PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
メリダルパクスの槍が、三匹目の怪人を貫いた。
ズドン。
青銅色の穂先が黒い泥の中心を突き抜け、亀裂が走り、光が流れ込み、弾ける。一撃。また一撃。さっきからこれの繰り返しだ。
(いける。いけるぞ)
そう思ったのは最初の三匹だけだった。
四匹目が壁から滲み出てきた。
いや四匹目じゃない。同時にだ。右の壁から二匹。左の壁から一匹。天井の染みからもう一匹。黒い泥が垂れて溜まって形を作り、不自然な関節で立ち上がる。蠕動する触手。逆に曲がった膝。球体の目がこっちを見ている。
「増えてる…!」
声が裏返った。
メリダルパクスが動く。銀灰色の身体が右へ滑り、槍を横薙ぎに振る。ビュンという風切り音が船内に響き、右壁から出た二匹が同時に薙ぎ払われる。黒い泥が壁にへばりついて溶けていく。
だが左から出た一匹がその隙を突いた。
触手が鞭のようにしなって俺の顔面へ向かってくる。
「クソッ!」
メリダルパクスの盾が横に滑り込んだ。角で削られた円形の盾が触手を弾く。ガギンという硬い音が歯の根に響く。いや俺は盾を持っていない。メリダルパクスが持っている。なのに衝撃が伝わってくる。腕が痺れる。痛い。
(共鳴してる。ダメージが共有されてるのか? いや違う。維持してるだけで身体が削れていくんだ)
息が荒い。さっきからずっと荒い。心臓がドクドクと早鐘を打っている。冷や汗が背中を伝って腰まで流れている。シャツが張り付いて気持ち悪い。足が震えている。膝が笑っている。
(これがペルソナを維持するってことかよ。召喚してからずっと、身体の芯から体力が抜けていく感じだ。バッテリーが消耗してくみたいに)
天井から降ってきた一匹を、メリダルパクスの槍が串刺しにする。上へ突き出す動作。重力に逆らって槍を振り上げる筋力。銀灰色の腕がしなり、裂けた赤い外套が舞う。貫かれた怪人が弾けて黒い煤になって降ってきた。
(四匹。……いや、もう五匹目だ)
左の床の隙間から、黒い泥が湧いている。
減らない。
倒しても倒しても減らない。三匹倒して四匹出る。四匹倒して五匹出る。繰り返しているうちに船室の隅々から影が滲み出し始めていた。
(わらしべ長者かよ。倒すと増えるってどういう理屈だ)
背後で悲鳴が上がった。
「キャアアッ!」
女の人の声。振り返る余裕はない。だが分かる。俺の後ろにまだ乗客がいる。逃げ遅れた人たち。さっきまでスマホを見ていた隣の男。寝ていた老婆。学生みたいな男の子。何人かが俺の背後に固まっている。
俺が前に立っているから、怪人は俺を通ってから彼らに届く。だから彼らはまだ無事だ。だが。
(下がれない)
下がったらあの人たちがやられる。前に出る。前に出て、倒して、塞ぐ。それしかない。後ろに下がるという選択肢が、悲鳴を聞いた瞬間に消滅した。
「おい、後ろの人たちを出口へ! 早く!」
誰に言っているのか分からない。乗客にか。自分にか。とにかく叫んだ。声がねっとりとした空気に吸い込まれていく。届いているかどうか分からない。足音が聞こえる。誰かが走っている。だが全員は動いていない。足がすくんで動けない人もいるらしい。
(動けよ。お願いだから動いてくれ。俺がここで持ちこたえてる間に)
七匹目が右の柱の陰から出てきた。
八匹目が床のタイルの裂け目から顔を出している。
九匹目が天井の照明の跡から滴り落ちている。
