PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
放課後の部室は、夕方の光で琥珀色に染まっていた。
傾いた日差しが特別棟一階の窓から差し込み、机上に広げられた相談記録や島の地図へ濃い影を作っている。潮風が窓の隙間を縫って入り込み、紙の端をめくりあげては落とす。繰り返される其の音が、部屋の静けさを測っているようだった。
不可思議事件研究会の部室。正式名称は長いが、此処に来るようになって一週間が経つ。古い本棚と鉄パイプの机と折り畳み椅子。必要最低限の設備だが、優菜が持ち込んだ観葉植物と、達臣が整えた資料ファイルのおかげで、殺風景さはいくらかマシになっている。
俺は窓際の席で、前回の調査記録をめくっていた。第三航路の事件。旧桟橋での戦い。其れを文字に起こすと、まるで作り話のように見える。だが肩の筋肉にはまだ微かな痺れが残っていた。作り話なら、身体はもっと素直に忘れてくれるはずだ。
「来た来た来た!」
優菜が扉を蹴る勢いで入ってきた。手に持った端末が、其の勢いに合わせてブンブン振り回されている。革のスマホケースにつけたストラップが帆を切る風みたいに鳴る。
「新規相談。匿名。昨夜の件だよ」
「蹴るなよ扉を。古い建物なんだぞ」
達臣が後ろから入ってくる。手には鍵。其の動作で鍵を閉めるあたり、ちゃんと部室の管理をしている。副部長兼記録係。其の名に恥じない真面目さだ。
優菜は俺の目の前へ端末を差し出した。画面には短い文面と一枚の写真。手ぶれしている。暗い海岸を背景に、波打ち際に青白い光が滲んでいる。丸い。卵形だ。光の隣に、割れた殻らしき影が見える。言われてみれば、だが。言われなければ波の反射とも見える。
俺の手のひらが、微かに熱を持った。
(卵)
ベルベットルームで見た二つの卵が脳裏をよぎる。ライドエグズとシードエグズ。イゴールが海図台に並べたあの卵。タートルフレームを得た時、掌を走った鼓動。あれと同じものが、此の島の海岸に現れたのか。
「真瀬君、見てる?」
「ああ。見てる」
俺は画面を見つめたまま答えた。声が低くなる。深刻な場面で声量が下がる癖。自分でも分かっている。
「昨日の夜か。何時頃だ」
「午後十一時頃って書いてある。散歩中に見かけたんだって」
優菜が文面を読み上げる。其の声には、隠しきれない興奮が混じっていた。「光る卵」という言葉に反応している。彼女にとって此れは、不可思議事件の新たな手がかりなのだ。
「待て」達臣が端末を覗き込みながら割り込んだ。「夜十一時の海岸。街灯があるにしても手ぶれしている。海面への反射とどう違うのか」
「殻みたいなのが写ってるでしょ。光ってるだけなら反射でも説明つくけど、割れた殻があるなら話が変わる」
「割れた殻に見えるだけでしょ。波で運ばれたプラスチックの破片かもしれないし、岩の影かもしれない」
達臣の指摘は正論だった。写真一枚で不可思議事件と断定するのは早い。俺も其れは分かっている。だが、胸の奥が落ち着かない。第三航路の事件が終わったばかりだ。其の直後に、同じようなタイミングで卵の目撃情報が出る。偶然にしては、タイミングが良すぎる。
「あと、これ」優菜が文面を下へスクロールした。「相談文に追加情報があるんだ。撮影地点の近くに喫茶店兼BARがあるんだけど、そこの店主が変な鳴き声を聞いたって話があるらしくて」
「鳴き声?」
「何の鳴き声かは書いてない。ただ、異様だったって」
俺は端末の画面を見つめた。光る卵。割れた殻。異様な鳴き声。三つの要素が、一つの海岸に集まっている。
(イゴールの言葉は伏せる。優菜と達臣には話していない。ベルベットルームで見た卵のことも、ライドエグズとシードエグズのことも。現場を確認してから判断する)
「真瀬君どう思う?」優菜が俺の顔を覗き込んだ。大きな目が期待と好奇心で光っている。
「写真だけじゃ分からない。でも、殻の輪郭だけでも確かめたい。もしあれが本当に卵なら、反射とは違う形をしてるはずだ」
「じゃあ行く? 現場」
「待て」達臣が再び割り込んだ。「今からか。もう五時半だぞ」
「閉店前に聞き込みに行けばいいんだよ。BARは夜だけど喫茶なら夕方までやってるはずでしょ」
優菜が地図を確認しながら答える。其の行動力には毎度驚かされる。相談が届いてから十分足らずで、既に移動計画が組み上がっている。
