PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
部室の扉を開くと、古い紙と埃の匂いが鼻腔へ沁みた。壁一面に貼られた新聞の切り抜き、色褪せた郷土史のコピー、走り書きのメモ。床にはダンボールが積み上がり、天井からは作りかけの提灯型の照明器具が吊られている。
「どうぞ入って。埃っぽいけどごめんね」
優菜が先に入って蛍光灯を点ける。パチンと音がして薄暗い部屋に白い光が満ちる。机は古い木製で八人がかりでも狭そうだった。すでに棚に山積みされた資料のタイトルをざっと眺める。「南星諸島伝説集成」「琉球異境考」「昭和期船舶事故記録」。
「まさか全部調べてるのか」
「うん。時間はかかるけど捨てられなくて」
「捨てる勇気も大切だと思うが」
達臣が苦笑して棚の隅を指さす。
「これは最新の調査報告。先週、東海岸の洞窟内で奇妙な壁画を見つけたらしい。まだ掘り下げきれてない」
「壁画?」
「正確には絵かどうか分からない。幾何学模様と人型が混ざってて、なんか…言葉にするのは難しいんだけど、“外”を感じさせるんだ」
外。抽象的すぎる。だが語る優菜の目が熱を持って輝いている。真剣だ。達臣はそんな優菜を横目で見つつ、「信じたい気持ちも分かるけど客観的なデータを集めないとな」と付け加える。
(この二人でちょうどバランス取れてる感じだな)
俺は何気なく窓辺へ寄る。窓枠にはホコリが溜まっているが掃除しようとする優菜の筆跡と思しきメモがあった。「月曜日に窓拭き」。几帳面な字だ。その下に別の走り書き。「西浜隧道 深夜0時 影が2つ」。これは達臣だろうか。細かい点線で修正の跡がある。
「この“影が2つ”ってどういう意味だ?」
「ああ、それね」優菜が頷く。「西浜隧道っていう廃道があるんだけど、夜中に車で通ると助手席に人影が見えるって噂。もちろん運転手ひとりしか乗っていないのに」
「へぇ…それで影が2つ?」
「そう。バックミラーにも映ってるらしい」
「ダブルミラーか…怖いな」
「でしょ!」
優菜は身を乗り出した。勢いがあり過ぎて椅子ごと転びそうになる。咄嗟に達臣が肩を支えた。
「落ち着け瑞生。転入生を圧迫するな」
「だって面白い話なの!」
「面白い話はゆっくり噛み締めないと旨味が出ないだろう」
達臣は言いながらファイルケースを引き寄せる。革張りの表紙には金箔で〈MISHIMI〉とある。“水深?”いや“不明案件”か?
「実は最近増えているんだ。港町を中心に“船影なしの汽笛”“甲板もない貨物船の幻” “海底に沈んだはずの軍艦が魚群探知機に映る”。これらを集めてみると一つの共通点が浮かんでくる」
「共通点?」
「潮が満ちる時刻、つまり満潮前後に発生しているということだ」
達臣はボードに磁石で固定されたカレンダーを指す。×印が規則正しく並んでいる。皆既満潮の日の列はほとんど塗り潰されていた。
「次の満潮は明日の早朝5時43分。もし良ければ現場に同行してもらえないか」
いきなり現場同行。唐突な申し出に戸惑う。
「俺でいいのか? 別に海洋知識があるわけじゃないぞ」
「人手不足なんだよ」優菜が両手を合わせる。「朝6時はキツいけど美味しい海の幸買ってあげるから!」
「餌付けか」達臣は溜息をつきながらも否定はしない。「観察眼があれば十分助かる」
(観察眼と言われれば悪い気はしないけど…朝6時? 昨夜フェリーで酔ったばかりだぞ)
逡巡しているとポケットが震えた。スマホだ。メッセージ通知──送り主は沖縄に来る途中知り合った旅客船のスタッフからだった。「昨夜はありがとうございました。おかげで海神祭が中止になりました」。件のトラブルを思い出す。窓の外で遠雷のような汽笛が轟いた。時刻はまだ夕方四時前だ。
「また汽笛だ…」優菜が眉を顰める。「おかしいね。船の出入港予定は17時半のはずなのに」
「風の反射だろうか?」と達臣。
