PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
眠れないまま、気づけば俺はフェリーの座席に座っていた。
正確には、どうやってここへ来たのかを思い出せない。たしかに寮を出て港まで歩いて、切符を買って乗船したはずなのに。その間の景色がのっぺりと薄い膜に覆われている。
頭の中であの声が繰り返されている。
『貴方にしか抗えない流れです』
ウォルトンの低い声。耳の奥で波音と混ざって反響している。消えない。目を閉じても瞼の裏に金の瞳が浮かぶ。
(寝不足のせいだ。それだけだ)
俺は深く息を吐いて座席に背を預けた。船内は静かだった。エンジンの低い振動と、窓の外で砕ける波の音。乗客はまばらでスマホをいじる学生、眠っている老人窓にもたれかかる女の人がいる。誰も彼も、いつもの風景に溶けている。
――しかし、なにかがおかしい。
視界の端で、壁が波打った。
ほんの一瞬。白い壁紙がゆらりと揺れた気がした。まるで水面に映った景色のように。目を擦ってもう一度見る。壁は普通だ。白く平らで、手すりが等間隔に並んでいる。
(疲れてる。眠れてないからだ)
自分に言い聞かせる。だが心臓がトクトクと速くなっている。吐き気にも似た重さが胃のあたりに溜まっている。空気が重い。潮の匂いが腐ったように甘く、鼻の奥にこびりつく。耳鳴りがする。キーンという高音が波の音に混ざって鼓膜を圧迫する。
床が、歪んだ。
足元のフローリングがふにゃりと曲がったように見えた。椅子の脚が床に沈み込んでいる。いや沈んでいない。一瞬、床が粘土みたいに柔らかく見えただけだ。
「……なんだ、これ」
声に出た。隣の席の若い男が一瞬こちらを見たが、すぐにスマホへ視線を戻す。周りは誰も気づいていない。壁も床も歪んでいるのに。空気が濁っているのに。
(なんで気づかないんだ。こんなにおかしいのに)
孤独だった。自分だけが別の世界に迷い込んだような、底冷えする感覚。胃液がせり上がってくる。
空気が重いだけじゃない。粘度がある。息を吸うたびに肺に綿を詰められているみたいだ。異臭がする。潮、鉄、腐った果物熱された油。そういうものが混ざった吐き気を催す匂い。
窓の外を見た。
海が黒い。いや黒すぎる。波の形が不自然にゆっくりで、砕ける白い泡が紫がかって見える。水平線が溶けている。空と海の境界がぐにゃりと曲がり星が水面に落ちているような光の帯が浮かんでいる。
(あのカードの絵と似てる)
頭の奥で、逆さまの船のカードがよぎる。荒れ狂う波。月光に照らされた古い船。黒い海。イゴールが並べたあの異質な深い青と金と黒の色彩。
景色が、その色に変わっていく。
壁の白が青黒く沈み照明の橙が鈍い金色に変わる。材質が粘液のように蠢いて見える。壁紙の継ぎ目がうねうねと動き、手すりが溶けた蝋のように垂れ下がる。
「う、ぇ……」
吐き気が込み上げた。口を押さえて前かがみになる。冷や汗が額から鼻の頭へ流れる。
(これは現実だ。夢じゃない。だって臭いし、息苦しいし、心臓がうるさい)
手すりに触れようとして、やめた。金属のはずのそれが半透明に濁って触れたら指先が飲み込まれそうに見えた。座席の背もたれが背中に張り付くような感覚がある。椅子が柔らかくなっている。まるで肉塊に座っているみたいだ。
乗客がいる。隣の男はまだスマホを弄っている。画面の光がやけに強く白く、顔面を照らしている。眠っている老婆の寝息は聞こえる。みんなこの変化から取り残されている。いや、違う。
(おれだけが、変なものを見ている)
周りの人間が異変に気づいていない。気づいていないことが余計に恐ろしい。これは俺の頭の中の出来事なのか。それとも現実に起きているのか。頭の芯が割れそうだ。
景色が完全に変わり始めた。
天井が波打ち、壁が呼吸している。照明が溶けて金色の滴になって床へ落ちる。窓の外はもう海ではなく深い藍色の闇と無数の光の粒が混ざった、粘液の海だ。床がぐずりと沈む。足元がふらつく。
「ぐ……っ」