「店主の話が聞けるなら行く価値はある」達臣はそう言いながら、鞄へ記録用のノートとペンを放り込んだ。止める気はないらしい。ただ、記録を残す準備はする。其のバランスが、達臣という人間だった。
俺も立ち上がった。カバンの中で九衣が微かに動いた。俺だけに聞こえる小さな声。
「光る卵…ネズミ君、気をつけて。ネットの噂だとね、異界の入り口付近で卵形の光が見えたって報告が何件かある。沖縄ジェイルの時も似た話が出たらしいよ。ただし断定はできないけど」
(分かってる。まずは見る)
九衣はそれ以上何も言わなかった。但し、カバンの底でじっとしている気配が、俺の背中を押していた。
* * *
海岸へ向かう道は、学園都市の中心街を抜けて港の方へ下っていく。
夕方の沖縄は、昼間の暴力的な日差しが少し柔らかくなる時間だ。だが其れでも本土の真夏に匹敵する強さで、アスファルトから立ち昇る熱気が靴底を温める。道沿いのデイゴの木が、赤い花を揺らしている。風が吹くたびに花びらが散り、歩道に薄い赤の絨毯を作っていた。
「ねえ真瀬君、もう此処の道覚えた?」
優菜が前を歩きながら振り返る。制服のスカートが風で揺れる。
「大体は。港の方へ降りる道は何度か通った」
「でしょ。一ヶ月もすれば完全に地元民だよ」
「一ヶ月じゃ地元民にはなれないだろ」
「なるなる。沖縄は吸い込むのが早いの」
後ろを歩く達臣が小さくため息をついた。だが否定はしない。
港の近くになると空気が変わる。潮の匂いが濃くなり、道の両側に倉庫や事務所が並ぶ。観光地の華やかさはないが、生活のある風景だ。漁具を積んだ軽トラックが通り過ぎ、網を干すおじいさんが道端で座っている。
「あそこ」優菜が角を指差した。
其処にあったのは、小さな二階建ての建物だった。一階が喫茶、二階がBAR。看板は木製で、少し潮風で傷んでいる。「SEA BREeze」という店名が筆文字で書かれていた。
「営業中の札が出てるね」
優菜がドアを開けた。カウベルの音が店内に響く。
中に入ると、コーヒーの匂いと古い木の匂いが混じった空気が流れてきた。窓際に並んだテーブル席は空いている。壁には沖縄の写真やハワイの風景画が飾られ、カウンターの奥に酒瓶が並んでいる。昼と夜で顔を変える店だ。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声がした。
低い声だった。ゆっくりとした間合いで、けれど其れは気だるいのではなく、一語一語を確かめるような話し方だ。
其処に男が立っていた。
年の頃は四十代後半か。丸顔で日焼けした肌。短く刈った髪に、少し伸びた無精髭。ハワイシャツではなく、普通の白いワイシャツの袖をまくっている。だが其の佇まいには、南国の島に根付いた人間特有のゆったりとしたリズムがあった。
目が合った。
俺は一瞬、息を止めた。
其の目が深かった。笑っているようでもあり、何も映していないようでもある。海底から水面を見上げているような、静かで底知れない目だ。
「初めての子達だね」男がカウンター越しに微笑んだ。「高校生かい。勉強? それともちょっと話?」
「あの、私たち不可思議事件研究会っていう部活のもので」優菜が一歩前に出て挨拶した。「昨夜、此処の近くの海岸で光るものが見えたって聞いて、お話を聞けたらと思って」
男の手が止まった。グラスを拭く手が一瞬だけ止まり、それからまた動き出した。
「光るもの…ね」
其の声から表情が消えたわけではない。だが其の一瞬、カウンター越しに空気が変わった気がした。
「座って。コーヒー出すよ」
男はそう言って、エスプレッソマシーンへ向かった。其の背中を見ながら俺はカウンター席へついた。
九衣がカバンの中で微かに動いた。
「ネズミ君、あの人。何か知ってる顔だよ」
(何だ)
「いや、知ってるって意味じゃなくて…気配が似てる。ネットの噂だとね、異界の入り口付近に長く住んでる人間は、普通の人には見えないものが見えるようになることがあるって。ただし断定はできないけど」
(又其れかよ)
俺は小さくため息をつきながら、カウンターの向こうでコーヒーを淹れる男の背中を見ていた。
カウンターの向こうで大神が手早く三人分の水を用意した。グラスがカウンターの上を滑り、音もなく止まる。其の動作には一切の無駄がなかった。次に豆を挽き、湯を注ぐ。立ち昇る湯気が夕方の光を斜めに切っていく。珈琲の香ばしさが、潮の匂いを奥へ押しやった。
