PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
船の軋む音が耳の奥に残っていた。
ギギ、と鈍い金属音が響き、次に波の音が押し寄せてくる。あの夜のフェリーだ。またあの異界へ引きずり込まれたのか。俺は身体を起こそうとして、背中の感触が違うことに気づいた。硬い椅子。革の匂い。波の揺れはあるが、あの粘度のある泥の重さはない。
目を開けた。
目の前に広がっていたのは、濃紺の空間だった。
壁も天井もない。ただ深い藍色の闇が果てしなく続いている。其の闇の中に、真鍮の縁取りが施された丸窓が等間隔に並んでいた。窓の外には暗い海が広がり、遠くに島の灯を思わせる青白い光が漂っている。深海を進む古い船の中。其れが此処の輪郭だった。
「ようこそ、ベルベットルームへ」
声がした。
視線の先、部屋の中央に置かれた長い海図台の奥に、其の男は座っていた。
異様な長さの鼻。禿げ上がった頭。細長い手足。黒い燕尾服に白い手袋。不気味な第一印象に反して、何処か愛嬌のある老人。イゴールだ。
「今宵の海も、貴方の到着を待っておりました」
「・・・その言い方、やっぱり知っている感じか」
彼は両手を組んだまま、ゆっくりと口を開いた。其の声は古風で、含みがあった。
俺は自分の身体を確かめた。制服だ。胸元にマイスドライバーの感触はない。だが筋肉にはまだ疲労が残り、肩にはタートルフレームの重さが幻のように残滓として残っていた。
「此処は……夢なのか」
「夢であり、現実の狭間ですな。貴方が渡ってきた海の記憶は、まだ其の身体に刻まれております」
イゴールは目を細めた。笑っているようにも見えるが、其の瞳は何もかもを見透かしているようだった。
「この度、航路、無事に越えたこと。心より労いましょう」
其の言葉に、俺は一つ息を吐いた。あの夜、マリナと少女を守り抜いた。其の手応えは本物だ。だが同時に、胸の奥に引っ掛かりがあった。
「あの力……タートルフレーム。俺は、あれを使えた。けど、俺は何も知らない。どうしてライドエグズが変わったのか。あの兎のライダーと、どうして同じ卵から違う姿が出たのか」
俺の問いに、イゴールはゆっくりと頷いた。
「貴方が新たな力を得た今こそ、知るべき時ですな。二種類の卵の違いを」
彼は海図台の上へ手を伸ばした。其処には二つの卵が置かれていた。
一つは俺の知っているライドエグズ。灰色の殻に動物の意匠が浮かんでいる。もう一つは、もっと無機質で、何の模様もない白い卵だ。
イゴールが最初に示したのは、ライドエグズの方だった。
「此れはライドエグズ。既に一つの神話と役割を獲得した『完成した可能性』。貴方がたが『ペルソナ』と呼ぶ存在に相当するものでございます」
「ペルソナ……」
九衣がネットの噂で言っていた単語だ。仮面。もう一人の自分。
「通常、変身する者は一つのライドエグズと深く結びつき、其の動物と神話を自分の仮面として固定するものです。貴方が鼠を、そして亀を纏ったように」
「じゃあ、ダットはどうなんだ。あいつと俺は同じライドエグズから変身した。なのに兎と亀で全然違う。同じ仮面じゃないはずだ」
俺は問い詰めた。同じ種から生まれた筈なのに、枝分かれした理由。其れが分からなければ、自分の力がいつまで従ってくれるのか不安だった。
イゴールはすぐには答えなかった。其の長い鼻が微かに動き、組んだ手が解かれる。
「心とは、表裏一体。同じ物でも、見方によっては、全く異なる事もあります」
すると、ウォルトンも続ける。
「兎と亀という話があります。こちらでは、同じ話ではありますが、見た人間によって、様々な受け入れ方をします。それと同じような物です」
「うぅん、よく分からないが、ようするに、人によって、その形は変わるという事か?」
「そうなりますな」
イゴールの指がライドエグズへ触れた。
其の表面に兎の意匠が浮かび上がる。長い耳を立てた跳躍の姿勢。ダットの姿だ。彼女が纏っていた装甲の面影が、卵の殻の上で淡く光っている。
「此れが、同じ卵から生まれたもう一つの仮面でございます」
イゴールは其れを海図台の上で転がした。卵が半回転すると、色彩が滑り、意匠が塗り替わる。兎の耳が引っ込み甲羅の多角形が浮かび上がった。亀だ。俺が纏ったタートルフレームの姿。
