PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
蝋燭の炎が一斉に傾いた。
右へ。左へ。そしてまた右へ。まるで見えない風が吹き抜けたように、五本の炎が同時に揺らいだ。長い影が三人の間で踊る。イゴールの鼻の影が壁を這い上がり、ウォルトンの三つ編みの影が床に落ちる。
(なんだ。今の)
景色が――波打って見えた。
一瞬だけ。船室の木目が液体みたいに揺れ、テーブルの輪郭が二重に見えた。目を閉じて開け直す。いつの間にか右手が腰のポーチを探っていた。ゴーグルは目元にない。だが手が勝手に動いていた。集中する癖が身体に染み付いているらしい。
(落ち着け。ただの揺れだ。船だから揺れるんだ)
イゴールがカードを一枚めくった。
甲冑だった。
古びた鉄の鎧。胸当てに何か文字が刻まれている。読めない。擦れすぎている。だが線画の細かさは、他のカードと同じだった。蝋燭の灯りが鎧の凹凸を浮かび上がらせて、まるで鉄そのものの冷たさが伝わってくるような絵柄だった。
「百年前の戦いの末に、眠りについた者たちがおります」
イゴールの声が低くなった。これまでで一番低い。長い指が鎧の絵柄を撫でた。
「戦いが終わり、海が凪ぎ、島が静かになった時……彼らは沈みました。波の底へ」
「沈んだ?」
「眠りについた、という意味でございます」
次のカード。
島だった。波に囲まれた小さな島に、風化した剣が一本突き刺さっている。柄の部分に苔がついている。刃は錆びている。しかし刃の中心に一本の細い線が走っている。それは錆ではなく、光が通っているように見えた。
「現代になって、再び動き始めているらしい」
イゴールの丸い目が細められた。笑っているのか、見開いているのか分からない。
「何が。剣が? 島が?」
「全てでございますな」
「全って。抽象的すぎて分からないんですけど」
次のカードは置かれなかった。イゴールの手が止まった。
その時だった。
胸が熱くなった。
(――!)
心臓ではない。心臓は左で打っている。これはもっと中央よりで、肋骨の裏側で、別の何かが脈動している。
ドクン。
心臓とは違うリズム。もっと遅くて、もっと重い。まるで胸の中に別の心臓が埋まっているような。
(何だこれ。他人の心臓が入ってるみたいだ)
手が勝手に胸を押さえていた。掌の下で熱い。シャツ越しに伝わってくる熱が指先まで上がってくる。
「……何かおかしい」
「おかしい、ではありません」
ウォルトンの声だった。
低い。静かだがはっきりとした声。ブーツの音が床板に響く。一歩前に出た。制帽の紋章が揺れる。蝶と舵輪。金色の瞳が蝋燭越しにこちらを向いていた。
光っている。
暗い船室の中で、灯台みたいに。
「貴方にしか抗えない流れです」
金の瞳が真っすぐ俺を捉えた。
(真っすぐ。今までで初めてか? こいつが俺を正面から見たの)
「貴方にしか、と」
「そう」
「またそうやって人任せかよ」
口から出たのは皮肉だった。笑い声も混じった。ひきつった笑いだったが。
「なんかそういうの好きだなお前ら。選ばれた者とか、お前にしかできないとか。RPGの序章のNPCじゃあるまいし」
背中に汗を掻いている。シャツが肌に張り付く。皮肉で誤魔化さないと、あの瞳に見つめられていると身体が動かなくなる気がしたからだ。
「フフ……」
イゴールが笑った。満足そうに。長い鼻が上下する。丸い目が細められて、白手袋の手がテーブルの上で組まれた。
「その反応が、選ばれた証拠のように思えます」
「は?」
「選ばれた者は皆、最初は否定いたしますな。それが人の習いというもの」
「いや俺は否定してるんじゃなくて、意味が分からないって言ってるんですが」
「同じことでございます」
「全然違うだろ!」
声が裏返った。
(落ち着け。深呼吸しろ。胸の奥が熱いままだ。ドクン。ドクン。うるさい。心臓別に持ってるみたいに――)
