PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
九衣の警告が鼓膜を打った瞬間、世界の底が抜けた。
いや、抜けたのではない。溶けたのだ。足元の湿った床板が熱した飴のようにぐにゃりと歪み、其の隙間から滲み出していた黒い水が、呼吸するリズムで一気に膨れ上がった。床材が泥濘の中へ沈むのではなく、液体そのものが床の高さまで迫り上がり、椅子や壁、剥がれ落ちた時刻表を、沈めずに水面へ浮かべ始めたのだ。
「うわっ!?」
優菜の悲鳴が水音に掻き消される。上下の感覚が曖昧になる。割れた窓の向こうに広がっていた夜の海と、室内を浸食する黒い水との境界線が、陽炎のように揺らいで消滅した。重力が斑に歪み、胃袋が喉の奥へせり上がってくるような吐き気。
潮と鉄錆、そして腐った果物を噛み潰したような甘ったるい臭気が、肺の奥まで粘りついて鼻腔を焼く。遠くで鳴る汽笛が、まるで溺れた者のうめき声のように、低く湿って響いた。
(フェリーの時と同じだ。間違いない、此処は──)
思考が断ち切られる。足首に冷たい感触が絡みついた。視線を落とすと、黒い水が靴を飲み込もうと焉門を開けて蠢いている。身体が強張り、筋肉が独立して悲鳴を上げた。
「きゃっ!」
すぐ横でマリナの体勢が崩れた。浮遊感と重力の歪みに平衡を失い、彼女の身体が黒い水面へと傾ぐ。咄嗟に腕を伸ばし、其の細い手首を鷲掴みにした。
引き寄せる。マリナの肩が俺の胸元へぶつかり、華奢な骨の感触が伝わった。其の体温はやはりひんやりとしていて、けれど其処に確かな脈動があった。生きている者の重さ。
「大丈夫か」
短く問うと、彼女は瞼を震わせて顔を上げた。琥珀色の瞳に、恐怖と安堵が入り混じっている。俺の腕を掴む其の手に、白くなるほど力が籠もった。
「…ありがと」
掠れた声だった。互いの手が触れ合ったまま、一拍の間を置く。言葉にしなくても、此の異常な状況へ放り出された者同士としての短い信頼が、掌の温度を通じて積み重なっていった。
「みんな、無事!?」
優菜の声がした。振り返ると、彼女は浮遊した椅子の背を必死に掴んで体勢を保っていた。顔色は蒼白だが、其の瞳には恐怖に負けない強い光が宿っている。
「ああ。何とかな」
達臣が低い声で答えた。彼は何かに掴まるでもなく、重心を低くして水面の上に立っていた。まるで此の重力の歪みに慣れているかのような動きだ。其の冷静さに、只者ではないという確信が深まるが、今は其れを追及している場合ではない。
「達臣、出口は」
俺が問うと、彼はゆっくりと首を振った。其の視線が、俺たちが入ってきた方角を指し示す。
「消えた。入り口だった場所も、此の水面の一部だ」
其処にあったはずの傾いたアルミ扉も、錆びた蝶番も、其れら全てが黒い水へ同化して消滅していた。戻る道はない。俺たちは完全に、此の異様な空間へ閉じ込められたのだ。
「あたし、聞こえる」
マリナが俺の腕を掴んだまま、虚ろな目で黒い水面の奥を見つめた。
「あの子の声が。海の底から呼んでる。『こっちへ来て』って」
其の声は、窓ガラスに映っていた五つ目の影の口の動きと同じだった。相談者の友人。彼女は此の異界の更深くへ引きずり込まれている。戻る道がないのなら、前に進むしかない。彼女を残してはいけない。俺の性分が、腹の底から其れを訴えている。
(九衣)
呼びかけると、鞄の中から微かに震えが伝わってきた。
「ネズミ君、気をつけて。ここはフェリーと同じ側だよ。記録にある異界の性質と合致する。断定はできないけど、でも間違いない。此処はあの夜の船の中と同じ場所へ繋がってる」
同じ場所。同じ異界。其の言葉が、俺の背筋を冷たい指で撫で下ろした。あの黒い泥と触手の感触が、生々しく蘇る。だが、逃げ場はないのだ。
黒い水面が、再び大きく膨らんだ。波が足首を越え、膝へと迫る。四人の足元を飲み込もうと、黒い海が口を大きく開けた。
「掴まってろ!」
俺は叫び、マリナの手首を強く握り直した。優菜が達臣の腕へしがみつくのが視界の端で見えた。
