PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
触手と刃が弾け合った衝撃で、泥の壁に亀裂が走った。
分断された空間が軋みを上げて崩れていく。俺は地を蹴って後退し、崩れた待合所の柱の陰へ滑り込んだ。泥の壁が完全に消え、優菜と達臣とマリナの姿が視界に戻る。三人は崩れたコンクリートの影に固まっていた。無事だ。だが──
「真瀬君、あの子が!」
優菜の叫び声が、黒い膜の上を滑って届いた。
桟橋の先端。少女が立っていた。いや、立たされていた。黒い泥が彼女の足首から膝へ、膝から腰へと徐々に這い上がっている。少女は笑ったままだ。虚ろな瞳で、海の底を見つめ続けている。
其の背後で、青い仮面が変貌していた。
一つだった仮面が二つに割れている。左右非対称の二つの面が、互いに半拍ずつずれて同じ声を放つ。
「コッチ」
「──コッチ」
重なる呼び声。だが其のタイミングが半拍ずれている。左右の耳へ別々の波として届き、脳の中心で干渉し合う。吐き気がした。方向感覚が溶ける。前がどこで後ろがどこか分からなくなる。
(此の声、二つの仮面から別々に飛ばしてやがる)
判断が鈍る。不可思議への対処と、仲間の保護。其の二つを同時にやらなきゃならないのに、身体が一枚の板のように其の場に釘付けになっている。あと三秒。三秒迷えば少女は海へ沈む。だが此処で俺が動けば、優菜たちが曝される。
「ネズミ君、上」
九衣の声が鞄の中から響いた。其の声に反射して視線を上げる。
旧桟橋の鉄骨。錆びたI型鋼の上に、影があった。
人だ。だが其のシルエットは普通の人間とは明らかに異なっていた。頭部から真上へ伸びる二本の耳。異様に長い。夜風に靡かない。金属的な硬さを持った其の耳が、微かに動いて角度を変えている。何かを聴いている。いや──さっきからずっと聴いていたのだ。不可思議が動き出す前から、其の影は既に海の方角へ顔を向けていた。
(こいつ、あの仮面が声を出す前から位置を把握していた。聴覚か。常人じゃない)
正体不明。味方か敵かも分からない。だが少なくとも、不可思議と同じ側ではない。其の耳が不可思議の位置を追い続けている。獲物を狙う耳だ。
期待と警戒が同時に胸を突いた。助けに来たのか。それとも別の目的で此処にいるのか。答えは出ない。出す時間もない。
「マリナさん!」
俺は振り返り、倒れかけた柱の陰に蹲るマリナへ声をかけた。其の琥珀色の瞳が、俺を真っ直ぐに見返す。恐怖がある。だが其の奥に、何かを堪える強さがある。
「あの子の手を離さないで。すぐ追いつく。避難路へ走れ」
「あなたは!」
マリナが叫ぶ。俺の手首を掴もうとする其の手を、俺は避けなかった。けれど掴ませなかった。一歩退いて、其の手から指を解く。
「周囲を確認してから行く。心配するな」
嘘だ。周囲を確認するつもりはない。だが今、本当のことを言えば彼女は動かない。此の娘は俺を放っておけないタチだ。店でも桟橋でもそうだった。だからこそ、短い嘘で背中を押す。
マリナの目が揺れた。一秒。迷い。けれど其の横で達臣が動いた。彼は無言でマリナの肩を掴み、優菜の背を押して崩れた待合所の出口へ誘導する。其の動きには迷いがない。俺の嘘を真とも受け取ったのか、それとも俺の意図を見抜いた上で従ったのか。どちらでもいい。
「真瀬、死ぬなよ」
達臣が一度だけ振り返って言った。其の声は低い。だが其の目は笑っていなかった。生きて戻れと言っている。こいつは知っている。俺がただの転校生ではないことを。そして此処から先が、普通の高校生の立ち入る場所ではないことを。
三人の足音が遠ざかっていく。泥の膜の上を走る音が、波の音に混じって消えていく。
