PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路―   作:ボルメテウスさん

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第7航路 帰る場所を綴る 2/7 物語にならない異変

其の相談が部室へ届いたのは、火曜日の放課後だった。

 

優菜が端末を操作しながら、眉を寄せていた。いつもの好奇心に満ちた表情ではない。其の目には、何かを確かめたいという真剣さがある。

 

「真瀬君、ちょっといい? 此の相談、見てほしいんだけど」

 

俺は手元の調査記録から目を上げた。優菜の端末には、一件のメッセージが表示されている。差出人の名前は鳳崎姫華。内容は短かった。

 

『家族が体験したことを、どこに相談すればよいか分からず連絡しました。可能であればお話しさせてください』

 

「鳳崎姫華って、知ってる?」優菜が訊いた。

 

「いや、知らない」

 

「小説家さんだよ。此の島を舞台にした本を書いてる人。私も読んだことある」

 

「小説家が? 何で研究会に」

 

「分からないけど、ちゃんと調べてから来るつもりみたい。取材用のメモも用意してるって書いてある」

 

達臣が向かいの席でペンを止めた。其の目が端末を一瞥し、又ノートへ戻る。

 

「小説家の取材記録なら、観察の精度が高い可能性がある。話を聞く価値はある」

 

「でしょ? で、今日の放課後来るって」

 

「今日?」

 

「うん。もう来てると思う。昇降口で待ってるって」

 

俺たちは部室を出て昇降口へ向かった。渡り廊下を抜ける時、潮風が窓から吹き込んだ。遠くで船の汽笛が鳴っている。低く長い音が校舎の壁に反響して消えた。

 

昇降口に其の人はいた。

 

鳳崎姫華。二十代半ばくらいに見える。短く切り揃えた髪に、動きやすいシャツとスラックス。其の姿は小説家というより、取材に出かける記者其のものだった。肩に掛けたトートバッグから、ノートと録音機が覗いている。

 

「不可思議事件研究会の方ですか?」

 

「はい。部長の瑞生優菜です。此方は真瀬結人君と麻尾達臣君」

 

「鳳崎姫華です。ボクのことは姫華で構いません。お忙しい所すみません」

 

姫華は一つ深くお辞儀をした。其の動作には、取材先で身につけた丁寧さがあった。だが其の目は、礼儀の奥に何かを急いでいる色を宿していた。

 

部室へ戻り、姫華はトートバッグからメモ帳を取り出した。其の手には、几帳面な文字で書き込まれた取材記録が挟まっている。優菜が水を差し出し、姫華は礼を言ってから一口飲んだ。

 

「最初に言っておきます。ボクは小説の取材で此の島に来たんです。でも今日、家族の体験したことを聞いて、其れが取材とは別の問題だと気づきました」

 

「別の問題、というと?」達臣が訊いた。其の声は平坦だが、ペンを構える手には力が入っている。

 

「弟が先週、港から家へ帰る道で、道順が変わったと言ったんです」

 

「変わった?」俺が訊き返すと、姫華はメモ帳の一頁を開いた。

 

「海沿いの道を歩いていたら、見慣れたはずの景色が違っていた。コンビニの角を曲がったはずなのに、其処にコンビニがなかった。其れで遠回りになって、三十分の道を一時間歩いた、と」

 

「三十分が一時間。時間のズレか」達臣が書き留める。

 

「但其れだけじゃないんです。一時間歩いたのに、着いたのは元の場所だったと。遠回りしたはずなのに、戻ってしまった。弟は其れを、自分の道間違いだと言い張りました。でも」

 

姫華はメモ帳の別の頁をめくった。其の頁には、別の日付と別の内容が記されている。

 

「ボク自身が取材で其の道を歩いた時も、同じことが起きました。コンビニの角がなかった。三十分の道が一時間になった。そして元の場所に戻った。一度なら勘違いでも、二度同じことが起きれば、記録する意味があると思って」