確かに湾岸付近では音が屈折することがある。それでも不吉な胸騒ぎが残った。まるで遠い未来が今この瞬間に重なる錯覚。
「満潮関係なく、色々起きてるんじゃないか?」思わず口に出してしまう。
優菜が振り返りぱっと目を輝かせた。
「そう! だから私たち頑張ってるの!」
彼女の背後で陽射しが窓枠を作り影を伸ばす。部室の空気が急に乾燥したように感じられた。資料のページを捲るたび埃が舞い上がる。蛍光灯がチカリと明滅した瞬間、ふと背筋が凍る。
部屋の隅。棚の陰。誰もいないはずの空間に小さな“白い染み”が浮かんでいた。それは蒸気か砂塵か判別不可能。凝視した瞬間霧散したけれど――確かに“いた”。
(見間違い? いや――)
俺は拳を握る。フェリーで味わった異様な寒気と同質の感覚が蘇る。
「ねぇ」優菜が声を低めた。「何か感じる?」
「……さぁな」濁して返す。「でも面白い話が増えた」
「それはよかった!」彼女は素直に微笑む。
その笑顔に救われるものがあった。恐怖心より好奇心が勝つタイプの笑顔だ。達臣は口元を引き結んでいるが目が僅かに和らいでいる。たぶん俺を受け入れてくれている。
ガラン――部室の扉がノックもなく開いた。
「ごめんなさい……相談があるんです」
入ってきたのは同級生の女生徒。細い身体を抱くように腕を組み、唇を噛んでいる。優菜がすぐに手を引いた。
「いらっしゃい。ここへお掛け――」
達臣は黙って椅子を引く。女生徒は深呼吸をして俯きながら切り出した。
女生徒は、勧められた椅子の端に浅く腰を下ろした。膝の上で組んだ指が白くなるまで握りしめているのが、ここからでも見て取れた。
「えっと、その、大したことじゃないんですけど」
彼女は無理に笑おうとした。口角だけが吊り上がり、目には不安の色が張り付いている。作り物の笑顔だ。優菜は机の上のクッキングペーパーを片付けながら、柔らかく首を振った。
「そんなことないよ。何でも聞いて」
遮らない。急かさない。優菜のその姿勢が、女生徒の閉ざした口を少しずつこじ開けていく。
「友達のことなんです。あの子、夕方の連絡船に乗ってから、ちょっと変わっちゃって」
「連絡船? どこの?」
達臣が、手元のノートにペンを走らせながら短く訊いた。女生徒は「北東の離島です」と答え、言葉を選ぶように視線を彷徨わせる。
「変わったって、どういう風に?」
優菜が問う。女生徒は握りしめた指をさらに強く組んだ。
「ずっと、笑ってるんです。何を聞かれても、ずっと笑顔で……でも、返事が遅いっていうか、呼びかけてもすぐに返ってこないんです。乗ってた船のこと聞いても、『楽しかった』って笑うだけで、どんな景色を見たかも覚えてないみたいで」
部室の空気が、少しだけ重くなった。窓の外で遠くの船の汽笛が鳴る。低い音がガラスを微かに震わせ、潮風が隙間から滑り込んで埃を舞わせた。
「それから……」女生徒の声が震えた。「あの子、時々変なこと言うんです。『海の向こうから呼ばれてる』って」
海の向こう。その言葉が胸の奥に冷たい石のように沈んだ。
「船の中で、変なことってなかった?」
俺は思わず聞いていた。声が少し掠れた。女生徒がこちらを見る。達臣のペンが一瞬止まった。
「それが……」女生徒は躊躇うように唇を噛んだ。「私も一緒に乗ってたんです。その時、あの子が言ってて。船室の壁が、波打って見えたって」
壁が、波打った。
背筋に冷たいものが這い上がった。フェリーの船内。硬いはずの鋼鉄の床が、泥のように蠢いたあの感触。内臓が裏返るような浮遊感と、鼻腔を満たした生臭い異臭。記憶の底で蓋をしていたものが、蓋を押し上げて溢れ出す。
「……それ、本当か?」
俺の声が、自分の思った以上に硬質に響いた。女生徒は驚いたように目を見開き、小さく頷いた。
「でも、他の乗客は誰も気づいてなくて。私だけに見えたのかなって……気のせいかとも思ったんです。でも、あの子の様子がおかしいから」
カバンの中で、九衣が小さく動いた。