重力が反転する。浮き上がる感覚と、引きずり込まれる感覚が同時に襲いかかり、視界が黒いインクへ塗り潰されていく。
旧桟橋を模した異界が、俺たち四人を飲み込んだ。
黒い水面が引いていく。
まぶたを開けた時最初に見えたのは空だった。いや、空ではない。空の形をした黒い膜だ。星も月もない。ただ濃淡のない漆黒が、頭の上に果てしなく広がっている。其れなのに視界は不思議と明るい。光源はどこにもないのに、自分の手のひらも隣に立つマリナの横顔も、妙にはっきりと見える。
足元は──海だった。
だが水ではない。粘度を持った黒い膜の上に、俺たちは立っている。靴底が其の表面に沈まず、まるで氷の上に乗っているような感触だ。波はない。けれど其の表面が、呼吸するようにゆっくりと膨らみと縮みを繰り返している。
「此処は…」
優菜の声が、水音のない空間に吸い込まれていく。彼女は達臣の腕を掴んだまま、周囲を見回していた。其の顔から血の気が引いている。
「旧桟橋だ」
達臣が言った。其の声はやはり平坦だったが、周囲を見渡す目には警戒が滲んでいる。彼の視線の先を追うと、確かに見覚えのある鉄骨の骨組みが黒い空へ向かって伸びていた。錆びた支柱。割れたコンクリートの床。其れはさっきまで俺たちが立っていた旧第4桟橋の構造物そのものだった。だが全てが、黒い膜を被ったように濡れている。表面に艶があり、水を吸った漆喰のように鈍く光っている。
「異界化した旧桟橋、か」
「ネズミ君、正解」
鞄の中から九衣の声がした。小さく、けれど確かに俺の耳だけへ届く。
「ネットの記録だと、沖縄ジェイルの時も同じ現象があった。現実の建物が其のまま異界へ取り込まれるパターン。形は元のまま。でも空気も水も全部此方側のものに置き換わる。記録ではね」
(此方側、って何だ)
「分からない。でも一つだけ言える。あの夜のフェリーの中と、同じ匂いがする」
其の通りだった。潮と鉄錆と腐った果物の甘さが混ざった匂いが、此処では濃厚だ。まるで此の黒い膜そのものから発せられているように、鼻腔の奥へ粘りついて離れない。
「みんな、大丈夫?」
マリナの声がした。彼女は俺のすぐ隣に立っていた。手首はまだ俺が掴んでいる。其の手首が、さっきより少しだけ温かい。黒い水面を渡ってきたからだろうか。体温が戻りつつある。
「マリナさんは?」
「平気。ちょっと酔ったみたいな感じだけど」
彼女はそう言って、掴まれた手首を見下ろした。それから俺を見上げて、口元だけで笑う。冗談めかした笑顔だったが、目は笑っていない。
「離さなくていいよ。此処、変だし」
「そうする」
俺は手を離さなかった。其の判断が正しいかどうかは分からない。ただ、此の黒い空間で彼女の手首を離したら其の瞬間に此処からいなくなるような気がしたのだ。
「瑞生」
達臣が低い声で呼んだ。優菜が振り返る。其の顔は強張っていたが、目はしっかりと前を見ていた。
「此処がどこかは分からない。だが、さっきの待合所から続いている場所だ。見て回るぞ。真瀬、マリナさんは任せる」
「分かった」
達臣は頷くと、先頭を歩き出した。其の足取りは慎重だったが、迷いはなかった。まるで異界の歩き方を知っているかのような、重心の低い進み方だ。
(こいつ、やっぱり普通じゃない)
俺は其の背中を追いながら、周囲を見回した。旧桟橋の鉄骨が等間隔に並び、其の間を縫うように黒い膜の床が続いている。其の先。桟橋の最も海側へ突き出した先端に、人影があった。
座っている。
誰かが、桟橋の縁に腰を下ろしている。背中を俺たちの方へ向け、足をぶらぶらと揺らしている。其の姿を見た瞬間、マリナの手首がびくりと震えた。
「あの子…」
マリナの声が掠れた。俺も同じ思いだった。写真で見た後ろ姿。ハワイ料理店の窓ガラスに映っていたのと同じ細い肩のライン。相談者の友人が、其処にいた。
「ちょっと待って。危ない」
優菜が走り出そうとするのを、達臣が腕を掴んで止めた。其の目が少女の周囲を慎重に観察している。
