PERSONA × MY-TH UNFATHOMABLE VOYAGE ―沖縄怪異航路― 作:ボルメテウスさん
泥の塊が、咆哮した。
音にならない音。空気其のものを震わせる振動。異界の濃紺の闇が、其の質量に押し潰されるように歪む。青白い仮面の窪みが、俺を捉えている。目がないはずの其処から、確かに視線を感じる。
「来るぞ!」
泥の塊が、触手を一斉に伸ばした。五本六本、七本。全方位から迫る。逃げ場はない。
だが、逃げる必要もない。
俺は背中の翼を広げた。鋼の羽根が一枚ずつ開き、桜色と銀色の光が夜を裂く。翼を一度、大きく羽ばたかせた。
風が起きた。其の風は単なる空気の流れではない。翼から放たれた圧力の壁だ。触手が其の壁に阻まれ、軌道を逸らされる。泥が弾け四方へ飛散する。
其の隙に、俺は跳んだ。
翼を大きく羽ばたかせ身体を空へ運ぶ。イーグルフレームの翼は、飛ぶためのものだ。其の一撃で、俺の身体は地面から離れる。
「飛べる…!」
九衣の声が通信から響いた。其の声には、珍しく驚きがあった。
「ネズミ君、其の翼、飛べるんだ。ネットの噂だとね、鷲の力を持つライダーは空を制するって報告がある。沖縄ジェイルの時も空を飛ぶ戦士が確認されたらしいよ。ただし断定はできないけど」
「断定できなくていい。此れで戦える」
俺は空から敵を見下ろした。泥の塊が、其の窪みを此方へ向ける。触手が又伸びる。だが、其の軌道は遅い。空からの視点なら、其の動きは手に取るように分かる。
翼を畳み、俺は急降下した。触手の間を縫うように滑り込む。右へ、左へ、上へ、下へ。鷲の翼が空気を裂き俺の身体を予測不能な軌道で運ぶ。触手が空を切る。其の一つ一つが、俺の通過した軌跡を追いかけるだけだ。
「当たらない!」
泥の塊が、焦れたように触手の数を増やす。十本、十二本。だが数が増えれば其の分だけ軌道が単純になる。俺は其れを読んだ。
翼を大きく広げ其の場で急停止する。其の瞬間、翼から爆発的な風を放った。
風は渦を巻き、泥の塊の周囲を囲むように広がる。触手が其の風に絡め取られ、動きを封じられる。泥の塊が其の場で足掻く。だが、風の檻からは出られない。
「此処だ」
俺はマイスドライバーへ手をかけた。円盤を操作する。其の指先には、もう疲労の震えはない。翼が俺の身体を支え、力が満ちている。
『エッグシード!』
音声が響く。ドライバーが光を放つ。其の光は、翼の先端へ伝わっていく。桜色と銀色の粒子が、翼の羽根一枚一枚に宿る。
『イーグル! セパレード!』
俺は跳んだ。風の檻の外へ。そして、空高くへ。翼を全開にし上昇する。泥の塊が、風の檻の中で小さくなっていく。だが、俺は其れを追わない。もっと上へ。もっと高く。
異界の空の天井が近づいてくる。濃紺の闇が、俺の翼の光で照らされる。上昇しながら、俺は翼を羽ばたかせた。其の一撃ごとに、羽根が一枚抜け落ちる。いや、抜け落ちるのではない。意図的に放つ。桜色と銀色の羽根が、空中に散らばっていく。其の一枚一枚が、光を放ちながら円を描くように配置されていく。
羽根の輪。
俺の周囲に、光の輪が形成された。桜色と銀色の粒子が、其の輪を構成している。俺は其の輪の中をくぐり抜けるように、上昇を続ける。輪をくぐるたびに、速度が増す。加速。加速。更に加速。
「行くぞ!」
俺は叫んだ。上空で反転し泥の塊へ向かって急降下する。翼を完全に畳み、身体を一直線にする。桜色と銀色の光が、俺の身体を包む。其の光が右脚へ集中する。
