PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
放課後の部室は、いつもより少し賑やかだった。
窓から潮風が吹き込んで、机の上の記録用紙がぺらりとめくれる。優菜が其れを手で押さえながら、ファイルに今日の調査記録を書き込んでいる。達臣の席は空いている。今日は用事があるとかで、放課後の活動には参加しないと言っていた。
「はいこれ。今日の分、まとめたよ」
優菜がファイルを閉じて、机の上に置いた。表紙には『翼不可思議・倉庫街事件』と達臣の丁寧な字で書かれている。
「救助した生徒の様子は?」俺が訊くと、優菜は頷いた。
「保健室で休んでから帰ったらしい。怪我はなかった。ただ、何があったかよく覚えてないって言ってた」
「覚えてないのか」
「うん。声が聞こえて、追いかけてたら気づいたら倉庫の前にいたって。其れ以降の記憶が曖昧みたい」
記憶の曇り。また其れだ。旧桟橋の時も、南棟三階の時も、同じ現象が起きている。声に誘われた人間は、其の間の記憶が抜け落ちる。まるで異界が人の認識ごと持ち去るみたいに。
カバンの中で九衣が微かに動いた。俺の耳だけに届く小さな声。
「ネズミ君。記憶の欠落ね。ネットの噂だと、異界の境界に近づいた人間に起こりやすい現象らしいよ。過去に沖縄で起きた異変の時も、同じ報告があった。ただし断定はできないけど」
(又断定できないか)
「配信者は確証のないことを断定しないんだよ。でも記録ではね、認知世界と現実の境界が曖昧になった場所で、人の時間感覚や記憶にズレが生じるらしい。シャドウと呼ばれる存在が人の心に干渉する時の特徴とも似てる。ただしライドエグズとペルソナ、不可思議とシャドウが完全に同一の存在かはまだ分からないよ。性質が似てるという仮説に留めるね」
(仮説だらけだな)
「配信者にとって仮説は大切なコンテンツなんだよ。確証がないからこそ考察の余地があるでしょ」
(今は考察してる場合じゃないんだよ)
九衣は ふん と鼻を鳴らして黙った。
隣でマリナが椅子に座り、机の上に置いた缶コーヒーを両手で包んでいた。花柄のシャツの上から、仮面ライダーホヌスのライドエグズが胸元のポケットから覗いている。事件から一夜明けて、彼女の顔色は戻っていた。だが其の目の下に薄い隈が残っている。
「眠れなかったのか」俺が訊くと、マリナは少し笑った。
「ちょっとね。目を閉じるとあの声が聞こえる気がして。でも大丈夫、昨夜よりは落ち着いてるよ」
「無理はするなよ」
「あんたもね、ネズP」
ネズP。其れは九衣が勝手に付けた俺の愛称が、何故かマリナにも定着している。最初は訂正しようとしたが、今では諦めている。
「真瀬君、昨日のウルフフレームだけど」優菜がファイルを閉じながら顔を上げた。「凄かったね。あの速さ。でもちょっと制御できてない感じだったけど」
「正直、あれはまだ慣れてない」俺は認めた。「マウスフレームとは違う。タートルフレームとも違う。直線的な加速が凄すぎて、一歩踏み出すともう次の位置にいる感じで」
「ウルフフレームって、狼の力なのよね」マリナがコーヒーを一口飲んでから訊いた。「大神さんのライカンと同じ系統?」
「共鳴したんだ。大神さんが覚醒した瞬間、俺の手元にも卵が現れて。同じ種類の力だけど、同じ物じゃない。ライカンとは装甲も戦い方も違う」
「へえ。私の時はシードエグズが殻を破ってライドエグズになったけど、真瀬君の場合は他人の覚醒に反応して新しい力が生まれたんだね」
「そうらしい。詳しい仕組みは俺にも分からない」
「分からないことだらけだねえ」マリナがコーヒーの缶を揺らした。「でもさ、私も最初はホヌスの力に戸惑ったよ。水流に乗る感覚が分からなくて、自分の足で走ってるのに水に押されて転びそうになったり」
「転んだのか」
「転んでないよ! 転びかけたの。でも其の時、大切なことに気づいたんだ。力に逆らうんじゃなくて、力の流れに自分を合わせる。其れが分かってから、身体が動くようになった」
「流れに合わせるか」
「ウルフフレームも同じだと思うよ。加速に逆らうんじゃなくて、加速の方向へ自分を乗せる。踏み込みが強すぎるなら、其の強さを利用すればいい。一歩目で飛び出して、二歩目で軌道を変える。真瀬君、昨日倉庫街でやってたでしょ。壁にぶつかりそうになった後、二歩目で修正してた」
「ああ。あれは偶然だよ」
「偶然でもいいの。其の偶然を繰り返せば、其れが身体の動きになる。私もそうだった。最初は水流に振り回されてた。でも何回か使ってるうちに、自分のリズムが分かってきた」
マリナの声には、経験者の余裕があった。同じ仮面ライダーとして戦った者にしか出せない説得力だ。
