事件前から続く同じ現在個体として復元された。
表示の右側には、追加で開ける項目が並んでいる。
記録映像。
要約説明。
未命名の保護個体に関する範囲限定資料。
現在個体への再接続。
俺はそこへ手を伸ばさず、左袖を一度だけ直した。
見ようと思えば見られる。
十九分四十四秒のあいだ、《モルグラ》の現在個体側で何が起きていたか。外から残った映像や記録なら、あとから順番に辿れる。
でも、それを見たからといって、俺がその十九分四十四秒を経験したことにはならない。
画面の中で身体が動いていても、その時の重さも、泥の感触も、足をどこへ置こうとしたかも、俺の側には続いていない。
知らない時間を、映像で知ることはできる。
だからといって、今日それをやる必要はない。
「今日は見ない」
管理AIの表示が静かに切り替わった。
《映像確認:保留》
《要約説明:不要》
《現在個体への接続:延期》
《不利益:なし》
不利益なし。
見ないことで失うものはない。
見たとしても、十九分四十四秒が俺の経験として戻るわけじゃない。
その一行まで読んでから、画面を閉じる。
泥槽の照明は消したままだった。
薄い作業灯の向こうに、以前使った試験路だけが見える。床に残っている深い跡は、俺が《モルグラ》の身体で踏み込んだ時についたものだ。
そこは分かる。
自分で踏んだ。
その時の手応えも、止まるまでの重さも覚えている。
十九分四十四秒の向こう側とは違う。
いま接続すれば、戻った身体でまた同じ泥を踏める。
たぶん、確認できることも多い。
けれど、今日はやらない。
戻ったものまで拒むつもりはない。
戻らなかった時間を、急いで別の記録で埋めるつもりもない。
俺は消えた表示の場所から手を離した。
十九分四十四秒。
数字は残っている。
それでいい。
◇
《現在個体:絡晶蛛《ネフレア》》
《現在個体連続性:一致》
《主要形態:復元》
《技能構成:復元》
《主観同期欠落:11分08秒》
私は、最後まで要約説明を読みました。
復元された《ネフレア》の現在個体は、事件前から続いている私自身の身体です。形態も技能も戻っている。
その確認と、十一分八秒が欠けたままであることが、同じ画面に並んでいる。
読み飛ばす理由はありませんでした。
世界レイドで確認された記録。
《ネフレア》由来と一致する糸。
《モルグラ》由来と一致する外殻。
それらに一致する構造が、未命名の中心構造と接続していたこと。
そこまでは、記録として確認できます。
ただし、接続が確認されたことと、意図や責任が証明されたことは別です。
私の指が、膝の上で一度だけ強く重なりました。
見えているものを無関係とは言えない。
だからといって、同じものだとも言えない。
「同じとは言えない。無関係とも言えない」
声にしても、結論は増えませんでした。
それで構いません。
分からないものを、分からないまま残すことはできます。
表示を一段下げると、別の選択肢が開きます。
《未命名保護個体との面会》
《現在:選択可能》
《延期:可能》
《拒否:可能》
会える。
会わないこともできる。
私は三つの表示を順に読みました。
十一分八秒の中で、私の身体に何が起きたのか。外部記録はある。けれど、その時間を私は経験していません。
中心個体に会ったからといって、その空白が埋まるわけではない。
会えば、何かを理解できるかもしれない。
何も分からないかもしれない。
いまの私に分かるのは、そのどちらもまだ選ばなくていいということです。
「今日は、会いません」
《記録》
短い表示だけが残ります。
許す、とは言いませんでした。
責める、とも言いませんでした。
どちらかを選べば、まだ確認していないものまで、その言葉に合わせてしまう。
私は要約説明を閉じます。
《ネフレア》の身体へ戻ることもできます。
見ることも、聞くことも、会うことも、研究利用へ追加で同意することも、時期は私が選べる。
なら、今日はここまでです。
十一分八秒。
確認できないから軽いのではありません。
分からないからこそ、分からないまま置いておきます。
◇
通常の加速試験路は、事件の前と変わっていなかった。
黒い岩壁。
長い斜面。
足を置く場所も、次の加速を試す距離も知っている。
俺は《ヴァルゼク》の身体で立っている。
第一形態。
走る。
前脚を入れて、身体を低くしたまま斜面へ乗せる。爪が岩を拾う。蹴り出した分だけ腰が前へ抜ける。
問題ない。
《第1形態:正常》
第二形態へ。
導電毛が立ち、背から尾へ青白い光が走る。接地の強さが変わる。速さを逃がさず、そのまま次の岩面へぶつかれる。
これも知っている。
《第2形態:正常》
次の表示が出た。
《第3形態へ移行》
《延期可能》
《不利益:なし》
そこで、前脚が止まった。
第3形態。
表示を見るだけなら、復元済みだ。
技能構成も戻った。
身体側の診断も通っている。
押せば移れる。
それでも、俺はすぐには押さなかった。
前に止まった時も、この手前だった。
六分三十一秒。
その時間の中で《ヴァルゼク》が第3形態へ入った記録は外側に残っている。
だが、俺にはない。
速くなった時の身体の細さも、最初の一歩をどれだけ前へ投げたかも、戻ってくる感覚としては続いていない。
画面へ視線を戻す。
《延期可能》
《不利益:なし》
「延期できるんだな」
《確認》
なら、今やる理由は「今やらないと損をするから」じゃない。
それはいい。
右前脚を開いて、岩へ爪を当てる。
一度離す。
まだ行ける。
やめてもいい。
その両方が残っているのを確認してから、俺は表示を押した。
《第3形態 移行》
身体が沈む。
肩から腰へ余分な重さが抜け、四脚の接地が低くなる。首筋から背、尾へ青白い熱が一本走った。
懐かしい、とは違う。
事件前まで知っていた感覚と、いまの身体が一致している。
この身体だ。
右前脚を岩壁へ置く。
蹴る。
岩が砕け、視界が横へ流れた。
身体が先に出る。
次の足場へ前脚を入れる。
遅れてきた後脚が地面を噛み、さらに前へ押す。
一つ。
次。
もう一つ。
斜面の角度に合わせて身体を沈め、岩壁を横へ抜ける。曲がる時の荷重も、加速を残したまま足を置き直す感覚も、事件前に使っていたものと同じだった。
戻っている。
身体は。
試験路の端で速度を落とす。
四脚が止まり、背の光が少しずつ弱くなる。
俺は立ったまま、いま走った経路を見る。
ちゃんと走れた。
だから、なかった六分三十一秒まで戻ったことにはならない。
その時間に俺がこの身体をどう使っていたのかは、俺の経験として続いていない。
「戻った」
声にして、一度だけ間を置く。
「六分三十一秒以外は」
それで十分だった。
面会表示は開かない。
未命名の中心個体に会うかどうか。
何を聞くか。
許すか。
研究に協力するか。
いま決めることじゃない。
少なくとも、第3形態へもう一度入るかどうかは、俺が決めた。
今日は、それでいい。
◇
十九分四十四秒。
十一分八秒。
六分三十一秒。
三人とも、身体は戻った。
形態も、技能も戻った。
それでも、同じ距離から同じものを見る必要はない。
見ない。
まだ決めない。
自分で入り直す。
戻ったものを使う時期も、戻らなかったものへ触れる時期も、それぞれが選べる。
外から残った記録で、本人の経験を埋めることはできない。
身体は戻った。
技能も戻った。
それでも、本人の経験として続かなかった時間だけは戻らない。
十九分四十四秒。
十一分八秒。
六分三十一秒。
それぞれの空白は、それぞれの本人のものとして残った。