PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路―   作:ボルメテウスさん

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第二航路 守神 7/7 港での校外調査

潮の匂いを孕んだ風が船着き場を行ったり来たりしている。コンクリートの護岸沿いに据えられたベンチは日に焼けて飴色だった。その縁に腰を下ろし、達臣がファイルにペンを走らせている。

 

「記録によると最終便の搭乗券発券記録は十五時四十八分。自動改札には生徒IDカードを使った痕跡あり。降りた港は東地区B埠頭だ」

 

「ちゃんと乗ってちゃんと降りてるなら問題ないじゃない」

 

優菜が唇を尖らせる。達臣は黙って地図にピンを刺した。

 

「だが乗客リストには“不可解な空白”がある。その子と同期で発券されたはずのIDカードが、二枚目の履歴として残ってない」

 

「二枚目? 他に誰かと一緒に乗ったってこと?」

 

「そう考えるのが自然だ」

 

俺は腕組みして天を仰いだ。太陽は水平線に触れそうで触れず、まだ橙の矢を地上へ刺している。

 

「肝心の同伴者が誰かわからない……か」

 

「だから“証言を探す”しかないの」優菜が人差し指を立てる。「まずは目撃者を探す。船員さんとか駐車場の管理人さんとか」

 

彼女の提案を拒否する理由はなかった。三人で埠頭から歩き出す。大型客船の排煙塔が夕焼け空を曇らせている。

 

相談者の証言が正しければ、友人は下船後まっすぐ“旧桟橋公園”方面へ向かった。その途中にあるのがハワイアンダイナー『アロハベイ』だ。看板のフラダンサーがカラフルなライトで瞬いている。

 

「ここで休憩したって話だよね?」

 

優菜が入口の鐘を鳴らす。カウベルが澄んだ音を立てた。

 

店内は暖炉型のファンヒーターが稼働しており、サンドブラウンのテーブルにはパラソル型シェードランプが揺れている。厨房では若いウェイトレスが忙しく動いていた。

 

 カウベルの余韻が床へ溶けるころには、もうあの独特の音が店いっぱいに満ちていた。ココナツとパイナップルとコーヒー豆が一度に煎られたような、南国の雨季のごとき匂いだ。壁のスピーカーから垂れ流されるギターの旋律が潮騒に紛れている。

 

「いらっしゃい、ボーイズ&ガールズ! 珍しい顔だね!」

 

カウンターの向こうに立っていたのは、小麦色の肌と眩しい笑顔のウェイトレス――いやウエイター? どちらでも構わない。とにかく派手な花柄Tシャツと腰のホヌ(カメ)チャームが印象的な若い女性だった。

 

「こんにちは! ハワイアンダイナーって、名前の通りメニュー全部ハワイなんですか?」

 

優菜が挨拶もそこそこに詰め寄る。その勢いに負けず、向こうもグッと身を乗り出してきた。

 

「うん! パパとママがオアフ島生まれでさ、わたしゃ日系人なのよ。ハワイでは“マリナ・ウルイ”って呼ばれてるけどここでは“宇涙マリナ”で通してるわけ」

 

「わっ! めちゃくちゃバイリンガル!」

 

「バイリンガルってほどじゃないよ〜日本語ばっかり喋ってるから英語忘れるわー!」

 

明るい声に釣られて優菜も破顔する。だが俺はどうしても耳がそちらへ反応してしまう。宇涙マリナ。その苗字にどこか懐かしさめいたものが滲んだのだ。

 

「あのーすいません、僕ら高校の部活動で――」

 

達臣が丁寧に帽子を脱いで一礼した。途端にマリナさんの笑顔が「ほうほう」と深くなる。

 

「リサーチ? いいよいいよ座って座って! 氷水サービスだもんね!」

 

俺たちを観葉植物の奥の二人席へ通し、彼女は銀盆にグラス三杯を載せてやってきた。

 

「はい、これお冷や。カレリアってフルーツシロップ入ってるんだ。飲み物頼む前に飲んでみて!」

 

