PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
翼不可思議の最期の一撃が、空気を裂いて消えた。
ヴァンケンが其れを透明な膜で受け流す。其の膜が、夜の異界に透明な波紋を広げた。俺は其の波紋の端で膝をついていた。変身は既に解けていた。マウスフレームの装甲が解け、制服姿へ戻った反動が全身の筋肉を重くしている。
肋骨の奥がキリキリと鳴く。肩が熱い。膝が笑っている。指先一本動かすのに、全身の神経を総動員しなければならない。
(終わったか)
だが、終わっていない。
異界の空気が、まだ重い。濃紺の空には星がない。波の音が遠い。代わりに、足元の砂が微かに振動している。何かが、まだ此処にいる。
「ネズミ君」
九衣の声が鞄の中から響いた。普段の軽口が消えた声だ。
「気配が消えてない。翼不可思議は倒れたけど、其れとは別の──」
言いかけた時だった。
異界の空の一角が、歪んだ。
濃紺の闇に亀裂が走る。其の亀裂から、泥が滲み出す。黒い泥が、空を伝って滴り落ちていく。其の泥が、形を成していく。
蛇ではない。鳥でもない。もっと大きい。もっと重い。泥が積み重なり、輪郭を得ていく。其の姿は、今まで戦ってきたどの不可思議とも違っていた。
「何だあれ」
俺は呟いた。声が掠れた。
泥の塊が、形を成す。其の表面に、青白い光が浮かぶ。仮面のような模様が浮かび上がる。だが、其の仮面には目がない。ただの窪みがあるだけだ。其の窪みが、俺たちを見下ろしている。
「ネズミ君、あれは」
「分からない。だが、来るぞ」
泥の塊が、動いた。其の質量が、俺たちの方へ傾いてくる。退こうとして、足元を見る。だが退く場所がない。其の背後には、姫華と玲央がいる。其の更に背後には、優菜と達臣が避難している。
俺が退けば、其の質量は後ろの人々へ向く。
(動けない。動くわけにはいかない)
泥の塊が、又一つ形を変えた。其の表面から、触手が伸びる。黒い泥の触手が、数本、俺の方へ向かって蠢いていく。速くはない。だが重い。一撃一撃が、地面を震わせるような質量だ。
俺はマイスドライバーへ手を伸ばした。だが、指が動かない。疲労が指先まで浸透している。ライドエグズを装填する力が、残っていない。
(駄目か。此のままじゃ)
其の時だった。
掌に、熱が走った。
「えっ」
其の熱は、マイスドライバーからではない。俺の掌其のものから湧いていた。手のひらを見る。其処にあった。
白い光。卵の形。銀色の殻に、桜色の紋様。鳥の意匠。鷲の翼が殻の表面に刻まれている。
「此れは」
見覚えがあった。姫華の手に現れたライドエグズと同じ種類の力。ガルーダ。神鳥の卵。姫華が家族を守る意志で呼び寄せた力だ。だが、今其れが、俺の手の中にある。
(何で俺の手に。此れは姫華さんの力じゃないのか)
「ネズミ君、其れは」
九衣の声が響いた。普段の軽口が消えた、真剣な声だ。
「ネットの噂だとね、他者の覚醒に共鳴して新しい卵が現れる現象の報告がある。沖縄ジェイルの時も同じことがあったらしいよ。ただし断定はできないけど」
(又断定できないか)
「でも一つだけ言える。あの卵は君のものだよ。姫華さんのじゃない。真瀬結人の仮面だよ」
(俺の仮面)
掌のライドエグズが、微かに脈打つ。其の鼓動が、指先から腕へ、胸へ伝わっていく。疲労で鈍っていた身体に、熱が戻り始める。
泥の塊が、又迫る。触手が、俺の正面へ伸びてくる。速い。回避できない。だが──
(動くしかない。守るために)
俺は姫華を振り返った。彼女は玲央を抱きしめて、俺の背後にいた。其の目が、俺を見ている。恐怖の中に、信頼の色が混じっている。
(姫華さんは家族を守るために力を呼んだ。今、俺が守らなきゃならないのは其の背中だ)
掌のライドエグズを握りしめた。其の感触が、姫華の手に握られていた時と同じ重さだと知る。同じ意志が、別の形をとって俺の手に渡った。守るための力。其れは俺のものだ。
