PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
第2話 呼び声を盗む羽音
* * *
放課後の部室で、達臣が録音データを再生し続けていた。
同じ三秒の波形が、何度もスピーカーから流れる。
「おい、こっち来いよ」
声は相談者の友人のものだ。佐々木という、本土へ修学旅行中の生徒。島にいないはずの人間の声が、南棟三階の廊下から聞こえた。其れを録音したのは達臣だ。昨日の現場確認で環境音を五分間録った。其の中に、確かに埋まっていた。
「もう一回」優菜が手を上げた。
達臣が巻き戻す。再生。
「おい、こっち来いよ」
同じ声。同じ間合い。同じ抑揚。
「其れと、三件目の証言」達臣が別のファイルを開いた。「二ヶ月前に別の生徒が聞いた声も『おいこっち来いよ』だった。其の時の声も友人のものだと証言している」
「同じ言葉?」
「同じだ。息の継ぐタイミングまで一致してる」
達臣が波形を並べた。二つの録音。別の日、別の生徒が聞いた声。だが波形はほぼ同じだった。「おい」の後に0.3秒の間がある。「こっち」の「っ」が詰まっている。「来いよ」の「よ」が少し上がる。全て一致している。
「自然に話した声が二回完全に一致するか?」
「しないだろ。同じ人が同じ言葉を言っても、毎回微妙に違うはずだ」
「だが此れは完全に一致している。誰かが声を記録して、繰り返し再生している」
優菜の目が鋭くなった。達臣はペンで波形を指し示す。
「此れは機械的な再生とも違う。背景の環境音が毎回変わっているからだ。同じ声が、別の背景音の中で鳴っている。まるで其の場其の場で、声だけが持ち運ばれているように」
「声を持ち運ぶ?」
「仮説だ。だが波形が証明している」
俺は机の上の波形を見つめながら、九衣の声を待った。鞄の中で微かに動いた気配。
「ネズミ君。ネットの噂だとね、人の声を模倣して誘い込む怪異の報告が何件かある。沖縄ジェイルの時も似た現象があったらしいよ。ただし断定はできないけど」
(模倣か。でも達臣の波形を見ると、模倣じゃないだろ。同じ声を其のまま使ってる)
「うん。模倣じゃなくて再生に近い。記録した声を其のまま鳴らしてる。ネットの記録ではね、シャドウと呼ばれる存在が人の認知に干渉する時に、既にある情報を繰り返すパターンがあるらしい。ただしライドエグズとペルソナ、不可思議とシャドウが完全に同一の存在かはまだ分からないよ。性質が似てるという仮説に留めるね」
(仮説だらけだな)
「配信者は確証のないことを断定しないんだよ。其れが責任ってものだから」
九衣は ふん と鼻を鳴らして黙った。
「真瀬君、今日も南棟三階に行くよ」優菜が立ち上がった。「追加の証言が来てる。一組の生徒が、放課後に友達の声を聞いたって」
「又?」
「又。同じ場所、同じ時間帯。もう五件目だよ」
南棟三階の廊下は、昨日と同じ静けさだった。
放課後の五時前。部活動が終わりかけの時間帯。生徒はまばらだ。廊下の窓から夕陽が差し込みリノリウムの床をオレンジ色に染めている。だが其の光は温かくない。空気だけが冷たい。昨日達臣が言った通り、此の階だけ温度が低い。
俺たち四人。優菜が先頭。達臣が二番手。俺と相談者の男子生徒が後ろに続く。
「此処だ」達臣が旧音楽室の前で足を止めた。「全ての報告が此処を中心にしている」
「ねえ、本当に来るの」相談者の生徒が小声で言った。顔色が悪い。「また聞こえたらどうしよう」
「聞こえても大丈夫だよ」優菜が振り返って笑った。だが其の笑みは少し硬い。「私たちがいるから」
俺は廊下の窓を見た。ガラスに自分の顔が映っている。其の背後に廊下が映る。だが──
(影が遅れてるか)
目を凝らす。廊下は静かだ。誰も通らない。影も動かない。今は大丈夫か。
其の時、廊下の奥から足音がした。
タッタッタッ。
