PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
――俺は、いつの間にか立っていた。
いや、正確に言えば。いつの間に立っていたのか、全く思い出せないのだ。
直前の記憶が霧の向こうに消えてしまっている。
そして、気づけばここにいる。
(……ここ、どこだ)
目の前に広がるのは、古い船の客室だった。
木目の壁が蝋燭の揺らめく灯りに照らされて、橙色の影を落としている。床板がミシミシと軋むたびに、足の裏から微かな振動が伝わってくる。潮の匂いがする。窓の外は果てのない夜の海で、揺れる水平線の微光だけが暗闇に浮かんでいた。
(……夢か? いや、夢にしては匂いが濃すぎる)
それに、足裏の感覚がリアルすぎる。床が揺れている。船だ。間違いなく、船の上だ。
俺は現在、長いテーブルの前に立っていた。テーブルの向こう側に、二つの影が座している。
心臓がドンドンと速くなっている。呼吸が浅い。背中を冷たい汗がツーと伝い落ちていく。
(落ち着け。とりあえず落ち着け俺。誤魔化し笑いだ。笑え)
引きつった頬の筋肉が言うことを聞かない。
最初に視界に飛び込んできたのは――奇妙な、いや、奇妙とかいう次元を通り越した老人だった。
禿げ上がった頭。異様なまでに長くて先端の尖った鼻。まるで童話の魔法使いをそのまま三次元に落とし込んだような顔立ちである。大きく丸い目が、こちらをじっと見つめている。耳まで尖っている。深い皺が顔中に刻まれていて、不気味――なのだが、どこか愛嬌があるというか、妙に憎めない表情をしているのが余計に混乱させる。
黒い燕尾服に白いシャツ、白手袋。古風で格式のある装い。細長い手足がテーブルの上で組まれている。
(……コスプレ? いやそれにしても作りが良すぎるだろ。ていうか鼻長すぎないか? 人間あそこまで尖らなくてもいいんじゃないか?)
その隣に――対照的に、若い女性が立っていた。
深い褐色の肌。長身で均整の取れた体躯。プラチナブロンドの髪を腰近くまで伸ばし、船の係留索を思わせる太い一本の三つ編みにしている。前髪は左側へ流し、右目の周囲を露出させていた。
瞳が――異常だった。灯台の光をそのまま抜き取ったような、鮮明な金色。暗い客室の中で、ほのかに輝いている。
濃いコバルトブルーの制服に金色のボタンが並ぶダブルブレストのコート。胸元には羅針盤型の徽章。制帽には蝶と舵輪を組み合わせた紋章。
(……水先人? 船の?)
彼女は長椅子の脇に控えるように立ち、無表情のままこちらを見ている。感情の読めない静かな眼差し。美人なのしかしまるで精緻に作られた人形のように、微動だにしない。
(どっちも現実感がなさすぎるだろ……)
俺の誤魔化し笑いは、完全に空中に溶けて消えた。
「あの……」
俺が口を開いた瞬間――老人が先に声を上げた。
「ようこそ……」
高い声。ゆっくりと、一語一語を丁寧に紡ぐような話し方。蝋燭の炎が揺れるたびに、その長い鼻の影が壁に大きく伸び縮みする。
「我がベルベットルームへ…」
(ベルベットルーム?)
「申し遅れましたな。私の名はイゴール」
老人は深く一礼した。白手袋の手が流れるような所作で広げられ、燕尾服の背中が微かに持ち上がる。
(イゴール…? 本名か? いや本名にしか見えないが、イゴールって)
「この部屋…夢と現実…精神と物質の狭間の場所…」
間の無い低い声が、老人の言葉を引き継いだ。
褐色の肌の女性――ウォルトンが、無表情のまま口を開いた。声は低く平坦で、感情の起伏がまるで無い。まるで航海日誌を朗読しているかのようだった。
「夢と現実の狭間…つまり、ここは定義上の航路に無い場所です」
(航路?)
「あなたは我らの客人として招かれました」
イゴールが再び口を開く。含み笑いを浮かべている。丸い目が細められ、長い鼻の先端が微かに上下した。
(客人? 誰が? 俺を? なんで?)
