PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
朝のホームルームが始まる前、教室の窓を開けると潮風がドッと入ってきた。
熱い。七月の沖縄は朝から容赦がない。湿気が肌に張り付くような空気だ。本土の夏とは質が違う。空気其のものが水分を抱え込んでいる。
「おはよ真瀬君! 今日も暑いね!」
優菜が自分の席から声をかけてきた。前髪を横へ流した明るい顔。制服の襟元に小さなシーサーのストラップが揺れている。此の娘にとって沖縄の暑さは日常らしい。顔色一つ変えずに窓を全開にする。
「おはよう。毎日此んなもんか、此の暑さ」
「大体こんなもん。でも八月はもっとすごいよ。地元の人でもバテるからね」
「楽しみじゃないな」
「慣れる慣れる。一ヶ月したら『もう本土帰りたくない』って言うようになるって」
「其れ前にも聞いたな」
「だって本当だもん。南星の魔法だよ」
優菜が笑った。大きな目が細くなる。其の笑い方を見ていると、確かに此の島へ来て数日は短いけれど、此の教室にいることだけは自然に思えてくる。
「真瀬席どこだっけ。最後尾の窓側だよね。麻尾はあっち」
優菜が達臣の方を指差した。達臣は既に席に座って教科書を開いている。短い黒髪に浅黒い肌。袖をまくった腕でペンを走らせている。俺が来たことには気づいているはずだが、視線を上げない。
「麻尾、おはよう」
「ああ」
返事は短かった。達臣は俺を見て一秒だけ頷き、また教科書へ戻った。其の目は冷静で、俺の顔を一瞥しただけで何も探っていない……ように見える。だが此いつもそうだ。視線を合わせる時間が短すぎる。まるで必要な情報だけを抜いて残りを切り捨てるみたいな見方だ。
(やっぱり何か探ってるな。何を探してるのかは分からないけど)
鞄の中で九衣が微かに動いた。俺の耳だけに届く小声。
「おはよネズミ君。今日も元気そうだね。配信者としては朝の挨拶も重要だよ。視聴者との距離感は朝の一言で決まるからね」
(挨拶してる。してるよ普通に)
「してないでしょ。私には一回もおはようって言ってないよ」
(おはよう。満足か)
「遅いよ。三秒遅い。配信なら視聴者離れしてるよ」
(黙れ。朝からうるさい)
ホームルームが始まった。先生が入ってきて、欠席者の確認と連絡事項の読み上げ。沖縄の教室は風が通り抜ける。廊下側の窓から入った風が教室を横断して、窓側へ抜けていく。其の風がプリントをめくる音が、先生の声に混じって聞こえる。
一時間目は現代文。二時間目は数学。三時間目は体育。沖縄の体育は基本屋外だ。日差しの下を走らされる。本土の感覚だと完全に暑さ対策が必要な運動量だが、クラスの連中は平気な顔で走っている。俺だけが半分死にかけた。
「真瀬君大丈夫? 顔色ちょっと青いよ」
休み時間、優菜が心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫だ。ちょっと日差しに慣れてないだけ」
「水飲みなよ。熱中症はマジで危ないからね。沖縄の人でも油断して病院送りになる人多いんだよ」
「分かった。飲む」
スポーツドリンクを一口飲む。冷たい液体が喉を通る。生き返る気がした。九衣が鞄の中で小さく笑った。
「ネズミ君、南国だいぶ弱いね。鼠は熱帯には弱いのかな」
(鼠だからじゃない。俺が弱いだけだ)
「言い訳は配信者にとって最大の敵だよ。でも暑さは敵じゃない。試練だ」
(試練って何だよ)
「視聴者への配信が止まったら視聴者が離れるでしょ。だから熱中症も視聴率の敵と言える」
(理屈がおかしい)