透明な水面に薄く黄緑が溶け込んでいる。舌先に載せると柑橘の皮っぽい爽やかさが一瞬で舌のざらつきをさらっていく。

 

「おいしい!」

 

「でしょでしょ! 沖縄産シークワーサーと台湾レモン混ぜてみたの! あ、そこのお兄さんはちょっと顔色悪いから二倍注いでおいたよ」

 

そう言いながらマリナさんが俺のグラスをトントンと指で弾く。ドキリとした。こんな明るい他人の前で動揺を見せてしまった自分が恥ずかしい。

 

「で? リサーチのお題は? 異世界航海とかだったら最高に盛り上がるんだけどなぁ!」

 

彼女がワクワクしているのが見てわかる。そこへ達臣がスマホを取り出し、静かに画像をテーブルへ滑らせた。相談者から預かった“友人の卒業アルバム写真”である。

 

「この子が昨日ここで休憩しませんでしたか?」

 

「あっ! いたいた! 確か十六時頃かな。窓際のカウンターでレイと写真撮ってもらってた!」

 

写真よりも肉付きが薄い、けれど確かに面影が一致する。俺は思わず身を乗り出した。

 

「何か変な様子はありませんでしたか?」

 

「変と言えば…ずっと窓の外を見てニコニコしてたかな。海に向かって手を振ってるみたいで。あとうちのBGMに合わせて突然ハイキックしたり」

 

優菜の目が鋭くなる。「歌いながら? 体操みたいに?」

 

「うんうん。わたし思わずクラプアしちゃったよ! 運動神経いい娘だって!」

 

「食べ残しとか忘れ物とかは?」

 

「そうそう! これ持って行って!」

 

マリナさんがカウンター下から取り出したのは透明ケースに入ったシナモンティーのストローだった。先端がねじれたように捻れ、明らかに使った痕跡がある。

 

「レシート番号と名前書いてあるし…あとストロー一本残ってるだけだけど」

 

「ありがとうございます」

 

達臣がレシートとストローを袋に入れ、丁重に頭を下げた。

 

俺は息を殺しながらストローの匂いを嗅ぐ。潮と鉄錆と熟した果実――あの夜の黒泥から吹き上げた吐き気を催す芳香。微弱ながら確かに混ざっている。

 

「おいしー写真もあるよ!」

 

マリナさんがスマホを差し出した。動画データにタイムコード入りだ。再生すると背景には南風がビーチの椰子を靡かせている。画面の端で相談者の友人が陽炎のように立ち尽くし、海面を指差して口を開いた――音声は風切りで拾えていない。けれどその口の動きが俺の脳裏へ焼き付く。

 

――“コッチ”

 

マリナは一度大きく息を吸ってそれからカウンターの椅子へ腰を下ろした。観葉植物の葉が彼女の肩で揺れる。店のBGMがちょうど曲を変え、静かなウクレレのインストへ切り替わった。

 

「あの娘ね、窓際の席に座ったの。海が見える一番端っこの、ほら、あそこの」

 

彼女が顎で示した先には、確かに夕日を遮るもののない特等席があった。大きなガラス窓のすぐ向こうに、旧桟橋の骨組みが海へ突き出ている。今はもう使われていないらしく、鉄骨が錆びて赤茶けていた。

 

「最初は普通だったんだよ。メニュー見て、笑って、『ロコモコください』って言って。うちのロコモコは結構量あるから『食べきれる?』って聞いたら『大丈夫です』って」

 

マリナの声が少しずつ温度を失っていく。笑顔はまだある。でもその笑顔の裏で、何かが慎重に言葉を選んでいる。

 

「でもね、出てきた料理にほとんど手をつけなかった。フォークで二回くらい突いて、あとはずっと海見てた。あたしが『お口に合わなかった?』って聞いたら、振り向いて笑って『おいしいです』って。でもその目、あたしのこと見てなかったんだよね」

 

優菜が身を固くする。達臣のペンが動く音が、店内の音楽に混ざって小さく響いた。俺は無意識にテーブルの下で拳を握っていた。

 

「窓の外、何かあったんですか?」

 