 

優菜が身を乗り出した。

 

「姫華さん、其の取材記録、見せてもらえますか? 日時と場所、正確に」

 

「はい。此方です」

 

姫華はメモ帳を優菜へ渡した。優菜は其れを開き、過去の調査ファイルと照合し始めた。達臣も横から覗き込む。

 

「海沿いの南区間。港から東へ延びる道。過去の相談記録にも同じ場所が出てる」達臣が指差した。

 

「三ヶ月前に別の生徒が同じ区間で道に迷った。『見慣れた道が違う場所へつながった』。其の時は記憶が曖昧だったけど、時間のズレは報告されてる」優菜が補足する。

 

「共通点があるんだな」俺は呟いた。

 

「一度の勘違いじゃ説明しづらい。同じ区間で、同じ現象が繰り返されている」達臣が頷いた。

 

姫華は其の言葉を聞いて、少し肩の力を抜いた。其れは安堵ではなく、自分の体験が一人だけのものではないと知った時の、静かな息遣いだった。

 

「ボクだけじゃなかったんですね。弟も、其れを言ってました。『誰かに言っても信じてもらえないよ』って。でもボクは信じてます。自分の弟が嘘をつく子じゃないって、分かってますから」

 

其の言葉の響きが、俺の胸の奥で小さく反響した。家族を信じる声。其れは、相談者の友人を守ろうとしたマリナの声とも、旧桟橋で少女を抱き上げた夜とも、どこか重なるものだった。

 

「姫華さん」俺は口を開いた。「一つ確認したいんだけど、其の道で見たものと、想像したことを分けて教えてもらえるか」

 

「見たものと、想像したこと」

 

「ああ。取材記録には事実が書いてあると思う。でも其の場にいた時、感じたことや、見えた気がしたことを含めて、正確に知りたい」

 

姫華は少し目を細めた。小説家としての観察眼が、俺の問いの意味を量っている。

 

「見たものは、道が変わっていたこと。コンビニの角がなかったこと。海の方から声が聞こえたこと」

 

「声?」

 

「はい。弟も同じことを言っていました。海の方から、誰かが呼んでいるような声が聞こえた、と。ボクも聞きました。言葉までは分からなかった。でも、呼ばれている感覚はありました」

 

「声か。又だな」俺は低く言った。

 

優菜と達臣が同時に俺を見た。声。此の島で起きている不可思議事件には、必ず声が関わっている。南棟三階の呼び声、倉庫街の偽の声、そして今度は海沿いの道で。

 

「姫華さん、今日の日が暮れる前に、其の道を確認したい。俺たちが一緒に行く。但其の前に一つ言っておくことがある」

 

「何ですか」

 

「調査には危険が伴うかもしれない。過去に同じ場所で起きた現象は、単なる道間違いじゃない可能性がある。其れを踏まえた上で、それでも行くか」

 

姫華の目が、俺を真っ直ぐに見た。其の瞳には、小説家としての好奇心と、家族を案じる人の不安が、二重に重なっている。

 

「弟がまだ其の道を通っているんです。学校の帰りに。危ないかもしれないなら、確かめないと」

 

「分かった。行こう」

 

*  *  *

 

海沿いの道は、港から東へ延びている。

 

片側に低い石垣が続き、其の向こうに海が見える。夕方の光が水面を橙に染め、遠くの水平線が紫へ溶け始めていた。潮風が道を横切る。日中の熱を持ったアスファルトから蒸気が立ち昇り、其れが風に煽られて足元を漂う。

 

「此処だ」姫華が足を止めた。「此の角にコンビニがあったはずなんです。でも前回来た時も、其の時も、其処には何もなかった」

 

俺は其の角を見た。石垣の切れ目に、小さな空き地がある。コンビニが建つスペースとしては狭い。だが、其の空き地の奥に、古い看板の基礎が残っている。一度は何かが建っていた跡だ。

 

