PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
い水が、世界を塗り替えた。
足元の砂が消えた。岩場が消えた。防波堤のコンクリートが溶けるように輪郭を失い、代わりに粘度を持った黒い膜が広がっていく。空も同じだった。赤紫の夕暮れが引き剥がされ、星も月もない濃紺の闇へ張り替えられる。
異界だ。
旧桟橋の時と同じ。現実の地形が其のまま異界へ取り込まれる。岩場の形は残っている。だが表面は黒い膜に覆われ、波の音が別のものに変わっている。水が呼吸している。膨らんで、縮んで、膨らんで。
「マリナさん!」
俺は叫んだ。マリナが目の前にいた。黒い水に膝まで浸かりながら、其の身体がゆっくりと沈んでいく。其の隣で、相談者二人も同じだった。虚ろな表情で、海面に開いた巨大な瞳を見上げている。其の瞳から放たれる声が、彼らを引いている。
手を伸ばした。マリナの手首を掴む。冷たい。あの夜と同じ冷たさ。だが此度は離さない。
「ネズミ君、今なら誰にも見られない」
九衣の声が鞄の中から響いた。俺は鞄を岩陰へ放り込み、其の隙間から差し出されたマイスドライバーを掴んだ。胸元へ装着。ライドエグズをセットし、円盤を衝突させる。
『エッグリューション』
『マイス!』
装甲が身体を包む。タートルフレーム。背中に甲羅の枠が組み上がり、六角形の盾が前面へ滑り込む。重さが肩へ乗る。だが其の重さが、今は頼もしい。
マリナの身体を引き上げる。其の腕に力が入っていない。意識が海の底へ引かれている。俺は盾を構えたまま、マリナと相談者二人を岩場の高い位置へ押し上げた。
「上へ! 高いところへ!」
マリナが呻いた。其の目が焦点を取り戻しかける。だが其の視線が、海面の巨大な瞳へ吸い寄せられる。
「見える…」
マリナの声が、夢遊病者のように平坦だった。
「何が見えるんだ」
「あたしが…助けられてる。何度も。何度も。あの夜も、さっきも。結人君が盾になって、あたしは其の後ろで震えてる。其れがずっと続く。ずっと…」
瞳不可思議だ。
海面に開いた巨大な瞳が、マリナの恐怖を読んでいる。救われることしかできない自分。守られることしかできない自分。其の不安を映像として見せ、諦めと依存心を増幅させる。偽りの未来。確定した予言ではない。だがマリナには其れが本物に見えているはずだ。
「マリナさん、其れは本当じゃない」
俺は盾を構えたまま叫んだ。
「あいつが見せてるのはお前の恐怖だ。未来じゃない」
「でも…」
「お前は今、あいつに引かれてた。でも俺の手を掴んでたろ。其れはお前が選んだんだ」
マリナの手首に、微かに力が戻った。だが其れだけでは足りなかった。
黒い水が動いた。
海面から触手が三本、同時に伸び上がった。標的は分散されている。一本は俺。一本は相談者。一本はマリナだ。
盾で一本を受け止める。甲羅の表面で泥が弾け、衝撃が肘へ走る。だが残り二本を同時に防げない。
「──!」
俺は盾を投げた。
いや、投げたのではない。盾を横向きへ滑らせ、マリナと相談者の間へ割り込ませた。二本の触手が盾の縁へ当たり、軌道を逸れる。だが其の分、俺の正面が空いた。
三本目の触手が、胸の装甲を直撃した。
ズン、と鈍い衝撃が肺を圧迫する。息が止まる。足裏が黒い膜の上を滑り、二歩下がる。だが倒れない。踵が食い込む。タートルフレームの重さが、此処で生きる。
「真瀬君!」
マリナの声が戻っていた。恐怖に引き攣れた声だが、此度は俺を見ている。海を見ているのではない。
「大丈夫だ。折れない」
俺は盾を引き戻し、再び構えた。胸の装甲に亀裂が走っているか確認する余裕はない。だが痛みはある。肋骨が軋む感覚が、呼吸のたびに鋭く突き上がる。
瞳不可思議が動いた。
海面の巨大な瞳が、其のまま滑るように移動し始めた。波の上を滑る瞳。本体が水面を移動している。追いかければ捕まえられるかもしれない。だが──
(追えば、背後が空く)
マリナと相談者二人が背後にいる。俺が動けば、其の分盾が消える。瞳不可思議は其れを待っている。俺が追う瞬間を。其の隙に、背後の人間を別方向から狙う。
「くそっ」
俺は地を蹴った。瞳不可思議の方へ。三歩。たった三歩で、背後で水音が変わった。
「──!」
振り返る。マリナの足元から、黒い水が噴き上がっていた。触手が一本、マリナの腕へ巻き付こうとしている。