走っている。生徒の足音だ。俺は振り返った。廊下の角から一人の生徒が現れた。女子生徒だ。顔見知りだろうか、相談者の生徒が「あっ」と声を上げた。
「あの子、一組の──」
女子生徒は其の場に立ち止まり、廊下の奥を見ていた。其の目が、何かを追っている。
「待って」優菜が声をかけた。「何か聞こえた?」
女子生徒は答えなかった。其の耳が、廊下の奥へ向いている。
「おい、こっち来いよ」
声が聞こえた。
俺にも聞こえた。はっきりと。友達に呼ぶような、気軽な声。其れは廊下の奥から響いていた。だが──
(足音と方向が違う)
声は廊下の奥から聞こえた。だが其れを聞いた女子生徒が歩き出した方向は、左だった。廊下の奥ではなく、渡り廊下の方角。
「待って! どこ行くの!」優菜が叫んだ。
女子生徒は振り返らなかった。其の足取りは速い。まるで聞こえる声に引かれているように、真っ直ぐに渡り廊下へ向かって歩き出した。
「追おう!」俺が叫んだ。
優菜と達臣が同時に動いた。俺も続く。相談者の生徒が「えっ、ちょっと」と後ろで戸惑っている。
女子生徒は渡り廊下へ入った。俺たちも其の後を追う。渡り廊下は南棟と旧棟をつないでいる。窓の片側に海が見える。夕陽が水平線へ沈みかけ、廊下全体が赤紫の光に染まっている。
女子生徒の足音が止まった。
俺たちも止まった。
空気が変わった。
其れは突然だった。温度が下がったのではない。空気の質が変わった。湿気が濃くなり、呼吸が重くなる。潮の匂いの中に、鉄錆の香りが混じり始めた。
(此れは──)
「廊下が変わってる」達臣が低く言った。
俺も見た。渡り廊下の壁が、微かに脈打っていた。コンクリートの表面に、波紋のような揺らぎが走っている。窓ガラスが、振動していないのに震えている。床のリノリウムが、呼吸するように膨らみと縮みを繰り返している。
異界化だ。旧桟橋の時と同じ。現実の建物が、其のまま異界へ取り込まれていく。
「優菜、達臣、下がって」俺は低い声で言った。
「真瀬君、あの子が──」優菜が女子生徒を指差した。
女子生徒は廊下の中程に立ち止まっていた。其の目は虚ろではない。だが其の視線が、何かを見ている。廊下の奥ではなく、天井を見上げている。
「聞こえる。みんなの声が」女子生徒が呟いた。「助けてって。あっちからもこっちからも」
複数の場所から声が聞こえているのだ。俺も耳を澄ました。
「おい、こっち来いよ」
右から。
「おい、こっち来いよ」
左から。
同じ言葉だ。同じ声だ。同じ息継ぎ。達臣が録音した波形と同じ。
「録音と同じ言葉が繰り返されてる!」優菜が叫んだ。「同じ『おいこっち来いよ』が左右から聞こえてる!」
「誘い込まれてるんだ」達臣が冷静に言った。「声をばら撒いて、進路を惑わせてる」
「ネズミ君」九衣の声が鞄の中から響いた。俺だけに聞こえる小声。「ネットの噂だとね、人の声を記録して離れた場所から響かせる怪異の報告がある。沖縄ジェイルの時も同じ現象があったらしい。ただし断定はできないけど」
(同じ言葉を繰り返す。新しい会話は作れないってことか)
「うん。記録にある報告ではね、声を模倣する怪異は新しい言葉を合成できないらしい。既に聞いた声を其のまま繰り返すだけ。性質はシャドウに似てるけど、不可思議とシャドウが同一の存在かはまだ分からないよ」
(分からないことばかりだな)
「分からないことが多いほど配信価値は高いんだよ」
(今は其れどうでもいい)
声が四方から響く中、俺は女子生徒の姿を探した。声に頼らない。目で探す。女子生徒は廊下の中程にいる。だが其の天井から、何かが垂れ下がっていた。
羽根だ。
黒い羽根が、天井の暗がりから数枚落ちてきた。ひらひらと回転しながら、女子生徒の肩へ落ちる。女子生徒は気づいていない。声に夢中になっている。
「上だ!」俺は叫んだ。
天井の闇から翼不可思議が姿を現した。