「ネズミ君、これネットの噂と似てるよ。夜の船に乗ると異界へ引きずり込まれるって話。記録じゃ、船ごと消失したケースもある」
(黙ってろ。今は聞くな)
心の中で返しながら、俺は拳を握る。爪が掌に食い込む痛みで、浮き上がりそうな意識を繋ぎ止める。
「真瀬君?」
優菜が不思議そうに俺を見た。俺は咳払いをして誤魔化す。
「いや、壁が波打つって、すごい揺れだったんだなと思って」
「揺れっていうか……水みたいに、ゆらゆらって」女生徒は手で波形を描いた。
達臣がゆっくりと顔を上げた。黒い瞳が、質量を持った光のように俺を射抜く。
「真瀬、お前も船で何かあったのか?」
静かな声だった。だが、その底には揺るぎない疑念が沈んでいる。こいつは気づいている。俺がただの転校生じゃないと。壁が波打つ現象に、俺が過剰に反応したことを。
「いや、俺はただの船酔いだよ。ひどくて」
嘘をついた。達臣の視線は外れない。数秒の沈黙。部室の時計の針が進む音だけがやけに大きく響く。やがて達臣は「そうか」とだけ言い、再びノートへ視線を落とした。だが、ペン先は止まったままだ。俺の反応を咀嚼し、記録しているのは俺の言葉ではなく、俺そのものだ。
「それで、もう一つだけ」
女生徒が言い淀む。空気が湿り気を帯びたように感じた。
「あの子から、変な匂いがするんです」
「匂い?」優菜が眉を寄せる。「どんな?」
「潮と、鉄錆と……腐った果物みたいな、甘くて酸っぱい匂いが混ざったような。すぐ近くにいると、鼻につくんです」
その瞬間、喉の奥に鉄の味が蘇った。フェリーのあの夜。異界の入り口で肺を満たした、吐き気を催すような腐敗臭。間違いない。あいつの友人は、俺たちが遭ったのと同じ場所へ足を踏み入れている。
俺が息を呑んだ音を、達臣が聞き逃さなかったはずだ。横目で達臣を見る。彼は無表情のまま、ノートの余白に何かを書き込んでいた。『腐敗臭』。俺がその匂いを知っていること、そして俺がそれに怯えていることを、こいつは見逃さない。
「分かった。ありがとう」優菜が、女生徒の震える手にそっと触れた。「すぐに調べてみるね」
「本当ですか? 大したことじゃないって言われそうだったから……」
「大したことだよ。友達がおかしくなってるんでしょ? 放っておけないよ」
優菜の言葉に、女生徒の目から力が抜けた。「ありがとうございます」と、今度は心からの笑顔が浮かんだ。
「日時と航路、詳細を教えてくれる?」達臣がノートを見せながら言った。「その友達が最後に乗った連絡船と、目的地の島を特定する。そこから当たってみる」
「はい、これです」女生徒がスマホの画面を表示した。達臣がそれを写真に撮る。
「真瀬君、手伝ってくれるよね?」
優菜が明るく言った。問いかけではなく、確認だ。もう逃げられない。
「ああ。調べ物ならやるよ」
俺が答えると、達臣がノートを閉じた。カチリという音が、何かの始まりを告げる合図のように響いた。
匂いの話を聞いた瞬間、記憶の蓋が勝手に開いた。
黒く濁った海。呼吸するように膨らみと縮みを繰り返す船壁。黒い泥の底から伸び上がる触手。乗客の悲鳴が水の膜に吸い込まれて消えていく。あの夜、俺がフェリーで見たもの。喉の奥で錆びた味が広がる。無意識に胸元へ手を当てていた。ドライバーの感触はない。もう変身は解いている。それでも、心臓の裏側に残った焦げ跡みたいな痛みが疼く。
「その匂い……甘い感じ、ありましたか。腐った果物のもっと奥に、蜜みたいな甘さが混ざってるような」
自分の声が、少し掠れていた。相談者の女子生徒ははっとしたように顔を上げた。
「はい。それです。潮と鉄の匂いなのに、どこか甘くて。あの子の肩に顔を近づけた時、鼻の奥がツンとして……あ、そういえば」
女生徒は制服の袖を握った。
「耳鳴りみたいなものも。あの子のそばにいると、キーンって高い音がずっと聞こえるんです。私だけに。他の子は気づいてなくて」
