PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
喫茶店の扉を出ると、夕暮れ前の海岸が銅色に光っていた。
太陽はまだ水平線の上にいる。だが其の角度は低く、表通りを照らす光には夜の気配が混じり始めている。潮風が強くなっていた。店の中で嗅いだ焙煎珈琲の香ばしさが、一歩外へ出れば塩気に塗り替えられる。俺の帽子の庇が風に煽られ、ゴーグルを押さえながら歩き出した。
「こっちだ。表通りより早く着く」
大神が先頭に立っていた。白いシャツの背中が、夕陽を浴びて薄く橙に染まっている。彼が案内したのは、海沿いの表通りから一本入った細い裏道だった。建物と建物の隙間。其処に、大人一人がやっと通れるほどの石段がある。苔が生え、手すりの代わりに錆びた鉄柵が壁沿いに立っている。風が吹くたびに、其の柵がキィキィと鳴った。
「此処、道あるんだ」優菜が目を丸くした。「何回も前を通ってたのに気づかなかった」
「地元の人もあまり使わない。夜は足場が悪いからね」
大神は振り返らずに答えた。其の足取りは迷いがない。石段の一段一段を確かめるように、だが休まずに降りていく。石段の下には、引き潮によって岩場と小さな入り江が現れていた。潮が引いた跡の砂利が、湿った音を立てている。
「満潮になれば此処は全部沈む。時間がない」
大神が足を止め、岩場の縁を見下ろした。其の視線は、濡れた岩の表面や潮溜まりの深さを一瞥で読んでいる。俺は其の目の動きを見た。普通の店主が持つ観察力ではない。足場が崩れる場所と、波が戻る時刻を、岩の色と水位だけで判断している。
(あの人、此処を知り尽くしている。店の客として通っているだけの人間じゃない)
「大神さん」
優菜が呼んだ。石段の中段で足を止め、大神の背中へ問いかけた。
「どうしてそこまでするんですか。夜の海岸、危ないのに」
大神が振り返った。灰青色の目が、夕陽を拾って細く光る。其の表情は笑っているようでもあり、何も映していないようでもあった。
「海岸が立入禁止になれば、店の客が減るからね」
其の答えは、あまりにも即座だった。商売上の都合。其れで片付けるには、あまりにも状況が特殊すぎる。だが大神は其れ以上説明を加えなかった。ただ足元の石を一つ蹴り、其れが岩場へ転がる音で足場の硬さを確かめた。
「それだけで先頭を歩く人には見えないけどね」
マリナが軽く突っ込んだ。彼女は大神の二歩後ろを歩いている。普段の明るい調子を崩してはいないが、海へ近づくにつれて、其の会話の間が少しずつ長くなっていた。波の音が強くなるたびに、言葉が途切れる。其れを気づかれないように振る舞っているのが、俺には分かった。
大神は返答しなかった。代わりに、岩場の一段下へ降りて手を伸ばし、優菜の肩を押し戻した。
「足元。亀裂が入ってる」
優菜が視線を落とした。其処にあった。石段の最下段から岩場へつながる境界に、指一本分の亀裂が走っている。一歩踏み出せば、其処から崩れるかもしれない。優菜が「わっ」と小さく声を上げて半歩下がった。
「ありがとう、大神さん」
「気をつけて」
大神は短く返し、先へ進んだ。俺は其の背中を見ながら、指先を固く握った。新たな事件が始まった感覚。胸の奥に、鈍い警鐘が鳴っている。
相談者の二人は、以前に光を見た場所を示した。其れは岩場の奥、防波堤の陰になった窪みだった。二人は安全な防波堤側で待機し、俺たちが先へ進む。
岩場の間を抜ける。靴底が濡れた苔を噛み、滑りそうになるのを爪先で堪える。潮溜まりに小さな魚が二匹、驚いて散った。波の音が近い。其の音に混じって、何かが微かに鳴っている気がした。低い。持続的な。波の音とは周期が違う。
(此れは……)
「ネズミ君」九衣の声が鞄の中から響いた。小さく、緊張を帯びた声。「此の音、前も聞いたよね。あの夜の桟橋で。卵が脈打つ音と同じ周波数だよ。ただし断定はできないけど」
(あの殻と同じものか)
「可能性はある。ネットの噂だとね、異界の入り口付近で卵形の光が見えたって報告が何件かある。沖縄ジェイルの時も似た話が出たらしい。でもソースが信頼できないから断定は……」
「真瀬君、あそこ」
達臣が低い声で指差した。其の指先が、岩岩陰の窪みを指している。
俺も見た。
岩の隙間に、淡い光が明滅していた。一つではない。二つ、三つ……いや、四つ以上。掌に収まるほどの白い卵が、狭い窪みの中へ集められている。波が運んだように見える位置ではない。向きが揃っている。光の脈動のタイミングが、互いに重なり合っている。
(自然に流れ着いたんじゃない。向きが揃いすぎている。波で運ばれるなら、卵の長軸は波の方向に沿うはずだ。でもこれ、全部同じ角度で岩の割れ目に対して垂直だ。誰かが、あるいは何かが集めたのか。それとも卵自身が呼び寄せたのか)