昼休みは食堂へ行った。達臣も一緒だ。優菜が「食堂の方が早い」と言って、三人で並んで歩いた。渡り廊下を抜ける時、潮風が吹き抜けていく。遠くで船の汽笛が鳴った。低く長い音。日常の音だ。だが其の音が、一瞬だけ耳の奥で別の響きに聞こえた。あの夜の旧桟橋で聞いた波の声。幻聴だ。分かっている。だが背筋が一瞬だけ冷えた。
「真瀬君?」
優菜が振り返った。
「何でもない。汽笛が聞こえただけ」
「沖縄は汽笛がよく聞こえるよね。港が近いから。私は好きだよあの音。なんか安心する」
「安心するか」
「うん。船が無事に着いたって合図だからね」
無事に着いた。其の言葉が、何故か胸に刺さった。あの夜、旧桟橋で消えた少女。彼女は無事に着いたのだろうか。俺たちが連れ帰ったから、まあ着いたと言えるのだろう。だが其の前に、彼女が何に呼ばれていたのか。其れはまだ分かっていない。
食堂は混んでいた。俺はゴーヤチャンプルー定食を頼んだ。達臣は沖縄そば。優菜はタコライス。三人で窓際の席に座る。
「麻尾っていつもそば食うな」
「沖縄そばは栄養バランスがいい。昼に重すぎない。記録係としては集中力を維持する食事が大切だ」
「記録係の食事に規定があるのか」
「自分で決めてる。規則じゃない」
達臣が淡々と答える。表情は変わらない。だが沖縄そばを啜る手つきには妙な丁寧さがある。本土の人間が沖縄そばに慣れるには時間がかかる。汁の味付けが独特だからだ。達臣は其れを何の違和感もなく食べている。沖縄に来てからの期間を考えると、妙に馴染んでいる。
(こいつ、本当に転校生なのか。それとも前から沖縄に住んでいたのか)
「ねえ真瀬君、午後の授業何だったっけ」
「理科と歴史だろ。確か」
「理科かあ。理科の先生声でかいんだよね。実験する時なんか耳が痛くなるよ」
「耳が痛くなる先生か。厄介だな」
「でも面白い人だよ。沖縄の珊瑚の話とかしてくれるんだ。海が見えるから実感湧くの」
優菜が窓の外を指差した。食堂の窓から海が見える。青い。眩しいほど青い。其の青さの中に、何かが潛んでいるとは考えにくいほど、其れは普通の海だった。
午後の授業は眠かった。理科の先生の声がBGMになり、歴史の先生の沖縄方言混じりの語りが子守唄になった。窓の外で船の汽笛が又鳴った。遠い。教室の窓ガラスが微かに振動した。
其の振動の中で、一瞬だけ、廊下側の窓に映った影が本物の廊下より一拍遅れて動いた気がした。
誰も気づいていない。俺だけが見た。いや、俺と鞄の中の九衣だけが。
「…今の」九衣の声が小さくなった。
「あとで話す」
俺は黒板を見た。先生がチョークで文字を書いている。白い文字が黒い板に刻まれていく。普通の教室。普通の授業。普通の高校生活。
でも、窓の外の海は、昨日の夜よりも少しだけ暗く見えた。
* * *
放課後のチャイムが鳴ると同時に教室中が動き出した。
「真瀬君行こう!」
優菜が俺の手首を掴んだ。
「えちょっと」
「部活見学! 麻尾鍵頼んだ!」
「ああ」達臣は鞄から鍵を取り出した。「行くぞ」
三人で特別棟へ向かう。渡り廊下を抜けると空気が変わった。本棟より古い建物だ。壁がコンクリート剥き出しで配管がむき出しになっているところがある。
「ここ旧校舎だからちょっと古いけど」優菜が説明する。「でもその分静かで集中できるの」
(集中って何に)
鍵を開ける達臣の手つきは慣れていた。「不可思議事件研究会」の手書きプレートがかかった扉。カチャリ。鍵が回る音がやけに大きく響いた。
古い本の匂いと埃っぽい空気が流れ出してくる。俺はその空気を吸い込みながら一歩踏み出した。
部室の中は、前回来た時よりも少し整えられていた。机が三脚並べられ、壁には島の地図が貼ってある。本棚には沖縄の伝承に関する本が数冊。達臣が作った調査ファイルが棚に揃っている。
「今日はね、まず過去の相談記録を整理しようと思って」