「何も。ただの海。船も通らない時間だったし」

 

マリナは首を振った。それから少し躊躇って、カウンターの端を指でなぞった。

 

「変だったのはね、時々、向かいの席に向かって頷いてたこと。あの娘ひとりで来てたの。誰もいないのに、うんうんって。あたしがお冷やおかわり持って行った時も、ちょうど誰かと話してるみたいな顔してた」

 

「誰かと話してる、みたいな」

 

優菜が繰り返す。マリナは頷いた。

 

「あたし、声は聞こえなかった。でもあの娘の耳が時々ピクッて動いてたの。何か聞こえたみたいに。それで笑って、また海の方を見て」

 

(耳鳴り――キーンって音か)

 

相談者の証言が蘇る。あの子のそばにいると高い音が聞こえる。それがここでも起きていた。あの娘だけに。

 

「あとね」

 

マリナはそこで初めて声を落とした。冗談めかした軽さが完全に消え、テーブルに置かれた自分の手を見つめている。

 

「出て行ったあと、席の周りに変な匂いが残ってたの。潮の匂いと、鉄錆とあと果物が腐ったみたいな甘い匂い。混ざってるの。気持ち悪くて窓開けたけど、三十分くらい消えなかった」

 

優菜と達臣が同時に俺を見た。俺は表情を作るのに必死だった。あの夜の異界で嗅いだ匂いと同じだ。九衣が鞄の中で小さく動いた。

 

(黙ってろ。今は俺が話す)

 

「それで、何か忘れ物とかは?」

 

俺の声は思ったより平静だった。マリナは「あるよ」と言ってカウンターの下を探った。数秒後、透明なクリアファイルに入った一枚の紙を取り出してテーブルに置く。

 

「これ。あの娘が座ってた席の下に落ちてた。拾おうとしたらあの匂いが染み付いててね。捨てようか迷ったんだけど、なんか、捨てちゃいけない気がして取っておいたの」

 

それは連絡船の乗船券だった。北東航路月ヶ瀬島行き。日付は相談者の友人が乗った便と一致している。ただし、記載された乗客名は一人分だけ。

 

なのに、券面の端にはもう一つの刻印があった。同じ便、同じ座席。けれど名前が違う。消えかけたインクで、しかし確かに読める文字。

 

「この二枚目――」

 

達臣がファイルを引き寄せ、まじまじと券面を見た。その指先が券の下半分に残された微かな折り目をなぞる。

 

「二枚重ねで発券されてる。同じ座席で、二人分」

 

「そんなの、普通ありえないよね?」

 

優菜の声が上ずった。マリナは黙って頷いた。俺は券面の二つ目の名前を読み取ろうとした。インクが滲んで判読できない。けれど名前の下、備考欄のような場所に小さく走り書きがしてある。

 

『声が聞こえる』

 

その四文字だけが、異様に鮮明だった。俺の背筋に冷たいものが走る。

 

「あのね」

 

マリナが顔を上げた。その目には冗談めかした明るさはもうなく、代わりに静かな決意のようなものが宿っていた。

 

「あの娘が出て行った方向。あたし知ってる。旧桟橋の方。あそこね、夜は近づいちゃいけないってみんな言うの。『海の声』が聞こえるから」

 

「海の声?」

 

「うん。満潮の夜にね誰もいない桟橋の先から人の声がするって。呼んでるみたいに。地元の人は絶対行かない。でもあの娘……あの子なら行くかもしれない」

 

マリナはそこで立ち上がった。花柄のシャツが翻りホヌのチャームが音を立てた。

 

「あたし案内するよ。あそこ」

 

「えっでも」優菜が戸惑う。「バイトは?」

 

「今は店長いないし閉めときゃいいよ。それに」

 

マリナは少し笑った。でもその笑顔は以前のような明るさではなくどこか寂しげだった。

 

「あたしね昔から変なのが見えちゃうの。みんなには見えないものが見えたり聞こえたり。ハワイじゃ『マナ』って言うけどここじゃ何て言うのかな。だからあの娘のそばに何かいるって分かった時放っておけなかったんだ」