鳥だった。いや鳥のようなものだった。人の腕ほどの太さがある黒い翼が二枚。其の隙間から、複数の声が漏れている。羽ばたくたびに、羽根の隙間から別々の声が交互に響く。
「おい──」「こっち──」「来いよ──」
一つの言葉を分割して、羽根一枚一枚から別々に放っている。其れが四方から聞こえる理由だ。
翼不可思議が羽ばたいた。風圧で廊下の空気が揺れる。黒い羽根が舞い上がり、女子生徒の身体へ巻き付いていく。
「離せ!」俺は叫んだ。だが女子生徒の手は翼に捕らえられていた。
俺は人目を気にする余裕がなかった。此処は異界化した空間だ。優菜と達臣は既に異変に気づいている。変身を隠す意味はない。
「九衣、ドライバー」
「出してる」
鞄のチャックが開く。九衣の尻尾が折り畳まれたマイスドライバーを差し出した。俺は其れを掴み、胸元へ装着する。
『エッグリューション』
『マイス!』
装甲が身体を包む。鼠の尾が背後の気配を捉え、視界が鋭くなる。マウスフレームだ。タートルフレームほどの防御力はないが、速度と機動力がある。
翼不可思議が女子生徒を抱えたまま廊下の天井へ飛んだ。速い。羽ばたくたびに声が撒き散らされ、位置が分からなくなる。
(声で位置を偽ってる)
右から聞こえる声と左から聞こえる声。其のどちらも本体ではない。本体は天井の闇の中だ。
俺は天井を見上げた。黒い翼が闇に溶け込んでいる。だが羽ばたくたびに微かな風圧が下へ降りてくる。風圧を頼りに位置を絞る。
「真瀬君、あの子!」優菜が叫んだ。
翼不可思議の拘束が緩んだのか、女子生徒の身体が落ちた。高さは三メートル以上だ。廊下の床へ叩きつけられる。
俺は走った。マウスフレームの脚力で距離を詰める。だが間に合わない。女子生徒の身体が重力に引かれて落下していく。
其の時だった。
横から影が飛び込んできた。
速い。マウスフレームとは質の違う速さだ。重心が低く、着地と同時に方向転換する獣のような動き。黒い装甲の影が廊下の床を蹴り、空中へ跳んだ。
謎のライダーだ。屋上で見た人影と同じ装甲。黒猫を思わせる意匠。長い尾が空中でバランスを取っている。
ライダーは落下する女子生徒を受け止めた。腕の中に抱え、其のまま壁面を蹴って着地する。衝撃を吸収する体勢。女子生徒は意識があるのかいないのか、其の腕の中でぐたりとしている。
翼不可思議が追撃の羽根を放った。黒い羽根が矢のようにライダーへ向かう。
ライダーは女子生徒を抱えたまま片手で羽根を弾いた。黒い装甲の手甲に羽根が当たり、火花が散る。其の勢いで後退するが、女子生徒を離さない。
(あいつ、人を守ってる)
俺は其の場に立ち止まり、其の光景を見た。謎のライダーが生徒を庇う動作。屋上で見た時は遠くて分からなかったが、此の距離で見ると明確だ。あのライダーは敵ではない。少なくとも、人を傷つけるために動いているのではない。
翼不可思議が又羽ばたいた。今度は俺の方へ風圧と羽根を向けてきた。
「優菜! 達臣! 下がってろ!」
俺は叫びながらマイスエッジを抜いた。スライサーモードへ展開し、飛び来る羽根を薙ぎ払う。
(あのライダーに生徒を任せればいい。俺は優菜たちを守る)
翼不可思議は天井へ退いた。羽ばたくたびに声が撒き散らされる。
「おい」「こっち」「来いよ」
同じ言葉の繰り返し。
「真瀬君! 録音と同じだよ!」優菜が叫んだ。「今鳴ってる声と昨日録音した声、同じリズムで同じ場所で止まってる!」
同じリズムで同じ場所で止まる。繰り返しだ。翼不可思議は記録した声を繰り返している。
(繰り返しが止まる瞬間があるのか)
羽ばたくたびに声が出る。だが羽ばたきと羽ばたきの間に、僅かな空白がある。声が途切れる一瞬。其処を狙うしかない。
俺はマイスエッジを構えたまま待った。翼不可思議が羽ばたく。「おい」。又羽ばたく。「こっち」。又。「来いよ」。
止まる。
0.3秒の空白。息継ぎの場所。
今だ。
俺は地を蹴った。マウスフレームの加速で天井へ迫る。翼不可思議の影が見える。黒い翼と、其の隙間から漏れる声。
