PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
朝、目が覚めたのは六時半だった。南星学園都市の学生寮、二〇三号室。本土から送った段ボールが二箱、まだ開けられずに壁際で俺を睨んでいる。いや、睨んではいない。段ボールだし。
カーテンを開けると、もう日差しが強かった。七月の沖縄。朝から容赦がない。窓の外には、白く光る道とその向こうに青い海。港から聞こえる波の音に、かもめみたいな鳥の声が混じっている。南星学園都市は、島の中央からやや北側に広がる学園特区だ。寮から見える景色は、本土の工業地帯とはどこか質が違う。空気に潮の匂いが混ざって、胸の奥までしっとり入ってくる。
「起きたか。おはよう、ネズミ君」
机の上で、シーサーのぬいぐるみがこっちを見ていた。
俺は「おはよう」と言って、洗面所へ向かう。歯を磨いて顔を洗って、制服に着替える。南星総合学園の制服は白いシャツに灰色のスラックス。校章入りの紺のネクタイを締める。腕時計を確認。七時だ。余裕がある。
「九衣。お前、鞄に入るのか」
「当たり前だろ。私、カバン要員だから」
「かわいくないぞ」
「ぬいぐるみはかわいいんだよ。中身がちょっと癖あるだけ」
「中身が本体だろ」
「配信者は中身より外見が大事なこともある。モノによる」
九衣が、机の上で前脚をちょいちょいと動かし「さあ、私を入れろ」と催促する。俺はシーサーのぬいぐるみを抱え、通学用のボストンバッグの隙間に押し込んだ。半分だけ顔を出して、呼吸するみたいな格好になる。
「暑くないか。窒息するぞ、ぬいぐるみ」
「死んでるから平気」
「だろうな」
「だから、死体をカバンへ入れる程度の良心でも私は嬉しい」
「お前、本当に朝から縁起でもないな」
バッグの口を少し開けて、九衣を隠す。ぴくりと耳が動いた。寮の入り口のドアを出る。日差しが腕に刺さる。まだ朝なのに、もう気温が高い。風が生ぬるい。この島の空気に慣れるのは、しばらくかかりそうだ。
通学路は、港から延びるメインストリートと合流する。学生寮から南星総合学園までは歩いて十五分。途中に商店街があって、朝からパン屋と沖縄そばの店がやっている。クラスメイトらしい制服姿があちこちにいた。みんな涼しそうな顔をしている。こっちはまだ背中に汗が滲んでいるのに。
「ネズミ君、お腹空いた。ポーク玉子おにぎり買おう」
「お前、俺の財布を自分のものだと思ってないか」
「同じカバンに入ってるんだから、家族みたいなものだろ」
「ぬいぐるみが何を言っても響かない」
「むむ」
それでも、商店街の入り口にあった小さな店先でポーク玉子おにぎりを二つ買った。一つは九衣に渡す。店のおばあが「あんた、食べるの早いねえ」と笑った。いや俺、まだ食べてないです。コイツです。このカバンの中の幽霊です。
## ◇
南星総合学園の校門は島の石垣をモチーフにした灰色の柱でできていた。門をくぐると、渡り廊下で各校舎がつながっている。二年三組の下駄箱は昇降口の一番端。潮風が入り込む場所で、扉が少し開いている。靴を履き替えながらバッグの中の九衣が「海の匂いがする。好きだ」と呟いた。俺は小声で「声出すな」と返す。
教室は三階。廊下からはもう学生達の声が聞こえている。ホームルーム前の教室に入ると、五、六人がこっちを見た。去年まで一緒だった連中じゃない。この中に、転入生は俺一人。当たり前だ。全員がもう友達がいて、居場所があって今は俺という異物を確認している。
「静かに、席につけよー」
先生が入ってきて黒板の横に立った。女性の教師で、髪をアップにしている。朝の挨拶のあと居住まいを正して「今日から一緒に学んでもらう転入生を紹介します」と言った。
「ほら、自己紹介して」