(何匹いるんだ。何匹湧くんだ。無限かよ)
メリダルパクスの槍が八匹目を貫く。盾が七匹目の触手を弾く。だが九匹目が天井から落ちてきて、俺の頭の真上を通過した。
「うわっ!」
頭を抱えてしゃがむ。九匹目が床に着地して、背後の乗客の方へ向かう。
「ダメだ!」
叫んでメリダルパクスに命じる。振り返らせる。槍を背後へ突き出す。九匹目が貫かれて消滅する。
(間に合った。間に合ったけど)
正面が空いた。
その隙に、正面から三匹が同時に迫ってきた。
メリダルパクスが前へ向き直る。槍を構える。だが三匹同時だ。一本の槍で三方向を同時に防げるか。
一本目を突き殺す。二匹目の触手を盾で弾く。三匹目が――
shield の脇をすり抜けた。
触手が俺の左腕を掠めた。皮膚が焼けるような痛み。赤い線が浮かぶ。血は出ていない。だが熱い。すごく熱い。
「ぐっ…!」
声が漏れる。腕を押さえる。だが押さえている暇はない。
(もう十匹以上倒した。まだ増える。減らない。どこから湧いてくるんだこの船)
十二匹。十三匹。数えるのをやめた。船室の壁という壁から黒い泥が滲み出している。天井も床も隅も柱の陰も手すりの影も。影があるところ全てから湧いている。
(影。影から出てきてるのか。だから減らない。この船の中の影を全部消さないと)
そんなことできるわけがない。
メリダルパクスの動きが鈍った気がした。いや違う。ペルソナの動きは変わっていない。俺の反応が遅れているのだ。指示が出せない。疲労で頭が回らない。視界が白む。膝が笑っている。腕が熱い。息が切れて喉が焼ける。
(これ以上無理だ。数が多すぎる。俺一人じゃ)
背後で誰かが泣いている。女の人かもしれない。男の人かもしれない。子供かもしれない。分からない。ただ泣き声が聞こえる。それが背中を押す。前に出る。前に出るしかない。
十五匹目。十六匹目。十七匹目。
槍が閃く。盾が弾く。また槍が閃く。
だが包囲が完成していた。
正面に五匹。左右に三匹ずつ。天井に二匹。後ろには乗客。
(囲まれた)
逃げ場がない。前に出ても左右から挟まれる。後ろに下がれば乗客がやられる。上からも来る。
メリダルパクスが盾を構えた。正面の五匹へ向ける。だが左右の六匹は防げない。天井の二匹も防げない。
(無理だ)
悟った。心臓が凍りつくような感覚。背筋が冷水で洗われたみたいにゾッとする。
正面の五匹が同時に触手を振り上げた。左右の三匹が同時に蠢き出した。天井の二匹が糸を垂らして降りてくる。
全方位。同時。
メリダルパクスの盾が、正面の五匹のうち三匹までしか弾けない。残りの二匹と左右の六匹と天井の二匹。合計十の攻撃が、同時に俺へ向かってくる。
(防ぎきれない)
盾が、小さくて、丸くて、一匹分の面積しかない。銀灰色の円形盾が、今はおもちゃみたいに頼りなく見える。
(メリダルパクス。お前一人じゃ、やっぱり——)
十の触手が、同時に振り下ろされた。
死ぬ。
そう思った。
十本の触手が振り下ろされるのが見えた。スローモーションだ。一秒が十年くらいに引き伸ばされたみたいに、一本一本の触手が空中で蠢くのが目に見える。黒い。粘液が糸を引いている。先端の球体の目がギョロリとこっちを見ている。
メリダルパクスの盾が正面の三匹を弾いた。残り七本。俺の身体に届くまであとコンマ数秒。
(ああ。だめだ。間に合わない)
身体が動かない。足が動かない。膝が笑っている。頭の中で赤いランプが回っている。非常警報みたいにワンワンと鳴っている。逃げろ。逃げろ。逃げろ。