脂汗をかきながら、俺はなんとか立っていた。膝が笑っている。歯の根が合わない。震えが止まらない。
(どうすればいい。逃げる? どこへ? 船の出口はどっちだ)
振り返る。出口へ続く通路の先が、暗く溶けて見えない。壁が蠕動している。天井が低くなっている気がする。酸素が薄い。耳鳴りが止まない。
「おい、誰か――」
声が、吸い込まれて消えた。
隣の男には届かない。眠る老婆にも。船内放送のスピーカーから、低いノイズが断続的に流れている。ザーザー、という音。それだけが異様に響く。
俺の周りだけ、世界が別の何かへ浸食されている。
薄暗くねっとりとした空気。粘液のように濡れた壁と床。色の反転した物質。吐き気を催す甘い異臭。そして静寂に混ざる波音と、高音の耳鳴り。
(ベルベットルームのカードの世界みたいだ)
違う。あれよりもっと生々しい。あの場所は静かで、幻想的だった。ここはもっと直接的に肌を舐めるような気味悪さが漂っている。
足を踏み出そうとして床がミチリと沈む。靴底に絡みつく感触がある。見下ろすと、床のタイルが粘性のある液体に変わっていた。黒とも青ともつかない半透明のものが靴の周りでゆらゆら揺れている。
「……取り残された」
声が出た。途方に暮れたような、間の抜けた声だった。
窓の外。光の粒がゆっくり動いている。まるで無数の目がこちらを見ているみたいだ。
(これは夢だ。まだ夢の中なのか。それとも現実が夢に変わったのか)
わからない。ただ、確かなのは。
(逃げ場がないんだ)
前方の扉も、後方の通路も窓も、すべてが変わり果てた。人間はそこにいるのに、俺だけがその変化を見ている。触れれば生温かい壁。臭い。音。すべてが異界のものになっている。
立っているのがやっとだった。
でも、座ることもできない。椅子が肉塊みたいに柔らかかったから。
「くそ……」
ぽつりと呟いた声は、薄暗い空間に溶けて消えた。
俺は身動きが取れず、その場に立ち尽くすしかなかった。
影が動いた。
壁の隅。天井と壁の継ぎ目。床と椅子の隙間。さっきまで何もなかった場所から、何かが滲み出ていた。
黒い。
黒だった。黒色というよりは黒い液体が固まらずにいるような質感だ。粘液が垂れて、溜まって、形を作っていく。人型。いや人型とも言い切れない。頭部らしき膨らみはあるが輪郭が定まらない。腕のようなものが二本。いや三本。いや四本。増えたり減ったりしている。
(なんだ。あれ)
目が離せなかった。
黒い泥の表面から触手が伸びていた。蛸の脚みたいにうねうねと蠢いている。先端が球体のように膨らんでそこに目がついている。ない。ある。ない。ある。瞬きしている。こっちを見ている。
関節が逆に曲がった。
腕のようなものが肘から逆向きに折れ曲がり、膝のようなものが前ではなく後ろへ突き出ている。人間の関節を全部ひっくり返したような動き。それで立っている。いや蠢いている。
「ヒ…」
喉から空気が漏れた。声にならない。
一匹じゃなかった。
壁の影から天井の染みから床の隙間から次々と滲み出てくる。二匹。三匹。五匹。十匹。数えられない。部屋の角から柱の陰から手すりの影から黒い泥が湧き出ている。
(うわ。うわうわうわ)
生存本能が耳の中で叫んでいる。逃げろ。逃げろ。逃げろ。今すぐ逃げろ。
足が動かない。
ガクガクと膝が震えている。足首が鉛になっている。床に溶かされた金属みたいに重い。一歩も動けない。
(動け。動けよ俺の足)
命令しても聞かない。身体が自分のものじゃないみたいだ。心臓が早すぎる。ドクドクドクドク。肋骨が壊れそうだ。
最初の悲鳴が上がった。
「キャアアアアアッ!」
女の人の声だった。鋭く高い悲鳴がねっとりとした空気を切り裂く。それが合図だった。
別の悲鳴。また別の悲鳴。船内が一斉に騒がしくなる。さっきまでスマホを見ていた隣の男が立ち上がって逃げようとして椅子に足を取られ倒れる。寝ていた老婆が目を覚まして何が起きたのか分からない顔で周囲を見回している。
(起きてる。みんな起きてる。ということは俺だけの幻覚じゃない。これ現実だ。あいつらが見えてる)
怪物たちが動き出した。