教室の前へ立った。四十人以上の視線が一気に突き刺さる。胃がちょっと縮む。後ろの席のやつが、小さく「転入生か」と声を漏らした。聞こえている。こっちは耳がいい。
「真瀬結人です。えっと、本土から引っ越してきました。まだこっちのことに慣れてなくて、分からないことだらけです。よろしくお願いします」
深くお辞儀をする。教室がわっと小さく沸いた。最後尾の窓側の席を指されて、俺はそこへ向かう。すれ違いざま一人の女子と目が合った。前髪を横に流した明るい顔の子だ。口元だけで「よろしく」と言われた気がした。
席に座って、バッグを机の横に下ろす。九衣がもぞと動いた。こいつ、絶対くつろいでる。
## ◇
一時間目のチャイムが鳴って、教科書を開く。島の学校は編入者に合わせた補助のカリキュラムがあるらしい。先生が「真瀬君、分からないことがあれば近くの席に聞いてね」と言った。近くの席。隣は、空いていた。いや一限目が始まってすぐ、遅れて一人男子が滑り込んでくる。
「遅刻したか。危なかった」
小さい声で、そう言って座る。短い黒髪に浅黒い肌。シャツの袖をまくっていて、クーラーバッグからペットボトルを取り出した。俺へ目を向けて、軽く会釈する。
「真瀬君、よろしく」
「よろしく」
声は低めで、やけに落ち着いていた。麻尾達臣。あとで優菜が「家庭教師みたいな副部長」と紹介する、例の男である。
## ◇
二時間目と三時間目の間の休み時間、例の女子が声をかけてきた。
「ねえ、真瀬君。南星に来たばかりで部活決まってないでしょ?」
明るくて、間近で見ると目が大きい。前髪の奥の瞳が好奇心で光っている。彼女は瑞生優菜という。同じクラスで、この春から「ちょっと変な部活」を始めたそうだ。
「変な部活?」
「失礼。島の文化にまっすぐな部活だよ」
「部活名からしてすごい気になる」
横から、さっき遅れてきた麻尾が補足する。
「不可思議事件研究会。この島の伝承や、都市伝説、あと実際に起きた失踪事件の記録を調べてる。部としては結構まともだ。部長がたまにすっ飛ばすだけで」
「ちょっと、副部長。すっ飛ばすって何」
「すっ飛ばすって言っただろう」
「言ったの、いま」
優菜がぷく、と頬を膨らませる。俺は少し笑った。二人の掛け合いが、妙に完成されている。こういうクラスに新しい人間が入るのは簡単じゃないけど、向こうから声をかけてくれるのは助かった。いや、助かったでは済まない気はする。
「真瀬君、今日の放課後良かったら部室に来ない?」
「いきなり勧誘か」
「勧誘です」
「面白い部活だと思うよ。幽霊の一体や二体、すぐ見つかる」
「いや、幽霊はダウトだろ」
俺のカバンの中で、九衣が身じろぎした。お前じゃない。お前は違う。たぶん。
「怪談は好きか?」
麻尾が、こちらを見ていた。黒い目が静かで笑ってるのに奥を探られている気配がする。
「どっちかって言うと、機械を触る方が得意だけど」
「ふうん。この島は、古いものと新しいものがごっちゃになってる。得意なことがあると、調べ物に役立つ」
「なに、麻尾は私の部活を売り込んでくれてんの」
「部費のため」
「結局それかよ」
笑いながら、優菜が俺の机にプリントを置いた。活動日と部室の場所が書いてある。「強制はしないから、来たくなかったら来なくていいよ」とそこで初めて少し声を低くした。
放課後まで、あと四時間ある。俺は窓の外を見た。青い空に薄い雲が出ている。海がきらきら光っていた。
そのとき、窓に人が映った。
廊下を通る生徒の影。一瞬だ。誰かの後ろ姿が、一歩遅れて、ガラスの中を滑っていくように見えた。気のせいだ。そう思う。でも、バッグの九衣が小さく鳴った。
「……今の」
俺にしか聞こえない声だった。
「あとで話す。いいな」
とだけ、九衣は言って黙った。
教室の空気は、どんどん明るくなる。休み時間のざわめきに、遠くの船の汽笛が混ざってどこか夢みたいな騒がしさが続いていた。