心臓が別にあるようなその脈動は、俺の鼓動とは関係なくドクンドクンと打ち続けている。まるで百年前からずっと打っていたものが、今ここで目を覚ましたみたいに。
(百年。眠っていた者たち。蘇る戦い。俺にしか抗えない流れ)
分からない。何も分からない。しかし
胸の熱だけは分かる。これだけは現実だ。夢じゃない。
俺は椅子の背を握りしめていた。木が軋む音が指の間で鳴る。
窓の外で白い波が立った。
(――あかん。このままだとコイツらのペースだ)
俺は立ち上がった。椅子がガタンと後ろに倒れる。気が付いたら倒していた。直す余裕もない。
「分かった」
声が出た。思ったより大きかった。
「その『戦士』とやらに会ったら、殴ってでも話を聞く」
イゴールの丸い目が丸くなった気がした。ウォルトンの金の瞳が一瞬だけ広くなった気がした。いや、そう見えただけかもしれない。こいつらが表情を変えるところなんて想像がつかない。
だが関係ない。
「俺は武器なんて持ってない。剣も鎧も甲冑も知らない。百年前の戦いも竜騎兵の退屈な戦史講義で一回聞いたきりだ。しかし」
胸を押さえている手に力が入る。掌の下の脈動が、ドクンと一つだけ大きく打った。
「この胸の中の何かが、お前らの言ってることと繋がってるんだろ。なら会ってみる。戦士ってやつに」
「……ほう」
イゴールの声が小さくなった。今までで一番小さい。
「面白いことを――」
言い終わる前に、部屋全体が白く染まった。
窓から。蝋燭から。テーブルの木目から。カードの絵柄から。壁から床から天井から。全ての輪郭が白に溶けていく。
「え、ちょ――」
景色が溶けた。
船室の壁が波のように歪み、床板が液状化して、天井が反転した。イゴールの長い鼻が白い光の中に伸びて消える。ウォルトンの金の瞳が最後まで光の中で輝いていた。
(あの目)
消える直前の金の瞳が、網膜に焼き付いている。
胸の熱は冷めない。ドクン。ドクン。俺の心臓とは別の場所で、何かがまだ打っている。
(カードの絵柄。鎧。剣。島。逆さまの船。ウォルトンの金色の目)
全てが溶けていく中で、それらだけが残っていた。声も船室の輪郭も遠くなり、白い光の中で意識だけが浮上していく。
(戦士。殴ってでも話を聞く、とか言ったけど)
浮上しながら思った。
(殴るって何を。俺素手だぞ。何と戦うつもりだ)
いや。
胸の中の何かが、もう答えを持っているような気がした。
ドクン。
最後のひと打ちが、白い光の中で鳴った。
ガバッ。
勢いよく上体を起こした反動で右足の小指を床にぶつけた。硬い音がして、痛みが指の先から脳まで電気みたいに走る。
「いって……!」
ガツンという感触。痛い。夢なら痛くないはずだ。いや、痛い夢もあるか。だが今のこれは間違いなく現実の痛みだった。
周囲を見回す。
自室だった。南星学園都市の学生寮、六畳一間の殺風景な部屋。ベッドの上で俺は布団を跳ね除けて起き上がっている。シャツが背中に貼りついている。汗で冷たくなった生地が肌に触れて気持ち悪い。
心臓がまだ速い。ドクドクいってる。手が震えている。
「……夢、かよ」
声に出して呟いていた。掠れた声だった。
「いや、夢だよな」
誰に言い訳をしているのか分からない。部屋には俺しかいない。静かだ。冷蔵庫の唸るような小さな音と、遠くで打ち寄せる波の音が聞こえるだけだ。
胸に手を当てた。
掌の下に熱はなかった。ドクンという別の脈動もない。心臓だけがせわしなく打っている。指で肌を押した。肋骨の裏側、胸の中央よりやや左。何もない。熱くもない。硬くもない。何かが埋まっているような感覚も他人の心臓が入っているような違和感も消えている。
(なんだ。やっぱり夢か)
だが指先がかすかに震えていた。
(夢のわりに痛いし汗もかいてるし心臓も速い。逃げてきたみたいだ。何から?)