「待て。あの子の周りだけ、黒い水の色が違う。濃い」
確かに其の通りだった。少女が座っている桟橋の先端だけ、黒い膜の色が一段と濃く底が見えないほど深い。まるで其処だけ、異界の深淵へ穴が開いているかのようだ。
「一人で行くな。俺が先に声をかける」
俺はマリナの手首を離し、代わりに優菜の肩を軽く叩いた。達臣とアイコンタクトを取る。彼は一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。其の判断は正しいと認めたのだろう。俺が前に出る。
ゆっくりと、黒い膜の上を歩く。一歩ごとに其の表面が微かに沈み、足を離すとゆっくりと元へ戻る。呼吸する床。あの夜のフェリーの船壁と同じだ。
少女の背中が近づく。五歩。四歩。三歩。
「あの」
声をかけた。其の声は思ったより静かだった。
「迎えに来た。相談者に頼まれて」
少女が振り返った。
其の顔を見て俺は息を呑んだ。写真と同じ顔。同じ髪型。同じ制服。だが其の表情は──笑っていた。口元が綺麗に弧を描き、目が三日月のように細められている。完璧な笑顔だ。其れなのに、其の目が笑っていない。いや笑っていないというより、何も映していない。焦点が合っていないのだ。俺を見ているようで、其の実何も見ていない。硝子玉のような瞳が、此方を通り越して虚空を見つめている。
「あら、来てくれたんだ」
少女の声は明るかった。其の声もまた、店で聞いたという証言と同じ。けれど其の明るさには温度がない。録音を再生しているような、均一な明るさ。
「ここ、いいところだよ。嫌なこと何も考えなくていいの」
少女が足を揺らす。其の動作に合わせて背後の海面が揺れた。黒い膜の奥。深い深い其の底に、何かがある。青い光がゆっくりと浮かび上がってくる。
(あれは──)
青い仮面だった。海面の下に人の顔ほどの大きさの青い仮面が浮かんでいる。能面のような無表情。其れが、少女の動きに合わせて僅かに傾いた。少女が首を傾けると、仮面も同じ角度へ。だが一瞬だけ遅れる。少女の動作が終わってから、仮面が追いつく。まるで影が本体に遅れるように。
「お姉さんが心配してた。此処に来たって聞いて」
俺は慎重に言葉を選んだ。近づかない。あと三歩分の距離を保つ。其れ以上近づけば、俺も此の黒い水に足を取られる気がした。
「心配? なんで?」
少女は首を傾げた。其の目が初めて微かに動いた。焦点が合わないまま、俺の方向へ。
「私、今すごく幸せなのに。嫌なこと、全部消してくれるの。此処にいれば何も考えなくていい。みんなも笑えるよ」
「みんな?」
「ずっとそばにいてくれる人」
少女は海面へ視線を落とした。其の目線の先、青い仮面がゆっくりと浮かび上がる。水の膜を隔てて、其れは少女の背中にぴたりと寄り添うように浮かんでいた。
「店で誰と話してたの?」
マリナの声が後ろからした。俺が振り返ると、彼女はいつの間にか俺のすぐ後ろまで来ていた。達臣が止めようとしたのだろう。其の手が宙に浮いている。だがマリナの目は、真っ直ぐに少女へ向いていた。
「ずっと、そばにいたよ」
少女が答えた。其の声は、さっきより少しだけ低かった。
「店でも。船でも。ずっと。だから私は笑ってられたの。嫌なこと、忘れられたから」
「でもあんた、料理食べてなかったじゃない」
マリナの声が震えた。其の声には、怒りにも似た強さがあった。
「ロコモコ、一口しか食べてなかった。おいしいって言ったのに、目が笑ってなかった。あたしそれがずっと引っかかってたんだよ」
少女の笑顔が微かに揺らいだ。其の揺らぎに合わせて、背後の青い仮面が大きく脈打つ。海面が膨らみ、黒い膜が盛り上がった。
「此処なら…嫌なこと…」
少女の口が、同じ言葉を繰り返す。其の声が機械のように平坦になっていく。
「みんなも…笑える…」
「おい、下がれ」
俺は咄嗟に叫んだ。マリナの腕を引き、後ろへ下がる。達臣が優菜を庇うように前に出た。其の瞬間。
青い仮面が、割れた。
青い仮面が内側から弾けた。