優菜がファイルの山を机の上に広げた。其の量は予想以上だった。三十件以上。創部してまだ二ヶ月だというのに、此の量は異常ではないか。
「此れ全部、二ヶ月で?」
「うん。島の人、結構来るんだよ。小さいことで悩んでる人が多いの。なくした物を探してほしいとか、夜に変な音がするとか」
「それは不可思議事件っていうか、ただの困り事じゃないか」
「最初はね。でも其の中に、本当に変なものが混じってる。見過ごせないやつが」
優菜が一つのファイルを開いた。三ヶ月前の相談。南棟三階の旧音楽室付近で、誰もいないはずの廊下から声が聞こえたという記録。其の後も同じ場所で二件。全て放課後。全て五時半前後。
達臣が向かいの席でノートを開いた。調査項目を書き足す手つきは丁寧だが速い。
「南棟三階。過去二ヶ月で三件の目撃報告がある。全て放課後、全て誰もいないはずの場所で声を聞いたという内容だ」
「三件も? 前にも同じような相談来てたんだ」
「来てるよ」優菜がファイルの山から顔を出した。「でも全部、片付けられなかったの。現場に行っても何も見つからなくて、悪戯とも不可思議とも断定できなかったから」
「断定できないから残ってるのか」
「そう。断定できないものを無理に断定したら、適当な嘘をつくのと同じでしょ」
其れは優菜らしい考えだった。答えが出ないものを無理に答えにしない。其の分だけ記録が積み重なっていく。
カバンの中で九衣が微かに動いた。俺の耳だけに届く小声。
「ネズミ君、三件同じ場所で声ってネットの噂と同じパターンだよ。過去に沖縄で起きた異変の時も、特定の場所で繰り返し声が聞こえたって報告があるらしい。ただし断定はできないけど」
(又其れか。お前の『噂』はいつも断定できないな)
「配信者は情報の出所に責任を持つんだよ。確証のないことを断定したらデマ配信になるでしょ」
(正論だな)
九衣は ふん、と鼻を鳴らして黙った。
扉がノックされた。
優菜が「どうぞ」と声をかける。扉が開き、男子生徒が一人入ってきた。二年生だろうか。制服のネクタイが少し緩んでいて顔色が悪い。
「あの、不可思議事件研究会って此処ですよね」
「そうだよ。座って。お茶飲む?」
優菜が自然に椅子を引いた。相手の緊張を解く間合いが上手い。達臣は何も言わずノートを開き、ペンを構えた。
「聞きたいことがあるんですけど、変だと思っても笑わないでくれますか」
「笑わないよ。此処はそういう部活だから」
男子生徒は少し躊躇してから、口を開いた。
「放課後、南棟三階の空き教室に行ったんです。誰もいないはずなのに友達の声が聞こえたんで」
達臣のペンが止まった。俺も手元の記録から目を上げた。南棟三階。さっき達臣が言っていた場所だ。三件目ではなく四件目。
「どんな声だった?」
優菜が訊いた。急かさない。相手の目を見て、ゆっくりと。
「呼んでたんです。俺の名前を。『おいこっち来いよ』って。はっきり友達の声で。だから教室のドアを開けたんですけど誰もいなくて」
「其の時何時頃だった?」
達臣が静かに訊いた。其の声は平坦だが、ペンの先が動く速度が変わっている。
「五時半頃です。部活が終わってから立ち寄ったんで」
「友達の名前を聞いてもいい?」
「…佐々木です。佐々木って友達なんですけど、其の時佐々木は本土に修学旅行で行ってて島にいなかったんです」
部室が一瞬静かになった。潮風が窓から吹き込み、机の上の記録用紙が一枚飛んだ。俺が手で押さえる。
「島にいなかった友達の声が聞こえた、ってこと?」
優菜が確認した。其の声は慎重だった。
「はい。だから最初は自分の耳を疑ったんです。でも其の後、声を追いかけて廊下を歩いたんです。そしたら其れ以降のことがよく覚えてなくて。気づいたら昇降口に立ってたんです」