「コンビニがあった場所は此処じゃない可能性があるな」達臣が記録を確認しながら言った。「記録では、此の道の二百メートル先にコンビニがある。其処と間違えているか、あるいは──」

 

「あるいは、道其のものが変わっているか」俺は達臣の言葉を引き取った。達臣は一瞬だけ俺を見て、頷いた。

 

優菜が地図と照合している。其の指が、道の途中で止まった。

 

「此の区間、過去三件の相談が全部同じ場所を指してる。港から三百メートル以内の海沿いの道。此処で全員が道順の食い違いを報告してる」

 

「三百メートル以内か。狭い範囲だな」

 

「だから分かりにくいんだと思う。一度の勘違いなら、自分が間違えたと済ませられる。でも同じ場所で三件。偶然にしては揃いすぎてる」

 

姫華はメモ帳を開き、自分の取材記録と優菜の調査記録を照合している。其の手つきは、小説家としての取材と、家族の安全を確かめるための調査が、同じ丁寧さで重なっているようだった。

 

「ボクの記録とも一致します。コンビニの角がなかった場所。海から声が聞こえた場所。日時は違いますが、区間は同じです」

 

「じゃあ此処を歩いて確認しよう。全員で離れずに」

 

俺たちは海沿いの道を東へ歩き始めた。姫華が記録を見ながら、前回と同じルートを辿る。達臣が地図を確認し、優菜が録音アプリを起動する。俺は周囲を見ながら、腰のポーチからゴーグルを取り出した。

 

(九衣、此の辺りの気配はどうだ)

 

「うん、ネズミ君。ネットの噂だとね、異界の境界が薄くなってる場所は、普通の場所より空気が重く感じることがあるらしい。記録ではね、沖縄で起きた過去の異変の時も、特定の場所で空気の質が変わる現象が報告されてるよ。ただし断定はできないけど」

 

(空気の質、か。今は普通に潮風だな)

 

「うん、今はまだ。でも気をつけて。変化があるとしたら、徐々に来るはずだよ」

 

九衣は其処で黙った。俺は前に進んだ。

 

五十メートル。百メートル。道は其のまま続いている。石垣の向こうに海が見え、波の音が一定のリズムで打ち返している。普通の道だ。だが──

 

「あれ」優菜が足を止めた。「看板、変じゃない?」

 

其の先に、古い道路標識が立っていた。此の島の地名が書かれているはずだ。だが近づいて見ると、文字の一部が掠れて読めない。其れだけなら潮風の劣化で済む。だが俺は其の標識の影を見た。

 

日が西にある。標識の影が東へ落ちるはずだ。だが其の影が、一瞬だけ西へ揺れた。

 

(影が逆方向に──)

 

「ネズミ君、今の見た?」

 

「見たよ。影の方向が一瞬だけ反転した。ネットの噂だとね、異界の境界では光の振る舞いが変わることがあるらしい。記録ではね、過去に沖縄で起きた異変の時も、影の動きがおかしくなる現象が報告されてるよ。ただし断定はできないけど」

 

(断定できないな。だが無視できない)

 

「うん。気をつけてネズミ君。此処から先は、普通の道じゃないかもしれない」

 

俺は皆へ声をかけようとした。其の時、前方の人影に気づいた。

 

道の先、石垣に寄りかかるように立っている長身の男。白いシャツに濃灰色のベスト。此の島で見たことがある姿だ。

 

「あれ、ヴァンケンさん?」

 

姫華が声を上げた。其の声には、驚きと、一度会った人間を覚えている確信があった。

 

男が振り返った。灰金色の短髪。灰青色の目。落ち着いた佇まい。ヴァンケンだ。十二支同盟の構成員。だが俺は其の名前を知らない。姫華との関係も知らない。

 

「君は」ヴァンケンが姫華を見た。「サイン会の。本を読んでくれた方だな」

 

「はい。あの時はありがとうございました。サイン、大切にしてます」

 