「招かれたって…俺、今さっきまで自分の部屋で寝てたんですが」
「さようですな」
イゴールは愉快そうに頷いた。頷くだけだった。
「いや、頷くな。説明しろ」
「あなたの記憶にお間違いが無ければ、ご自身の寝床におられたはずです」
ウォルトンが淡々と補足する。金の瞳がこちらを正面から捉えたまま、瞬きもしない。
「…はい」
「その通りです。ですが、ここは夢と現実の狭間。あなたの肉体は寝床にあり、意識のみが当室へ到着しております」
(到着? 意識が到着? 船便かよ)
「つまり…俺は夢を見ている、と?」
「夢…と言ってしまえば、そうですが…」
イゴールは長い鼻を一回ヒクつかせた。
「夢と現実の境界が曖昧になった方にしか、この部屋は見えません。あなたがここにいるということは…」
「つまり、あなたは現実と夢の境界を歩く資格を持つ者、という事です」
ウォルトンが遮るように補足した。
(資格? 何の? 誰の? どこの資格試験だよ?)
「あのな…」
俺は両手を挙げかけた。だが、降ろした。何をどう説明していいのか分からない。ここが夢だというなら、いっそ辻褄が合う。だが、匂いも音も温度も全てが現実と同じ鮮度で存在している。
証明する手段が無い。俺が今ここに立っていることを否定する手がかりが、一つも無いのだ。
(まずい。この二人、何を言っても動じない気がする)
イゴールはニコニコと笑っている。ウォルトンはピクリとも動かずに立っている。
俺のツッコミが全く空回りしている。漫才で言えばボケがスルーされ続けている状態だ。いやむしろ俺がボケなのか? この状況でツッコミを入れている俺が一番おかしいのか?
(いや違う。おかしいのはこの状況だろ)
俺は大きく息を吸い込んだ。肺に冷たい空気が入ってくる。喉が震えた。
「とりあえず!」
声が裏返った。
「ここが何なのか! お前らが何者なのか! あと三秒で説明しろ!!」
船室に俺の怒鳴り声が響き渡った。
俺は結局、座った。
立ったまま怒鳴っても、目の前の老人はニコニコと笑っているだけだったし、褐色の肌の女性はピクリとも動かなかったからだ。体力の無駄である。それに、足が震えていた。認めたくないが、ガタガタと。
椅子は古い木製で、座るとミシと鳴った。船の揺れが尻から背中へ伝わってくる。膝の上で拳を握った。掌が汗で湿っている。革の手袋でも嵌めてれば良かった――いや、そんなことを考えている場合ではない。
イゴールがテーブルの上に何かを置いた。
古びたカードの束だった。縁が擦れ、色が褪せている。相当に古い。印刷の質からして、どこかの博物館のガラスケースに飾っておくべき代物に見えた。
「…何それ。トランプ?」
「タロットカード、でございます」
イゴールは長い指でカードの束を撫でた。白手袋の指先が蝋燭の光に浮かび上がる。ゆっくりと、慈しむような手つきだった。
「タロット。占いかよ」
俺は鼻を一つ鳴らした。軽口を叩く。そうしないと、この部屋の空気に押し潰されそうだったからだ。
「ゲームならルールブックを読ませてくれ。俺、初心者だから」
「フフ…」
イゴールは笑っただけだった。長い鼻の影が壁で巨大に揺れる。
(笑うな。笑って誤魔化すな)
「これから起こる出来事を、カードが示してくれるかもしれません」
イゴールの声は高く、ゆっくりだった。一語一語に間があり、まるで音を一つずつ丁寧に並べているようだった。奇妙なほど耳に残る声で、俺の引きつった笑いが溶けていく。
「かもしれない、って。自信ないんですね」
「未来は確定しておりませんのでな」
「占い師としてどうなの」
「私は占い師ではございませんが」
「じゃあ何なんですかあなたは」
「ベルベットルームの主、と先ほど申しましたが」
「…そうだった」
会話にならない。
イゴールは卡片の束を拾い上げた。長い指がカードの背を撫でるように滑り、シャッフルする。カッカッカッと乾いた音が船室に響いた。その指の動きが――妙に優雅で、蝋燭の光が手の甲に浮かんで消え、浮かんで消えを繰り返す。目が離せない。わざとゆっくりやっているとしか思えなかった。
一枚目が、テーブルに置かれた。
波だった。
荒れ狂う波の絵柄。その中に小さな船が浮かんでいる。印刷は古びているが、線画は細かく、波の飛沫まで描かれている。蝋燭の灯りが揺れるたびに、波が動いているように見えた。
「…俺の知ってるタロットと違くないですか」
「南星学園都市の地図をお持ちでしょうか」
ウォルトンが口を開いた。壁際に立ったまま、低く静かな声で。船室の木目に声が吸い込まれていくような響きだった。
「あ? 一応」
「このカードが描くのは、あなたの進む航路周辺の海象です」
「海象」
「海の状態。波の高さ、風向き、潮の流れ。海図に記される情報の総体を指します」
(海図。つまり地図ってことか。タロットカードが地図?)