ライダーキック。
高空からの急降下によって、威力は何倍にもなっている。俺は羽根の輪をくぐり抜ける。其の輪が、俺の軌道を正確に敵へ導く。狙いを定める。泥の塊の中心。青白い仮面の窪み。
「喰らえ!」
右脚が、泥の塊を貫いた。
衝撃が、異界の空気を震わせる。泥が弾け、青白い仮面が砕ける。其の破片が、光の粒子となって夜の闇へ溶けていく。泥の塊が、内側から崩壊する。其の質量が、音もなく消滅していく。爆散。跡形もなく。
俺は着地した。翼を広げ衝撃を吸収する。地面に立った瞬間、膝が少しだけ落ちた。だが倒れない。翼が俺を支えている。
異界の空気が変わり始める。粘度が薄れ、現実の空気が戻ってくる。濃紺の闇が剥がれ落ち、夕暮れの橙と紫が戻る。波の音が、遠くから近づいてくる。潮の匂い。鉄錆の香り。現実だ。
「終わった…」
俺は呟いた。翼を畳み変身を解く。桜色と銀色の装甲が光となって消え、制服姿へ戻る。疲労がどっと押し寄せる。膝が笑い、肩が重い。だが立っている。
「真瀬君!」
優菜が駆け寄ってきた。其の顔には、安堵と驚きが混じっている。
「今の、何? 翼が生えて飛んで、キックして…」
「説明は後だ。それより、姫華さんと玲央は」
「此処にいるよ」
姫華が玲央の手を引いて近づいてきた。其の顔には、涙の跡がある。だが其の目はしっかりと俺を見ている。
「真瀬君、あんた…」
「ああ。姫華さんの力と、同じ種類のものだ。詳しいことは、俺にも分からない。だが其れで助けられた」
姫華は掌のライドエグズを見つめた。其の銀色の殻に、桜色の紋様。鳥の意匠。
「ボクの力と、同じ…」
「そうだ。姫華さんが家族を守ろうとした力。其れが俺の手にも現れて、今、此の場を守った。其れだけは確かだ」
姫華は少しだけ笑った。其の笑顔は、サイン会で見せた作家の顔でも、姉の顔でもなく仲間の顔だった。
「そう。じゃあ、ボクもいつか其れを使えるようになるのかな」
「なるだろう。其れは、姫華さんの力だ」
姫華はライドエグズを握りしめた。其の掌の中で、卵が微かに脈打っている。
「ボク、頑張るよ。家族を守るためにも。そして、あんたたちみたいに誰かを守れるようになるために」
「ああ。其れは、いい選択だ」
俺は頷いた。達臣が其の場に来て、記録を取っている。其の手は微かに震えていた。だが、其の目は冷静だった。
「真瀬、あの力。何時から使えた」
「さっきだ。姫華さんの覚醒に共鳴して、俺の手にも卵が現れた」
「共鳴か」
達臣は其の言葉を繰り返した。其の目が、一瞬だけ俺の掌へ向けられる。其処には、もうライドエグズはない。だが、其の残熱はまだ掌に残っている。
「分かった。記録しておく」
達臣はノートに書き込む。其の手つきは、いつも通り丁寧だ。だが其の視線が、何処か遠くを見ている気がした。
ヴァンケンの姿はもうなかった。其の背中が、夕暮れの道の向こうへ消えた後だ。だが、其の存在は此の場に確かな痕跡を残していた。彼も、同じ異変を追っていた。そして、姫華の力を見て何かを知った顔をしていた。
「帰ろう」
俺は言った。姫華が玲央の手を引き、優菜と達臣が続く。夕暮れの海沿いの道を、五人が歩き出す。波の音が穏やかに打ち返している。遠くで船の汽笛が鳴った。低く長く、夜の海へ溶けていく音だった。
其の音の裏にまだ何かが潛んでいる気配が消えない。だが、今夜は此れで終わりだ。俺は掌を見た。其処には、もう何もない。だが其の感触は、確かに残っている。