 

彼女はカウンターの奥からエプロンを外し小型のライトをポケットにねじ込んだ。

 

「行こう。旧桟橋。あの子が向かった場所へ」

 

俺たち三人が顔を見合わせる。達臣が静かにファイルを鞄にしまった。優菜が覚悟を決めたように頷く。俺は席を立った。夕日はすでに水平線の向こうへ沈みかけていて空の色が急速に紫から藍へと変わっている。

 

(九衣。聞こえるか)

 

「うん。乗船券の二つ目の名前と備考欄。これネットの噂と同じパターンだよ。『声が聞こえる』って書かれた券を持った人間が消える。過去に何件か報告がある」

 

(やっぱりか)

 

「でもネズミ君まだ確定じゃない。仮説。記録ではね」

 

九衣はいつも通り断定を避けた。けれどその声には緊張が混じっていた。

 

「気をつけて。海の声が聞こえる場所には大概『入り口』があるから」

 

入り口。異界への。

 

俺はマリナの背中を追って店を出た。外はもう夜の気配が濃く潮風が冷たく頬を撫でていく。遠くで汽笛が鳴った。低く長く夜の海へ溶けていく音。その音が俺の耳にはあの夜の悲鳴のように聞こえた。

 

旧桟橋への道は街灯が少なく足元が不確かだ。マリナがライトを点けて前を行く。達臣が優菜の隣で周囲を警戒しながら歩いている。俺は最後尾だ。カバンの中で九衣が微かに震えているのが伝わってくる。

 

乗船券をテーブルの上で裏返すと、裏面に小さな印刷があった。桟橋番号。『旧第4桟橋』。達臣が地図を開いて確認する。

 

「現在の連絡船はすべて新第1から第3桟橋を使用している。旧第4は──十年前に営業を打ち切っている」

 

「使われてない桟橋の番号が券面に印字されてるってこと?」

 

優菜が眉を寄せた。達臣は何も答えず、券面の文字をもう一度指でなぞった。インクの質感が、通常の印刷とは違う。微かに湿っているような、滲みかけの文字だ。

 

「システムエラーの可能性もある。だが」

 

「だが?」

 

「偶然にしては、釣り合いが悪すぎる」

 

マリナがカウンターから身を乗り出して、券を覗き込んだ。その横顔に店内の照明が当たる。小麦色の肌にオレンジ色の光が溶けて、一瞬だけ影が長く伸びた。

 

俺はその影を見た。

 

いや──見てしまった。

 

マリナの影が、彼女本人よりほんの少しだけ遅れて動いている。右へ傾ける頭に影が追いつくまで、コンマ数秒のズレがある。さっき教室の窓ガラスで見たのと同じだ。廊下を歩く女子生徒の影が一拍遅れて消えたあの現象。

 

(またか)

 

口を開きかけた瞬間、マリナが先に反応した。

 

「あ」

 

短い声だった。彼女の視線が俺の肩越しに窓へ向く。その目が、驚きとも好奇心ともつかない色に染まる。俺と達臣がほぼ同時に振り返った。

 

店のガラス窓に、誰かが映っていた。

 

窓の向こう側、旧桟橋の方角。夕闇が濃い紫色に降りた海岸沿いに、人影が立っている。輪郭がぼんやりと滲んでいて、顔の細部までは見えない。けれど、そのシルエットが笑っていることだけは分かった。肩の角度が柔らかく、首が少しだけ傾いている。あの相談者の友人と同じ姿勢だ。

 

ガラスの中に映っている。ガラスの外にいるのではない。文字通り、窓の表面に像が張り付いている。水面に映る景色が風で揺れるように、人影の輪郭がゆらりと波打った。

 

「あの子──」

 

マリナが息を呑んだ。

 

俺は席を立った。椅子が床を擦る音が店内に響く。窓に近づく。ガラスに掌を近づけた。冷たい。夜の海風が吹き込んでいるわけでもないのに、ガラスの表面だけがひやりとしている。

 

