PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
氷の張った桟橋へ冷たい飛沫が散った。
背後でマリナたちの息遣いが聞こえる。凍りついた床の上で震える少女と、その肩を抱いて離さないマリナ。彼女の「全員で帰る」という言葉が耳に残っていた。背中の甲羅に守られた二人は無事だが、目の前の氷結波はまだ止まない。
俺の手の中には、先ほどまで使っていた一個のライドエグズがあった。
マリナの胸元でホヌのお守りが淡い光を放った瞬間、その光が指の隙間へ届いた。
掌の中で重みが揺らぐ。
見るとライドエグズの表面を色の境目が滑っていた。灰色だった地色が深い緑へと塗り替わり鼠の紋様が消えていく。代わりに亀の甲羅を思わせる多角形の模様が浮かび上がる。
光が消えた後も掌の重さと握っていた位置は変わらない。ただ其処にあるのが別のものに変わっただけだ。
(仕組みは分からない。けど)
考える余裕はない。ただ胸部のマイスドライバーの装填口へ視線を移す。
「それ……私と同じライドエグズ?」
ダットの声がした。マゼンタ色の複眼が俺の手元を見ている。彼女は自分の胸元ではなく俺の手と自身の装備を見比べていた。
俺は説明を返さなかった。
「まだ帰れてないんだ」
その一言だけ告げライドエグズを握る指へ力を込めた。その掌から冷気に負けない熱が広がる。
マイスドライバーへ装填する。
カチリ。
音が鳴った瞬間装甲が軋んだ。マウスフレームの軽やかな質感が剥離れ落ちていく。代わりに鋼の接合音が全身を走る。重い。ずっしりとした質量が肩へ乗り前腕へ巻きつき脛へ沈んでくる。
胸元を見る。
黒いスーツの上に銀色の装甲が積層していく。細かな凹凸のある地肌に立体的な枠組みが重なり胸・肩・前腕・脛には赤から橙へ見える光沢のある差し色が走る。
肩には甲羅の区画を思わせる多角形の銀フレームが乗った。背中には縦長の大きな甲羅が形成される。中央の六角形とその周囲へ連なる多角形の枠。隙間から暗い内部が見える一枚板ではない其れは城壁のような守りの形だ。
視界が変わった。
額に鮮やかな緑色の亀を思わせる意匠が浮かぶ。その周囲を赤橙の縁取りが囲む銀色の面へ角張った枠組みが重なった。左右の複眼は琥珀色で細かな粒が集まったような質感に変わり口元は銀色の装甲で覆われている。
盾だ。
背中の甲羅から一枚外れ前面へ滑り込んだ六角形の盾を構える。その表面にダットの姿が歪んで映り込んでいた。
光は熱ではなかった。鋼の接合音が一つずつ響く。マウスフレームの軽やかな外装が軋みを上げて剥離れ、代わりに銀色の部材が向きを変えながら噛み合っていく。胸を囲むフレームが組み替わる。多角形の銀の枠がせり上がり、互いに噛み合って固定されるたびに、乾いた音が肋骨の上を叩いた。
圧迫感が胸へ加わる。息を吐くと、其の圧迫が少しだけ緩んだ。肺が狭くなったわけではない。胸郭を囲む装甲が呼吸に合わせて微かに動いている。生きている者に合わせて形を変える鎧だ。
胸の中央、赤から橙へ見える光沢のある差し色が露わになる。鼠の意匠が消え、代わりに亀の甲羅を思わせる多角形の紋様が浮かび上がった。銀色のフレームが其れを囲むように固定する。
肩へ重さが乗った。
多角形の枠が肩の上へせり出し、甲羅の区画を模した銀色のフレームが載る。軽くはない。だが膝は折れなかった。足を半歩開き、傾いた床へ踵を押しつける。泥の膜が其の重さに沈み、靴底がしっかりと噛んだ。
前腕へ銀色の装甲が密着する。巻き付くように、だが締め付けるのではない。皮膚の上に置かれた手のひらのような感触で、筋肉の動きを阻害しない。其の間に光沢のある赤橙の筋が走る。
肘を曲げた。指を握り込む。掌の感覚は変わっていない。だが前腕の装甲が手首の動きに連動して微かに滑る。武器を握るための力が、此れまでのマウスフレームとは違う方向へ籠もる。斬るためではなく、受けるために使える力だ。
脛へも銀色の装甲が降りてきた。足裏へ伝わる重さが増す。だが其の重さが、逆に足場を確保している。氷結した床の上で滑らない。踵が食い込む。動ける。此の身体で、まだ立っていられる。
背中へ銀色の支柱が伸びた。背骨に沿って上方へ、そして左右へ。甲羅の輪郭を描き始める。中央に六角形の枠が組み上がり、其の周囲へ多角形の枠が連なっていく。一枚板ではない。隙間から暗い内部が覗く構造だ。まだ完成していない。枠が組み合わさる音が背中の上で続いている。
「装甲が変わってる…結人、動ける?」
九衣の声が通信から響いた。通信越しでも緊張が伝わる。
「ああ。立ってられる」
指をもう一度握り込んだ。其の掌から、冷気に負けない熱が広がる。
背後で荒い呼吸が届く。マリナだ。少女を抱いたまま、此の崩れゆく桟橋で此方を見ている。其の視線が背中に刺さる。
振り返らなかった。立ち位置を変えなかった。装甲の完成を待つ。頭部の変化がまだ途中だ。額の上で銀色の面が組み上がり、枠組みが重なっていく。視界の端で緑色の光が点滅した。