大神が岩陰へ近づき、しゃがみ込んだ。其の手は卵へは触れず、岩の表面を指でなぞった。濡れた石の上に、微かな痕跡がある。其れを確認する目は、やはり普通の店主ではなかった。
「大神さん、これ……」
優菜が身を乗り出した。調査成果を目の前にして、其の好奇心が抑えきれなくなっている。一歩、二歩。岩場を乗り越えようとする。
「触るな」
達臣が動いた。優菜の腕を反射的に掴み、其の身体を引き戻す。其の動作は速かった。優菜の腕を掴んだ手には、明確な力が込められていた。普通の高校生がとっさに出す反応ではない。だが達臣は其のことに気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、直ぐに手を放し、声のトーンを落とした。
「これだけ近くに置けば、互いに反応する」
達臣の目は卵に向けられていた。其の声には、知識がある人間の確信が滲んでいた。初めて見る物体に対する驚きがない。まるで、こうなることを知っていたかのような口調だ。
「達臣、それって……扱い方を知ってるってこと?」
優菜が腕をさすりながら問い詰めた。其の声には疑問と、少しの警戒が混じっている。達臣は眉を動かさず、感情を表に出さないまま答えた。
「家庭教師から教わっただけだ。古い祭具や異界の伝承。此処は沖縄だ。離島には昔からそういう話が残ってる」
其の説明は、もっともらしかった。沖縄には古い信仰が根付いている。其れを教わったというのは、不自然ではない。だが俺は引っかかった。達臣は、此の卵を見て驚かなかった。初めて目にするはずの物体を、まるで知っているもののように扱っている。
(こいつ、やっぱり何かを隠してる。でも今は其れを追及している場合じゃない)
「真瀬君、これ全部回収するの?」
優菜が俺を見た。其の目は真剣だ。だが其の足は、達臣に止められた位置から動いていない。
「ああ。でも慎重にやる。大神さん、何か気づいたことは」
大神は岩陰から立ち上がった。其の手には、布が握られている。素手で触れない。さっき店内で殻を扱った時と同じ注意深さだ。
「波が戻るまでに二十分もない。長話は後だ」
大神は短く告げ、岩場の奥を見渡した。其の視線の先に、もう一つの窪みがあった。其処からも、淡い光が漏れている。一つの場所だけではない。卵は、此の海岸に散らばっているのではない。集められているのだ。
俺は指先を固く握り直した。誰が集めているのか。あるいは何が、卵を呼び寄せているのか。其の答えは、まだ見えない。
「誰が集めたんだ」
俺の問いに、答えはすぐには返ってこなかった。
夕暮れが近づいていた。太陽が水平線へ沈みかけ、海面の色が赤紫から濃紺へ移り変わっていく。岩陰のシードエグズは、心臓のように同じ間隔で明滅していた。脈動するたびに、波の音が一瞬だけ遠ざかる。まるで世界其処だけ音の密度が変わるような、奇妙な沈黙が波と波の間に割り込んでくる。
「足跡がない」
大神が岩場の表面を指でなぞりながら言った。其の指先は、濡れた石の上に残る微かな痕跡を追っている。
「新しい足跡はない。人の足跡が残るほど最近、誰かが此処へ来た形跡がない。だが──」
彼の指が止まった。岩の隙間に残る、細い溝のような跡を指し示す。
「引きずり跡がある。潮の流れに逆らっている。波が運んだにしては向きが合わない」
「潮の流れに逆らって引きずられた…ってことは、波じゃないってことですか」
優菜が岩場の縁から身を乗り出して覗き込んだ。達臣が其の肩を軽く押さえる。優菜は不満げに達臣の手を振り払いかけたが、足元の亀裂を見て素直に下がった。
「卵が集められたのではなく、何かに呼び寄せられた可能性がある」
達臣が低い声で口にした。其の言い方には、推測を超えた確信めいた響きがあった。だが其れ以上の説明は避けた。俺を見る視線が一瞬だけ止まり、何かを探るように細められた後、すぐに卵へ戻った。
(呼び寄せられた。こいつ、其の可能性を当然のように口にした。知識として知っているのか、それとも実際に見たことがあるのか)
俺が達臣の言葉を噛み締めていると、マリナが不意に顔を上げた。
波打ち際の方を向いていた。海を見ている。風が彼女の髪を揺らし、花柄のシャツの裾を煽る。だが其の目は、何かを探すように海面の一点へ固定されていた。
「今、誰か呼ばなかった?」
マリナの声は、其れまでの明るい調子とは違っていた。静かで、少し掠れている。まるで耳の奥に残る音の残響を確かめるような話し方だ。
「呼ぶって、誰が?」
優菜が首を傾げた。俺も周囲を見回した。岩場には俺たちと大神、防波堤側に待機している相談者二人。其れだけだ。人の姿も声も、他にはない。