俺は積み荷の陰へ滑り込んだ。崩れた鉄骨とコンテナの隙間。此処なら誰にも見えない。
「九衣」
「出してる」
鞄のチャックが開く。九衣の尻尾が其の奥から折り畳まれたマイスドライバーを差し出した。赤茶色の布地に、金色のタグが揺れる。
俺は一度息を吐いた。肺の底に残っていた腐敗臭が、細い糸のように喉から引き抜かれていく。
逃げられないから変身するのではない。向こう側へ残した四人を連れ帰るために変身する。
ドライバーを腰へ装着。バックルが噛み合う。ライドエグズをセットし、円盤を衝突させる。
『エッグリューション』
『マイス!』
卵が割れる音。世界が反転する。泥の重みが消え、視界が鮮明になる。鼠の尾が背後の気配を捉え、身体が低く沈む。フェリーより慣れている。あの夜より、確かに此の身体を知っている。
桟橋の先へ駆ける。黒い膜の上を滑らずに走る。靴底が粘度を持った表面を噛み、推進力へ変わる。
二つの仮面が同時に俺を向いた。
「コッチ」
「──コッチ」
半拍の差。左右の耳へ別れる波。脳が揺れる。だがフェリーで学んだ。此の声に抗える。真正面から受けず、首を少し傾けて片耳を塞ぐ。片方の声だけを拾う。方向感覚が戻る。
少女の足元に泥が迫っている。触手が其の腰へ巻き付こうとしている。俺はマイスエッジをスライサーモードへと変形させ、触手の軌道へ刃を滑り込ませた。泥と合金が擦れる音。触手が弾かれ、少女の腰から離れる。
「みんなも笑える」
「──みんなも笑える」
二つの仮面が同じ言葉を半拍ずれて繰り返す。其の声が重なった瞬間、泥の床が凍りついた。氷結波。黒い膜の表面に白い霜が走り、俺の靴底が氷結する。動けない。触手が再び蠢き、今度は俺の方へ──
其の時だった。
頭上から、音がした。
風を切り裂く音。いや、其れよりも鋭い。空気そのものを断ち切るような音が、鉄骨の上から落下してきた。
俺は反射的に其の方角を見た。
長い耳が闇の中で揺れていた。二本の耳が、まるで針のように真っ直ぐに伸びている。其の耳の付け根、兜割の奥で、マゼンタ色の光が点灯した。複眼だ。暗闇の中で紫紅色に燃える二つの光。其れが俺を見た。いや、俺の後ろの不可思議を見た。
落ちてくる。
鉄骨から真っ直ぐに。其の身体は落下其のものだった。重力を利用した突撃。だが着地の直前、足裏が噴いた。橙と白の閃光。噴射。衝撃が着地ではなく前方的跳躍へと変換される。
空中で其の姿が見えた。青緑色の装甲。濃紺の関節部。細い胴部。そして異様に大きな両脚。兎の脚だ。其れが空中で体を折り畳み、跳躍の姿勢を作る。
手に持っていたのは、橙色の剣だった。刀身が長く、刃の根部が兎の耳を模している。其の剣が振り抜かれた。横薙ぎの一閃。
二つの仮面の間を、橙色的光が走った。
泥が弾けた。不可思議が海側へ吹き飛ぶ。桟橋の縁を削り取り、黒い水飛沫を上げて、二つの仮面が宙へ放り出される。
着地。
細い胴部が折り畳まれた姿勢から伸び、大型の両脚が泥の膜の上を噛む。滑らない。停止。其の背中に小さな尾が揺れた。腰にはマイスドライバー。其の形状は俺のものと同系統だ。だが色も意匠も違う。
マゼンタ色の複眼が、吹き飛んだ不可思議の方角を向いた。装甲越しに、くぐもった声が響く。
「見つけた」
其れだけだった。
ダットが海側へ弾き飛ばされた不可思議を追って跳んだ。
真っ直ぐには走らない。錆びた支柱を蹴り、傾いた街灯の柱を蹴り、地面へほとんど足を着けない。着地点が変わるたびに鉄骨が鳴り、月明かりの中を長い耳と橙色の剣の軌跡が横切っていく。兎だ。あの装甲の加速は兎そのものだ。着地と次の跳躍の間に静止がない。跳ぶことが走ること。空中で既に次の方向へ身体を折り畳んでいる。
不可思議は泥の身体を再生しながら桟橋の海側へ退いていた。二つの仮面が半拍ずれて笑う。
「コッチ」