逃げない。
後ろに人がいるから。
(じゃあ死ぬのかよ俺。ここで。意味もなく。引っ越して初日で。まだ不可思議事件研究会の入会届も出してないのに)
走馬灯とかいうやつが見えるのかと思った。見えなかった。代わりに見えたのは
赤だった。
視界の端で、赤い何かが走った。
いや走ったというより、弾けた。空気が裂けるような音がして、赤い残像が俺の目の前を横切ったのだ。何だ。何が起きた。
(え)
最初に聞こえたのは音だった。
ドン。
重い音。着地音。床が軋んで振動が足の裏から頭のてっぺんまで突き抜けた。俺と怪人の間に、何かが降ってきた。
赤い。
全身が赤い。
深紅と暗赤色が混ざった光沢のある装甲が、薄暗い船室の中で蝋燭の灯りみたいに鮮やかに燃えていた。俺の目は焼かれたみたいにチカチカする。さっきまで死ぬことしか考えていなかった脳みそが、赤い色で上書きされていく。
(何だ。何だこれ。誰だ)
残像がまだ目に残っている。赤い線が網膜の上で走っている。速い。さっきまでスローモーションだった世界に、いきなり早送りが割り込んできたみたいだ。
赤い影が着地した姿勢から、低く身を沈めている。
猫だ。
いや猫じゃない。でも猫みたいだ。四足ではない。二足で立っている。だが構えが猫だ。背骨がしなやかに弯曲し、重心が低く、肩が前に出ている。獲物を狙う猫科の動物が、飛びかかる直前に姿勢を低くするあの構え。
(猫? いや違う。でも猫に見える。なんで猫に見えるんだ)
見えたのは背中だけだった。
俺の前に、赤い背中があった。俺と十本の触手の間に、赤い背中が割り込んでいた。いつの間に。いつ割り込んだ。見えなかった。速すぎて見えなかった。
着地と同時に、赤い何かが舞った。
外套の破片かと思った。赤い布の切れ端が、空中に散って、ゆっくりと落ちていく。だが布じゃない。光だ。赤い光の粒子が着地の衝撃で飛び散ったのだ。蝋燭の火が弾けたみたいな、熱を感じる光の破片。
(きれいだ、とか言ってる場合じゃねえだろ俺!)
赤い影が動いた。
速い。
また速い。さっきの着地よりも速い。赤い残像が右へ流れたかと思うと、もう左にいた。左右同時に。いや一瞬の間に右から左へ移動しただけだ。だが目はそう認識していない。右にも左にも赤い影が見えた。残像が重なっている。
迫り来る七本の触手に、赤い影が正面からぶつかった。
爪だった。
赤い装甲の手。深紅の爪が、触手を弾いていた。いや弾くというより、掴んで、握り潰して、投げ飛ばしていた。
バギン。
硬い音がした。触手の先端が砕けて黒い泥が飛び散る。赤い爪が触手の根元から食い込んで、ねじ切るようにして引き抜く。黒い泥が赤い装甲にへばりつくが、すぐに滑り落ちる。
一本。二本。三本。
三本の触手が同時に砕かれた。残りの四本が赤い影の身体を掠める。だが掠めるだけだ。赤い影の身体がわずかに揺れて、触手が空を切る。紙一重。いや紙一枚の厚さよりも薄い。猫が毛先一筋だけ掠らせて攻撃を躱す。あれだ。
(すごい。いや何がすごいって何が起きてるのか全然分からないんですが)
四本目の触手が赤い影の肩に当たった。ガギン。金属音がする。弾かれた。触手の方が弾かれたのだ。赤い装甲の方が硬い。肩の装甲が赤い結晶片を幾重にも重ねたような鋭角的な形状で、触手がその表面を滑って逸れた。
(硬い。あの装甲硬い。メリダルパクスの盾と同じくらい? いやそれ以上か?)
