PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
異界の空気が肺の奥まで冷たく満ちていく。
頭上を巨大な影が横切った。翼ではない。もっと重く、鈍い。空気其のものを押し潰すような質量が、濃紺の闇を裂いて通り過ぎていく。其の風圧だけで、足元の砂が舞い上がった。
「下がれ! 建物の陰だ!」
俺は叫んだ。だが其の声は、異界の粘度に吸い込まれて広がらない。姫華が周囲を見渡している。其の目が、異界の青白い光の中で何かを探している。
「弟が……弟がまだ此処にいるはずなんです」
「どこだ」
「分からない。でも、此の道の先に」
姫華が走り出そうとした。俺は其の腕を掴んだ。引く力が強い。小説家の細い腕のどこに、此の力があるのか。
「待て。一人で行くな」
「でも」
「俺が行く。お前は優菜と達臣と一緒に──」
言いかけた時だった。
異界の闇の奥から複数の足音が聞こえた。いや、足音ではない。羽音だ。低い周波数の羽音が、地面を伝って骨の芯まで響いてくる。翼不可思議だ。前回の倉庫街で戦った敵と同種の気配。
「来るぞ」
ヴァンケンが低く言った。其の手が、腰の装置へ伸びている。俺はゴーグルを下ろした。視界が狭まる。其の分、感覚が研ぎ澄まされる。羽音の方向。距離。数を探る。
「ネズミ君、此れは前の翼不可思議と同じ系統だよ。ネットの噂だとね、同種の怪異が群れで行動するケースが報告されてる。沖縄ジェイルの時も、同じ種類の敵が複数確認されたって記録がある。ただし断定はできないけど」
九衣の声が通信から響く。俺だけに聞こえる小声だ。其の声には、普段の軽口とは違う緊張があった。
「数は」
「少なくとも三つ。いや、四つかもしれない。ソースが不確かだから断定できないけど、それ以上いる可能性もある」
「分かった」
闇の奥から、黒い羽根が舞い出した。一つではない。無数の羽根が、矢のように此方へ向かってくる。
「伏せろ!」
俺は叫びながら優菜と達臣の前に躍り出た。だが、俺の手にはまだマイスドライバーがない。変身する余裕はある。だが此の場には一般人が多すぎる。優菜も達臣も、そして姫華も。人前で変身するわけにはいかない。
ヴァンケンが動いた。其の手が腰の装置から何かを引き抜く。俺は其れを見た。見覚えのある形。マイスドライバーに似ているが、色が違う。銀色の表面に鳥の意匠が刻まれている。
「下がっていろ」
ヴァンケンは短く言い其の装置を胸元へ装着した。俺は其の動作を目で追った。ライドエグズを取り出す仕草。卵を装填する音。だが其の変身は、俺の知るものとは違った。音声が鳴らない。光が弾けない。ただ静かに、其の身体の周囲に空気の膜が張られる。透明な翼のようなものが、一瞬だけ見えた気がした。
(あれがヴァンケンの力か)
羽根の雨がヴァンケンへ集中した。だが其れは、彼の身体に触れる直前で軌道を変える。見えない壁に阻まれたように、羽根が四方へ散っていく。
「今のうちに、逃げろ」
ヴァンケンが振り返らずに言った。其の声は静かだが、有無を言わせない響きがあった。俺は優菜と達臣を振り返った。
「二人とも、此処を離れろ。安全な場所へ」
「真瀬君は」
「俺は姫華さんの家族を探す。ヴァンケンさんが時間を稼いでくれてるうちに」
優菜が頷いた。其の顔には不安がある。だが其れ以上に、此処で足を止めたら何かが終わってしまうという焦りがあった。達臣は何も言わなかった。ただ、俺の顔を一秒だけ見て頷いた。其の頷きには、お前が行けという意味と気をつけろという意味が同時に込められていた。
俺は走った。姫華が其の隣を走っている。いつの間にか、彼女は俺の横に並んでいた。其の顔は青ざめている。だが足は止まっていない。
「弟の名前は」
「玲央。鳳崎玲央。中学三年生です」
「玲央が此処へ来るのは、此の道だけか」
「はい。学校から家へ帰る時、必ず此の道を通るって」
「分かった。此の道の先を探す。姫華さんは、俺の後ろを離れるな」
「分かりました」
俺たちは異界の道を走った。周囲の景色は、現実の海沿いの道とは似ても似つかない。青白い光に照らされた石垣と、其の向こうに広がる黒い海。波の音がしない。其の代わりに、低い呼吸のような音が足元から絶えず聞こえている。
