PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
波の音が言葉を喋り始めた気がした。
「コッチ」だの「オイデ」だのといった意味不明の囁きが、潮騒に乗って耳の奥へ滑り込んでくる。マリナが掲げた懐中電灯の白い光束だけが、闇の中に浮かぶ旧第4桟橋の輪郭を無慈悲に暴き出していた。錆びついた鉄骨の支柱がまるで巨大な獣の肋骨のように空へ突き刺さり、割れたコンクリートの床面には干上がった海藻と白化けた貝殻が散らばっている。潮と鉄錆の匂いが濃く、その奥に熟れ過ぎた果実のような甘さが潜んでいるのが分かった。
「足元気をつけて。ここ欠けてるから」
マリナの声が前から響いた。彼女が指差したコンクリートの縁は波に削られて砕け、黒い海が其処から覗いている。俺は一歩踏み出しかけて靴底の砂利が滑る感触に息を呑んだ。
「危ないっ」
咄嗟に手を伸ばした。マリナの腕を掴む。彼女の身体がぐらりと傾いだが、何とか踏み止まった。腕の感触は細いのに驚くほど熱い。まるで内側から熱を発しているようだ。マリナが振り返り、「ありがとう」と小さく笑った。だが其の手は懐中電灯を握りしめるあまり白くなっていた。明るく振る舞ってはいるが其処に流れている空気は日常のそれとは明らかに違う。
「大丈夫? マリナさん」
優菜が心配そうに声をかける。
「平気平気! ちょっと暗くて見にくかっただけ。あたしここ何回も来てるから地形は頭に入ってるの」
「何回も? 夜に?」
優菜が訝しむように問うた。無理もない。十年も前に廃止された立入禁止区域へ若い女が一人で夜な夜な通うなんて普通ではない。
「うん……なんかねー変な音がするのよ。風の音とか波の音じゃなくてこう……人が話してるみたいな音が聞こえて気になっちゃって。ついフラフラと」
マリナは軽い口調で言ったけれど其の瞳は冗談を許さない色をしていた。「声が聞こえる」。其の言葉がまた一つ証言の輪郭を強固にする。此処もまたあの連絡船と同じ性質の場所なのだ。
後ろでカチリと小さな音がした。達臣がスマホを操作している。
「瑞生、真瀬。これを見ろ」
達臣が足元を照らすようにスマホのライトを向けた。割れたコンクリートの隙間に残された泥濘んだ跡。
「足跡だ。それも新しい」
達臣が無表情で告げた。
「靴底の溝がくっきり残ってる。雨上がりじゃない此の乾燥した時期に泥の付いた足跡。……此処数日のものだ」
俺は其の足跡を見つめた。サイズは小さい。スニーカーの跡だ。あの相談者の友人と同じ位のサイズ。彼女は確かに此処へ来たのだ。そして此処から更に奥へと進んだ。
(達臣のやつ……又計測してやがるな)
スマホを構える達臣の目はただの記録係のそれではなかった。湿度や温度あるいは磁気異常まで測れるアプリでも入れているのかそれとも別の何かか。こいつはやっぱり普通の高校生じゃない。だが今其れを問うている場合じゃない。
「行くぞ」
達臣が短く言った。
桟橋の途中でフェンスが破れていた。錆びた金網が無理やり引き裂かれたように開いている。其処から先は完全に闇だ。マリナのライトだけが其の暗闇の中へ細い道を作っている。
「此処から先は本当に危ないよ。床板腐ってるところあるし」
マリナがフェンスの隙間を潜りながら警告した。其の背中を見つめながら俺は思う。彼女は何故此処へ何度も来たのか。「声が聞こえるから」と言った其の言葉の裏にある真意を測りかねる。好奇心かそれとも彼女自身もまた何かに呼ばれているのか。
「真瀬君行こう」
優菜が俺の袖を引いた。其の手は少し震えていたけれど目は強い光を宿している。
「ああ」
俺は頷いた。
壊れた柵の隙間を潜る。錆びた金網がジャケットを擦って微かな音を立てた。其処から一歩足を踏み入れた瞬間空気が変わった。
潮の匂いが濃くなり鼓膜が圧迫されるような感覚。「入り口」に近づいている。九衣の言葉が正しければ此処から先はもう私たちの知っている世界ではない。