「記憶が途切れた」達臣が書き留めた。「声が聞こえてから昇降口に立つまでどのくらい時間が経っていたか分かるか」
「…分からないです。十分くらいかと思ったけど、時計を見たら一時間経ってたんで」
一時間。十分だと思っていた時間が一時間。其れは単なる物忘れではない。俺は男子生徒の表情を見た。目の下に薄い隈がある。其の手が、膝の上で握りしめられている。
(こいつ、怖いんだ。ただの悪戯じゃないって、自分でも気づいてる)
「ありがとう。此れちゃんと記録に残すから」
優菜がファイルを取り出した。新しいページを開き、日付と場所と概要を書き込む。
「明日の放課後、同じ時間帯に現場を確認しようと思うんだけど、君も来れる?」
「…来ます。自分の目で確かめたいんで」
男子生徒はそう言って、礼をして部室を出た。扉が閉まると、優菜が大きく息を吐いた。
「四件目だよ。南棟三階」
「同じ場所か」達臣がペンを置いた。「時間帯もほぼ同じ。放課後の五時半前後。偶然にしては揃いすぎている」
「悪戯の可能性は? 同じ場所で同じ時間に声が出る仕掛けがあるとか」
「仕掛けがあるなら其れを見た人間がいるはずだ。過去三件の調査で設備も見た。スピーカーも録音装置もなかった」
「じゃあ、やっぱり──」
「まだ分からない」達臣が遮った。「断定はしない。それが此処の方針だろ」
優菜が少し唇を尖らせたが、頷いた。
俺は男子生徒の話を思い返していた。声を追いかけてから記憶が途切れた。十分が一時間になった。其れは、窓ガラスに映った影が一拍遅れて動いたあの現象と似ている。現実と認識の間に、微かなズレが生じる現象。
(九衣)
「うん。ネットの噂だとね、異界の境界が薄くなってる場所で時間感覚のズレが起きるらしい。過去に沖縄で起きた異変の時も同じ報告があったよ。ただし断定はできないけど」
(沖縄で起きた異変って、ネットじゃ何て呼ばれてる)
「沖縄ジェイル。正式な名称があるかどうかは分からない。記録ではね。でも其の時も特定の場所で声が聞こえたり時間がずれたりしたらしいよ。ソースの信頼性は低いけど」
(低いのかよ)
「低いけど量はあるんだよ。数が多い噂は無視できないでしょ。配信者としてね」
九衣は其処で黙った。
* * *
翌日の放課後。
俺たちは南棟三階へ向かった。相談者の男子生徒も一緒だ。優菜が先頭で、達臣が二番手。俺と男子生徒が後ろに続く。九衣は鞄の中で静かにしている。人前では声を出さない。其れは俺と九衣の間の暗黙の了解だった。
南棟三階の廊下は静かだった。部活動終了後の時間帯で生徒はまばらだ。床がリノリウムの旧校舎は足音がやけに響く。俺の靴底が タッタッ と鳴るたびに、其の音が天井近くで反響して消えた。
旧音楽室の前。達臣が事務室から許可を取ってきた。扉に手をかける。
「五時半前後。今は五時十五分だ」
扉を開ける。中は暗い。窓のブラインドが下りている。達臣が照明をつけた。蛍光灯が二本点いて、古いピアノと積み上げられた椅子が浮かび上がる。
「此処だ」達臣が部屋を見回した。「過去四件の声の報告。全て此処を中心にしている」
優菜が窓際へ歩き、ブラインドの隙間から外を見た。
「南棟三階から港の方角が見えるね。旧第4桟橋方面だ」
「此処から桟橋が見えるのか」
「見えるよ。ほら、あの錆びた鉄骨。あれ此間の事件で──」
優菜が言いかけて、口を閉じた。此間の事件。旧桟橋で起きた出来事。俺とマリナが仮面ライダーとして戦った夜。優菜と達臣は其の時、避難していた。詳しいことを知らないはずだ。だが其の夜の異常さは、避難していた二人にも伝わっている。
「…まあ、桟橋の方が見えるってことだね」優菜が曖昧に言い直した。
