PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
波の音が、元に戻っていた。
異界特有の粘度を持った重い音ではない。ただの海の音だ。潮風が頬を撫でる。腐った果実の甘さは消え、代わりに夜の港の冷たい塩気と、遠くの街灯に滲む灯油の匂いが混じっている。
空間が、元に戻ったのだ。
俺は深く息を吐いた。
其の呼吸と共に、胸のマイスドライバーが淡い光を放ち、装甲が音もなく霧散していく。赤茶色の粒子が夜風に溶け、元の制服姿へと戻った。
身体に、重さが戻る。鉄の塊を抱えていたような疲労が、筋肉の一本一本に鈍く滞る。肩が熱い。膝が笑っている。だが其の痛みこそが、自分が此の世界に繋ぎ止められている証拠だった。
「……行ったか」
呟いて、夜の桟橋を見渡す。
ダットの姿はなかった。其の長い耳も、マゼンタ色の複眼も、橙色の剣も。夜の闇に溶けるように消えていた。ただ、錆びた鉄骨の上に、微かな着地の跡が残っているだけだ。
あの兎は、自分のことを「必要ない」と言った。ならば、此処に留まる理由もなかったのだろう。
俺は踵を返し、仲間たちの方へ歩き出した。
崩れかけた待合所の前。其処に三人の影があった。
「真瀬君!」
優菜が駆け寄ってきた。其の顔には安堵と、隠しきれない興奮が混ざっている。
「大丈夫? あの仮面ライダーみたいなの、いなくなったね」
「ああ……俺も、今戻った」
嘘ではない。変身を解いて戻ってきたのは今だ。優菜は俺の顔を覗き込み、それからふっと息を吐いて笑った。
「びっくりしたよ。いきなりあんなのが現れて……でも、おかげで助かった。あの仮面ライダー、すごかったね」
俺は曖昧に頷いた。すごかった。それは確かだ。だが其れは、俺の知っている仮面ライダーとはまた別の何かだった。
「瑞生、怪我はないな?」
達臣が声をかけてきた。彼は倒れた少女の側に膝をついていた。其の動作は相変わらず冷静で、まるで此の状況を記録するために存在しているかのようだ。
「うん、私は平気。それより、この子が……」
優菜が少女の方を指差した。
少女はマリナに抱き寄せられていた。
彼女は膝を抱え、小さく震えている。虚ろだった瞳には、微かにだが光が戻っていた。恐怖の色だ。だが其れは、何も映していない虚無よりもずっと人間らしい色だった。
「大丈夫だよ。もう、あの声は聞こえないから」
マリナが少女の背中を優しくさすりながら言った。其の声は、店で出していた明るい店員のトーンではなく、もっと深く、寄り添うような響きを持っていた。
「あんたが連れてきてくれたんだよね、あの仮面ライダー?」
マリナが俺を見上げた。琥珀色の瞳が、夜の光を拾って揺れている。
「いや……俺は、ただ……」
言い淀む。俺がやったのは、盾になっただけだ。あの兎が敵を追い詰めたからこそ、助けられた。
「まあいいや。とにかく、助かったよ。あんたも、あの仮面ライダーも。あの子が海へ落ちた時、心臓止まるかと思った」
マリナはそう言って、ふうと息を吐いた。其の肩から力が抜けていくのが見えた。
「ホヌのお守り、光ってたね。あれ、お婆ちゃんがくれたんだ。『海の声が聞こえたら、これを握って帰ってきなさい』って」
彼女は胸元のチャームを握りしめた。其の指先に、微かにだが温かな光が灯ったような気がした。
「依頼は……解決、なのかな」
優菜が呟いた。
「あの子が連れてかれずに済んだ。それが一番だろ」
達臣が立ち上がり、冷静に言った。「原因の不可思議は消滅した。だが、何故あの子が狙われたのか、あの船が何だったのかはまだ分からない」
「調査は続きってことか」
俺は肩をすくめた。疲れがどっと出ている。でも、悪い気分じゃなかった。
「帰ろう。寒いし」
マリナが少女を立たせた。少女はまだ足元がおぼつかないようだが、其の手はしっかりとマリナの腕を掴んでいた。
「送っていくよ。店まで」
「ありがとう。優菜ちゃんだっけ? 優しいね」
マリナが笑った。其の笑顔は、店で見た明るいものと同じだったが、其処には今夜の出来事を経た強さが滲んでいた。
俺たちは夜の桟橋を後にした。
街灯の光が戻ってきた道を、四人で歩く。遠くで船の汽笛が鳴った。低く、長く、夜の海へ溶けていく音。其の音は、もう悲鳴には聞こえなかった。ただの港の音だ。
俺は一度だけ振り返った。
桟橋の奥、夜の闇。其処には何もない。波の音だけが、繰り返し打ち寄せている。
あの兎は、もういない。
俺は前を向き直り、仲間たちの背を追って歩き出した。
此の島での日常が、また一歩、近づいた気がした。
***
桟橋から遠く離れた、港湾の倉庫街の屋上。
風が吹き抜ける中、一本の細い影が立っていた。
マゼンタ色の複眼が、遠ざかっていく四人の背中を見つめていた。長い耳が、夜風に靡いて微かに動く。
「……同じエグズなのに、どうしてカメなのよ」
ダットは独り言ちた。其の声には、呆れと、そして微かな興味が混じっていた。
腰のドライバーに手を添える。其の感触は、冷たく硬い。
あの亀の仮面ライダー。あの守り方。其れはただの偶然か、それとも。
「報告しなきゃね」
ダットは踵を返した。
夜の闇へと消えていく其の背中を、月明かりが照らしていた。