四人の足音が古い桟橋の上に響く。波の音が又囁き始めた。「コッチ」「オイデ」其れは確かに人の声だった。
壊れた柵を抜けた瞬間、街灯の光が急に遠くなった。
振り返ると、さっきまで歩いていた防波堤の照明が黄色い点になって宙に浮かんでいる。まるで水底から水面を見上げているような錯覚だ。前を見ると、マリナの懐中電灯だけが白い筋を作っている。その光の先にあるのは、かつて乗船通路だったコンクリートの床だ。鉄骨の骨組みが両側に立ち並び、屋根の代わりに夜空が広がっている。
靴底に伝わる感触が変わった。砂利から、鉄板の軋みへ。通路の表面に敷かれた鋼板が波と経年で歪んでいて、一歩踏み出すたびにギギ、と低い金属音が鳴る。その音が波のリズムと重なる。
「此処、昔は連絡船の乗り場だったの。屋根はもうないけど壁だけ残ってるでしょ」
マリナの声が通路の奥へ反響した。彼女の歩き方には迷いがない。暗闇の中で段差を避け、崩れた床板を跨ぐ足運びが、何度も通った人間のものだ。俺はその背中を見ながら、何か引っかかるものを感じた。
(此処に何度も来てる。夜に、一人で。此の足場で。普通の好奇心で来る場所じゃない)
「マリナさん、此処に来た時さっきの様な音聞こえたって言ってたけど、他には」
優菜が問いかけながら、壊れた床板を避ける。達臣がその肩を支えながら、スマホの画面をチラリと確認した。
「うん、音の他にね…匂い」
マリナが足を止めた。
「匂い?」
「潮と鉄錆の匂い。あと甘いの。腐った果物みたいな」
俺の足が一瞬止まった。心臓が早鐘を打つ。あの夜のフェリー。船壁が泥のように蠢いた時に鼻腔を満たした吐き気を催す芳香。其れと同じ匂いが、此処にもある。
「あたしね、店であの子が残した匂いを嗅いだ時、あれって思ったの。此処の匂いだって。同じなの。潮と鉄錆と、あの甘いの。此処に来ると必ずちょっと漂うんだけど、あの子が残した匂いはもっと濃くて」
マリナが振り返った。懐中電灯の光が逆光になって彼女の表情が読み取れない。だが声は怯えていない。むしろ、長年抱えていた違和感を誰かに共有できる安堵が滲んでいる。
「あの匂い、私も分かります」
俺は自然に口を出てた。優菜が俺を見る。達臣の視線も俺に向いた。其の二つの視線から逃げずに、けれど詳しい説明は避けて続けた。
「前に…船で似た匂いを嗅いだから」
「船? フェリー?」
「ああ。夜の便で。其の時も壁が妙に揺れて…いや、何でもない。気のせいかもしれない」
言いかけて口を閉じた。これ以上話せば、フェリーで起きた出来事の全てを明かすことになる。異界へ引きずり込まれたこと。マイスドライバーが胸に装着されたこと。黒い泥から伸びた触手と戦ったこと。其れを今、此処で話すわけにはいかない。
帽子の庇を下げた。夜風が額を冷やす。其の冷たさに少しだけ息が楽になった。
「真瀬君顔色悪いよ。大丈夫?」
マリナが俺の顔を覗き込んだ。近い。ハワイアンダイナーの時と同じ距離感。けれど今度は、其の目に冗談めかした明るさがない。心配している。
「大丈夫だ。少し船酔いの残りが」
「船酔い? 夜に? さっきも言ってたけど、フェリーで何かあったの?」
達臣が後ろから静かに問うた。其の声は平坦だが、一語一語が俺の肩に手を置くように重い。こいつは見逃さない。船酔いという言葉の裏にあるものを、其の冷静な目で探っている。
「ただの船酔いだよ。夜の海は揺れるから」
「そうか」
達臣はそれだけ言った。だがスマホを鞄にしまう時、画面に何かの測定値が表示されていたのを俺は見逃さなかった。数字は読み取れない。だがグラフのラインが、通路の奥へ向かって右肩上がりに跳ね上がっている。
(やっぱり計測してる。此いつは何を測ってるんだ)
九衣が鞄の中で微かに動いた。俺の耳だけに届く小さな声。