不自然な関節でガクガクと歩く。いや歩いているのか這っているのか分からない。床を這うものがあれば天井を伝うものもいる。触手を振り回すものがあれば壁を溶かして穴を開けるものもいる。
若い女の人が逃げようとして黒い触手に足を掴まれた。
「いや!やめて!離して!」
悲鳴。引きずられる。床を爪で引っかく音がキリキリと響く。もう一人の乗客が助けようとして手を伸ばすが別の怪物がその腕を弾いた。男が転がる。
(やめろ)
腹の底から何かがせり上がってくる。怒りだ。恐怖の下に埋まっていた何かが煮えたぎって喉元まで迫ってくる。
(やめろ。人を捕まえるな。人を引きずるな)
助けに行きたい。だが足が動かない。本当に動かない。膝が笑っている。腰が砕けている。俺は今、腰を抜かしているのだ。認めたくないが認めるしかない。16歳の男子高校生が腰を抜かしているのだ。
(情けない。畜生。情けない)
目の前で誰かが傷つけられているのに俺は立ち尽くしている。
老人が押し倒された。転んだ拍子に頭を打ったのか動かない。上に黒い泥が覆いかぶさる。蠢く触手が老人の腕に巻きついて沈み込んでいく。老人の口が開いている。声は出ない。目が見開かれている。恐怖で。恐怖で。
(あああああ)
生理的な嫌悪が胃の中から込み上げる。吐き気。目を逸らしたい。でも逸らせない。見てしまう。見続けてしまう。
学生みたいな男の子が悲鳴を上げながら走って出口へ向かう。だが出口の扉は溶けて歪んで開かない。叩いて叩いて叩いて。開かない。背後から怪物が迫る。男の子が振り返って叫ぶ。助けて。声にならない叫び。口が開いて音が出ない。
(助けなきゃ)
(無理だ。あんなの無理だ。俺は何も持ってない。武器も力も何もない)
(でも)
(でもあいつら)
目の前の光景がスローモーションみたいに見える。
女の人が触手に引きずられていく。老人が泥に覆われていく。男の子が扉を叩いている。怪物の影が落ちる。
そして。
一番近い場所で。
さっきスマホを見ていた隣の席の若い男が逃げようとして足を滑らせた。倒れた。頭を打った。動かない。そこへ黒い怪物が覆いかぶさろうとしている。
腕を伸ばしている。触手が男の首に巻きつこうとしている。
あと数秒で。
あと数秒で、この男の首が。
(逃げるか)
(逃げるか。今すぐ逃げれば俺は助かる。出口じゃない。窓。非常用ハンマー。割って海へ飛び込めば。いや海も黒い。海も危ない。でも船内よりは)
(逃げるか。それとも)
(それとも助けるか。何で。どうやって。素手で。あの黒い泥に。触手に。不自然な関節の。あれと。素手で。無理だ。死ぬ。俺が死ぬ)
(でもあいつが死ぬ。目の前で。俺が見ている前で)
足が動いた。
一歩だけ。後ろへ。
生存本能が逃げろと言っている。
心が助けろと言っている。
足は後ろへ一歩下がっただけで止まった。前に進めない。後ろにも進めない。
(どっちだよ。どっちにしろよ俺。お前はどっちがいいんだよ)
指先が震えている。冷たい。全身が冷たい。それなのに額の汗は熱い。
あと数秒。
男の首に触手が巻きつく音が聞こえた気がした。
ガクガクガク。
膝が鳴っている。音がする。骨と骨がカチカチと打ち合っている音。情けない。これが俺の膝だ。16歳の男子高校生の膝が楽器みたいに鳴っている。
(逃げろ)
足が一歩下がった。もう一歩。もう一歩。後ろへ。出口へ。いや出口は溶けている。窓へ。ハンマー。割って。海へ。海も黒い。どこへ逃げる。どこへ。
(どこへも逃げられない。だったら)
いや違う。逃げられる。逃げる方法はある。俺はまだ怪我していない。怪物は俺を見ていない。他の乗客に向かっている。今なら静かに後退して隅へ行けば。見つからなければ。
(見つからなければ。助かる。俺だけ)
目の前で触手が男の首に巻きつこうとしている。
あと数センチ。
男の目が見開かれている。恐怖で白目が見えている。口が半開きで涎が垂れている。生きた人間が死ぬ直前の顔。
(見捨てる)