「──コッチ」
だがダットは止まらない。分身が二体に増えた。影の分身。黒い泥で作られた鏡像が左右へ分裂し、同じ動きで同じ軌道を描く。だがダットの長い耳がピクリと動き、片方だけを向いた。音の反響だけで分身と本体を判別した。聴覚。あの耳は見ているのではなく聴いている。心音の差、足音の質、空気を裂く音の深さ。其れだけを頼りに本物を見抜いている。
速い。
俺は其の動きを見ながら、素直に認めた。此の速さなら仕留められる。マイスの機動力とは質が違う。俺が地形と死角を利用して戦うなら、こいつは速度そのもので押し潰す。桟橋の端へ追い詰められた不可思議が、もう逃げ場を失いかけている。ダットが高く跳んだ。急降下斬り。橙色の短剣が頭上で弧を描き不可思議の二つの仮面へ向けられて振り下ろされる──
(待て)
其の軌道上に、他のものが見えた。
桟橋の床が白い。不可思議が放った冷気で黒い膜の表面が凍りついている。氷結波。其の冷気が避難路へまで広がり、走っていたマリナの足元を凍らせた。マリナが転ぶ。其の手は離したはずの少女の手首を掴んだままだ。離さなかった。だから一緒に倒れた。少女が氷の上に崩れる。二人の身体が、ダットの斬撃の着弾点のすぐ脇にあった。
だけではない。倒れた二人の下に、桟橋の床が悲鳴を上げている。崩れかけたコンクリートが凍結で脆くなり、亀裂が走っている。あの一撃を受ければ不可思議だけではなく床ごと落ちる。
ダットも分かっている。マゼンタ色の複眼が一瞬だけ下方へ流れた。倒れた人間を見た。だが剣は止まらない。止めれば不可思議が逃げる。攻撃を中断すれば狩られる。其の計算が見えていた。
俺は考えるより先に動いた。
敵意ではない。あのライダーが悪いわけではない。ただ其の一撃を止めなければ人が巻き込まれる。其れだけだ。
マイスエッジをスライサーモードへ変形させ、地を蹴る。凍結した床の上を滑る。滑ることを推進力に変える。鼠の尾が背後の気配を捉え重心を低くする。倒れた二人の前に滑り込み、短剣の刃を俺の剣で受け止めた。
金属同士が噛み合う音が、夜の桟橋に響いた。
衝撃が腕へ走る。重い。此の剣、其れ自体が質量の塊だ。だがマイスエッジは弾けない。刃の腹で衝撃を受け流す。鍔迫り合い。長くはない。一秒もない。
「退いて」
装甲越しの声だった。くぐもっていて性別も年齢も分からない。だが其の声には苛立ちがあった。初めてだ。あの「見つけた」以外何も言わなかったライダーが感情を見せた。
「今なら仕掠められる」
「其の一撃で桟橋ごと落ちる」
俺は足元を顎で示した。倒れたマリナと少女。凍結した床板。其の下に広がる黒い海。
「守っている間に次が連れてかれる」
ダットの声が低くなった。其れは脅しではなく事実の指摘だ。俺が此処で剣を受け止めている間にも、二つの仮面は再生を始めている。泥が蠢き、新たな触手が海底から湧き上がっているのが視界の端で見える。
「逃がさない」
俺はマイスエッジを押し返しながら言った。
「けど此処にいる誰も潰させない」
ダットのマゼンタ色の複眼が俺を捉えた。一秒。其の瞳の奥で何かが計算されている。俺の実力を測っているのか、それとも俺の覚悟を量っているのか。
其の一秒が命取りだった。
不可思議が動いた。二つの仮面が同時に口を開く。今度は半拍のずれがない。完全に同期した声が、凍った空気を震わせた。
「──笑える」
凍結波が放たれた。其れは不可思議と俺たちの間ではなく、俺とダットの間だった。二人の鍔迫り合いの中心へ、泥と氷の奔流が割り込んだ。
衝撃。俺は陸側へ弾き飛ばされた。凍った床の上を転がり、マイスエッジで身体を支える。ダットは空中で身をひねり、氷結波を避けて着地した。其の着地は安定していたが、追撃の軌道は完全に逸れた。