ホームルームが終わると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子を動かす音。教科書を放り出す音。窓を全開にする音。潮風が一気に流れ込んできて、黒板の上の掲示物がぺらりとめくれた。沖縄の教室は風が通り抜ける。本土の学校とは空気の密度が違う。湿気が濃いのに、風があるから不快じゃない。不思議なバランスだ。
(慣れないと聞いてたけど、これくらいなら大丈夫か? いや、まだ何も始まってない。ホームルームが終わっただけだ)
席に座ったまま周囲を観察していると、机の横に影が落ちた。
「真瀬君、でしたよね」
顔を上げると、さっき自己紹介の時に口元で「よろしく」と言ってくれた女子が立っていた。前髪を左へ流した明るい顔立ち。机の上に肘をついて、少し首を傾げている。好奇心と親しみが半々くらいの表情だ。
「うん、そう。真瀬結人」
「瑞生優菜。同じクラス。見覚えあるでしょ」
「さっき挨拶してくれた人だろ。覚えてるよ」
「正解。ちなみに席はあっち。窓側、前から三番目」
優菜が自分の席を指差した。俺の席から斜め前方。なるほど、ホームルーム中も時々こっちを向いていたのはそういうことか。
「沖縄来てどのくらい?」
「昨日の夜着いた。フェリーで」
「フェリー!船酔いしなかった?」
「した。ガッツリ」
「あはは、嘘みたい。顔色全然悪くないよ」
「今はマシなだけ。夜中に三回吐きかけた」
「三回!」
優菜が目を丸くした。大きな目だ。驚くとさらに大きくなる。楽しそうに笑う口元は、同情してるのか面白がってるのか微妙なところだ。
「寮の食事はもう食べた?」
「まだ。昨夜はポーク玉子おにぎり三個で済ませた」
「三個。また随分」
「安くて美味いんだよ。あの自販機の」
「あれね、港の。知ってる。私も小さい頃よく食べた。お母さんに怒られたけど」
優菜は話しやすかった。質問が自然で、答えを急かさない。転校生に対して距離を詰めすぎず、かといって放置もしない。人と接するのが上手い人間の話し方だ。
(いい人そうだな。いや、いい人すぎて逆に警戒したくなるタイプでもある。前の学校でもそういう奴いた。明るい人間の裏側は……いや、やめよう。人を勝手に疑うのはよくない)
バッグの中で九衣が微かに動いた。俺の耳だけに届く小さな声。
「優しい子だね。でも、目が観察してる」
(お前もかよ。ぬいぐるみのくせに人を見る目があるのか)
「ネズミ君、人の性格より、まず部屋の番号を聞いておけ。後で立ち入り検査する」
(しないよ。立ち入り検査って何だよ)
口元だけで返しながら、優菜の話を聞く。
「真瀬君、沖縄のこと何か分からないことあったら聞いてね。私、この島で生まれてずっとここだから」
「ありがとう。助かる。まだ何も分からなくて」
「本島から来た人は、最初はみんなそう言うよ。でも一ヶ月したら『もう帰りたくない』って言うようになるの。不思議でしょ」
「不思議、か」
その言葉が出た瞬間、優菜の目が少しだけ変わった。明るさの奥に、別の色が見えた気がした。探る色。試す色。
「真瀬君って、そういうの興味ある? 不思議なこととか、説明がつかないこととか」
(来た。勧誘だ。まだ一時間目も始まってないのに)
「どうだろ。説明がつかないことより、説明がつくことの方が好きだけど。でも、分からないものを分からないままにするのは嫌いかな」
「じゃあ、放課後時間ある?」
優菜の声が一段弾んだ。身を乗り出す。机の縁に両手をついて、にじり寄る。
「うちの部活、見に来ない? 文化系だから怖くないよ。たぶん」
「たぶんって何だよ」
「あはは、副部長が怖い顔してるから」
「副部長が怖いの」
「怖いっていうか、真面目。すっごい真面目。校則を暗記してるレベル」