マイスドライバーへライドエグズを装填する。カチリ。円盤が噛み合う音が、疲れた身体に鋭く響いた。
「変身」
其の言葉は、短かった。だが其の中には、迷いよりも決意の方が重かった。
『エッグリューション!』
音声が響く。胸元から光が広がった。羽根状の光片が、身体の周囲を旋回し始める。桜色と銀色の光が、夜の異界を淡く染めていく。
光片が、胸部へ集まる。其処から装甲が形成され始めた。薄い。タートルフレームの重厚な甲羅とは違う。羽根を重ねたような薄い装甲板が、胸部へかみ合っていく。金属が重なる音が響く。カチリ、カチリ、と規則正しいリズムで。
『イーグル!』
音声が変わる。光片の速度が上がる。胸部から肩へ。肩から前腕へ。前腕から脚部へ。順番に、羽根状の装甲が身体を覆っていく。桜色と銀色の板が、金属音を奏でながら重なり合う。薄い。だが、其の薄さは脆さではない。羽根が重なることで強度を生む、鷲の翼の構造だ。
頭部の輪郭が変わる。鼠の耳が消え、鷲の翼を思わせる意匠が額へ形成される。視界が一瞬暗転した。金色の光が目の前を覆う。そして、暗転が解けた時、世界が鮮明に映っていた。
金色の複眼だ。タートルフレームの黄色とは違う。もっと鋭い。もっと遠くまで見通すような金色。
背中へ熱が走った。肩甲骨のあたりから、何かが伸びていく感覚。骨が伸びるのではない。翼が根を張るのだ。其の違和感に、身体が勝手に重心を取ろうとして片足が引かれた。踵が砂を噛む。
折り畳み式の翼が、背中へ形成されていく。金属の羽根が、根元から先端へ順に展開する。一枚、又一枚。重なる羽根が、背中の幅を広げていく。其の重みが肩甲骨から背中の全体へ広がる。翼の先端が、俺の頭より高い位置に届いた。
『マイス イーグルフレーム!』
音声が響き、装甲の隙間から漏れていた光が収まる。
静寂。
異界の空気の中に、俺の呼吸の音だけが残った。
意識を背中へ向ける。其の瞬間、鋼の翼が大きく開いた。
風が、足元から広がった。砂が舞い上がり、周囲の空気が翼の一撃で押し返される。其の風圧で、泥の触手が一瞬だけ逸れた。俺は其の隙に、視線を敵へ戻した。
翼をわずかに畳む。戦闘姿勢だ。重心を前に、翼を背中に畳み、爪先を地面へ食い込ませる。鷲が獲物を狙う時の構えだ。
(姫華さんからつながった力。俺が使う。守るために)
だが、喜びではない。其れだけではない。今、俺がしなきゃならないことは、敵を倒すことだけじゃない。退路を確保し、人々を安全な場所へ移すことだ。
振り返る。姫華と玲央が、俺の背後にいる。其の更に後ろに、優菜と達臣が避難している。退路は、俺の翼の下だ。此の翼が、其の通路を守る壁になる。
「真瀬君!」
優菜の声が響いた。俺は頷かずに、翼を広げた。桜色と銀色の鋼翼が、左右へ大きく開く。其の翼が、人々の退路を覆うように広がった。
泥の触手が又迫る。俺は翼を前に回し、其の触手を受け止めた。泥が翼の表面へ当たり、弾ける。衝撃が背中へ走る。だが、耐えられる。タートルフレームの盾とは違う。受け止めるのではなく、受け流す翼だ。
「皆、下がれ! 退路は確保した!」
俺の声が、イーグルフレームの装甲を通して響いた。金色の複眼が、敵を見据えている。泥の塊が、又動き始める。だが、俺は動かない。此処が、守るべき位置だ。翼を広げたまま、退路を塞ぐ壁として立つ。
泥の塊が、又触手を伸ばす。俺は翼で其れを弾く。又来る。又弾く。同じ繰り返しだ。だが、其の繰り返しが退路を守っている。人々が、其の背後で安全に退避していく音が聞こえる。足音が遠ざかっていく。
(守れている。此の翼で)
姫華の意志が、形を変えて俺の手に届いた。家族を守る力が、仲間を守る翼になった。ワイルドとは多くの仮面を持つ者ではなく、多くの生き方を受け止める者。イゴールの言葉が、胸の奥で響いた。
泥の塊が、又動く。だが、俺はもう迷わない。此の翼が、守るためにあることを知っているから。
金色の複眼が、夜の異界を鋭く見通していた。