「昼は喫茶店です。学生に酒は出しませんよ」
淡々とした其の一言で優菜の肩から力が抜けた。俺も知らずに張っていた背筋を少しだけ緩める。大神はカップを三人の前へ置きながら、視線を其れとなく店内へ巡らせた。窓の外波の音、俺たちの濡れた靴。其れを一瞬で確認する目の動きだ。
「で、相談ってのは」
「はい」優菜が姿勢を正した。「昨夜十一時頃、此処の近くの海岸で光るものを見たって話を聞いて。卵みたいだったって」
「卵」
大神は其の言葉を繰り返した。強調するでもなく、ただ噛みしめるように。
「ええ。青白い光。割れた殻みたいな影も写ってたって」
「写真は見たのか」
「相談者から送られてきたやつを。手ぶれしてて、はっきりとは」
大神はカウンターの布を畳みながら、静かに話し始めた。其の声は低くけれど威圧感はない。事実だけを順序立てて並べる、証言者の声だった。
「昨夜、閉店準備で表の看板を片付けてた。十一時少し前だったかな。海岸の方から音が聞こえた」
「音?」
「低い唸り声みたいなのと、硬いものが擦れる音。其れが重なったような」
大神は湯を注ぐ手を止めずに続ける。
「最初は酔っ払いか猫かと思った。此処は夜になると港の作業員が飲みに来るから、騒ぐ客には慣れてる。でも其の音は人の声じゃなかった」
「他には」
「外へ出てみた。波打ち際で青白い光が明滅してた。点いたり消えたり、規則的じゃなくて脈打つみたいに」
俺は手のひらを膝の上で握った。脈打つ。其の表現が、胸の奥の感覚と重なる。
「近づいたのか」
達臣が訊いた。其の声は静かだが、ペンを持った手は動いていない。大神の言葉を一字一句逃さない構えだ。
「近づいたよ。でも、もう遅かった。卵は割れてた。中から何か出てきたのか、殻だけが残ってた。生き物の姿も足跡もなかった」
「見間違いってことは」
達臣が慎重に切り出した。街灯の反射波の光、プラスチックの破片。其れらで説明がつかないかと。
大神は少しだけ首を傾けた。灰青色の目が、カウンターの一点を見る。
「光なら波に揺れるはずだ。でもあれは、同じ場所から動かなかった。波打ち際でずっと同じ位置で脈打ってた。だから反射じゃない」
其の断言には観察者の確信があった。見間違いではない。彼は確かに見て、確かめている。
「殻は」
俺が訊いた。声が少し掠れた。
大神は一度奥へ引っ込んだ。数秒後、布に包んだ透明の容器を持って戻ってくる。其れをカウンターの上へ静かに置いた。
「素手で触るなよ。まだ安全かどうか分からない」
蓋を開ける。中には、掌に収まるほどの殻の欠片があった。白く内側に淡い青の筋が走っている。表面は滑らかだが、所々に亀裂が入っていた。其れは確かに卵の殻だった。
其の瞬間だった。
俺の鞄の中で、硬いもの同士が触れ合う小さな音が鳴った。
カチリ。
九衣が息を呑む気配がした。俺は咄嗟に鞄を膝で押さえた。だが遅かった。
カウンターの上のカップ。其の水面に細い波紋が広がった。俺の鞄の中から伝わった振動が、カウンターを伝ってカップへ届いたのだ。ライドエグズが、脈打つように震えている。
大神の視線が、一度だけ俺の鞄へ移った。
其の目は、問い詰めるものではなかった。ただ見た。其れだけだ。正体を訊く前に、彼は視線を殻へ戻した。
「此れは、預かっておく。何か分かったら連絡する」
大神はそう言って、容器の蓋を閉じた。其の仕草は俺たちを追い出すものでも、怖がらせるものでもなかった。ただ此れ以上は今話すことではないと、静かに区切った。
優菜が礼を言い、達臣が連絡先を書いたメモをカウンターへ置いた。俺も席を立った。カバンの中で、ライドエグズはまだ微かに震えている。
(落ち着け。此処では何もするな)
九衣が俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「ネズミ君、あの殻。あの店の人。ただ者じゃないよ」
(分かってる)
俺は振り返らずに店を出た。カウベルの音が背後で鳴り、潮風が頬を打つ。夕日が水平線へ沈みかけ空が紫と橙に割れていた。
「ねえ、真瀬君」優菜が隣で小声で言った。「あの店主さん、何か知ってるよね」
「そうだな」
「殻、預かってもらったけど、あれって」
「今は分からない。でも、明日また来よう」
俺は前を向いて歩き出した。カバンの中で、ライドエグズがまだ小さく脈打っている。其の鼓動は、あの殻が本物だと告げているようだった。