二枚目。
古い船だった。帆を張った木造の船が、夜の海を進んでいる絵柄。月光が帆を白く照らしている。どこかで見たことがあるような、南星学園都市の港湾博物館に飾られていた古い島嶼連絡船に似ていた。
「古い船…」
「百年の旅路を経て、再び波立つ島々」
イゴールが呟くように言った。
百年。
その数字が、俺の頭の中で空回りした。
(百年って。百年前って…大正時代だろ。何が百年だ)
豆鉄砲を食った鳩とはこういう顔をしているのだろう。俺の顔が今そうなっているのは分かる。分かるが、直せない。
「百年前から、沖縄の島々には古い封印が残されていました」
ウォルトンが淡々と続けた。金の瞳が俺を正面から見据えている。瞬きが無い。人形じみていて、背筋がゾワゾワする。
「封印が弱まった時、何が起こるか。それは海図に記された暗礁のようなものです。航路上に存在すると分かっていても、潮の流れで見えなくなる」
「…比喩が回りくどい」
「要するに、危険があるということです」
「それは分かった。何の危険だ」
三枚目。
剣だった。波の上に浮かぶ、一本の剣。柄に何か文字のような模様が刻まれている。刃が月光を反射して白く光る絵柄。
「戦い…でございますな」
イゴールの声が、少しだけ低くなった気がした。
「百年の歳月を超えて、蘇る戦いの予兆。カードはそう告げております」
「蘇るって…何が。何の戦いが」
「詳細はカードには現れません。ただ、予兆は確かにそこに」
「確かに、って」
俺は声が大きくなるのを止められなかった。膝の上の拳を握り直す。爪が掌に食い込んだ。
「百年前の戦いが蘇るって言われても、俺は実感わかないんですよ。大正? 明治? 何があったか知らないし、南星学園都市だって数年前にできたばっかりだろ。100年とか言われても、俺の暮らしてる場所と何が関係あるのかさっぱりで」
「フフ…」
イゴールはまた笑った。笑いながら、四枚目のカードを指先で押し出した。
このカードだけ、絵柄が逆さまだった。
波を返したような――逆の波。船が逆さまに浮いている。剣が下を向いている。何もかもがひっくり返った絵柄。
(…なんだこれ)
見た瞬間、胸の奥がチリと熱くなった。原因は分からない。カードの絵柄が目に入った瞬間、肋骨の内側で何かが反応したような――
(気のせいか)
無意識に、そのカードから目を逸らした。逸らしたが、視界の端に残っている。逆さまの船が、蝋燭の影で揺れている。
「つまるところ」
俺は両手をテーブルに突いた。椅子がガタリと鳴る。
「何が起きるんですか。俺に何が関係あるんですか。百年前の戦いが蘇るって、それで俺がどうしろって言うんですか」
イゴールは長い指をカードの上に置いた。
ゆっくりと。一枚一枚に触れるように。
そして、丸い目を細めて、こう言った。
「近いうちに、貴方は戦士と出会うでしょう」
「……は?」
「戦士、と出会う」
「戦士って、何の話だ」
その瞬間――船が小さく揺れた。
ガタン。
床が傾いで、蝋燭の炎が一斉に揺れた。影が壁の上で踊る。俺の手の下でテーブルが軋んだ。
揺れはすぐに収まった。だが、胸の奥のチリとした熱は消えていなかった。
(戦士。百年。蘇る戦い。逆さまのカード。何だこれ。何なんだよ)
俺はテーブルの上のカードを見つめていた。イゴールの手の下に、逆さまの絵柄が隠れている。
黙って無視するには、もう遅すぎる気がしていた。