人影が微笑んだ。ゆっくりと、口角が上がる。それから手を振った。誰かに向かって。旧桟橋の方角へ向かって。

 

一秒。二秒。

 

影が薄くなり、ガラスの透明さが戻った。もう誰もいない。ただ夜の海と、錆びた鉄骨の桟橋が、街灯の明かりに照らされているだけだ。

 

「今の、見えた?」

 

マリナが俺の隣に来ていた。声は静かだったが、瞳が妙に澄んでいる。怯えていない。むしろ、確認してきた。「やっぱり見える人間がいる」と、その目が言っている。

 

「見えた」

 

俺は素直に答えた。隣で達臣が無言でスマホを構え、窓ガラスを撮影していた。フラッシュは焚かない。暗い画面の中に、何か残っているかを確認しているのだ。

 

「僕には見えなかった」達臣が言った。「だがガラスの表面温度が周囲より低い。三分ほど前から計測していたが、今さらに二度下がった」

 

「計測してたの? いつの間に」

 

「入店時から」

 

達臣は何も気にしていない素振りでスマホをしまう。こいつは最初から何かを予期していた。普通の高校生は入店と同時に窓ガラスの表面温度を計測しない。だが今はそれを追及している余裕がない。

 

優菜が席から立ち上がって窓へ近づき、ガラスに手を触れた。

 

「冷たい……」

 

「見えなかった? 瑞生」

 

「ううん。何も。ただ、寒い」

 

優菜の声が少し細くなった。彼女は自分の腕を擦った。店内はファンヒーターが稼働しているのに、窓の周辺だけ、別の空気が流れているようだ。

 

「あたしは見えたよ」

 

マリナが言った。迷いのない声だった。

 

「あの娘だよ。さっき写真で見た子。笑ってた。あの時と同じ顔で」

 

彼女は窓ガラスに自分の顔を映して、それから振り返った。花柄のシャツの襟が少しずれている。直すこともせず、俺と達臣を交互に見た。

 

「あたしね、小さい頃からこういうの見えるの。ハワイにいた頃もあった。お婆ちゃんが『マナが強い』って言ってた。日本に来てからはあんまりなかったんだけど、この店でバイト始めてからまた時々」

 

「この店で?」

 

「うん。港に近いからかな。窓の外に誰か立ってる影が見えたり、誰もいない席に注文票が置いてあったり。でも今のが一番はっきりしてた。あの子、何かを呼んでるみたいだった」

 

呼んでいる。その言葉が、さっきの乗船券の備考欄と重なる。『声が聞こえる』。そして相談者の友人が言ったという『海の向こうから呼ばれている』。三つの証言が、一本の線で繋がった。

 

カバンの中で九衣が微かに動いた。俺の耳にだけ届く小さな声。

 

「ネズミ君。あの店員さん、見えてる。普通の人には見えないものが」

 

(分かってる)

 

「ネットの噂だとね、異界の歪みに敏感な人間がいる。感応体質って言う人もいるけど、正式な用語はない。でもそういう人が異界の入り口の近くにいると、歪みが見えたり聞こえたりする。あの店員さん、そうかもしれない」

 

(仮定だろ)

 

「うん。仮定。でも根拠はある。さっきの窓ガラスの現象。あれは異界の境界が薄くなった時に起きるものだと、沖縄ジェイルの記録にも似た記述があった。断定はできないけど」

 

(断定できない、な)

 

九衣は黙った。いつもそうだ。情報を提示して、判断は俺に委ねる。正解を知っている専門家ではない。ネットの海で拾った断片を繋ぎ合わせ、可能性の形を見せてくれる。確証はない。けれど、彼女が繋いでくれる線は、これまで一度も完全に外れたことがなかった。

 

「マリナさん」

 

俺は彼女の方を向いた。マリナはすぐに目を合わせた。 dark_brown の瞳が、店内の照明を拾って琥珀色に光っている。

 

「旧桟橋って、どこにあるんですか」

 

「この店を出て右に五分。海沿いの道をずっと行くと、フェンスがあって。その奥に昔の桟橋があるの。今は立入禁止になってるけど、フェンスの一部が壊れてて入れちゃうんだよね」