「九衣、玲央の気配は」
「うん、探してる。生体反応が一つ前方五十メートル。弱いけど、確かにある。人間だよ」
「分かった」
前方に、人影が見えた。小さな影だ。中学生くらいの背格好。其の影は、道の端で蹲っている。姫華が其れを見つけ、叫んだ。
「玲央!」
「姉ちゃん……?」
少年が顔を上げた。其の顔は恐怖に歪んでいる。だが、姉の顔を見た瞬間其の目に安堵の色が広がった。
「玲央、怪我は」
「ない。でも、此処どこ。道が変わっちゃって、帰れなくなって」
「大丈夫。今、帰る方法を探してるから」
姫華が少年を抱き寄せた。其の腕の力が強い。守る側の人間の力だ。俺は周囲を見回した。玲央を発見できた。だが、此れで終わりではない。異界から出る方法を探さなければならない。
其の時だった。
頭上から、風圧が降ってきた。
見上げる。濃紺の空に、巨大な翼が広がっていた。鳥の形をした怪異。其の羽根は黒く、表面に無数の目玉のような模様が浮かんでいる。翼不可思議。前回戦った個体より、一回り以上大きい。
「伏せろ!」
俺は姫華と玲央を押さえ込んだ。黒い羽根が、俺たちの頭上を掠めていく。石垣に突き刺さり、岩を粉砕する。破片が飛散する。腕で顔を庇う。痛みが走る。だが、致命傷ではない。
「ネズミ君、此れは強い。前の翼不可思議より、格上だよ。ネットの噂だとね同種の怪異でも、個体によって能力差が大きいって報告がある。此れはその中でも上位の部類だよ。ただし断定はできないけど」
「断定できなくていい。此奴を倒すか、退くか。どっちかだ」
だが、退く方向がない。異界の道は一本道。来た道は既に消えている。出口は、敵の背後にあるのかそれとも此処にはないのか。分からない。
翼不可思議が羽ばたいた。其の風圧で、玲央の身体が浮きかける。姫華が其の腕を掴んで引き戻した。だが、二人とも地面に叩きつけられる。姫華のメモ帳が風に飛ばされ、頁が散らばっていく。
「玲央!」
姫華が叫んだ。其の声には、恐怖よりも守る意志が込められていた。俺は立ち上がろうとした。だが、敵の羽根が又迫る。マイスドライバーを出そうとした。だが、人前で変身する。優菜と達臣は離れた。だが、姫華と玲央は此処にいる。見られる。
(どうする)
其の一瞬の迷いの間だった。
姫華が動いた。
彼女は玲央を背に隠し両腕を広げた。其の身体は震えている。だが、其の目は敵から逸らされていない。
「玲央から離れて」
姫華の声は低かった。其の手が、胸元へ伸びる。何かを掴む仕草。だが、其処には何もない。ただのシャツだ。
「姫華さん、下がって」
俺は叫んだ。だが彼女は動かない。其の手が、宙を掴んでいる。何かを探すように。何かを呼ぶように。
其の時だった。
姫華の掌に、光が集まった。
白い光。卵の形。ライドエグズ。其れは、彼女の手の中に現れた。銀色の殻に、桜色の紋様。鳥の意匠。鷲の翼が、殻の表面に刻まれている。
「此れは」
姫華が呟いた。其の声は戸惑いではなく、確信に近かった。彼女は其の卵を握りしめた。そして、叫んだ。
「守って!」
其の瞬間、卵が弾けた。
光が爆発した。桜色と銀色の粒子が、姫華の背後に渦を巻く。其の渦が形を成す。巨大な翼。鷲の姿。金色の目に、十字状の光が浮かんでいる。桜色の羽根が、鋼板のように重なり合っている。
神鳥。
ガルーダ。
其れは、姫華の背後に立っていた。其の翼が、姫華と玲央を覆うように差し出される。黒い羽根が其の翼に当たり、火花を散らして弾かれた。
「ガルーダ……」
姫華が其の名を呟いた。初めて見る其の姿に、恐怖ではなく畏敬の色を浮かべて。
ガルーダが羽ばたいた。
其の一撃は、風其のものだった。桜色の光を纏った突風が、翼不可思議の身体を押し戻す。敵が悲鳴を上げる。いや、声ではない。羽根の擦れる音が歪んだ悲鳴のように響く。
「姫華さん!」
俺は叫んだ。姫華は振り返った。其の顔には、涙が流れている。だが其の目は笑っていた。
「ボク、分かりました。此れは守るための力なんです」
「ああ」
「玲央を、家族を守る。其れがボクの選択です」
其の言葉に、俺は頷いた。姫華はライドエグズを握りしめている。まだ、変身はしていない。だが其の背後に立つガルーダが、彼女の意志を具現化している。
