PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路―   作:ボルメテウスさん

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第四航路 孵化 7/7  その視線の意味

黒い水が、ガラスのように砕けた。

 

足元から世界が裏返る。粘度のある膜が割れ、其の隙間から本物の波の音が流れ込んでくる。潮の匂いが鼻腔を打つ。腐った果物の甘さが消え、代わりに塩気と砂の乾いた香りが肺を満たした。

 

異界が、退いていく。

 

岩場の輪郭が戻る。防波堤のコンクリートが現れる。夜空に星が見える。だが其れは異界の空ではなく、本物の夜空だ。星座の位置がずれている。沖縄の空だ。

 

俺の装甲が、光の粒子となって解けていく。赤茶色の霧が身体から立ち昇り、夜風に溶ける。重さが消え、代わりに生々しい疲労が筋肉の一本一本へ蘇ってきた。膝が笑っている。指先が震えている。だが、地面は本物の砂だ。靴底に伝わる感触が、黒い膜ではなく、湿った砂利の確かさを取り戻している。

 

隣で、ホヌスの装甲もまた光となって解けた。

 

海色の粒子が夜風に散り、其の下からマリナの姿が現れる。花柄のシャツが泥だらけで、髪が潮風に濡れて顔に張り付いている。だが立っている。其の足は、本物の砂の上に、しっかりと立っている。

 

マリナの右手に、ライドエグズが握られていた。

 

緑色の殻に多角形の意匠。甲羅を模した紋様。変身前も消えずに、其の掌の中で淡い光を明滅させている。俺のライドエグズと同じ系統でありながら、其処には海色の光が混じっていた。完成した卵だ。シードエグズから殻が剥がれ落ち、中から姿を現した、マリナ自身の仮面。

 

「真瀬君! マリナさん!」

 

優菜の声が防波堤の方から届いた。駆けてくる足音。其の後ろから大神の足音も続いている。相談者二人は、防波堤の陰で蹲ったままだった。だが其の目は虚ろではなく、戸惑いと疲労が入り混じた、生きた色を取り戻していた。

 

「二人とも大丈夫? 怪我はない?」

 

優菜が息を切らせて俺の前に滑り込んできた。其の大きな目が俺とマリナを交互に見ている。心配と安堵と、隠しきれない興奮が混じった目だ。

 

「大丈夫だ。怪我はない」

 

嘘だった。肋骨の奥はまだキリキリと鳴っているし、肩は熱い。だが今は其れを口にするべきではない。優菜の顔色を見て、俺は安堵した。彼女は無事だ。大神も、其の後ろに立って静かに頷いた。

 

「マリナさんは?」

 

優菜がマリナへ向き直る。マリナは自分の右手を見つめていた。ライドエグズを握ったまま、其の光を、まるで初めて見るもののように眺めている。

 

「…あたし、大丈夫だよ。ちょっと、信じられないだけ」

 

マリナの声は、普段の明るい調子を取り戻そうとしていた。だが其の声の端っこが、まだ微かに震えている。無理もない。さっきまで異界の中で踊るように戦っていたのだ。身体に残った興奮と恐怖が、まだ入り混じっているはずだ。

 

「あの──」

 

マリナが俺を見た。琥珀色の瞳が、夜の海岸の明かりを拾って揺れている。

 

「あたし、変身したんだよね。あの仮面ライダーみたいなのに。此の手の中の卵みたいなの使って。…此れ、何なの」

 

「正直に言うと、俺にも分からないことが多い」

 

俺は答えた。誤魔化すつもりはなかった。

 

「分かっているのは、此れがマリナさんの力だということ。あんたが『帰り道を作る』って決めた時、卵が応えた。俺はそう思ってる」

 

「あたしが、決めたから?」

 

「ああ。俺が与えたんじゃない。あんた自身が、あんたの力を呼んだんだ」

 

マリナがライドエグズを握りしめた。其の指先に、微かに力が込もる。光が、パルスのように一度明るくなった。

 

「──業界初のゴースト系配信者、此処に参上!」

 

突然、俺の鞄の中から声が響いた。

 

優菜が「ひゃっ!」と飛び上がった。大神が一歩だけ退いた。マリナは──

 

「うわああああっ!」

 

大声を上げた。

 

俺の鞄の口から、シーサーのぬいぐるみが ぽこん と顔を出した。赤茶色の布地に白い口元。黄色いボタン状の目。首には金色の輪と「QE」のタグ。其の小さな前脚が、鞄の縁にしがみついて、ぷるぷると身体を震わせている。

 

「何これ! 喋った! ぬいぐるみが喋った!」

 