「ネズミ君。フェリーの時と同じ匂いが強くなってる。此処、入り口が近いよ」
(分かってる)
「ネットの噂だとね、異界の入り口は水辺に現れやすい。特に古い港や廃桟橋。記録では、過去に沖縄で起きた異変の時も、海に面した場所から歪みが広がったって報告がある。でも此れは断定できない。あくまで仮説」
(仮説だな)
「うん。でも、フェリーで君が体験したことと同じ現象が此処で起きてるなら、航路と此の桟橋は繋がってる可能性がある。船の中で起きた異界と、此処の異界が同じものなのか別の場所なのか。其れはまだ分からない」
(繋がってる…)
其の言葉が胸の奥で反響した。フェリーの航路上で起きた異界と、旧桟橋の異界。同じ海に浮かぶ島々を結ぶ航路。もしかすると、海そのものが異界の通り道になっているのかもしれない。だとすれば、相談者の友人が連絡船で出会ったものと、此処で呼ばれているものは、同じ根源から伸びた触手なのか。
(いや、仮説だ。まだ決めつけるな)
俺は思考を止めた。今すべきことは推理ではない。前に進むことだ。
「おい、固まって進もう。離れるな」
声を落として言った。優菜が頷き、マリナの隣に並ぶ。達臣が自然と隊列の最後尾へ回り、後方を警戒する体勢を取った。俺は其の配置に違和感を覚えた。普通の高校生なら前か中程にいたいはずだ。最後尾で背中を預けない構えは、慣れた動きだ。
(こいつ、本当にただの生徒か?)
問いを飲み込み、前に向き直る。
通路の奥へ進むにつれて、空気が密度を増した。潮の匂いが濃くなり、鉄錆の味が舌に絡みつく。そして其の奥に潛む甘い芳香が鼻腔の奥を突いた。フェリーのあの夜と同じだ。船壁が呼吸するように膨らみと縮みを繰り返した時の匂い。内臓が記憶している。喉の奥が狭くなり呼吸が浅くなる。
(落ち着け。今は此処にいる。あの夜じゃない)
帽子を深く被り直した。庇の影で表情を隠す。其れで少し、呼吸が楽になった。
「あ、真瀬君」
マリナがまた振り返った。其の手に乗船券が握られている。達臣から預かったままだったのだ。
「此の券、なんか変」
「変?」
「文字が滲んでるの。さっきまで平気だったのに」
マリナが懐中電灯の光を乗船券に当てた。達臣が一歩進み出て、券面を確認する。
「海水に触れた形跡はない。端面が完全に乾燥している。だがインクが滲んでいる」
達臣が指で券の縁をなぞった。其の指先が止まる。
「裏だ。裏を見ろ」
マリナが乗船券を裏返した。
懐中電灯の白い光が照らし出した裏面に、湿った航路線が浮かび上がっていた。インクが紙の裏側から滲み出したように、青い線が走っている。南星諸島の航路図だ。点線で結ばれた島々の間に、太い実線が一本だけ引かれている。旧第4桟橋から、桟橋の奥へ続く線。其の線は通路の先、闇に溶け込む廃止された待合所の方へ伸びていた。
「此の線…待合所まで引かれてる」
優菜が乗船券を覗き込んだ。其の声が少し上ずっている。
「旧第4桟橋の待合所は、営業打ち切りと同時に閉鎖されてる。現在建て替えの予定もない」達臣が付け加えた。其の声は冷静だったが、スマホで乗船券を撮影する指先に微かな緊張があった。
「行くのか。あそこまで」
マリナが訊いた。其の声には怯えよりも、何かに引かれるような響きがあった。
「行く」
俺が答えた。迷いはなかった。あの匂いが強くなっている。入り口が近い。九衣の仮説が正しければ、其処に異界への歪みがある。そして、相談者の友人が其処へ向かった可能性が高い。
「あたしも行くよ」
マリナが懐中電灯を通路の奥へ向けた。白い光が闇を切り裂き、其の先に崩れかけた待合所の輪郭が浮かび上がった。
潮風が吹き抜ける。鉄骨が低く唸る。波の音が、又何かの言葉に変わった気がした。
「コッチ」
今度は、確かに聞こえた。
乗船券の裏面に浮かんだ航路線は、待合所の玄関まで正確に伸びていた。