「此処で何をしている。此の道は、日が暮れたら歩かない方がいい」

 

ヴァンケンの声は静かだった。だが其の言葉には、知っている人間の警告の色があった。姫華は其の警告を受け取りながらも、其の理由を正確に理解してはいないようだった。

 

「ボクも同じことを調べてるんです。此の道で、見慣れた景色が変わる現象を」

 

「・・・調べているのか」

 

ヴァンケンの灰青色の目が、姫華のメモ帳を見た。其の視線は一瞬だけ鋭くなり、又静かに戻った。

 

「調べるのはいい。だが日が暮れる前に此処を離れろ。此の道は日が落ちると、来た道を戻れなくなる」

 

「戻れなくなる? 何で」俺が割り込んで訊いた。ヴァンケンは俺を見た。其の目は俺を一瞥し、何かを量るように細められた。

 

「君は。以前の倉庫街で、あの鼠の──」

 

言いかけて、ヴァンケンは口を閉じた。俺の正体を知っているのか。だが其れを此処で追及する余裕はなかった。背後で、音が変わり始めていた。

 

波の音が遠くなっている。

 

「九衣」

 

「分かってる。通信にノイズが出てる。ネズミ君、此処、さっきとは空気が違うよ」

 

振り返ると、来た道が見えなくなっていた。いや、道はある。アスファルトが続いている。だが其の先に、あったはずの角が消えている。標識も、石垣の切れ目も、全てが無くなっていた。あるのは、真っ直ぐに延びる道と、其の両側に広がる見知らぬ景色だけ。

 

「戻れない」優菜が声を落とした。其の手が端末を握りしめている。画面の表示が乱れていた。

 

「道が、一本しかない」達臣が冷静に言った。だが其の声の端っこが、微かに震えているのを俺は聞いた。

 

姫華がメモ帳を抱きしめた。其の目が周囲を見渡す。小説家としての観察眼が、異常を正確に捉えている。

 

「此れは、ボクが記録していた現象と同じ。でも、もっと深い。景色が全部、変わってる」

 

「姫華さん、弟は今どこに?」

 

「学校の部活が終わったら此の道を通って帰るはずなんです。もうそろそろ──」

 

其の時、頭上を大きな影が横切った。

 

翼ではない。もっと重い、巨大な何かが、空を覆うように通り過ぎた。影が地上を舐め、俺たちの顔に冷たい風を落としていく。

 

ヴァンケンが動いた。其の手が腰の装置へ伸びる。だが其の動きは、攻撃ではなく、警戒だった。周囲を見渡し、退路を探す動き。

 

「下がれ。全員、建物の陰へ」

 

俺は叫んだ。だが其の声は、世界の粘度に吸い込まれていく。波の音が消え、代わりに別の音が聞こえ始めた。低い、持続的な、呼吸するような音。異界の音だ。

 

空が変わった。橙と紫の夕暮れが剥がれ落ち、濃紺の闇へ張り替えられる。星も月もない。ただ暗い海と、其の上に浮かぶ見知らぬ建物の輪郭だけが、青白い光に照らされて浮かび上がっていた。

 

異界だ。又此れだ。

 

「真瀬君!」優菜が叫んだ。「此処、あの時と同じ! 異界に入った!」

 

「分かってる。全員、離れるな」

 

姫華が弟の名前を叫んだ。声が異界の空気に吸い込まれていく。遠くで、誰かの足音が聞こえた気がした。だが其れが本物の足音なのか、異界が模倣した音なのかは、分からなかった。

 

頭上の影が、又動いた。今度は近い。ずっと近い。其の輪郭が、異界の青白い光に照らされて浮かび上がる。

 

俺はゴーグルを下ろした。視界が狭くなる。其の分だけ感覚が鋭くなる。影の正体を探す。だが──

 

其の正体は、まだ見えなかった。ただ、其の気配だけが、俺たちの上に重く圧し掛かっていた。

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