 

「行ったことあるんですか」

 

「何回か。夜に変な音がするから。でも怖くなくて、むしろ……」

 

マリナはそこで言葉を切った。言いかけて、少し笑って、それから言わなかった。その代わりにエプロンの紐を解き、カウンターの奥の棚から小型の懐中電灯を取り出した。

 

「閉める。今のを見ちゃったら、放っておけないもん。案内するよ」

 

「でもバイトは」

 

「店長、今日は本土へ出張中。閉めるとメールしておけば文句言わない」

 

マリナはカウンターの電気を一つずつ消していった。店内が暗くなる。最後に残った照明が、窓ガラスに映る俺たちの影を作っていた。四人の影がガラスの中に並んでいる。窓の外はもう完全に夜だ。

 

ふと、俺はガラスの中の自分の影を見た。影は俺と同じように立っている。動きも同じ。遅れはない。

 

(今は大丈夫か)

 

「真瀬」

 

達臣が低い声で呼んだ。俺が振り返ると、彼はすでに鞄を背負い、ファイルを腕に抱えていた。その表情は冷静だ。だが、瞳の奥に、さっきの窓ガラスの温度データを確認した時と同じ光がある。分析している。俺の反応も、マリナの言葉も、すべて記録して分類している。

 

「あの乗船券の旧第4桟橋。現地に行けば何か分かるかもしれない。ただし」

 

「ただし?」

 

「日が完全に落ちてから、立入禁止区域へ入る意味は理解しているだろうな」

 

「お前が一番分かってるだろ。夜の海岸の立ち入り禁止は校則違反だ」

 

「違反の話をしているんじゃない。危険の話をしている」

 

達臣の声が一瞬だけ硬質になった。いつもの穏やかな観察のトーンではなく、そこには実経験から来る警戒が滲んでいた。こいつは知っている。夜の海が、ただの海ではないことを。

 

「大丈夫だ」

 

俺は答えた。その言葉が誰に向けたものか、自分でも分からなかった。達臣へか、優菜へか、それともカバンの中の九衣へか。あるいは、自分自身の胸元に残るドライバーの幻影へか。

 

マリナが店のシャッターを下ろした。ガラガラという金属音が夜の港に響き、波の音に変わって消えていった。潮風が強くなった。髪が跳ねる。帽子を深く被り直す。

 

「こっち」

 

マリナがライトを点けて歩き出した。白い光が暗い道を切り裂き、錆びたガードレールと散らばった貝殻を照らしていく。優菜がその後ろに続き、達臣が優菜の隣、俺は最後尾。

 

四人の足音が砂利混じりのアスファルトに響く。遠くで汽笛が鳴った。低く、長く、夜の海の底から湧き上がるような音。それが、さっき窓ガラスに映った少女が手を振った方向──旧桟橋の方角へ消えていった。

 

九衣が、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「ネズミ君。気をつけて。あの桟橋、たぶん『入り口』だよ」

 

(分かってる)

 

「記録では、異界の入り口は水辺に現れることが多い。特に古い桟橋や廃港。沖縄ジェイルの時も、海に面した場所から歪みが広がったって報告がある。断定はできないけど」

 

(断定できないけど、だろ)

 

「……うん。でも、行くんでしょ」

 

行く。当たり前だ。あの少女が呼ばれている。誰かに。何かに。壁が波打つ船の中で、笑いながら海を見つめ、誰もいない席に頷きかけていたあの娘が、今夜もまたどこかで呼ばれているなら。

 

放っておけるわけがない。

 

俺は帽子の庇を下げ、ゴーグルを額に押し上げた。夜風が強くなる。潮の匂いが濃くなる。鉄錆の匂いが混じり始めた。腐った果物の甘さが、その奥に潛んでいる。

 

旧桟橋の鉄骨が、懐中電灯の光の中に浮かび上がった。錆びた鉄の骨組みが、夜空に向けて黒い指を伸ばしている。その先に、暗い海が広がっていた。

 

波の音が、何かの声に聞こえた。

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