キーンという高い音。俺の背中を冷たいものが流れ落ちた。あの船内で、異界へ近づくたびに聞こえていたあの音と同じだ。耳の奥で金属質な共鳴が響き、視界の端が歪み世界の輪郭が薄くなる。あの感覚。
「真瀬君」
達臣の声だった。振り向くと彼はノートから顔を上げ、ペンを置いていた。黒い瞳が静かに俺を捉えている。その目には、さっきまでの穏やかな観察とは違う質の光があった。確信に近い何か。
「随分詳しいな。匂いの組成も、耳鳴りのことも」
「……昔、似たような体験をしたことがあるだけだ」
「へえ」
達臣はそれ以上追及しなかった。だがノートの余白に小さく何かを書き足す音が聞こえた。『体験者』。文字は見えない。でも、そう書いたに違いない。この男は俺がただの転入生ではないと、確信を深めたはずだ。
(まずいな。でも、今は隠し切れない。この匂いと耳鳴りの情報は、相談者の友達を助けるために必要だ)
「真瀬君、それ」
優菜が、俺の胸元へ視線を落としていた。無意識に押さえていた手の位置。心臓の真上。制服の布越しに、ドライバーを装着していた場所。
「なんでもない」
俺は手を下ろした。優菜は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに相談者の方へ向き直った。彼女の中の優先順位が切り替わる音が、目に見えるようだった。好奇心より今は目の前の相談者だ。
「ねえ、その友達のこともっと詳しく教えて」
優菜の声は、さっきまでの明るい部活動勧誘のトーンとはまるで違っていた。低く、真剣でまっすぐ相手を見ている。部長の顔だ。相談者はその変化に少しだけ緊張を緩めたように、深く息を吐いた。
「あの子、来週また島へ戻るって言ってるんです。親戚がいるからって。でも、その連絡船にまた乗るって聞いて私、怖くなって」
「乗せちゃダメだ」俺は言った。「その船には乗らない方がいい」
「真瀬君」達臣が遮った。声は静かだが、棘がある。「根拠は」
「……勘だ」
「勘で人の行動を縛るのは危険だ。特に、君はこの島のことを何も知らない」
正論だった。ぐうの音も出ない。達臣は俺を睨んでいるわけではない。ただ、線を引いている。根拠のない警告で相談者を混乱させるなという、記録係としてのあるいは調査員としての線だ。
だが、俺のカバンの中で九衣が小さく動いた。人前では出せない。だから、声だけが俺の耳に届く。
「ネズミ君、無理もないよ。でもこの子の前でこれ以上踏み込むと、達臣に正体を疑われる。今は引いて。調べるのは私と君の仕事だ」
(分かってる)
俺は拳を解いた。
「……すみません。言い過ぎました」
「いえ」相談者が小さく首を振った。「心配してくれてるのは分かります。ありがとうございます」
優菜が机の上を片付けて一枚の地図を広げた。南星諸島の周辺図だ。島々が青い海に浮かび、航路が点線で結ばれている。彼女は赤いペンを手に取り、地図の北東に位置する小さな島へ印をつけた。
「ここ。友達が向かった島。北東の離島、月ヶ瀬島」
「月ヶ瀬」達臣が復唱した。「人口は三百人程度。定期船は一日二便。夕方便は十七時発の最終」
「なんでそんなこと知ってるの」
「記録係だからな」
達臣は当然のように言った。優菜は呆れたように息を吐いたが、その目は信頼している色をしていた。
「よし。これで調査開始」優菜はペンを置き、相談者へ笑いかけた。「友達のこと、私たちが調べる。安心して。絶対になんとかするから」
「ありがとう……本当に、ありがとう」
相談者が深く頭を下げた。その肩が、さっきより少しだけ下がっている。緊張が解けた証拠だ。
「連絡先、交換しよう」優菜がスマホを取り出した。「何かあったらすぐに教えて。あと、友達が月ヶ瀬島へ行く日が決まったらそれも」
「うん」
二人がスマホを向かい合わせる。ピコンという軽い音が部室に響いた。その音を聞きながら、俺は地図の上の赤い印を見つめていた。月ヶ瀬島。フェリーの航路からは外れた、小さな島。だがあの夜の異界は、海の上に出現した。海と島は繋がっている。なら、あの島にも何かがある。