(見捨てて逃げる。それが正解だ。俺一人が助かっても仕方ない? いや逆だ。俺一人が死んだら意味ない。生き残って誰かに連絡して。救助を呼んで。それが理性的な)
理性的。
その言葉が脳内で反響した瞬間、腹の底から別の何かがせり上がってきた。
(理性的? お前が今理性とか言ってるのか)
(目の前で人が死ぬところを見て。冷静に損得勘定して。それを理性と呼んでるのか)
うるさい。うるさい。うるさい。
心臓がうるさい。耳鳴りがうるさい。膝の音がうるさい。
(うるさいのはお前だ俺。お前がうるさいんだよ)
分かっている。分かっているんだ。見捨てられない。これを見て見捨てて逃げた俺が後でベッドで目を覚まして、ああ助かったと安堵する自分を想像する。想像できるか。できない。絶対にできない。あの男の白目が瞼の裏に焼き付いて毎晩梦に出る。イヤだ。そんなのイヤだ。
(じゃあ死ぬのか。あの黒い泥に。触手に。不自然な関節の。あれと。素手で。俺が)
死ぬかもしれない。
死ぬかもしれないが。
「くそっ」
足が止まった。
後退していた足が止まった。それだけじゃない。前へ出た。右足が一歩前に。地面を蹴った。フローリングがミシミシと軋んで靴底が滑る。膝がまだ笑っている。腰がまだ砕けそうだ。それでも足が出た。
(なんでだよ。なんで動くんだよ俺の足)
身体が勝手に動いている。恐怖で固まっていたはずの足が、意思とは関係なく前に出ている。空気を切る音が耳元で鳴る。ねっとりとした空気が顔に張り付いて抵抗する。それを引き裂くように腕を振って身体を前に投げ出す。
(助ける。助ける。あいつを助ける。どうやってとか今は考えない。考えると止まる。止まったらあいつが死ぬ)
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩。
男の首に触手が触れた。巻き付こうとしている。その瞬間に俺の身体が滑り込んだ。何をしようとしているのか自分でも分からない。触手を引き剥がすのか。男を引きずり出すのか。 body tackleするのか。
(何も考えず飛び出したのかよ俺。馬鹿か。馬鹿だ。大馬鹿野郎だ)
その時だった。
掌の中に温かいものがあった。
(え)
さっきまで何も握っていなかった手の中に。確かに。何かがあった。
小さい。
卵くらいの大きさの。温かい。脈打っている。ドクン。ドクン。さっき胸の中で感じたのと同じリズム。いや違う。あの時は胸の中だった。今は手の中だ。掌で包める大きさの。温かい。
光っていた。
掌の隙間から淡い光が漏れている。青白い。いや銀色。いやどっちでもある。色が定まらない光が指の間からこぼれて床に落ちている。
(なんだ。これ)
掌で卵を握る。温かい。脈動。ドクン。ドクン。心臓と同じではない。もっと遅くて、もっと重い。百年前から打ち続いているような。
(百年)
イゴールの声が脳裏を掠めた。
『近いうちに、貴方は戦士と出会うでしょう』
戦士。
(これか。これが戦士なのか)
掌の中の卵が熱いくなっていく。温かいではなく熱い。指先が痺れる。光が強くなる。掌の隙間から溢れた光がねっとりとした床を照らす。黒い床が光を吸って反射する。
そして声が聞こえた。
内側から。
掌の中から。いや胸の中から。いや頭の中から。全部から。身体中から声が響く。
『我は汝』
低い声だった。言葉なのに声ではない。意味だけが直接脳に流れ込んでくる。
『汝は我』
(誰だ。お前は誰だ)
問い返そうとした。返せなかった。声が出ない。でも答えは返ってきた。問いに対する答えではない。ただ在るという事実だけが伝わってくる。
(お前が。あのカードの。あの鎧の。あの戦士の)
『我は汝』
もう一度。同じ言葉が繰り返される。掌の中の卵がドクンと一つ大きく脈打った。光が強くなる。指の間から溢れた光が腕を伝って肩へ胸へ腹へ全身へ広がっていく。
(分かる。分かってしまう。この声が何なのか。何を言っているのか)
無理だ。まだ分からない。でも確かに響いている。身体の奥底に。骨の髄に。血の一滴一滴にまで。この声は届いている。
卵が熱い。