五本目が赤い影の蹴りで跳ね飛ばされた。六本目が猫の尻尾みたいな細長い何かで刺し貫かれて消滅する。七本目が
来なかった。
七本目の触手は、持ち主の怪人が既にいなかった。赤い影が着地した衝撃で、至近距離にいた怪人二匹が弾け飛んでいたのだ。残骸の黒い泥が床に広がっている。
(あの一瞬で二匹潰したのか。着地だけで)
七本の同時攻撃が、全部弾かれた。いや二匹の怪人ごと消滅させられた。俺の目の前で。俺が死ぬはずだったその場所で。
静寂が落ちた。
一瞬だけ。
赤い影が、低い構えからゆっくりと立ち上がった。猫が威嚇から通常姿勢に戻るみたいに、滑らかに、しなやかに。背中の装甲が赤い光を帯びて、薄暗い船室で揺らめいている。
尻尾が動いていた。
細長い先端の尖った尻尾が、猫が機嫌良くするみたいに、ゆったりと左右に揺れている。いや機嫌が良いのではない。獲物を品定めしている猫の尾だ。狙いを定めている時の、あのゆっくりとした動き。
赤い影が振り返らなかった。
俺に背を向けたまま、怪人群の方へ向き直った。庇うように。俺を背に庇うように。
俺は見ていた。
赤い背中を。
猫の耳を思わせる細長く巨大な一対の赤い突起が、頭部から伸びている。淡い桃紫色の複眼が、目尻が大きく吊り上がったV字型。口元には猫の鼻先を模した装甲。両頬から髭のような細い棘が左右へ張り出している。
(仮面……? いや装甲か)
背後の乗客の泣き声が止まっていた。誰も声を出していない。全員が赤い影を見ている。俺も見ている。見ているしかできない。
(誰だ。お前。何だ。なんでここに。なんで俺を助けた。いや助けたのか? これ。偶然割り込んできたのか。俺のために来たのか)
分からない。
分からないことだらけだ。さっきまで死ぬと思っていたのに、死ななかった。目の前に赤い背中がある。猫みたいな影が立っている。怪人たちがまだ蠢いている。赤い影がそれらに向き直っている。
(イゴール。あのジジイ。戦士と出会うって言ったよな。これか? これが戦士か? 赤い猫?)
頭が回らない。疲労と混乱とアドレナリンが混ざり合って、思考が泥水みたいに濁っている。
赤い影の猫の尻尾が、ぴたりと止まった。
前方の怪人群が、再び蠢き始めたのだ。包囲はまだ解けていない。赤い影が割り込んだことで一瞬 gap ができただけだ。怪人は減ったがまだいる。壁の影からまだ湧いている。
赤い影は動じなかった。
低く構え直しただけだ。猫が獲物を前にして腰を沈める。飛びかかる準備。赤い装甲の節々が微かに鳴って、鋭い突起が並ぶ両手が開かれた。深紅の爪が、薄暗い船室で光を反射している。
(来る)
赤い影が、怪人群へ向かって踏み出そうとした。
俺は呆然とその背中を見ていた。言葉が出ない。状況が理解できない。ただ一つ分かるのは
俺は今、目の前の赤い背中に救われたということだけだ。
赤い影が、消えた。
いや違う。見えなくなっただけだ。速すぎて目が追いつかない。
(速い。なんだよあのスピード。メリダルパクスとは段違いだ)
次の瞬間、船室の中央で赤い残像が弾けた。
ドガッ。
鈍い音がして、先頭にいた怪人が真っ二つに裂けていた。上と下に分かれた黒い泥が、空中でバラバラと崩れ落ちる。
(え。今何した?)
見えなかった。一瞬の閃き。それだけだった。
赤い影が着地する。床を蹴る音がしない。猫だ。猫が高いところから降りる時みたいに、音もなく、ふわりと着地する。だが次の瞬間にはもう跳んでいた。
右の壁を蹴って、天井を蹴って、左の柱を蹴って。
赤い残像が船室内を縦横無尽に跳ね回る。
(立体機動? いやあんな装置つけてない。身体一つであの速度?)
怪人たちが反応できていない。触手を振り回し、黒い泥を飛ばそうとするが、赤い影はその攻撃の合間を縫うように、あるいは攻撃そのものを迎え撃つように動いている。
赤い影が空中で身体を捻った。
両手が光った。いや光ったんじゃない。爪だ。
深紅の猫爪が、鋭く、重く、容赦なく振るわれる。
ザンッ!
鋭い音がして、天井近くにいた怪人が爪で斬り裂かれた。黒い泥が血飛沫みたいに舞う。
ザンッ!ザンッ!
連撃だ。右の爪、左の爪。交互に、あるいは同時に。赤い装甲の腕が振られるたびに、怪人たちが次々と消し飛んでいく。
(残虐だ。でも流麗だ。なんだよこれ。暴力的な芸術か?)