三つ巴になった。
俺とダットと不可思議。三者がそれぞれ距離を取り、同じ桟橋の上で対峙する。俺は避難者と不可思議の間。ダットは海側から不可思議の退路を塞ぐ位置。不可思議は桟橋中央で二つの仮面を緩やかに回転させている。
「ネズミ君、避難路は確保できてる。マリナさんたち陸側へ移動中。でもあの子が転んで一行から遅れてる。氷が溶けるまで動けないかもしれない」
九衣の声が通信で響いた。
「あと桟橋の崩落箇所。海側から三本目の支柱が根元から折れてる。あそこ以上の衝撃を与えると全部落ちる」
(分かった)
俺はマイスエッジを構えたままダットを見た。ダットも俺を見ていた。マゼンタ色の複眼と俺の黄色い複眼が、夜の中で交差する。共闘ではない。信頼でもない。ただ同じ獲物を前にした二匹の獣が、互いの位置を確認し合っているだけだ。
不可思議が笑った。
「コッチ」
「──コッチ」
半拍の差が戻った。二つの仮面が別々の方角へ声を飛ばす。右から左へ。左から右へ。音が交差し脳が揺れる。だがダットの耳が動いた。長い二本の耳が同時に別々の方角へ向く。右の耳が右の仮面を、左の耳が左の仮面を拾う。
本体を見つけた。
俺たち二人が同時に動いた。同じ不可思議へ、別々の角度から攻撃を仕掛ける。俺は低く滑り込み触手の軌道を塞ぐ。ダットは高く跳び急降下で本体を狙う。
共闘ではない。ただ目的が重なっただけだ。ダットが海側へ弾き飛ばした不可思議を追って跳んだ。
真っ直ぐには走らない。錆びた支柱を蹴り、傾いた街灯の鉄柱を蹴り、地面へほとんど足を着けない。着地点が変わるたびに鉄骨が悲鳴のような音を立て、月明かりの中を長い耳と橙色の剣の軌跡が横切っていく。
速い。
俺は其の動きを見ながら素直に認めた。あの装甲の加速は兎そのものだ。着地と次の跳躍の間に静止がない。跳ぶことが走ること。空中で既に次の方向へ身体を折り畳んでいる。マイスの機動力とは質が違う。俺が地形と死角を利用して戦うなら、こいつは速度そのもので押し潰す。
不可思議は泥の身体を再生しながら桟橋の海側へ退っていた。二つの仮面が半拍ずれて笑う。
「コッチ」
「──コッチ」
だがダットは止まらない。影の分身が二体に増えた。黒い泥で作られた鏡像が左右へ分裂し、同じ動きで同じ軌道を描く。
ダットの長い耳がピクリと動いた。片方だけを向けた。右の耳が右の分身を、左の耳が左の分身を拾う。音の反響だけで本体と影を判別した。聴覚。あの耳は見ているのではなく聴いている。心音の差、足音の質、空気を裂く音の深さ。
本体を見抜いた瞬間、ダットの軌道が変わった。
桟橋の端へ追い詰められた不可思議が逃げ場を失いかけている。ダットが高く跳んだ。急降下斬り。橙色の短剣が頭上で弧を描き、二つの仮面へ向けられて振り下ろされる──
(待て)
其の軌道上に、他のものが見えた。
桟橋の床が白い。不可思議が放った冷気で黒い膜の表面が凍りついている。氷結波が避難路へまで広がり、走っていたマリナの足元を凍らせた。マリナが転ぶ。其の手は離したはずの少女の手首を掴んだままだ。離さなかったから一緒に倒れた。少女が氷の上に崩れる。
二人の身体が、ダットの斬撃の着弾点のすぐ脇にあった。
だけではない。倒れた二人の下で桟橋の床が悲鳴を上げている。崩れかけたコンクリートが凍結で脆くなり、亀裂が根元まで走っている。あの一撃を受ければ不可思議だけではなく床ごと落ちる。
ダットも把握している。
マゼンタ色の複眼が一瞬だけ下方へ流れた。倒れた人間を見た。だが剣は止まらない。止めれば不可思議が逃げる。攻撃を中断すればまた狩られる。其の計算が透けて見えた。
俺は考えるより先に動いた。
敵意ではない。あのライダーが悪いわけではない。ただ其の一撃を止めなければ人が巻き込まれる。其れだけだ。