マリナが俺の鞄に駆け寄って、シーサーの顔を両手で持ち上げた。其の勢いで鞄が倒れ、中から教科書とペンケースが散乱する。九衣は其のままマリナの両手にぶら下がった。

 

「ちょ、離せ! 掴むな! 私は配信者だぞ、ぬいぐるみ扱いするな!」

 

「ぬいぐるみが喋ってるよ真瀬君! これ何? 付喪神? 本物なの? 生きてるの?」

 

「生きてない! 死んでる! 私は幽霊だ! 幽霊を配信者として扱え!」

 

マリナが九衣を裏返した。背中のチャックを確かめる指先が、妙に生乾きの洗濯物を点検する主婦みたいだった。

 

「チャックがある。中は綿だ。でも喋ってる。触ると温かい。幽霊って温かいの?」

 

「個人の感想です。全ての幽霊が私と同じとは限らない」

 

「なんで敬語なの?」

 

「配信者は視聴者へ丁寧なのが基本だからだ。初対面の挨拶くらいちゃんとする」

 

九衣はマリナの手の中で ぎゅるるる と身をよじり、前脚をばたつかせた。だがマリナは離さない。其の琥珀色の目が、九衣の黄色いボタン目を覗き込んでいる。

 

「──というか、さっきから見てたでしょ。あんた、真瀬君の鞄の中にいた」

 

「見てたとも! 私は情報提供者兼通信支援兼マスコット兼プロデュース補佐だ。戦闘中もしっかり記録を取っていた。後で配信素材になる」

 

「配信? 何の?」

 

「不可思議事件だ。需要はある。ネットの噂だとね、沖縄の離島で起きた不可思議事件は世界中で注目されてるらしい。ただし断定はできないけど」

 

(又始まった。こいつ、調子に乗ると止まらない)

 

「九衣、いい加減下ろしてもらえ」

 

「下ろしてほしいならそう言ってくれ。私は今マリナさんにぶら下がっていて視界が悪い」

 

「下ろして。お願いします」

 

「はいはい。素直でよろしい」

 

マリナが九衣を俺の鞄の上へ置いた。九衣は ふん と鼻を鳴らし、前脚で自分の腹を整える。其の仕草が、どう見てもぬいぐるみだった。

 

「…で、此の子は何なの。真瀬君の仲間?」

 

「ああ。まあ、そうだ。詳しいことは後で話す。長くなる」

 

「長くなるんだ。そりゃそうだよね。変身する仮面ライダーと喋るぬいぐるみが一緒にいるって、説明短く済むわけないよね」

 

マリナは笑った。其の笑い方は、まだ少し震えていた。だが其れは、ハワイ料理店で見た明るい笑みと同じ種類のものだった。恐怖の奥から無理やり引っ張り出した笑顔ではなく、其処に在るものを其のまま出した笑顔だ。

 

マリナが、自分の掌の中のライドエグズを見つめた。海色の光が、静かに明滅している。

 

「ねえ。あたし、もう一度変身できるのかな」

 

其の声は、明るさの裏で不安を探っているようだった。

 

「またあんなのに狙われるのかな。あたし、此れを持ってるから」

 

俺は軽々しく「大丈夫だ」とは言わなかった。分からないからだ。ライドエグズが完成した理由も、瞳不可思議がマリナを狙った理由も、全てを理解しているわけではない。安全だと保証できる材料が、俺にはない。

 

「分からない。正直に言うと、俺にも何が起きるか分からない」

 

マリナの目が、俺を見た。

 

「でも、分からないからこそ、一人にはしない。約束する」

 

マリナが、少し目を見開いた。そして、ゆっくりと頷いた。

 

「…うん。あたしも、守られるだけでは終わらないよ。困ってる人がいたら、あたしにも知らせてほしい。あたし、今度は自分で帰り道を作る側に回るから」

 

其の言葉に、俺は何も返さなかった。ただ頷いた。其れで十分だった。

 

大神が、静かに近づいてきた。其の灰青色の目が、マリナのライドエグズへ一瞬だけ流れた。だが何も言わなかった。ただ、マリナの肩へ手を置き、無事を確認するように一度だけ軽く叩いた。

 

「無事で何よりだ。店、閉める前に戻ろう」

 

其れだけ言って、背を向けた。其の背中には、何かを知っている人間の重みが滲んでいた。だが今は、其れを追及する時間ではない。

 

優菜が相談者たちの方へ走っていった。二人はまだ防波堤の陰で座り込んでいる。だが其の顔には、虚ろな色はもうなかった。優菜が声をかけ、肩を借りて立ち上がらせている。其の姿を見て、俺は少し息を吐いた。

 

全員、戻ってきた。

 

全員で、帰ってきた。

 