「同じライドエグズでありながら、貴方とダットでは異なる神話を獲得した。其れは、貴方が此の卵を奪ったからではございません」
「じゃあ、何だって言うんだ」
俺は海図台へ手をついた。硬い真鍮の縁が掌に冷たい。
「貴方は此の卵を、別の角度から読んだのでございます」
イゴールは両手を組み目を細めた。其の声は静かだが、一言一言が蝋のように重い。
「ダットは『追う者』の神話を得た。速さ、跳躍、獲物を仕留める鋭さ。其れは兎という獣の本質でございます。ですが貴方は其れを、『守り、帰還させる者』として読み替えた。同じ神話を、別の側から受け取ったのでございますな」
「読み替えた…」
俺は自分の掌を見た。あの夜盾を構えた時の感触が蘇る。避けたら後ろに当たる。だから避けなかった。其の判断が、亀の姿を選ばせたのか。
「マリナが言ったんだ。『全員で帰る』って。あの言葉が、俺を亀にしたのか」
「可能性はございます。卵は、貴方の心が描いた航路を其のまま形にする。守るべきものが其処にあった。だから亀が生まれた。其れだけのことでございましょう」
イゴールはそう言って、もう一方の卵を持ち上げた。
白い殻。何の模様もない。だが其の内部で、淡い光が芽のように揺れている。脈打つたびに、光の輪郭が微かに形を変える。まだ何者でもない。だが確かに、生きている。
「此れはシードエグズ。まだ独立した仮面になっていない、心の種でございます」
「ライドエグズとは違うのか」
「ライドエグズは既に一つの神話と役割を獲得した『完成した可能性』。貴方がたがペルソナと呼ぶ存在に相当します。ですが此のシードエグズは、完成しておりません。出会い経験、選択。其れによって性質を変え、既存のライドエグズへ新しい力を芽吹かせる。単独で完成するものではなく、可能性を成長させる補助の卵でございます」
イゴールはシードエグズを海図台へ静かに置いた。二つの卵が並ぶ。片方は模様を持ち、片方は空白だ。だが其の空白の中に確かな鼓動がある。
「貴方には、複数のペルソナを受け入れられる資質がございます。此れを『ワイルド』と呼びます」
「ワイルド…」
聞き慣れない言葉だ。だが其の響きに、妙な重さがあった。
「ただし、誤解なさっては困ります。ワイルドとは無条件に他人の力を複製できる能力ではございません」
イゴールの声が少しだけ強くなった。其の長い鼻の下で、口元が引き締まる。
「貴方の心が空白の海図となり、他者との絆や選択が航路を描く。其れによって初めて、別のライドエグズと共鳴できるのでございます。ダットと同じ卵がタートルフレームへ変化したのは、彼女の力を奪ったからではない。貴方が彼女の神話を、自分自身の航路として読み替えたからでございます」
「じゃあ、絆さえ結べばどんな力でも使えるのか」
俺は訊いた。其れが分からなければ、此の先も同じ迷いを繰り返す。
イゴールはゆっくりと首を振った。
「形だけの関係では、卵は応えません。表面上の繋がりや利用するだけの心では、共鳴は起きないのでございます。ましてや無理に共鳴させようとすれば、貴方の自我が神話に呑まれる危険がございます」
其の言葉に、背筋が冷えた。力を得ることの代償。其れを忘れてはいけない。
「ワイルドとは、多くの仮面を持つ者ではございません。多くの生き方を受け止める者。貴方は其れを、肝に銘じておく必要がございます」
イゴールは其処まで言って、口を閉じた。海図台の上で二つの卵が静かに光っている。其の光が机の表面へ溶け、俺の足元へ届く。見下ろすと海図台に敷かれた古い航海図の上へ、複数の光る航路が描かれ始めていた。細い線が島々を結び、其の交点で小さな灯が瞬く。まだ見ぬ航路。まだ出会っていない誰か。
俺は其の光を見つめた。力を増やす期待よりも、其の先で誰と出会い何を選ぶことになるのか。其の重さが、胸の奥に残った。
「卵を集めることではなく、其の力を託した心を知ることが貴方の航路を開くのでございます」
イゴールの声が船の軋みに混ざって遠ざかっていく。
丸窓の外で、新たな島の灯が一つぽつりと瞬いた。
其の光が視界いっぱいに広がり、俺はゆっくりと目を閉じた。