ダットが其処にいた。マゼンタ色の複眼が俺を見ている。其の長い耳が微かに動いていた。何かを聴いている。俺の装甲の接合音を、呼吸の深さを、心拍の変化を。
ダットは何も言わなかった。ただ其の視線が一瞬だけ俺の胸元へ流れ、自分の装備へ戻った。
背中の甲羅が最後の枠を噛み合わせた。ガチリ。重い。だが其の重さが、背後の二人を守る壁になる。
頭部の銀色の面が固定された。額の緑が鮮やかに灯り、赤橙の縁取りが其れを囲む。複眼の色が変わった。琥珀色。細かな粒が集まったような質感が、暗い海面を反射して揺れる。
口元を銀色の装甲が覆う。
深く息を吸い込んだ。潮と鉄錆の匂いが肺を満たした。だが腐った果物の甘さは、胸の装甲に弾かれて薄れていた。
此れで、守れる。
背中の中央へ六角形の枠が定まった。
其の周囲に多角形の部材が次々と接続していく。ガチリ、ガチリ、と乾いた接合音が背骨の両側で連続する。一枚板ではない。隙間から暗い内部が覗く構造が、背中の上で甲羅の形を成していく。最後の部材が六角形の縁へ滑り込み、閉じた。
カチリ。
其の音を合図に、頭部を囲む銀色のフレームも固定された。
額の緑色の意匠が浮かび上がる。亀の甲羅を模した角張った紋様が、赤橙の縁取りに囲まれて鮮やかに灯る。視界が変わる。琥珀色の複眼が月明かりを受け、細かな粒が集まったような質感が暗い海面を反射して揺れた。口元を銀色の装甲が覆う。
足元を見た。濡れた床に、大きな甲羅を背負った影が落ちている。幅がある。背中の甲羅が作る影が、背後の二人をすっぽりと覆っていた。
重い。
背中の甲羅は確かに重い。だが其の重さが、逆に足場を叩きつけている。氷結した床の上で踵が沈み込む。滑らない。支えている。鼠の尾が背後の気配を捉え、重心が低く安定する。マウスフレームとは質が違う。速さではなく、踏ん張る力だ。
手を回した。
背中の甲羅の縁に指をかけ、固定を外す。カシュ、という空気の抜ける音が背中で響く。甲羅が背中から離れる。だが其れは消えるのではなく、前面へ滑り込んだ。六角形の中央枠が盾として形を変える。腕へ其の重さが渡る。ずしりと、だが不安定ではない。柄を握る掌に、甲羅の重量が確かな手応えとして伝わる。
盾を構えた。
其の幅に、マリナと少女の姿が隠れる。二人が盾の向こうへ収まった。空いていた側へ一歩寄る。誰も射線へ残さない位置。足を踏ん張る。傾いた床の上で踵が噛む。泥の膜が其の重さに軋むが、沈まない。
「同じエグズなのにどうしてカメなのよ!」
ダットの声が上から降ってきた。
マゼンタ色の複眼が俺を見下ろしている。長い二本の耳が激しく揺れている。其の声には苛立ちよりも驚愕が勝っていた。同じライドエグズから卯ではなく亀が現れたことへ、理解が追いついていない色だ。
「俺に聞くな」
俺は盾を持ち替えながら返した。
甲羅の表面に月明かりが当たり、六角形の影が床へ落ちる。其の影の形が、まるで小さな城壁のように見えた。
短い間があった。潮風が盾の表面を撫でていく。其の冷たさが掌へ伝わる。だが内側から、冷気に負けない熱が甲羅を伝って広がっていく。マリナのホヌのお守りから漏れた光と同じ温度だ。
「…これなら守れる」
俺は前を向いた。
盾の向こうに、二つの仮面が笑っている。だが其の笑みが、さっきまでよりも遠く見えた。盾一枚分の距離。だが其の一枚分が、生死を分ける壁になる。
不可思議が動いた。泥の触手が海底から湧き上がり、桟橋の縁を乗り越えて迫る。俺は盾を其れへ向けた。触手が甲羅の表面へ当たり、弾かれる。泥の飛沫が散り、潮の匂いが鼻を突いた。だが盾は揺るがない。六角形の枠が衝撃を分散し、多角形の部材が軋むだけで崩れない。
もう一撃。今度は二つの仮面が同時に声を放った。
「コッチ」
「──コッチ」
半拍の差。声が左右の耳へ別々に届く。脳が揺れる。だが踵が動かない。甲羅の重量が、声の波を地面へ逃がす。鼠の尾が触手の気配を捉える。来る。右から。低く、泥を掠めて水平に。
俺は盾を右へ振った。
触手が甲羅の縁へ当たり、其の軌道を逸らされた。泥が弾け、黒い飛沫が月明かりの中で散る。だが其の衝撃で足場が微かに傾いた。氷が割れる音が足元から響く。
(崩れる。此処以上の衝撃は──)
「ネズミ君、海側三本目の支柱が根元から折れてる。あそこ以上の衝撃を与えると全部落ちるよ」
九衣の声が通信から響いた。其の声は緊張しているが、情報は正確だ。
「分かってる」
短く返し、盾を構え直した。
ダットが動いた。海側の鉄骨を蹴り、跳ぶ。不可思議の退路を塞ぐために。其の長い耳が不可思議の心音を追い、橙色の短剣が夜を裂く。
俺は動かない。
動かないで、守る。背後の荒い呼吸が、甲羅の裏側へ届いている。マリナだ。少女を抱いたまま、盾の影に隠れて震えている。だが其の手は離さない。少女の手首を、離さない。
「置いて帰ったら、明日から店で笑えないでしょ」
さっきのマリナの言葉が、耳に残っている。
俺は盾を握る指へ力を込めた。
此の盾は、其の言葉のためにある。全員で帰るために。全員で笑うために。
甲羅の表面に、月明かりが反射して揺れる。琥珀色の複眼が、其の光を拾っていた。