「それは怖いな」
笑いながら答えた。その時、横から声が割り込んできた。
「瑞生、しつこい」
低い声だった。落ち着いた、少し乾いた声。振り向くと、さっき遅れて入ってきた男子が立っていた。麻尾達臣。短い黒髪に浅黒い肌。袖をまくった腕を組んで、壁にもたれかかっている。
「しつこいって何。挨拶してただけでしょ」
「挨拶が三分前から部活の勧誘に変わってる。転校生の初日くらい放っておけ」
「放ってないよ。案内してるだけ」
「案内と勧誘は違うだろう」
達臣の口調は穏やかだった。怒っているわけではない。ただ、線を引いている。優菜のテンションを一つ下げる温度の声で、会話の流れをゆるやかに変える。
「麻尾達臣。同じクラス。よろしく、真瀬」
「真瀬結人。よろしく」
達臣が手を差し出した。握る。握り返す。掌が乾いている。日焼けした手だ。指先に微かなタコがある。ペンを持つタロじゃない。道具を握るタコだ。
(工作系か。いや、何か別の……)
「本土から来たんだよな。こっちに住むのは初めて?」
「ああ。親の都合で。最初から最後まで俺一人だけど」
「一人で沖縄に? 大変だな」
「まあ、慣れるしかないし」
達臣は俺の顔を見ながら頷いた。視線が動かない。目が合ったまま離れない。普通の挨拶なら一秒で視線を外す。でもこいつは外さない。観察している。
(何を見てるんだ。俺の顔に何かついてるのか。それとも……)
「麻尾、そんなに睨んじゃダメ。真瀬君が怯えてる」
優菜が達臣の腕を軽く叩いた。達臣はようやく視線を外して、「睨んでない」と短く返した。
「部活の話、してただけだよ。真瀬君に興味あるかもしれないって」
「興味? 何の?」
「不可思議、なこと」
達臣の目が一瞬細くなった。本当に一瞬だ。瞬きよりも短い。だが確かに反応した。不可思議。その言葉に対して。
「不可思議って、具体的に何を調べてるんだ」
俺が聞くと、達臣は少し間を置いた。優菜が先に答えようとしたのを、手で制してから口を開いた。
「島に伝わる古い言い伝え。 disappearance events。あと、ここ数年で増えてる立入禁止区域の記録。表向きは民俗調査だ」
「表向きってことは、裏があるのか」
「裏はない。ただ、調べてる内容が普通の文化系部活にしては地味じゃないかって、生徒会に言われてる。だから説明は控えめにしてる」
達臣の言い方は丁寧だった。丁寧だが、一枚壁がある。話している内容は正直でも、その奥にある意図を明かしていない。親切と警戒が混ざった話し方。
(こいつ、俺を試してる。会話の流れで俺が何に反応するか見てる)
「面白そうだな。放課後、覗いてみてもいいか」
「好きにすればいい。ただし、瑞生のテンションに巻き込まれても責任は持てない」
「責任持てないって何。私と部活の何を心配してんの」
「部費の使い道と、夜の海岸の立ち入り禁止」
「あれは調査だったの」
「調査とは言わないだろ、夜中に懐中電灯持って防波堤を歩くのは」
達臣が呆れたように息を吐いた。優菜がむくれる。二人の距離感は出来上がっている。長い付き合いだ。そういう空気が会話の端々から漏れている。
(いいコンビだな。優菜が突っ込みタイプで、達臣がブレーキ。バランス取れてる)
「じゃあ、放課後。部室の場所、教えてくれる?」
優菜がプリントを取り出した。活動日と部室の場所が書いてある。特別棟の一階。旧工芸科室の隣。
「五時までには来てね。麻尾が鍵開けてるから」
「分かった。ありがとう」
優菜が笑って自分の席へ戻った。達臣はもう一秒だけ俺を見てから、壁から背を離れて自分の席へ向かう。その背中を見送っていると、バッグの中の九衣が小さく呟いた。
「不可思議。あの子、その言葉に反応してたよ。麻尾って子」
(達臣が? 反応してた?)