「真瀬君! 今のうちに!」
優菜の声が遠くから聞こえた。俺は振り返った。優菜と達臣が、異界の道の端に立っている。其の背後に、出口らしき光の裂け目が見えた。
「玲央を連れて行け!」
俺は叫んだ。姫華が玲央の手を引いて走り出す。ガルーダが其の背後を守るように羽ばたく。黒い羽根が次々と弾かれていく。
俺はマイスドライバーを取り出した。人目はもう気にしない。姫華は既に力を見せた。此れ以上隠しても意味がない。
「変身!」
ドライバーを胸元へ装着する。ライドエグズをセットする。
『エッグリューション』
『マイス!』
マウスフレームの装甲が身体を包む。鼠の尾が背後の気配を捉える。俺は翼不可思議へ向き直った。
「ヴァンケンさん! 退路は確保した! 下がれ!」
ヴァンケンの姿が見えた。其の身体は、透明な翼のような膜に包まれている。変身はしていない。だが、其の力は明確に働いている。俺の声を聞き、彼は静かに後退を始めた。
翼不可思議が又羽ばたく。だが、其の動きは鈍い。ガルーダの一撃が効いている。俺は其の隙を突いた。マイスエッジをスライサーモードへ展開し、敵の翼の付け根を狙って切り込む。
泥が弾けた。黒い羽根が散る。敵が後退する。其の隙に、姫華と玲央が光の裂け目へ消えた。優菜と達臣も其れに続く。
「ヴァンケンさん、行くぞ!」
「ああ」
ヴァンケンが走り出す。俺も其の後に続く。光の裂け目をくぐり抜ける瞬間、背後で翼不可思議の悲鳴が響いた。だが、追っては来なかった。異界の壁が、其れを阻んだようだった。
現実の空気が、頬を打った。
潮の匂い。波の音。夕暮れの光。俺たちは、元の海沿いの道に立っていた。姫華が玲央を抱きしめている。其の背中が、微かに震えている。
「姉ちゃん」
「うん。大丈夫。もう大丈夫だから」
姫華の声は、涙で掠れていた。だが其の手は玲央を離さない。其の背後に、ガルーダの姿はもうなかった。だが、其の掌にはライドエグズが残っている。銀色の殻に、桜色の紋様。鳥の意匠。
「真瀬君」
優菜が俺の横に立った。其の顔は、安堵と驚きが混ざっている。
「姫華さん、あれ」
「ああ。見た」
「同じ力なの」
「分からない。でも、彼女は自分の意志で其れを呼んだ。其れだけは確かだ」
ヴァンケンが少し離れた場所で立ち止まった。其の灰青色の目が、姫華の掌のライドエグズを見ている。其の視線には、何かを知っている色があった。だが、其れを口にはしない。
「君は」
ヴァンケンが姫華へ声をかけた。
「神鳥の名を、何処で知った」
姫華は振り返った。其の目は、まだ涙で潤んでいる。だが其の声はしっかりしていた。
「知らない。ただ、守らなきゃって思ったら其の名前が浮かんだの。ガルーダ。ボクの……相棒の名前」
ヴァンケンは其の言葉を聞いて、静かに目を閉じた。何かを考えている。其の沈黙は、肯定でも否定でもなかった。
「そうか」
其れだけ言って、ヴァンケンは背を向けた。其の背中が、夕暮れの道の向こうへ消えていく。
「待って。あなたは」
姫華が呼び止めようとした。だが、ヴァンケンは振り返らない。
「また会うだろう。其の時は、君の力が何なのか教えてくれ」
其の声は、静かだった。だが其の中には確かな関心があった。
ヴァンケンが去った後姫華は玲央の手を引き、俺たちの許へ戻ってきた。其の掌のライドエグズが、夕陽を反射して淡く光っている。
「真瀬君。此れは」
「分からない。でも、お前の力だ。其れだけは確かだ」
「ボクの力」
姫華はライドエグズを見つめた。其の目に、小説家としての好奇心と家族を守る者の覚悟が、同時に浮かんでいる。
「此れから、どうすればいいんでしょう」
「分からない。でも、一人にはしない。俺たちがいる」
俺はそう言った。其れだけだった。でも、其れが今の自分に言える精一杯だった。
姫華は少しだけ笑った。其の笑顔は、サイン会で見せた作家の顔ではなく、姉の顔だった。
「ありがとう。真瀬君」
夕陽が水平線へ沈んでいく。空が紫と橙に割れている。其の境界線の向こうに、まだ見えない何かが潛んでいる。
だが、今夜は此れで終わりだ。
姫華の掌のライドエグズが、静かに脈打っている。其の鼓動は、新しい力の誕生を告げていた。