これ以上握っていたら手が溶けるかもしれない。いや溶けない。掌と卵の間に熱の膜があって、熱は伝わるのに皮膚は焼けない。不思議な感覚。
(壊せ)
声だ。誰の声だ。俺の声か。卵の声か。イゴールの声か。ウォルトンの声か。全部混ざっている。
(壊せ。握り潰せ。そうすれば)
そうすれば何だ。
(力が。手に入る)
力。
俺は力なんて求めていない。ただ目の前の男を助けたいだけだ。それだけだ。なのに。
(いや。それを叶えるには力が要るんだろ。分かってるだろ俺)
分かっている。分かっているから手が動いたんだ。恐怖を押しのけて足が出たのと同じだ。頭で考える前に身体が動いた。今も。頭で考える前に手が。
卵を握る指に力が入った。
強く。もっと強く。指の骨がきしむくらいに。光が指の間から溢れて爆発しそうに膨らんでいる。
(壊れる。これ壊れる。壊したら)
壊したら何が起きる。
(何が起きても。やるしかないだろ)
喉の奥から何かがせり上がってくる。言葉。声。叫び。何を叫ぶのかは分からない。でも出る。今すぐ出る。
俺は卵を強く握りしめた。
光が掌の中で爆ぜた。
叫ぼうとした。喉が開く。空気が肺から押し出される。声が――
喉が裂けるような声だった。自分の声とは思えない。腹の底から迸る声が、ねっとりした空気を切り裂いた。
握りしめていた卵が弾けた。
ピシッと甲高い音がしてそのまま光が溢れた。青銀の光が掌からこぼれ落ち、足元を染め壁を這い、天井を焼いた。暗かったはずの船室が一瞬で白昼のように照らされた。
視界の端で何かが動いた。
背中が熱い。いや、熱い場所が背中の後ろにある。光の源が掌から背後へ移っていた。振り返るなと本能が言った。だが目は勝手に動く。
そこに立っていた。
銀灰色の毛並みを持つ小さな戦士だった。。頭には木の実の殻を思わせる硬質な兜を被り、両脚には豆の皮を重ねた脚甲を巻いている。胸当ては黒い猫皮がぴったりと巻かれ肩飾りには鳥の羽根が刺さっていた。背中から裂けた青い外套が、船室に流れる生臭い風に揺れている。
(鼠……?)
兜の下から、銀色の毛に覆われた顔が覗いている。目は青い。サファイアのように蒼く、それが真っすぐ怪物を睨んでいた。
長槍を背中に背負っている。縫い針を巨大化させたような、青銅色の細身の槍だった。
磨かれた角から削り出した円形の盾を構えている。
ペルソナ、メリダルパクス。
その名前が、卵が砕けた瞬間に舌の上へ浮かんでいた。知っていたのかもしれない。ずっと前から。産まれる前から。俺という存在の核に、この戦士は眠っていたのだ。
(こいつが――)
思考する間もなかった。
メリダルパクスの脚が床を蹴った。爆発的な踏み切りだった。甲板がメリメリと悲鳴を上げて、銀灰色の身体が黒い怪物へ向けて飛ぶ。
槍が閃いた。
ビュン、と風切り音がした。ただの一突き。無駄のない最短距離。青銅の穂先が中年の男に覆い被さろうとしていた黒い泥の中心を貫いた。
ズドン。
音が遅れて響いた。空気が震えた。貫かれた怪物が全身をぶるぶると痙攣させ触手が逆立ち、泥が弾け飛ぶ。槍の穂先から亀裂が走り光が亀裂を伝って流れ込み、黒い身体が内側から爆ぜた。
一撃だった。
「ッ!」
安堵と疲労が同時に襲ってきて、俺はその場にへたり込みかけた。膝が抜ける。背中に冷や汗が流れ落ちる。呼吸が荒い。心臓がまだドクドクと痛いほど脈打っている。
黒い泥は消えていた。床に残っていたのは煤のような薄い汚れだけ。髪の毛を焼いたような臭いが鼻につく。
「はあ……はあ……」
死ななかった。俺も、あの男も。助かったのだ。
ちらりと背後を見る。銀灰色の戦士が、まだ立っている。右手の槍を中段に構え裂けた赤い外套を翻している。戦いの余韻で空気が張り詰めている。
(蘇る戦士って)
俺は荒い息のまま呟いた。
(俺自身のことかよ)
ガクリと膝が震えて俺は床に手をついた。冷たい床の感触がありがたい。吐きそうだ。立っていられない。けれど、目だけは前を向いていた。
メリダルパクスの赤い瞳が、怪物が消えた場所をじっと見据えている。
その背中に、百年という歳月の重さが透けて見えた。