俺は窓に近づいた。確かに旧第4桟橋の鉄骨が見える。遠くだが、夕陽に照らされた錆びた骨組みが確認できる。
窓ガラスに、俺の顔が映っている。
其の時、一瞬だった。
廊下側の窓ガラスに誰かの影が映った。背の低い生徒のシルエット。廊下を歩いているのだろう。だが其の影が、本物の生徒より一拍遅れて動いた。本物はもう角を曲がって見えないのに、影だけが一秒ほど残って、それからゆっくりと角へ消えていった。
(又だ)
心臓が ドクン と跳ねた。此の感覚は前にもある。教室でも、旧桟橋の前でも。現実と影の動きがずれる。其れが何の前触れなのか、俺はもう知っている。
「真瀬君?」
優菜が声をかけた。俺は振り返らずに小声で言った。
「今、窓に影が映った。遅れて動いた」
達臣の目が細くなった。其の視線が窓を確認し、廊下側を見た。表情は変わらない。
「私には何も見えなかった」達臣が言った。「だが、此の部屋の温度が他の部屋より二度低い。先ほどから計測しているが、窓の周辺だけ更に下がっている」
「温度が下がってる? 風が入ってるだけじゃないの」
「窓は閉まっている」
達臣が端的に答えた。優菜が窓に手を触れた。
「…冷たい。確かに冷たい。でも風は入ってない」
「ねえ、僕の話してた声って此の部屋から聞こえたんです」
相談者の男子生徒が、部屋の入口に立ったまま言った。其の顔が、入った時よりも青くなっている。
「此の部屋に立ってると、何か聞こえそうで怖いんです」
「大丈夫だよ」優菜が彼の隣へ行った。其の声は、部室で相談者に話しかけた時と同じ、丁寧で穏やかな声だった。「私たちがいるから。何かあったらすぐ出よう」
達臣がスマホを取り出した。録音アプリを起動する。
「環境音を録る。五分間。其の間に何か聞こえたら、其の場所と時間を記録する」
「分かった。俺は廊下側を見てる」
俺は廊下側の窓に立った。ゴーグルを下ろす。視界が狭くなる。其の分だけ感覚が鋭くなる。廊下の静けさが、自分の呼吸の音と同じ大きさで聞こえる。
五分間が過ぎた。
廊下からは何も聞こえなかった。足音も声も。風が窓を鳴らす音だけが、断続的に響いていた。
達臣が録音を止めた。再生する。其の音声スピーカーから流れてきた。
風の音。遠くの部活動の掛け声。床が軋む音。其れだけだ。普通の放課後の環境音。
だが、三分二十秒あたりで、音が一瞬途切れた。
無音ではない。音が途切れた。まるで世界其のものが一瞬だけ消音されたような、不自然な空白。其れは0.5秒ほどだった。だが確かに在った。
「今の聞こえた?」
俺が言うと、優菜が頷いた。
「うん。一瞬静かになった。なんか変な感じ」
「空白だ」達臣が録音データを確認した。「波形を見ると、此の部分だけ音が完全に欠落している。ノイズではない。音其のものが存在していない」
「音が存在していないって何だよ」
「分からない。だが、録音機器の故障ではない。其の前後の波形は正常だ」
達臣の声は平坦だった。だが其の手が、スマホを握る指に力が入っているのを俺は見た。こいつも感じているのだ。此れが普通ではないことを。
「…ねえ」
相談者の男子生徒が、小さな声で言った。
「あの、もう帰ってもいいですか。此処にいると、何か聞こえそうで」
「うん、いいよ。今日はありがとう。また来てね」
優菜が彼を送り出した。扉が閉まる音。其の音が、静かな廊下に吸い込まれていった。
俺は窓ガラスを見た。自分の顔が映っている。だが其の背後に、廊下の影はもうなかった。
「追加調査が必要だ」優菜が言った。其の声は真剣だった。ふだんの明るさは消えている。「同じ場所で四件。同じ時間帯。音の空白。影の遅れ。これだけ揃ってるのは偶然じゃない」
「断定はしない」達臣が繰り返した。だ其の声には、初めて微かな緊張が滲んでいた。