俺は踵を返した。追撃を中断し、マリナの方へ滑り込む。盾を振り上げ、触手を弾く。泥が飛び散り、マリナの頬へ泥の飛沫がかかる。
「ごめん…ごめんね、結人君」
マリナが震えていた。其の手が、胸元のホヌのチャームを握りしめている。
「あたし、また守られてる。あの未来と同じだ。何も変わってない」
「変われる。今だって──」
「お前は救われることしかできない」
海面の瞳が、声を放った。低い、粘りつくような声。マリナの耳へ直接届く波だ。俺には波の歪みとしてしか聞こえない。だがマリナには、はっきりと届いている。
「お前は救われることしかできない。何度も。何度も。其れがお前の役目だ。守られ、連れ帰られ、笑って、また次の夜に呼ばれる。変わらない。変わらないよ」
「違う」俺は叫んだ。「其れはあいつの言葉だ。お前のじゃない」
「でも…あたし…」
マリナの足が、また海へ向き始めた。見えない糸に引かれている。其の表情には、諦めの色が滲んでいた。
瞳不可思議が又動いた。今度は左側へ。本体が水面を移動し、俺の盾の届かない角度から触手を繰り出す。俺は盾を左へ振り、触手を受け止める。だが其の隙に、右側からもう一本。
相談者の友人が、触手に足を取られた。倒れる。黒い水が其の身体を包み始める。
俺は盾を投げた。相談者の友人の上へ滑り込ませ、触手を弾く。だが其の分、マリナの正面が空く。
「マリナさん!」
又一本の触手が、マリナへ向かって伸びていた。俺は地を蹴り、其の間へ滑り込もうとする。間に合うか。分からない。だが──
「お前は救われることしか──」
「うるさい!」
マリナが叫んだ。
其の声は、震えていた。だが其の中に、明確な怒りがあった。恐怖の奥から掘り起こしたような、鋭い一本の筋。
「あたしは救われることしかできない? 何度も何度も守られて、後ろで震えてるだけ? そうかもな。でも──」
マリナが顔を上げた。其の目に、巨大な瞳が映っている。だが其れに耐えている。瞳を見返している。
「今度は自分が帰り道を作る」
其の瞬間だった。
マリナの掌の中で、ホヌのチャームが光った。いや、チャームではない。其の隣にあった。いつの間にか、マリナの手の中に白い卵が握られていた。シードエグズだ。海岸で拾ったのではない。呼び寄せたのだ。マリナの決断が、卵を呼んだ。
表面へ亀甲状の光が走った。ひび割れる音がした。だが砕けない。殻が光となって剥がれ落ちていく。一層、又一層。内側から滲む光が、マリナの指の間を溢れ出す。
其の中心に、完成した亀のライドエグズがあった。
緑色の殻に多角形の意匠。甲羅を模した紋様。俺のタートルフレームと同じ系統でありながら、其処には海色の光が混じっていた。マリナの色だ。ハワイの海と沖縄の海を混ぜたような、深い青緑。
俺の胸元で、自分のライドエグズが脈打った。同じ響きだ。あの夜、タートルフレームを得た時と同じ鼓動。だが此れは俺のものではない。マリナの卵だ。マリナの仮面だ。
周囲の音が遠のいた。波の音も、触手の唸りも、瞳不可思議の囁きも。全てが水底へ沈んでいく。
マリナの声だけが、明瞭に聞こえた。
「あたしが、帰り道を作る」
それと共に、俺の持っているマイスドライバーが反応する。
マイスドライバーから出てきた光は、そのまま彼女の元へと向かう。
その光は胸元で、なんとマイスドライバーだった。
マリナがライドエグズを掲げた。其の動作は、誰かに教わったものではない。見様見真似でもない。ただ、其れが正しいと身体が知っている動きだった。ライドエグズを胸元へ。マイスドライバーへ。セットする。
円盤が衝突する音が、静寂の中で響いた。
『エッグリューション』
『亀!』
エグズから広がった海色の光が、マリナの全身を包んだ。青緑の粒子が螺旋を描き、其の身体を上から下へ塗り替えていく。足首へ装甲が巻き付く。脛、膝、腿。順番に、確実に。次に腰へ。胴へ。肩へ。背中へ縦長の甲羅の枠が組み上がる。最後に頭部を銀色の面が覆い、額に緑色の亀の意匠が灯る。
『仮面ライダー!』
『ホヌス!』
光が弾けた。
瞳不可思議の触手が迫っていた。だが其れより早く、光の中から姿を現した装甲が、触手を正面から受け止めた。
亀を思わせる銀色の装甲。背中に六角形の甲羅。細身ながら隙間のない防御形態。だが其の立ち姿は、守られる人間のものではなかった。盾を構え、前を見据える戦士の構えだ。
琥珀色の複眼が、夜の海を反射して揺れる。
「仮面ライダー…ホヌス」
マリナが、其の名を告げた。
其の声は震えていなかった。