「目が一瞬だけ細くなった。見逃さなかった? 私は見た」
(……見すぎだろお前)
「見すぎじゃない。配信者は細部を見る商売だよ。それに、君も同じだったよね。さっきの自己紹介の時。不可思議って言葉、君も一瞬止まった」
俺は答えなかった。確かに止まった。一瞬だけ。不可思議。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがピクリと動いたからだ。ドライバーの残り香か、卵の余韻か。理由は分からない。だが確かに反応した。
九衣が続けた。
「ネットの噂だと、沖縄の離島には古くから不可思議と呼ばれる怪異がいる。記録では、ね。実際に何が起きてるかは私にも断定できない。でも、この島でその言葉を日常的に使う高校生がいるってことは、それだけ日常に根付いてるってことだよ」
(日常に根付いた怪異か。どこかの配信者が言うには、この島の地下に異界があって、仮面の集団が来て、それが終わった。でも終わった場所から信号は出てる。九衣自身がそう言った)
「おい、ネズミ君。授業始まるよ。ぼーっとしてないで教科書出しな」
九衣の声で現実に戻った。チャイムが鳴っている。一時間目。現代文。教科書を開く。先生が入ってくる。教室のざわめきが収まっていく。
窓の外で船の汽笛が鳴った。遠い。港の方だ。教室の窓ガラスが微かに振動した。その振動の中で、一瞬だけ、窓に映った廊下の影が、本物の廊下より一拍遅れて動いた気がした。
誰も気づいていない。俺だけが見た。いや、俺と、カバンの中の九衣だけが。
「……今の」
九衣の声が小さくなった。
「あとで話す」
俺は黒板を見た。先生がチョークで文字を書いている。白い文字が黒い板に刻まれていく。普通の教室。普通の授業。普通の高校生活。
でも、窓の外の海は、昨日の夜よりも少しだけ暗く見えた。
一時間目が終わると同時に教室が爆発したみたいに騒がしくなった。
チャイムの余韻も消えないうちに席を立つ奴、スマホを取り出す奴、窓際で風に当たりながらお菓子を齧る奴。潮風が窓からドバドバ入ってきて教室中のプリントをめくっていく。俺は慌てて机の上を押さえた。これ沖縄あるあるなのか。
「真瀬君、お昼どうする?」
また瑞生優菜だ。さっきの休み時間といい今といい、転校生の俺に構うのが日課みたいなテンションだ。隣には麻尾達臣が腕組みして立っている。こっちは無表情だが、まあ悪い奴じゃなさそうだ。
「購買行こうかと思ってます」
「あそこ混むよ? 特にパン売り場」
「じゃあ諦めておにぎりにします」
「賢明な判断だ」達臣が頷いた。「購買のカツパンは売り切れると戦場になる」
「戦場って……麻尾先生そこまで言わなくても」
「事実だろ」
三人で廊下へ出た。廊下も人が多い。日差しが強いせいか生徒の動きもどこかノロノロしている気がする。湿気が肌に張り付く。
「ねえ真瀬君さ」優菜が歩きながら聞いてくる。「この島で変なことあった? 噂でも何でも」
「変なこと?」
「ほら夜変な音がするとか知らん人に挨拶されるとか」
(来た。勧誘の続きか)
カバンの中で九衣がもぞもぞ動いた。
「ネズミ君変なことあるよ私がいるよ」
(黙れお前は変なことそのものだ)
「……別に何もありませんね。引っ越したばっかだし」
「そっか。じゃあ今日は大丈夫か」