枕元を探った。タロットカードはない。船の破片もない。そこには俺の荷物があるだけだった。キャップとゴーグルと腰のポーチ。昨日と同じ位置に置いてある。充電中のスマホのランプが点滅している。
「……やっぱり夢だよな」
三回目の呟き。声がどんどん小さくなる。
ベッドから降りて床に足をつけた。冷たいフローリング。足の指がぎゅっと縮む。カーテンの隙間から月明かりが一筋差し込んでいた。カーテンを開ける。
外の空気が窓越しに伝わってくる。南星学園都市の夜景。遠くの研究地区の避雷針が青白く光り商業区の街灯がオレンジ色に滲んでいる。海は黒く広がっていて、水平線のあたりに星の光が浮かんでいる。島のシルエットが濃い影になって海に沈んでいる。
「現実だ」
そう言い聞かせるように呟いた。見慣れた景色。いつもの部屋。いつもの夜空。何も変わらない。しかし目の奥に焼きついた映像が浮かんでは消える。
長い鼻の老人。金の瞳の水先人。木目と蝋燭の揺れる船室。甲冑と風化した剣のカード。黒い海に浮かぶ逆さまの船。
耳の奥で声が残響している。
『航路です』
低く静かなウォルトンの声。
『近いうちに、貴方は戦士と出会うでしょう』
含み笑いで告げたイゴールの声。
(耳鳴りみたいに残ってる。催眠術でもかけられたのか)
耳を塞いでみる。
やはり聞こえる。外の波音と一緒に、繰り返し繰り返し『航路』『戦士』という単語だけが反響している。
「寝れるわけないだろ」
ベッドに戻る気がしなかった。眠るとまたあの船室に戻る気がした。戻るという確信はない。だが、今日の夢がただの偶然の産物だったとも思えない。
机の上のポーチを手に取った。マジックテープをバリバリと剥がし、中から折り畳んだメモ帳と油性ペンを取り出す。常備しているものだ。手癖で動かす。
メモ帳は少し湿っていた。冷汗で濡れた掌のせいだ。ページをめくる。線の入った白い紙が月明かりで青白く光る。
ペンを走らせた。
100年
戦士
ベルベットルーム
それだけだった。他にも色々あったはずだが、書こうとすると消えてしまう。漠然とした映像は浮かぶのに言葉にできない。文字が波打って見えた気がする。手が震えているからだ。
「……あとは何だ」
逆さまの船。カード。封印。剣。甲冑。あの金の瞳。
書こうとして辞めた。単語が多すぎてまとまらない。それに夢の内容をメモにする自分が妙に思えて、ペンを握る手が止まった。
(現実で発症してる症状としては軽いパニックだこれ。落ち着け。水飲んで顔洗え)
洗面所へ行って冷たい水で顔を洗った。バシャバシャと音を立てて三回。タオルで拭いて鏡を見る。髪が跳ねている。目が充血している。肌はまだ白い。頬に月明かりが当たっている。
「……百年前、戦い、蘇る戦士か」
独り言が止まらない。静かな部屋の中で自分の声だけがやけに大きく響く。
(何が現実で何が夢か分からない。だが胸の奥で何かが引っかかっている。引っかかって取れない。トゲが刺さったみたいに)
メモを持って椅子に座った。背もたれに寄りかかり、手元の紙を眺める。走り書きの三つの単語。紙の端が手汗で濡れてふにゃふにゃしている。
「100年、戦士、ベルベットルーム」
口に出して読み上げる。順番に。何度も。
窓の外の水平線を睨む。東の空がまだ暗い。夜明けは遠い。波音が強くなった。
握り締めたメモがくしゃりと鳴る。
「次に寝たら、またあの船にいるのかもな」
我ながら現実感のない呟きだった。馬鹿げている。物語の主人公みたいだ。
(だけど、妙にしっくりきてしまう自分がいる。そのことが一番気味が悪い)
小さくため息をついた。
手元のメモには乱雑な字で「100年」「戦士」「ベルベットルーム」とだけ書かれている。
窓の外で、遠く潮騒が一際強く打ち寄せた。