PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
放課後の部室は、潮風で紙がめくれる音で賑やかだった。
窓を全開にしているのは優菜だ。「換気が大事」と言うけれど、本当は海の匂いが好きなだけだろう。特別棟一階の旧工芸科室の隣。壁に掛けた「不可思議事件研究会」の手書きプレートが、風に揺れてカタカタ鳴っている。
俺は机の上で過去の相談記録を時系列に並べ替えていた。優菜が持ち込んだファイルを三冊に分類する作業だ。達臣は向かいの席で、ノートに調査項目を書き足している。其の手つきは丁寧だが速い。字が小さくて整っている。
「これ三件目のやつだろ。場所が重なってる」
俺が記録を指差すと、達臣が顔を上げた。
「ああ。南棟三階の旧音楽室付近。過去二ヶ月で三件の目撃報告がある。全て放課後、全て誰もいないはずの場所で声を聞いたという内容だ」
「三件も? 前にも同じような相談来てたんだ」
「来てるよ」優菜がファイルの山から顔を出した。「でも全部、片付けられなかったの。現場に行っても何も見つからなくて、悪戯とも不可思議とも断定できなかったから」
「断定できないから残ってるのか」
「そう。断定できないものを無理に断定したら、適当な嘘をつくのと同じでしょ」
其れは優菜らしい考えだった。答えが出ないものを無理に答えにしない。其の分だけ記録が積み重なっていく。
カバンの中で九衣が微かに動いた。俺の耳だけに届く小声。
「ネズミ君、三件同じ場所で声ってネットの噂と同じパターンだよ。過去に沖縄で起きた異変の時も、特定の場所で繰り返し声が聞こえたって報告があるらしい。ただし断定はできないけど」
(又其れか。お前の『噂』はいつも断定できないな)
「配信者は情報の出所に責任を持つんだよ。確証のないことを断定したらデマ配信になるでしょ」
(…正論だな)
九衣は ふん、と鼻を鳴らして黙った。
扉がノックされた。
優菜が「どうぞ」と声をかける。扉が開き、男子生徒が一人入ってきた。二年生だろうか。制服のネクタイが少し緩んでいて、顔色が悪い。
「あの、不可思議事件研究会って此処ですよね」
「そうだよ。座って。お茶飲む?」
優菜が自然に椅子を引いた。相手の緊張を解く間合いが上手い。達臣は何も言わずノートを開き、ペンを構えた。
「聞きたいことがあるんですけど、変だと思っても笑わないでくれますか」
「笑わないよ。此処はそういう部活だから」
男子生徒は少し躊躇してから、口を開いた。
「放課後、南棟三階の空き教室に行ったんです。誰もいないはずなのに、友達の声が聞こえたんで」
達臣のペンが止まった。俺も手元の記録から目を上げた。南棟三階。さっき達臣が言っていた場所だ。三件目ではなく、四件目。
「どんな声だった?」
優菜が訊いた。急かさない。相手の目を見て、ゆっくりと。
「呼んでたんです。俺の名前を。『おいこっち来いよ』って。はっきり友達の声で。だから教室のドアを開けたんですけど、誰もいなくて」
「其の時、何時頃だった?」
達臣が静かに訊いた。其の声は平坦だが、ペンの先が動く速度が変わっている。
「五時半頃です。部活が終わってから立ち寄ったんで」
「友達の名前を聞いてもいい?」
「…佐々木、です。佐々木って友達なんですけど、其の時、佐々木は本土に修学旅行で行ってて、島にいなかったんです」
部室が一瞬静かになった。潮風が窓から吹き込み、机の上の記録用紙が一枚飛んだ。俺が手で押さえる。
「島にいなかった友達の声が聞こえた、ってこと?」
優菜が確認した。其の声は慎重だった。驚きを隠しているのか、それとも驚かないようにしているのか。
「はい。だから最初は自分の耳を疑ったんです。でも其の後、声を追いかけて廊下を歩いたんです。そしたら其れ以降のことがよく覚えてなくて。気づいたら昇降口に立ってたんです」
「記憶が途切れた」達臣が書き留めた。「声が聞こえてから昇降口に立つまで、どのくらい時間が経っていたか分かるか」
「…分からないです。十分くらいかと思ったけど、時計を見たら一時間経ってたんで」
一時間。十分だと思っていた時間が一時間。其れは単なる物忘れではない。俺は男子生徒の表情を見た。目の下に薄い隈がある。睡眠不足だろうか。其の手が、膝の上で握りしめられている。
(こいつ、怖いんだ。ただの悪戯じゃないって、自分でも気づいてる)
「ありがとう。此れ、ちゃんと記録に残すから」
優菜がファイルを取り出した。新しいページを開き、日付と場所と概要を書き込む。其の手際は達臣の記録とは別の種類の丁寧さだった。事実を並べるのではなく、相手が話したことを其のまま文字にする。其れが相談者にとって安心になることを、優菜は知っている。
「明日の放課後、同じ時間帯に現場を確認しようと思うんだけど、君も来れる?」
「…来ます。自分の目で確かめたいんで」
男子生徒はそう言って、礼をして部室を出た。扉が閉まると、優菜が大きく息を吐いた。
「四件目だよ。南棟三階」
「同じ場所か」達臣がペンを置いた。「時間帯もほぼ同じ。放課後の五時半前後。偶然にしては揃いすぎている」