マリナが懐中電灯で照らした先に、ガラスの一枚も嵌っていない铝製の扉が斜めに傾いて hangs している。蝶番が片方外れていて、風が吹くたびに軋む音がする。その音が波のリズムと同期して、まるで建物そのものが呼吸しているように聞こえた。
「此処が旧待合所。十年前までは連絡船の乗客が使ってた」
マリナが扉を押し開けた。錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てる。中から流れ出してきた空気は、外の潮風よりもさらに濃密だった。腐った果物の甘さが鼻の奥に粘りつき、吐き気を催すほどではないが、確かに不快な重さを持っている。
懐中電灯の光が闇を切り裂いて、待合所の惨状を浮かび上がらせた。
プラスチックの長椅子が三脚、まるで誰かが蹴散らしたように転がっている。壁の時刻表は枠から剥がれ落ちて床に伏せていた。かつて出発時刻と到着時刻が記されていたのであろう紙面は潮で膨らんで起伏を作り、文字は跡形もなく滲んで消えている。天井の蛍光灯は一本だけ残ってぶら下がっており、風が吹くたびに揺れる。
「足元気をつけて。床板浮いてるから」
マリナの声が低い天井に反響した。彼女が照らした床面を見ると、確かに何枚かの木板が潮で膨らんで盛り上がっている。其処を踏むとボギッという湿った音がして、靴底から水気が渗んでくるのが分かった。
俺たちは散らばる椅子を避けながら待合所の奥へ進んだ。窓際に辿り着くと、マリナが懐中電灯を壁面へ向けた。割れたガラス窓が並んでいる。大半は粉砕されて枠だけ残っているが、一枚だけ曇ったまま残っている窓があった。潮風の塩分が表面に白い膜を作り、透明度を失っている。
其の曇ったガラスに、影が映っていた。
俺の影。マリナの影。優菜の影。達臣の影。
四つ。いや──
「ねえ、何か聞こえない?」
優菜が振り返った。其の顔が懐中電灯の逆光で半分影になっている。
「聞こえるって何が」
「声。女の子の声。小さいけど…」
俺は耳を澄ました。波の音。風が鉄骨を鳴らす音。其の奥に、確かに何かがあった。高い声。言葉の輪郭は掴めないが、抑揚がある。誰かが何かを話している。いや、呼んでいる。
「あたしも聞こえる」
マリナが言った。其の声が、さっきまでの明るい店員のトーンとは全く違っていた。低く、掠れて、まるで自分の声ではないように聞こえた。
「あの子の声だ。写真で見たあの娘の声。あたしを呼んでる」
マリナが窓の方へ歩き出した。いや、歩き出したのではない。引き寄せられている。彼女の足が自分の意志とは無関係に、曇った窓の前を通って、割れたガラスの向こうの海へと向かっている。懐中電灯の光が彼女の手元で揺れ、其の手首に浮かんだ血管が青白く光った。
「一人で行くな」
俺はマリナの手首を掴んだ。
其の感触に、息が止まりそうになった。冷たい。氷ではなく、もっと質の違う冷たさだ。まるで血液の循環が止まった手足のような、生気の欠けた冷たさ。食堂で握手した時のあの熱い手はどこにもない。此の娘は平気な顔をしていた。明るく笑って、冗談を言って、案内すると申し出た。だが其の手は、ずっと恐怖を握りしめていたのだ。
マリナが振り返った。其の瞳が懐中電灯の光を拾って琥珀色に光る。だが其の瞳孔は、一瞬だけ海の方角へ流れた。俺の手首を掴む其の手が、まだ微かに海へ引かれているのが分かる。彼女の身体の中で、何かが俺の掌と競り合っている。
「…ありがと」
短い言葉だった。それ以上何も言わなかった。だが其の手首から、少しずつ力が抜けていった。俺は掌を離さなかった。
「瑞生、真瀬」
達臣の声がした。振り返らずに聞こえる。達臣は俺の背後、優菜の隣にいる。其の位置は入って来た時と変わっていない。
「何だ」
「窓を見ろ。影がいくつある」
其の声は静かだった。だが其の静けさの中に、鉄骨が錆びつくような硬さがあった。俺は振り返らずに、自分の影と仲間の位置を頭の中で把握した。俺が窓の正面。マリナが俺の隣。優菜が左後ろ。達臣が右後ろ。四人だ。四人しかいない。