「教えてくれてありがとう」
「どういたしまして。今度一緒に訓練しようよ。私もホヌスの感覚、まだ完全には掴めてないから」
「ああ。其れは助かる」
「あーし忘れてる!」優菜が手を上げた。「私も混ぜて! 私は変身できないけど、記録係として二人の動きを分析できるよ。どのタイミングで加速して、どの角度で曲がるか、数値化できるかも」
「数値化か。達臣が喜びそうだ」
「麻尾君、今日いなかったね。何か用事あるって言ってたけど」
「ああ。用事があるとかで」
達臣がいなかったのは、昨日の戦闘で俺たちと一緒に避難していたからだろう。だが、其の時の達臣の様子が少し気にかかっていた。倉庫街で俺たちと離れた後、いつの間にか合流していた。其の間何をしていたのか。聞こうとしたが、優菜の前で其れを訊くのは憚られた。
「まあ、達臣には後で記録を渡せばいいよ」優菜がファイルを棚へしまった。「それより、大神さんはどうするの? 昨日、同盟には参加しないって言ってたけど」
「ああ。あいつは自分で選んで動くって言ってた。無理に引き入れるつもりはない」
「でも、また不可思議が現れたら協力してくれるんでしょ?」
「多分な。少なくとも、目の前に人がいたら立ち塞がる人だ。其れは確かだ」
「なら、連絡先くらい交換しておかない?」マリナが言った。「いざって時に連絡取れないと困るでしょ」
「其れは言えてるな」
其の時、部室の扉がノックされた。
「開いてるよ」優菜が声をかける。
扉が開いた。其処に立っていたのは、大神だった。
白いシャツに濃灰色のベスト。腰巻きのエプロンは外している。仕事着ではない。私服だ。灰金色の短髪を無造作に後ろへ流し、一房だけが眉へ落ちている。灰青色の目が部室の中を見渡して、俺を見た。
「大神さん」
「…店閉めた後、此処へ来るついでに寄った」大神の声は低く、端的だった。「昨日の生徒、無事か」
「ああ。怪我はなかった。記憶が少し曖昧だけど」
「そうか」
其れだけ言って、大神は扉の前に立ったままだった。入ってこない。但其の視線が、机の上のファイルや、窓際に置かれたマリナの缶コーヒーを一瞥した。
「入れよ。立ち話もなんだし」マリナが椅子を引いた。「コーヒー淹れる? 此処じゃないけど、水ならあるよ」
「いい。長くはいない」
大神は一歩だけ部室へ入った。だが椅子には座らなかった。壁に寄りかかり、腕を組む。其の姿勢は、いつでも出ていけるように見えた。
「大神さん、昨日は助かった」俺は改めて言った。「あんたが前に出てくれなかったら、あの子は落ちてた」
「礼はいらないと言ったはずだ」
「聞いてる。でも俺が言いたいだけだ」
大神の灰青色の目が、俺を見た。一秒。其の瞳の奥で何かが揺れた気がした。だが其れはすぐに消え、代わりにいつもの静かな光が戻った。
「同盟のために動いたんじゃない。自分で選んだだけだ」
「分かってる。だから無理に勧誘はしない。でも、次に不可思議が現れた時に連絡を取り合うくらいはできるだろ?」
「…連絡を取る意味があるのか」
「ある。あんたが目の前の人を守るなら、俺たちは其の背中を預けられる。逆に俺たちがあんたの背中を預かる」
大神は黙った。其の沈黙は拒否ではない。考えているのだ。俺の言葉の意味を、其の重さを測っている。
「連絡先を交換するだけだ。それ以上は求めない」
「…分かった」
大神は短く答えた。其れは参加の合図ではない。だが拒絶でもなかった。ただ、次に協力できる可能性を残しただけだ。俺にとって、其れで十分だった。
スマホを取り出し、連絡先を交換する。大神の手には小さな古傷がある。昨日の戦闘でついたのか、前からあるのかは分からない。だが其の手が、女子生徒を受け止めた手だ。其の事実だけで、俺にとって十分だった。
「じゃあ、私は戻る」大神がスマホをポケットへしまい、壁から背を離した。
「もう行くの? せめてコーヒー一杯」マリナが声をかけた。
「店を開けなきゃならない」
「夜の部? BARの方?」
「ああ」
「じゃあ今度飲みに行くよ。私お酒強いから」
「学生は酒を出さない」大神が端的に言って、扉へ向かった。だが其の背中が、一瞬だけ止まった。
「…次に不可思議が現れたら、自分の判断で動く。其の時、あんたたちと同じ方向を向くとは限らない」
「分かってる」
「ならいい」
大神は背を向けたまま、扉を出ていった。其の足音が廊下へ消えていく。
「相変わらずクールだねえ」マリナが缶コーヒーを飲み干した。「でも、あの人、悪い人じゃないよ」
「ああ。知ってる」
「ネズPの目利き?」
「目利きじゃない。あいつが人を守った。それだけだ」