(また、始まるのか)
胸の奥で、ドライバーの残響のような疼きが脈打った。恐怖ではない。もっと別の、抗い難い引力に近い感覚。困っている人がいて、目の前に手がかりがあってそれを放っておけない自分がいる。
「真瀬君も、ありがとう」
相談者が帰り際俺にもう一度頭を下げた。俺は「気をつけて帰れよ」とだけ返した。女生徒が部室を出ていくと、優菜が椅子に座り直し両手を後ろで組んで天井を見上げた。
「さて、と」
「さて、と、じゃない」達臣がファイルを閉じる。「本格的に動くなら、まず情報の裏取りだ。月ヶ瀬島の過去の記録、連絡船の運航履歴あと――」
「あと?」
「その友達が乗った便の乗客名簿。個人情報だから簡単には取れないが、方法はある」
「方法って?」
達臣は答えずただ「ある」と言った。その言い方には、彼が普通の高校生ではない何かが滲んでいた。優菜も気づいているのか、深く追及しない。二人の間にはそういう暗黙の領域があるらしい。俺はその輪の中へ、今日入ったばかりだ。
窓の外で、また汽笛が鳴った。今度はさっきより近い。港へ向かう船だろう。夕方の便だ。その音を聞きながら、俺は鞄の中の九衣へ小声で訊いた。
(月ヶ瀬島、何か知ってるか)
「ネットの噂レベルだけど」九衣の声が、少しだけ硬さを帯びた。「月ヶ瀬島の北側に、昔から『声の聞こえる洞窟』があるって書き込みがいくつかある。地元の人は近づかないって。あと、沖縄ジェイル事件の時島の周辺で異界の反応が観測されたって記録も、どこかの掲示板に転がってた。でもソースは不明。信憑性は保証できない」
(十分だ)
九衣は断定しない。いつもそうだ。記録では、噂だと、ソースは不明だと。でもその断片が繋がるとき、確かな輪郭が浮かぶ。今回もそうなる予感がした。
「真瀬君」
優菜が振り返った。夕日が窓から差し込み彼女の横顔を橙色に染めている。その目は、好奇心と決意が混ざった色をしていた。
「本入部、まだ決めてないよね?」
「……ああ」
「今の話、聞いてもらったでしょ。うちの部活こういう相談も受けてるんだ。だから」
彼女は一歩近づいた。影が伸びる。部室の埃が夕日に照らされて、金色の粒のように舞っている。
「あなたの力が必要。さっきの、匂いと耳鳴りのこと。知ってる人間がこの島にどれだけいると思う?」
達臣が後ろでファイルを閉じる音がした。パタン、という乾いた音が俺の返事を待つ沈黙を際立たせる。
俺は窓の外を見た。海が夕日に染まり水平線が燃えている。その向こうに、月ヶ瀬島がある。小さな島。だがあの夜の異界と繋がっているかもしれない島。放っておけない。それは、俺の性分だ。前の学校で失敗したとしても。誰かの問題を勝手に解決してしまうとしても。
それでも、動かずにはいられない。
「入部届、あるか」
優菜の顔が、ぱっと輝いた。
「ある!」
彼女はダンボールの山から一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。達臣が黙ってペンを差し出す。インクの色は黒。新品ではない。使い込まれたペンだ。
俺はそれを受け取り氏名欄に「真瀬結人」と書いた。文字が紙に吸い込まれていく。これで、俺はこの部活の一員になった。島の不可思議へ、正面から関わることになる。
達臣が書類を受け取り、ファイルへ綴じる。その動作は正確で無駄がなかった。
「ようこそ」達臣は言った。「これでお前も、戻れなくなる」
「最初から戻るつもりはないよ」
俺の返事に、達臣は微かに口元を緩めた。笑ったというより、興味を持った顔だ。優菜は「よし、じゃあ今日は歓迎会!」と叫んだが達臣が「予算がない」と即座に却下した。そのやり取りを聞きながら、俺はもう一度地図の上の月ヶ瀬島を見た。赤い印が、夕日に照らされて血のように滲んで見えた。
部室の時計が五時半を指している。もうすぐ日没だ。窓の外では、最後の汽笛が長く、低く、海の向こうへ消えていった。