マイスエッジをスライサーモードへ変形させ、地を蹴る。凍結した床の上を滑る。滑ることを推進力に変える。鼠の尾が背後の気配を捉え、重心を低くする。倒れた二人の前に滑り込み、短剣の刃を自分の剣で受け止めた。
金属同士が噛み合う音が夜の桟橋に響いた。
衝撃が腕へ走る。重い。此の剣、其れ自体が質量の塊だ。だがマイスエッジは弾けない。刃の腹で衝撃を受け流す。
鍔迫り合い。長くはない。一秒もない。
「退いて」
装甲越しの声だった。くぐもって性別も年齢も分からない。だが其れは初めて感情を見せた声だった。「見つけた」以外何も言わなかったライダーの苛立ち。
「今なら仕留められる」
「その一撃で桟橋ごと落ちる」
俺は足元を顎で示した。倒れたマリナと少女。凍結した床板。其の下に広がる黒い海。
「守っている間に次が連れてかれる」
ダットの声が低くなった。脅しではなく事実だ。俺が剣を受け止めている間にも二つの仮面は再生を始め、泥が蠢き新たな触手が海底から湧き上がっているのが視界の端で見える。
「逃がさない」
俺はマイスエッジを押し返しながら言った。
「けどここにいる誰も潰させない」
ダットのマゼンタ色の複眼が俺を捉えた。一秒。其の瞳の奥で何かが計算されている。俺の実力を測っているのか、覚悟を量っているのか。
其の一秒が命取りだった。
不可思議が動いた。
二つの仮面が同時に口を開く。今度は半拍のずれがない。完全に同期した声が凍った空気を震わせた。
「──笑える」
凍結波が放たれた。
俺とダットの間へ。二人の鍔迫り合いの中心へ泥と氷の奔流が割り込んだ。
衝撃。俺は陸側へ弾き飛ばされた。凍った床の上を転がりマイスエッジで身体を支える。
ダットは空中で身をひねり、氷結波を避けて着地した。大型の両脚が泥の膜を噛む。安定していたが追撃の軌道は完全に逸れた。
三つ巴になった。
俺とダットと不可思議。三者がそれぞれ距離を取り同じ桟橋の上で対峙する。俺は避難者と不可思議の間。ダットは海側から不可思議の退路を塞ぐ位置。不可思議は桟橋中央で二つの仮面を緩やかに回転させている。
「ネズミ君、避難路は確保できてる。マリナさんたち陸側へ移動中。でもあの子が転んで一行から遅れてる。氷が溶けるまで動けないかもしれない」
九衣の声が通信で響いた。
「あと桟橋の崩落箇所。海側から三本目の支柱が根元から折れてる。あそこ以上の衝撃を与えると全部落ちるよ」
(分かった)
俺はマイスエッジを構えたままダットを見た。
ダットも俺を見ていた。
マゼンタ色の複眼と俺の黄色い複眼が夜の中で交差する。共闘ではない。信頼でもない。ただ同じ獲物を前にした二匹の獣が互いの位置を確認し合っているだけだ。
不可思議が笑った。
「コッチ」
「──コッチ」
半拍の差が戻った。二つの仮面が別々の方角へ声を飛ばす。右から左へ。左から右へ。音が交差し脳が揺れる。
だがダットの耳が動いた。長い二本の耳が同時に別々の方角へ向く。
本体を見つけた。
俺たちは同時に動いた。
同じ不可思議へ、別々の角度から攻撃を仕掛ける。俺は低く滑り込み触手の軌道を塞ぐ。ダットは高く跳び急降下で本体を狙う。
二つの仮面が左右へ開かれた。
まるで本の栞を挟むように、黒い泥の裂け目が桟橋の両端へ伸びていく。陸側と海側。二つの退路が同時に現れた。だが其れは避難路ではない。不可思議が用意した檻だ。安全に見えた通路の床が、呼吸するように波打ち始める。白く凍っていた床板が泥濘に変わり、黒い海が其の下から口を開けている。
「逃げて!」
優菜の悲鳴が、崩れゆく構造物の軋みに掻き消された。
マリナが立ち尽くしていた。彼女の目の前、陸側の退路だけがまだ形を保っている。其処へ走れば一人だけでも助かる。だが其の背後では、凍りついた床に取り残された少女が、泥に足を取られながら虚空へ手を伸ばしていた。