「悪戯の可能性は? 同じ場所で同じ時間に声が出る仕掛けがあるとか」
「仕掛けがあるなら、其れを見た人間がいるはずだ。過去三件の調査で設備も見た。スピーカーも録音装置もなかった」達臣が端的に言った。
「じゃあ、やっぱり──」
「まだ分からない」達臣が遮った。「断定はしない。それが此処の方針だろ」
優菜が少し唇を尖らせたが、頷いた。
俺は男子生徒の話を思い返していた。声を追いかけてから記憶が途切れた。十分が一時間になった。其れは、旧桟橋の前に見た現象と似ている。窓ガラスに映った影が一拍遅れて動いたあの感覚。現実と認識の間に、微かなズレが生じる現象。
(九衣)
「うん。ネットの噂だとね、異界の境界が薄くなってる場所で時間感覚のズレが起きるらしい。過去に沖縄で起きた異変の時も同じ報告があったよ。ただし断定はできないけど」
(沖縄で起きた異変って、ネットじゃ何て呼ばれてる)
「沖縄ジェイル。正式な名称があるかどうかは分からない。記録ではね。でも其の時も特定の場所で声が聞こえたり時間がずれたりしたらしいよ。ソースの信頼性は低いけど」
(低いのかよ)
「低いけど量はあるんだよ。数が多い噂は無視できないでしょ。配信者としてね」
九衣は其処で黙った。だが其の沈黙には、「行くんでしょ」という問いが含まれていた。
「明日、現場に行く前に一箇所寄るところがある」
俺が言うと、優菜と達臣が同時に俺を見た。
「前から気になってたんだけど、南棟三階の旧音楽室から港の方へ行くと、旧第4桟橋方面に繋がる渡り廊下があるだろ」
「あるね」達臣が頷いた。「使われてない渡り廊下だが、物理的には繋がっている」
「声が聞こえた場所と、以前調査した桟橋方面が繋がってるなら、見えてくるものがあるかもしれない」
優菜が目を輝かせた。達臣は一瞬だけ俺を見てから、何も言わずノートに一行書き足した。
* * *
翌日の放課後。
俺たちは南棟三階へ向かった。
廊下は静かだった。部活動終了後の時間帯で、生徒はまばらだ。床がリノリウムの旧校舎は、足音がやけに響く。俺の靴底が タッタッ と鳴るたびに、其の音が天井近くで反響して消えた。
旧音楽室の前。扉は閉まっている。鍵はかかっていないはずだ。達臣が事務室から許可を取ってきた。
「此処だ」達臣が扉に手をかけた。「五時半前後。今は五時十五分だ」
扉を開ける。中は暗い。窓のブラインドが下りている。達臣が照明をつけた。蛍光灯が二本点いて、古いピアノと積み上げられた椅子が浮かび上がる。
「誰もいないね」優菜が部屋を見回した。
俺は窓に近づいた。ブラインドの隙間から外を見る。旧第4桟橋方面の海岸線が見える。遠くだが、錆びた鉄骨の輪郭が夕陽に照らされていた。
窓ガラスに、俺の顔が映っている。
其の時、一瞬だった。
廊下側の窓ガラスに誰かの影が映った。背の低い生徒のシルエット。廊下を歩いているのだろう。だが其の影が、本物の生徒より一拍遅れて動いた。本物はもう角を曲がって見えないのに、影だけが一秒ほど残って、それからゆっくりと角へ消えていった。
(又だ)
心臓が ドクン と跳ねた。何だ此の感覚。前にも見た。教室の窓で。旧桟橋の前で。現実と影の動きがずれる。其れが何の前触れなのか、俺はもう知っている。
「真瀬君?」
優菜が声をかけた。俺は振り返らずに小声で言った。
「今、窓に影が映った。遅れて動いた」
達臣の目が細くなった。其の視線が窓を確認し、廊下側を見た。表情は変わらない。何かを考えているのは分かる。
「何もないね」優菜が言った。「でも緊張してるだけかもしれないし…」
其の時、男子生徒が部屋へ入ってきた。来ると約束していた相談者だ。
「あの…今五時二十五分です。声が聞こえたのはこの先の廊下って──」
其の声が途切れた。
廊下の向こうで、足音がした。
誰の足音でもない。ゆっくりとだが確実に、廊下の端から此方へ向かってくる。人影はない。靴音だけが一歩一歩と近づいてくる。
俺はゴーグルを下ろした。視界が狭くなる。其の分だけ感覚が鋭くなる。足音の出所を探る。だが──
「いない」達臣が低く言った。「足音が反響している。音源が此処にない」
「え、それどういうこと」
「音が別の場所で鳴って此処まで届いている。それも複数。──立ち止まれ、動くな」
達臣が相談者の肩を掴んだ。其の動きには一瞬の迷いがなく、まるで危険を知っている人間の反応だった。
男子生徒の顔が青ざめている。優菜が其の隣で唇を噛みしめた。
「誰もいないはずの場所から友達の声が聞こえて、追いかけたら記憶がなくなる」
其れを、今此処で確かめようとしているのか。
足音が止まった。
静寂が部屋を覆った。
次の瞬間、廊下の向こうから声がした。
「おい、こっち来いよ」
男子生徒の顔が、はっきりと強張った。
「佐々木の声だ…」
誰もいない廊下の奥から、もう一度声がした。
「こっち来いよ」
九衣が鞄の中で小さく呟いた。
「…来るよ。気配が近づいてる。嫌な感じだ」
俺は額のゴーグルを押し上げた。
風が窓を揺らしカタン、と音がした。