メリダルパクスの戦いは、槍で突き、盾で弾く、武人のような戦いだった。だがこいつは違う。
こいつは狩りだ。
獲物を追い詰め、遊び、食い殺す。猫が鼠を弄ぶみたいに、圧倒的な身体能力で怪人たちを嬲り殺しにしている。
赤い影が低く滑り込んだ。
床を滑るように移動しながら、脚の爪で怪人の足元を薙ぎ払う。倒れたところに、容赦なく上から踏みつける。ガギン! という金属音がして、怪人が床ごと叩き潰された。
(硬い。あの装甲、ただの飾りじゃない。全身が刃だ)
改めて見た。
深紅と暗赤色の多面体装甲が、薄暗い船室の中で宝石みたいに妖しく光っている。鋭角的だ。肩当ては大きく尖り、腕や脚にも爪や刃を思わせる赤い突起が並んでいる。動くたびにその突起が空気を切り裂いて音を立てる。
頭部には、猫の耳を思わせる細長く巨大な一対の赤い突起が伸びている。そこから後ろへ、裂けたような赤い外套の破片が流れているみたいだ。
(耳。猫の耳だ。 いやそれよりあの目)
淡い桃紫色の複眼が、ギョロリと動いている。目尻が大きく吊り上がったV字型。怒っているようにも、笑っているようにも見える。口元には猫の鼻先を模した装甲があり、両頬からは髭のような細い棘が左右へ張り出していた。
(髭。猫の髭かよ。なんで仮面に髭ついてんだよ)
滑稽なはずだ。猫耳に髭。でも笑えない。笑えないくらい、こいつは強烈だ。
赤い影が背を向けた。
怪人の触手が背中へ迫る。
(危ない!)
叫ぶ間もなく、赤い影の背中から細長いものが伸びた。
尻尾だ。
猫の尻尾みたいにしなやかな、先端の尖った細長い何かが、触手を弾き飛ばした。いや弾いただけじゃない。そのまま尻尾がしなり、先端が怪人の中心を貫く。
ズドン!
背後の怪人が消滅した。
(尻尾で殺すかよ普通!)
尻尾は武器だ。ただの装飾じゃない。バランスを取るための舵であり、背後を守る鞭であり、敵を貫く槍だ。
残りは五匹。
赤い影が立ち止まった。
余裕だ。圧倒的な余裕が、その立ち姿から滲み出ている。猫耳がピクリと動き、V字の複眼が最後の五匹を見据える。
(逃げろよお前ら。そいつの方が余程化け物だぞ)
怪人たちが後退った。恐怖している。あの感情のない泥の塊が、赤い影に対して恐怖を感じているのが分かった。
だが逃げ場はない。
赤い影が跳んだ。
最後の五匹が、一瞬で切り裂かれ、貫かれ、踏み潰された。
ザンッ!
ズドン!
ガギン!
三重奏みたいな破壊音が重なって、黒い泥が舞い、光の粒子が飛び散り、そして消えた。
静寂が戻った。
船内には、もう怪人がいなかった。
残っているのは、煤の汚れと、俺と、背後の乗客と、そして赤い影だけだ。
赤い影が着地した。
音もなく。猫のように。
深紅の装甲が、蝋燭の光を浴びて濡れたように艶めかしく光っている。猫耳の突起が微かに揺れ、V字の複眼がこちらを向いた。
尻尾が、ゆっくりと左右に揺れていた。
俺は、立ち尽くしていた。
言葉が出ない。
ペルソナ。心の力。精神の戦士。それが俺の戦い方だと思っていた。
だがこいつは違う。
こいつは物理だ。暴力だ。肉体の限界を超えた圧倒的な殺傷能力。
メリダルパクスが背中で微かに震えた。同意しているのか、警戒しているのか。
俺には分からなかった。
ただ、目の前の深紅の戦士が、あまりにも強くて、あまりにも残酷で、あまりにも美しくて、息が止まりそうだった。
赤い影が、ゆっくりとこちらを向いた。
桃紫色の複眼が暗闇の中でぎらりと光る。猫科の瞳が暗がりで光るあれだ。あの複眼は獲物を捕らえた後も、まだ消えずにこちらを狙っているみたいだった。
俺は、背後の乗客を庇うように一歩前へ出た。膝はまだガクガクいっている。腕も痛い。息もあがったままだ。メリダルパクスも背中で控えているが、正直あれ以上戦える余力はない。
(こいつは何だ。敵か? 味方か? さっきは助けてくれたけど)
分からない。助けてくれた。そう思う。だが目の前の赤い装甲を全身で感じて、素直に礼を言えるほど俺の神経は図太くない。