「五つだ」
達臣が言った。
俺はゆっくりと窓を見た。曇ったガラスに映る影は、確かに五つあった。一つ目は俺のシルエット。二つ目はマリナの。三つ目は優菜の。四つ目は達臣の。そして五つ目の影は──
窓の最も右側。海に最も近い位置。其の影だけが、他の四つとは違う方向を向いていた。
全員が窓の方を向いている。だが五つ目の影だけが、横向きだ。海の方を向いている。其の輪郭は細い。肩のラインが柔らかく、首が少しだけ傾いている。あの写真で見た少女と同じ姿勢。さっきハワイ料理店の窓ガラスに映ったのと同じ、不自然なほど柔らかな笑みを浮かべたシルエット。
「僕たちは四人だ」
達臣が低く告げた。其の声に初めて、明確な緊張が滲んでいた。達臣は此の異常を認識している。そして其れを、ただの光学現象として処理するつもりはない。
優菜が息を呑む音が聞こえた。
「五つ目…誰?」
「動くな」
俺が言った。声が自分の思った以上に硬質に響いた。マリナの手首を離し、其の場所を確保する。五つ目の影は海の方を向いたままだ。だが其の輪郭が、ゆっくりと、まるで水面に石を投げ込んだ時の波紋のように揺らいでいる。
(九衣)
「見てる。あの影、本物の人間の影じゃない。輪郭が揺らいでる。フェリーの時の船壁と同じ現象だよ」
九衣の声が鞄の中から響いた。其の声にも緊張がある。
「ネズミ君、入り口が近い。あの影が海の方を向いてるのは、入り口が海の方にあるから。記録では異界の入り口は水辺に現れやすい。古い桟橋、廃港、沈没船の上。ネットの噂だけど過去に沖縄で起きた異変の時も、海に面した場所から歪みが広がったって報告がある」
(沖縄で起きた異変。其れはネットで何て呼ばれてた)
「沖縄ジェイル。正式な名称があるのかどうかは分からない。記録ではね。でも其の時も海から何かが来たらしい。詳しいことはソースが信頼できないから断定できない」
(断定できない、な)
「うん。でも一つだけ言える。あの影が此処にいる以上、此処はもう普通の場所じゃない」
普通の場所じゃない。其の言葉を噛み締める。俺の背中にはフェリーで受けた傷の記憶がある。黒い泥から伸びた触手。呼吸する船壁。乗客の悲鳴。あの夜の異界が、別の場所へ現れたのか。それとも航路が島々を繋いでいて、其の線上に異界の入り口が点在しているのか。九衣の言う通り、断定はできない。だが匂いは同じだ。現象の質は同じだ。そして五つ目の影が、海の方を向いて笑っている。
「あたし、やっぱり聞こえる。あの子が『こっち』って言ってる」
マリナが呟いた。其の声が夢遊病者のように平坦だった。俺は再び彼女の手首を掴み直した。今度は離さない。其の冷たい手首の中で、脈だけが早く打っている。彼女は怖い。怖いのに、声に引かれている。此の矛盾が、マリナという人間の輪郭を浮き彫りにしていた。
「マリナさん、其の声に答えるな」
俺の声が低くなった。深刻な場面で声量が下がる癖。自分でも分かっている。だが今は其れでいい。大声を出すべき状況ではない。
「うん…分かってる。分かってるんだけど」
マリナが唇を噛んだ。其の手首から、海へ引く力が少し弱まった。
窓の中の五つ目の影が動いた。
ゆっくりと、其の口が開いた。音は聞こえない。だが曇ったガラスの表面に映る唇の動きが、確かに言葉を形作っている。
二つの文字。短い呼びかけ。
「こっち」
俺の背筋を冷たいものが這い上がった。影の唇が動いた瞬間、足元の床が波打った。いや、床ではない。床の下だ。待合所の床板の隙間から、黒い水が滲み出し始めた。潮の匂いが一気に濃くなり、鉄錆と腐った果物の芳香が鼻腔を満たす。床板の隙間から覗く其の水は、海ではない。もっと黒く、もっと粘度が高い。水面が、呼吸するように膨らみと縮みを繰り返している。
鞄の中で九衣が叫んだ。
「入り口が開く」
其の声が、俺の鼓膜を直接打った。