マリナが少し笑った。其の笑い方は、昨夜の戦いを経た後の、少しだけ強くなった笑顔だった。
優菜がファイルを棚にしまいながら、呟いた。
「次は仕留めるって、麻尾君が言ってたけど。次の敵も来るのかな」
「来るだろう」俺は答えた。「翼不可思議は逃げた。また現れる」
「其の時は、私もいるよ」マリナが言った。「ホヌス、まだ完全には使いこなせてないけど。でも、帰り道を作る側に回るって決めたから」
「ああ。頼りにしてる」
「頼りにされるのは初めてじゃないけど、仮面ライダーとして頼りにされるのは初めてだね。悪くない感じ」
マリナが胸元のライドエグズを掌で包んだ。海色の光が指の間から漏れる。其の光を見ていると、昨夜の異界で彼女が叫んだ言葉が蘇る。『今度は自分が帰り道を作る』。其の意志が卵を完成させた。俺のタートルフレームも、同じだった。誰かを守りたいという意志が、力を生んだ。
(意志が力を。絆が仮面を)
イゴールの言葉が蘇る。ワイルドとは多くの仮面を持つ者ではなく、多くの生き方を受け止める者。俺は今まで、マリナとの絆で亀を、大神との共鳴で狼を得た。だが其れは俺が誰かの力を奪ったのではない。俺が自分の航路として読み替えたのだ。
(でも何で俺なんだ。何で俺に此の力が集まってくるんだろうな)
答えは出ない。
「あっそうそう真瀬君」優菜がスマホを取り出した。「昨日の録音データ、麻尾君に送っておこうと思って。解析を頼みたいんだよね。波形の比較とか、俺たちには分からない専門的な部分があるし」
「ああ、達臣なら詳しそうだな」
「うん。あの子、意外と音響に詳しいんだよね。前にも波形解析みたいなことしてたし」
達臣が音響に詳しい。其れは初めて聞いた。だが、確かに達臣は録音データの解析を得意としていた。南棟三階の録音も、波形を並べて比較するのは達臣だった。
(あいつ、何でもできるな。成績もいいし、運動もできるし、分析もできるし)
少し引っかかるものがあった。だが其れを深く考える前に、胸元のマイスドライバーが微かに振動した。
「ん?」
俺は胸元に手を当てた。マイスドライバーが、脈打つように震えている。タートルフレームを得た時と同じ感覚。だが今回は、もっと微かだ。
「真瀬君? どうしたの」優菜が俺の様子に気づいた。
「いや、何でもない。ちょっとドライバーが震えただけ」
「震えた?」マリナが身を乗り出した。「私のも見て」
マリナが胸元のライドエグズを取り出した。掌に載せた緑色の卵が、微かに光を明滅している。
「あれ。私のも反応してる」
「えっ」優菜が立ち上がった。「二人同時に?」
「分からない。でも確かに反応してる。すごく微かだけど」
「ネズミ君」九衣の声が鞄の中から響いた。俺だけに聞こえる小声だ。「ネットの噂だとね、複数のライドエグズが同時に反応する現象の報告がある。過去に沖縄で起きた異変の時も、仮面を持つ者同士で共鳴現象が起きたらしいよ。ただし断定はできないけど」
(共鳴? 何と?)
「分からない。でも何かが近づいてるのかもしれない。新たな不可思議か、新たな仮面の持ち主か。記録ではね、共鳴は予兆だと言われてる。ただし断定はできないよ」
(断定できないな)
「配信者は確証のないことを断定しないんだよ。でも気をつけて。何かが起きる前に、準備できることがあるかもしれないから」
俺は掌を見た。マイスドライバーの振動は、もう止まっていた。だが其の残熱が、胸元に残っている。
「止まった」マリナも掌のライドエグズを見た。「でも何だったんだろう」
「分からない。でも不思議じゃないか、此処は不可思議事件研究会だし」優菜が少し笑った。だが其の目は真剣だ。
「次に何か起きる前触れかもしれない」
「かもしれないな」
俺は窓を見た。夕闇が深くなっている。遠くで船の汽笛が鳴った。低く長く夜の海へ溶けていく音。日常の音だ。だが其の音の裏に、何かが潛んでいる気配が消えない。
掌の熱は消えた。だが胸の奥に、小さな波紋が残っていた。
次に何が来るのかは分からない。だが来るなら、準備しておきたい。マリナと一緒に。大神が同じ方向を向くとは限らなくても。そして達臣が、其の場にいるとは限らなくても。
俺は立ち上がった。
「帰ろう。明日も学校だ」
「うん」優菜が頷いた。「また明日」
「また明日ね、ネズP」マリナが手を振った。
「ネズPはやめろって」
「やめない。定着したもん」
九衣が鞄の中で ふふん と鼻を鳴らした気配がした。
夜風が部室の窓から吹き抜けた。潮の匂いと、遠くの珈琲の香りが混じっていた。日常の匂いだ。だが其の裏に、微かな異界の気配が潛んでいる。
俺たちは其れを知っている。知った上で、それでも日常を生きる。
それが、不可思議事件研究会のやり方だった。