(逃げろ。マリナ)
俺の思考が、喉の奥で凍りついた言葉になる。ダットを追えば、不可思議を此の異界から追い出せる。だが此のまま彼らを置いて跳べば、この桟橋ごと黒い海へ沈む。追うか、守るか。其の二つが天秤にかかる。
マリナが動いた。彼女は逃走を選ばなかった。震える指で胸元のホヌのチャームを握りしめ、踵を返す。泥に沈みかけた少女の元へ。其の細い腕を、自分の肩へ回す。
「置いて帰ったら、明日から店で笑えないでしょ!」
其の声は泣き言ではなく、不届きな客を叱りつける店員の明るい声だった。
俺は選んだ。迷いを捨てて、地を蹴った。
頭上で鉄骨が悲鳴を上げ、腐ったコンクリートの塊が落下してくる。マリナたちの退路を塞ごうとする影。俺はマイスエッジを捨て刀にし、両手で其の鉄骨を受け止めた。
衝撃が肩甲骨を砕くような重さで降ってくる。歯が砕けそうなほど噛み締め、膝を折らないように筋肉を鋼へ変える。泥の床がめり込み、靴底が軋む。だが支えた。二人の頭上に、鉄の天蓋を作る。
「退いて!」
ダットの声が上から降ってきた。マゼンタ色の複眼が、俺の頭上を越えて海側を見ている。
「追えるのは私だけ」
「なら追え」
俺は鉄骨の下で唸った。視界が赤く滲む。酸素が足りない。だが声だけは鋭く放った。
「ここは俺が守る」
ダットは一瞬の躊躇もなく頷いた。其の長い耳が逆立ちし、大型の脚が泥を爆砕する。跳躍。橙色の短剣が空を切り、不可思議の放った冷気の奔流を紙のように裂いていく。剣の軌道が僅かに変わり、俺たちから攻撃を逸らす。其の隙に、ダットは海側の鉄骨を足場にして、更に奥へと跳んでいった。
不可思議が逃げる。二つの仮面を閉じ、少女の声を模した二重の叫びを上げながら、黒い海の奥へと其の身を沈めていく。ダットの影が其れを追い、月明かりに照らされた波間へと消えていった。
静寂が戻った。
いや、波の音が戻ってきただけだ。鉄骨を支える腕が、限界を訴えて震える。ゆっくりと其れを横へずらし、地面へ落とす。土煙が上がり、俺は膝から崩れ落ちそうになった。
「真瀬君!」
優菜の声がした。達臣がマリナと少女を支えながら、崩れた避難口へと向かっている。無事だ。全員、此の世に残っている。
俺は物陰へ滑り込んだ。変身を解除する。装甲が赤茶色の霧となって解け、身体にまとわりつく疲労が生々しく蘇る。肩が熱い。骨の髄まで痺れている。深く息を吸い込むと、潮の匂いと共に肺が痛んだ。
一瞬だけ目を閉じ、呼吸を整えてから、俺は崩れた桟橋の縁へと歩き出した。
「戻ってくるって思ってた」
マリナが、少女を肩に抱いたまま振り返った。其の目元は赤いが、其処には涙よりも強い光があった。
「無茶しないでって言ったのに」
「無茶はあんたもだろ」俺は肩をすくめた。痛みが走る。「あそこで戻らなかったら、明日から俺たちどっちも笑えなかった」
マリナが短く笑った。其れは店で聞いた明るい声と同じで、けれど其処には共有した恐怖の分だけの重みがあった。
「それ、そっくり返すよ」
其の時だった。
マリナの胸元で、ホヌのチャームが淡い光を放った。蛍の火のような、青白い光。其れは一瞬で消えたが、確かに其処にあった。
そして俺の腰元で、まだ温かいドライバーのバックルが、微かに震えた。
まだ形を持たない卵の鼓動。トクンと、一度だけ心臓が跳ねたような脈動。
(これは……)
音の正体を確かめようと手を伸ばしかけた、其の時だった。
海の奥から、音が届いた。
金属が肉を断つ鋭い音。短剣の斬撃。そして其の直後に響いた、二重の叫び声。
少女の声と、其れとは違う何かの声が重なった、歪んだ悲鳴。
夜風が、其の余韻を乗せて俺たちの頬を撫でていった。