「ねえネズミ君」

 

九衣が小声で囁いた。俺だけに聞こえる声。

 

「あの殻と同じものが海岸に集められてた。瞳不可思議が卵を呼び寄せてた。此れ、ネットの噂だとね、異界の入り口付近で卵形の光が見えたって報告が何件かある。沖縄ジェイルの時も似た話が出たらしいよ。ただし断定はできないけど」

 

(又其れか)

 

「でも一つだけ、さっきの戦いで確信したことがある。あの瞳不可思議。マリナさんに見せてた未来、あれは偽物だよ。確定した予言じゃなくて、恐怖から作った偽りの可能性。ネットの記録では、異界の住人──シャドウと呼ばれる存在が、人の心の弱みに付け込むパターンがある。ただし、ライドエグズとペルソナ、不可思議とシャドウが完全に同じ存在かはまだ分からない。性質が似てる、という仮説に留めるよ」

 

(仮説、な)

 

「うん。でも、似てるものは似てる。記録ではね」

 

九衣は其処まで言って、口を閉じた。其の黄色いボタン目が、マリナの掌の中で光るライドエグズを見つめていた。

 

俺は立ち上がった。砂が靴底から落ちる。潮風が頬を撫でる。夜の港の灯りが遠くで揺れている。波の音が、穏やかに打ち返していた。

 

其の時だ。

 

視線を感じた。

 

背中の右側。防波堤の向こう、海岸沿いの植え込みの陰。街灯の光が届かない闇の中に、誰かが立っている。

 

俺は振り返った。

 

其処にいたのは、達臣だった。

 

麻尾達臣。クラスメイト。不可思議事件研究会の副部長兼記録係。普段は無表情で、何を考えているか分からない男。俺が異界で戦っている間、優菜と一緒に避難していたはずの──

 

だが其処にいた。離れた物陰に立って、此方を見ていた。

 

其の目が、驚きに見開かれていた。

 

達臣の目は、いつも細い。感情を表に出さない。観察するだけの静かな目だ。だが今、其の目が開いていた。暗闇の中でも分かるほど、はっきりと。

 

其の視線の先に、マリナの掌の中のライドエグズがあった。

 

海色の光を明滅させる緑色の卵。達臣は其れを見ていた。俺ではなく、マリナのライドエグズを。其の開かれた目が、何かを知っている人間の目だと俺は直感した。初めて見るものへの驚きではない。知っているものが現れたことへの驚愕だ。

 

「達臣──」

 

俺が声をかけようとした、其の瞬間。

 

達臣の目が、俺と合った。

 

一秒。

 

其の一秒の間に、達臣の表情が閉じた。驚きが消え、代わりにいつもの無表情が戻る。まるで水面上の波紋が消えるように、一瞬で其れは消えた。

 

達臣は、背を向けた。

 

何も言わずに。何も説明せずに。ただ踵を返し、植え込みの陰へ歩き出した。其の足音は砂の上を吸い込まれるように消えていく。

 

「あれ、麻尾君?」

 

優菜が相談者を支えながら声を上げた。だが達臣は振り返らなかった。其の背中が闇に溶け、波の音だけが残った。

 

俺は、其の消えた背中を見つめていた。

 

達臣は、何を知っている。マリナのライドエグズを見て、何に驚いた。あいつはただの高校生じゃない。旧桟橋の時から薄々感じていた。達臣の観察する目、慎重な質問、異常な事態への冷静さ。全てが、普通のクラスメイトの枠に収まらない。

 

だが今は、其れを追う時間ではない。

 

「真瀬君? 何ぼーっとしてるの。帰るよ」

 

優菜の声で、俺は前を向いた。マリナが九衣を抱え、大神が相談者を支え、優菜が先頭を歩き出している。夜の海岸を、五人が港の方へ向かって歩いていく。

 

俺は其の列の最後尾へついた。カバンの中で九衣が小さく呟いた。

 

「ネズミ君。あの子、麻尾君だっけ。見てたよね。マリナさんの卵を」

 

(ああ)

 

「…ネットの噂だとね、卵の覚醒を目撃した人間には、其れなりの理由があるらしい。ただし断定はできないけど」

 

(断定できない、な)

 

「うん。でも一つだけ言える。あの子、普通じゃないよ。配信者は人を見る目がある」

 

(お前の其の目は、ぬいぐるみのボタンだろ)

 

「ボタンでも見えるものは見えるんだよ」

 

九衣は其処で黙った。俺たちの足音が、夜の砂浜に並んで刻まれていく。遠くで船の汽笛が鳴った。低く、長く、夜の海へ溶けていく音。其の音は、もう悲鳴には聞こえなかった。ただの港の音だ。

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