マイスエッジを振るう。刃が翼の先端を捉えた。泥と羽根が弾け、翼不可思議が悲鳴のような──いや声ではない、羽根の擦れる音を上げて後退する。
だが仕留めきれない。
翼不可思議は残った翼で羽ばたき、廊下の奥へ退いた。黒い羽根を散らしながら、天井の闇へ溶けていく。追おうとしたが、散った羽根が目に入り視界を遮る。
羽根が落ちた時には、もう何もなかった。異界化した廊下が元に戻り始めている。壁の脈動が止まり、床の揺らぎが収まっていく。
俺は変身を解いた。
廊下には黒い羽根が数枚落ちていた。俺は其一つを拾い上げた。其の手触りは羽毛ではなく、乾いた泥だった。
「真瀬君! あの子大丈夫?」
優菜が駆け寄ってきた。女子生徒は廊下の壁際に座り込んでいた。顔色は白いが意識はある。目を開けている。
「大丈夫か?」
「…はい。何か、頭の中がぐらぐらして」女子生徒が小さく頷いた。「声が聞こえて、追いかけてたら此処に」
「怪我はない? 痛いところは」
「ないです。ただ少し眠い」
「無理しないで」優菜が女子生徒の肩を支えた。「麻尾、記録お願い」
達臣は既にスマホを構えていた。
「あの仮面ライダー」俺は廊下を見回した。「黒い装甲の人影。あの子を助けた」
「え? またあの人?」優菜が目を丸くした。「屋上で見た人と同じ?」
「同じだと思う。黒い装甲で、猫みたいな──」言いかけて止めた。「長い尾があった」
「猫みたいな仮面ライダー」優菜が呟いた。「前は屋上で一瞬だけ見えたよね。今度は人を助けた」
「あいつは何なんだ」達臣が冷静に問うた。「真瀬、お前と同じ力を持つ人間か」
「分からない」俺は正直に答えた。「同じ種類の力かもしれないし、別のかもしれない」
(九衣)
「ネズミ君、あのライダー…ネットの噂だとね、同じ種類の装甲を持つ戦士の報告がいくつかある。沖縄ジェイルの時も複数の仮面戦士が現れたらしいよ。ただし断定はできないけど」
(又断定できないか)
「でもね、あの人影が人を助けたのは確かだよ。敵じゃない可能性は高いと思う」
(思う、な)
「配信者は確証がないことは断定しないんだよ」
(分かった分かった)
俺は立ち上がった。黒い羽根をポーチへしまう。帰って調べるしかない。
「帰ろう」俺は言った。「あの子を保健室へ連れて行こう」
優菜と達臣に女子生徒を任せて、俺は最後に一度だけ振り返った。
廊下の天井。闇はもうない。蛍光灯が点いて、普通の渡り廊下に戻っている。
だ但其の場に、あのライダーはもういなかった。
いつ消えたのか。何も言わずに去ったのか。
「真瀬君行こう!」優菜の声で俺は前を向いた。
* * *
部室へ戻ると優菜が記録をまとめ始めた。
「翼不可思議と仮称する」達臣がノートに書き込んだ。「声を記録し繰り返す能力。黒い羽根による拘束。本体は天井や高所に潛む」
「逃げられたな」俺は椅子に座り込んだ。「声を頼りに追っても位置を偽られる。仕留めるなら繰り返しが止まる一瞬を狙うしかない」
「昨日の録音データと今日の現場で聞いた声、完全に一致していた」達臣が頷いた。「同じ声を繰り返しているのは確実だ」
「次も現れるよ」優菜が静かに言った。「あの子たちを放っておけないでしょ」
俺は窓を見た。夕闇が深くなっている。遠くで船の汽笛が鳴った。
黒い羽根を持つ敵と人を助ける謎のライダー。
分からないことが増えていくばかりだ。
だ但其れでも俺たちは進むしかないのだろう。
「次は仕留める」俺は前を向いて言った。
優菜と達臣が同時に頷いた。
カバンの中で九衣が小さく呟いた。
「ネズミ君、気をつけてね。繰り返し使われる声には必ず元がある。元の声を探すのが先かもしれないよ」
(元の声)
「うん。ただし断定はできないけど」
(分かったよ)
九衣は其処で黙った。
窓の外で汽笛が又鳴った。
低く長く夜の海へ溶けていく音だった。