「波音しか聞こえないけど」
達臣が端的に言った。其の耳は普通より良いはずだ。俺でさえ、波の音と風が鉄骨を鳴らす音しか捉えていない。
「そう…かな」
マリナは海面から目を離さなかった。其の瞳が、微かに揺れている。言葉としては聞き取れない。けれど、自分の名前を呼ばれていると理解してしまうような──其の表情には、恐怖よりも懐かしさが滲んでいた。
「マリナさん?」
俺は声をかけた。彼女は一度だけ振り返った。其の顔に、いつもの明るい笑顔はなかった。代わりに、遠い記憶を辿るような、焦点の定まらない瞳が俺を一瞬だけ見た。
「海亀がいるの」
其れは、唐突な言葉だった。
「海亀?」
「うん。今、水の中を横切ったの。大きな背中。甲羅が見えた」
マリナは波打ち際へ一歩踏み出した。濡れた砂が、其の靴底に張り付く音がした。
「見えたの? 真瀬君、見えた?」
優菜が俺の袖を引いた。俺は海面を見た。一瞬、何かが見えた気がした。水面の下を、大きな影が横切ったような。だが目を向けた時には、泡だけが残っていた。
「…分からない。影らしきものは見えたけど」
「本当だ。海亀だよ。あたし小さい頃、ハワイで何度も見たの。此処でも時々いるんだよね。珍しいけど」
マリナの声が、一歩ごとに少しずつ明るさを失っていく。波打ち際へ近づくにつれて、彼女の身体から力が抜けていくような、奇妙な弛みが見えた。まるで見えない手に引かれているような。
「潮の動きがおかしい」
大神の声が、低く響いた。其の灰青色の目が、海面の一点を凝視している。先ほどまでの冷静な観察者の目ではない。其処には確かな警戒があった。
「波が引く方向が変だ。満潮に向かって波が逆流し始めている。普通なら有り得ない」
「逆流?」
達臣が岩場から立ち上がった。其の目も海面へ向く。
「戻れ! 全員、防波堤の方へ──」
俺が叫びかけた其の時だった。
防波堤側で待機していた相談者二人が、同時に立ち上がった。其の顔が、海の方を向いている。俺の方ではない。大神の方でもない。海の方だ。其の目は虚ろで、口元に微かな笑みが浮かんでいた。あの夜、旧桟橋で見た少女の表情と同じだ。
「おい、お前ら!」
達臣が叫んだ。彼が防波堤の方へ走り出す。優菜も続こうとした。
だが其れよりも早く、海面が変わった。
沖合の水面に、黒い円が広がった。波紋ではない。波紋なら広がって消える。だが其の円は、広がったまま止まった。そして其の円の縁が、ゆっくりと上下へ分かれ始めた。
波が持ち上がり、其の上下の波が瞼になった。円の中央に渦が巻き、其の渦が虹彩になった。
巨大な瞳が、海面に開いた。
「──っ!」
言葉にならなかった。俺の知っているどんな生き物の目とも違う。大きさが桁違いだ。海面其のものが目になり、俺たちを見下ろしている。其の瞳孔の奥から、呼ぶ声が届いている。言葉ではない。波の音でもない。もっと低い、内臓に直接響くような振動だ。
「マリナさん!」
俺は叫んだ。マリナは波打ち際にいた。もう三歩、四歩と海へ近づいている。其の足が、見えない糸に引かれているように、一歩ごとに確実に海へ向かっている。
「マリナさん、戻ってこい!」
マリナが一度だけ振り返った。其の目に、一瞬だけ俺が映った。其の瞳の中で、懐かしさと恐怖がせめぎ合っている。見えない手を振り払おうとする意思が、其の表情に浮かんだ。
差し伸べられた手へ戻ろうとする動きと、海へ引かれる足が、噛み合わない。身体が半分こっちを向き、半分あっちを向いている。まるで二人のマリナが一人の身体を奪い合っているようだった。
大神が動いた。其の平静な表情が初めて崩れた。岩場を蹴り、相談者の一人に手を伸ばす。其の腕が空を掴む。だが相談者の身体は既に、波打ち際を越えていた。
足元からだった。
海からではない。濡れた砂から、黒い水が噴き上がった。まるで地面其のものが海へ変わるように、砂の隙間から黒い膜が滲み出し、足元を浸食していく。
「優菜、達臣、下がれ!」
俺は叫びながら走った。マリナの方へ。マリナの手の方へ。あと五歩。三歩。二歩。
マリナも手を伸ばした。其の指先が、俺の指先へ向かっている。あと数センチ。触れられる。触れられるはずだ。
指先が触れる寸前だった。
海面が、閉じた。
巨大な瞳が、波の上下の瞼に覆われるように消えた。マリナの身体が、黒い水の中へ沈んでいく。其の指先が、俺の指先を掠めた。触れた。確かに触れた。だが掴めない。水の膜が、指と指の間を滑っていく。
「マリナさん──!」
俺の叫び声が、夜の海岸に響いた。
其の声が波の音に吸い込まれ、何事もなかったように戻った波音だけが残った。
俺は膝から崩れ落ちた。指先が濡れている。黒い水の冷たさが、掌へ残っていた。