俺たちは南棟を後にした。渡り廊下を歩きながら、俺は一度だけ振り返った。三階の旧音楽室の窓。ブラインドが下りた其の窓に、一瞬だけ何かが見えた気がした。影ではない。光だ。青白い光が、窓の内側で一瞬だけ明滅した。
(九衣)
「見たよ。ネットの噂だとね異界の入り口付近で青白い光が見えたって報告がある。沖縄ジェイルの時も同じ現象が記録されてるらしい。ただし断定はできないけど」
(又断定できないか)
「でもネズミ君、一つだけ言える。あの部屋、何かがあるよ。其れだけは確実だ」
九衣の声には緊張があった。だが其の緊張を、俺は共有している。
部室へ戻る途中、渡り廊下の窓から校庭が見えた。部活動を終えた生徒たちが三々五々帰っていく。普通の放課後の光景だ。
だが其の視線の先、校舎の屋上。
人影があった。
屋上のフェンスに寄りかかるように立っている。全身を覆う装甲。夜の校舎に溶け込むような暗い色の装甲。複眼が夕陽を反射して、一瞬だけ光った。
俺は足を止めた。優菜と達臣が数歩先へ進んでから、俺が止まったことに気づいて振り返る。
「真瀬君?」
「屋上。誰かいる」
俺が指差した。だが其の瞬間、人影が視線を外した。横を向いた、一瞬。其の一瞬で、人影は消えた。
其れは溶けたのではない。跳んだのだ。屋上の端から、空へ向かって。其の姿が夕陽に溶けて見えなくなった。
「え? どこ?」
優菜が屋上を見た。だがもう誰もいない。空っぽの屋上と、フェンスと、夕陽に照らされたコンクリートの床があるだけだ。
「今、誰かいたよね?」
「いた。装甲みたいなのを着た人影が」
「装甲? 仮面ライダーみたいな?」
「…かもしれない。一瞬だったからはっきりとは」
達臣が屋上を見上げた。其の目は細い。だが其の瞳の奥で何かが動いた気がした。知っているのか、それとも同じものを見たのか。達臣の表情からは読めない。
「屋上へ行くか」達臣が言った。「今ならまだ痕跡が残っているかもしれない」
「行こう!」優菜が即断した。
三人で屋上へ駆けた。階段を三段飛ばしで上る。非常扉を押し開けると屋上のコンクリートが広がっていた。
誰もいない。
フェンスの周りにも、給水塔の陰にも、誰かが立っていた形跡はない。但し──
「足跡がある」達臣がフェンス際の床を指差した。「一箇所だけ新しい。埃が踏まれていない。此処に誰かが立っていた」
「でももういない。どこへ行ったの」
「分からない」達臣が記録を取る。「だが、飛び降りた形跡はない。フェンスの外へ出た痕跡もない。此処に立っていた人間が消えた。それだけが事実だ」
風が屋上を吹き抜けた。潮の匂いが濃い。遠くで船の汽笛が鳴った。低く長く、夕暮れの海へ溶けていく音。
俺はフェンスに手をかけ、校舎の下を見た。屋上から見下ろすと、旧音楽室のある南棟三階がよく見える。其の窓は暗い。だが一瞬だけ、青白い光が明滅した気がした。其れはあまりに一瞬で、目を凝らした時にはもう消えていた。
「真瀬君、行こう。もう暗くなる」
優菜の声で俺は屋上を離れた。階段を下りながら九衣が小さく呟いた。
「ネズミ君。あの屋上の人影、あれと同じ種類の力だよ。私たちと」
(仮面ライダー、か)
「かもしれない。でも断定はできないよ。配信者は確証のないことを言わないからね」
(確証がないことばかりだな)
「確証がないけど、確信はある。あの人影、また現れるよ。其の時まで名前は保留だ」
其れきり九衣は黙った。
部室へ戻ると優菜が調査記録をまとめ始めた。達臣が地図と録音データを整理する。俺は其の様子を眺めながら、窓の外を見た。夕陽が水平線へ沈みかけている。空が紫と橙に割れている。其の境界線の向こうに、何かが潛んでいる。
分からないことが多すぎる。