優菜は笑って先頭を歩く。達臣が一歩遅れて俺の隣に来た。
「瑞生はああ見えて面倒見がいいんだ」達臣が小声で言った。「転校生を放っておけないタチらしい」
「ああそうなんすか」
「ただあいつの『面倒見』には時々オカルトが混ざるから注意しろ」
「オカルト?」
「この島には昔から言い伝えが多い。あいつはそれを調べるのが趣味でな。部活もそれだ」
達臣はそこまで言うと口を閉じた。また観察するような目でこっちを見ている。
購買はやっぱり混んでいた。俺は諦めて自販機でポーク玉子おにぎりを二つ買った。一つは九衣用だ。裏手の階段の踊り場でこっそりカバンの口を開ける。
「はいよポーク玉子」
「待ってました配信者にとって食事は燃料ですからね」
九衣が小さな前脚で器用におにぎりを抱えてかじりついた。もぐもぐと咀嚼する音が聞こえる。普通に美味そうだ。
「でネズミ君」九衣が口の周りにご飯粒をつけたまま言った。「この学校も一応チェックしたけど変な信号が出てる場所があるよ」
「信号?」
「うん。南棟の三階あたり。古い音楽室があるだろ。あそこから微弱だけど異界と同じ周期の波が出てる」
「マジかよ」
「ネットの噂だとさ音楽室には出られないピアノがあるらしい」
「出られないピアノって何だよ怖すぎだろ」
「誰も弾いてないのに音がするって噂だよ。まあそれだけじゃ何とも言えないけどね」
九衣はそう言ってまたおにぎりをかじった。断定しない。情報提供者としてのスタンスを守っているらしい。
午後の授業は眠かった。教室の温度が上がって目がしょぼしょぼする。歴史の先生が淡々と沖縄の歴史を語っている声がBGMみたいだ。
ふと窓を見た。
廊下側の窓ガラスに人が映っている。向こうを歩く生徒の影だ。二組の女子が歩いていく。影がガラス越しに揺れる。
(あれ?)
俺は目を細めた。
女子二人の影がガラスの中を滑っていく。でも本物の女子はもう角を曲がって見えなくなっているのに影だけが一瞬遅れて角へ消えていった。
(遅れてる? 影だけ)
心臓がドクンと跳ねた。
何だ今の。現象か? 勘違いか?
俺は思わず廊下側を見た。誰もいない。影も消えている。
(気のせいか……)
そう思って前を向くと達臣と目が合った。達臣は俺が廊下の方を見ていたことに気づいていたらしい。無表情のままじっとこちらを見ている。何も言わない。ただ見ているだけだ。
(見られてる……)
背中が少し痒くなった。
放課後チャイムが鳴ると同時に教室中が動き出した。
「真瀬君行こう!」
優菜が俺の手首を掴んだ。
「えちょっと」
「部活見学! 麻尾鍵頼んだ!」
「ああ」達臣は鞄から鍵を取り出した。「行くぞ」
三人で特別棟へ向かう。渡り廊下を抜けると空気が変わった。本棟より古い建物だ。壁がコンクリート剥き出しで配管がむき出しになっているところがある。
「ここ旧校舎だからちょっと古いけど」優菜が説明する。「でもその分静かで集中できるの」
(集中って何に)
鍵を開ける达臣の手つきは慣れていた。「不可思議事件研究会」の手書きのプレートがかかった扉。
カチャリ。
鍵が回る音がやけに大きく響いた。
「お待ちどうさま」優菜が扉を開けた。
古い本の匂いと埃っぽい空気が流れ出してくる。
俺はその空気を吸い込みながら一歩踏み出した。