すると、赤い影が口を開いた。
「早く逃げるんだ」
声が、軽かった。
恐ろしい外見に暴力的な戦いぶり。あれだけ一方的に怪人を嬲り殺しにしたくせに、口調はまるで軽く雪駄でも鳴らして往来を歩いているような飄々とした調子だったのだ。
(え。今なんて言ったんだこいつ)
「に、逃げる…?」
「そう。逃げる。君も、後ろの人たちも。ここはまだ危ないから早く行くといいよ」
陽気とまではいかない。気さくでもない。ただ、やけに軽い。何でもないことみたいに言う。
その後ろで、赤い外套の破片のようなものが微かに揺れていた。猫の尻尾もゆったりと揺れている。何かを品定めしている猫の尾。それでいて、こっちを逃がそうとしている。
(なんなんだこいつ。助けてくれたのに、何で今更逃げろなんて言うんだ)
「お前…、なんで」
「ん?」
「お前は何で俺たちを助けた。お前は誰なんだよ」
私の問いかけに、赤い影は小首を傾げた。その仕草があまりにも猫じみていて俺はようやく確信した。ああ、こいつは猫だ。猫の動きをする。猫の目をして猫みたいに笑う気配がする。
「ふむ」
赤い影は、短く考えるような息を漏らした。本当に考えているのかそれとも演出か。見分けがつかない。
「そうだね。あえて名乗ろうか」
V字の複眼が、スッと細められた。
いや、細められたように見えただけだ。あの複眼は機械なのか何なのか。でも光の加減で、笑っているように見えた。
「十三代目、葛葉ライドウ」
声は軽いままだった。茶化しているような、親しげなようなそれでいて全然本心の見えない声。
「十三代目…葛葉…ライドウ…?」
俺はその名前を口の中で転がした。
ライドウ。
ライドウ?
知らない。聞いたことがない。いや、何か引っかかる。十三代目。葛葉。葛葉。くずのは。
(くずのは…、どこかで聞いたような…。いや、名前として変すぎる。十三代目ってなんだ。何かの流派か? 襲名か?)
「お前…それ、本名なのか?」
「さあ。どうだろう」
ライドウは肩をすくめた。深紅の装甲が、音もなく持ち上がる。肩当ての鋭い突起が船内の非常灯を反射して赤く光った。
「どちらでもいいよ。君が気にするのは、俺の名乗りが本当かどうかじゃなくて逃げるかどうかだろう」
「…」
「それとも、もっと知りたい? 十三代目の誕生日とか好きな食べ物とか」
「いらねえよ」
俺は半ば反射で答えた。こいつさっきまであれだけ暴れ回っておいて、なんで今そんなに軽薄なんだ。
いや、軽薄だからこそ怖い。
あの戦いを見た後だ。あれだけのことができて、この気安さ。気安いからこそ踏み込んじゃいけない相手だって本能的に分かる。
「助けてもらったことは、まあ、その、ありがとうございますとでも言っとくべきか」
「あれ、素直」
「うるせえ。だがお前が何者で、なんであれが倒せるのかなんであんな化け物が俺に見えてて、お前もそれと戦ってるのかさっぱり分かってねえ」
本当は、もっと知りたいことがある。
「それはこれから分かっていくさ。俺が説明するより、君が体験した方が早い」
「は? なんで俺の体験を勝手に」
「大事な人を守りたかったら、力の使い方を覚えるといい。じゃあね」
「ちょっと待てよ!」
赤い影は、もうこっちを見ていなかった。背中を向けて闇の中へ歩き出している。あっけない。あまりにもあっけない。名前だけ残して、まるで最初からそのつもりだったみたいに。
「十三代目葛葉ライドウ…」
俺はもう一度、その名前を呟いた。
やっぱり知らない。でも、一度聞いたら忘れられない。そんな名前だった。
(なんで今、名乗ったんだ。あいつ。なんで俺にだけ)
背後の乗客は、まだ動けずにいる。助かった安堵とあの場にいたことへの恐怖で、全員が放心していた。
俺も同じだ。放心している。だけど、それ以上に引っかかっていた。
「十三代目…葛葉ライドウ」
三代目でも五代目でもなく、十三代目。
その数字と名前が、頭の隅でカチリと嵌まるような妙な感触を残していた。