割れた陶器のような鋭い音が、黒い膜の上を滑っていく。其の裂け目から溢れ出したのは、濃密な泥だった。鉄錆と腐敗を煮詰めたような臭気が、視界ごと塗り潰しにかかる。黒い泥が盛り上がり、人の胴ほどもある触手を形作っていく。
「下がれ!」
俺の叫びと同時に、泥の触手が鞭のようにしなり、優菜へと振り下ろされた。
達臣が動いた。彼の腕が優菜の腰を抱き寄せ、其の身体を強引に床へと引き倒す。頭上を触手が風を切って通り過ぎる。直撃を免れたものの、其の余波だけで空気が歪み、優菜の髪が泥の飛沫で汚れる。
「瑞生!」
マリナが悲鳴を上げた。だが其の声は、水に沈んだように鈍く響いた。
足元が隆起する。
黒い膜が、呼吸のリズムを超えて痙攣し始めた。床が山脈のように盛り上がり、錆びた鉄柱が軋む悲鳴を上げて傾いていく。逆流する海水。黒い水が重力に逆らって宙へ昇り、雨のように降り注ぐ。其の水幕が、俺と彼らの間に立ちはだかった。
「真瀬!」
達臣の声が、水槽の外から響くように歪んで聞こえる。彼は泥の奔流に押され、崩れた待合所の方角へと距離を取られていた。優菜とマリナも其の背後へ庇われている。だが少女は、動けない。桟橋の先端で、相変わらず虚ろな笑みを浮かべたまま、泥に足を取られている。
空間が、分断された。
黒い泥の壁が俺と三人の間を完全に遮断した。歪んだ声だけが、水の膜を通して微かに届く。此処は、俺と、少女と、そして其の背後に憑く青い仮面だけの世界だ。
(隔離された。俺だけを)
敵の意図は明白だ。邪魔な目撃者を排除し、最容易な獲物だけで狩りを行う場を作ったのだ。
恐怖が、冷たい指として背骨を這い上がる。あの夜のフェリー。泥の底へ引きずり込まれた窒息感。触手に締め上げられた骨の軋み。指先が、この暑い沖縄の夜だというのに、氷のように震えた。
「ネズミ君」
鞄のチャックが開く音がした。九衣の小さな前脚が、其の奥から折り畳まれたマイスドライバーを差し出している。
「今なら、誰にも見られない」
其の声は、配信者としての冷静さと、死者としての静けさを混ぜていた。
俺は、震える指でドライバーを握りしめた。硬質な感触が、掌の汗と冷たさを吸い取っていく。
逃げられないから、変身するのではない。
向こう側に置いてきた四人を、絶対に此の世界へ残してはおけないからだ。あの笑顔の少女も、明るい店員も、好奇心の強い同級生も、正体不明の観察者も。
「ああ」
俺は短く息を吐いた。其れは、肺の奥にへばりついていた腐敗臭を吐き出すようだった。
「今度は、最初から守る」
ドライバーを腰へ装着。バックルが噛み合う重い音。ライドエグズをセットし、円盤を衝突させる。
卵が割れる音と共に、世界が反転する。泥の重みが消え、視界が鮮明に切り取られていく。身体が羽のように軽く、其の実鋼のように硬い。
変身。
視界の端で、泥の触手が再び蠢いた。標的は少女だ。虚ろな笑顔のまま、泥へ引き込まれようとしている。
「させるか!」
地を蹴る。脚力が、黒い膜の上を滑ることなく推進力へと変換される。鼠の尾が背後の触手の気配を察知し、身体が自動的に低い姿勢へと沈む。其のまま、方向転換。泥の雨を縫うように駆け抜け、少女と触手の間へ滑り込んだ。
マイスエッジの刃が、宵闇の中で青白く光る。シューターモードの銃口を触手へ向け、引き金を引く。
衝撃。泥の塊が弾け飛び、腐敗臭が鼻腔を突く。だが倒せない。少女と繋がっている以上、根元へ切り捨てることは不可能だ。
触手が唸りを上げて迫る。俺はマイスエッジをスライサーモードへと変形させ、其の軌道を刃で受け止めた。
泥と合金が擦れ合う、耳障りな金属音。衝撃が腕へ走り、骨がきしみる。
青い仮面が、泥の奥で揺らいでいた。あの夜と同じ、無表情な仮面。だが今の俺には、其の空虚な笑みも、背後で蠢く気配も、決して絶望に見えない。
「連れて帰る」
俺は唸る触手を押し返し、少女の前へ仁王立ちになった。
泥の触手が、逆巻く波のように襲いかかる。俺は其れを受け止め、弾き、退かない。
初撃が、激突した。